ヴェル=エル街道沿いにある、トリステインとガリア間の関所から、西に大凡60リーグ。
アングル地方と呼ばれる地の南東に存在する、かつて新教徒の隠里であった廃墟の集落。
新教徒とは、ブリミル教の改革運動「実践教義」に賛同し、それを信仰する異端の総称。
トリステイン側のアングル地方──ダングルテールにて、ロマリア厳格派と、トリステイン王国との密約により、疫病対策という名目で新教徒狩りが行われたのは、現在から5年程前になるが、何も新教徒を嫌っているのは厳格派だけではない。
例えば、このガリアはトリステインと違って、ガチガチの保守党である厳格派ではなく、教義の解釈に寛容な穏健派を支持しているが、しかし、新教徒の存在は認めていない。新教徒という異物は、派閥に関係なく、現行の王家や教会、そして貴族にとって、煩わしい存在であるのだ。
なぜ、彼らは新教徒を嫌うのか?
答えはとても単純。新教徒の唱える改革とは、現状の権力構造を徒に脅かす(=世を乱す)可能性があるからである。
王家や貴族、そして聖職者が当たり前のように支配者層に君臨するためには、『魔法なくしては世の中が成り立たぬ。よって魔法の始祖であるブリミルは尊い。その子孫であり、魔法を使えるメイジもまた尊い。よって民を導くのは当然である』という些か乱暴な理屈を、小難しく、もっともらしく、それが常識となるように、営々と練り上げてきた今のブリミル教である必要があるのだ。
なので、宗教改革などと、余計な火種になりかねないモノは早々に潰すに限る、と、ガリアでは、ロマリアから言われるまでもなく、自主的に新教徒狩りを実行していたのである。
その狩りがこの集落に及んだのは、10年以上も昔の事。
粗末な木材と石材によって造られた家屋や畜舎も、ささやかながら実りを齎してくれた麦畑も、村人達自らの手よって建立された小さな教会も──今は朽ち果て、打ち捨てられたままになっている。
もちろん、人はおろか、家畜一匹いやしない……はずなのだけれど。
「食い物の類は地下に持っていきな! 横着してそこいらに放っておいたら、承知しないからね!」
「へい! わかりました、姉御!」
「おら、ソコ、さぼってんじゃないよ! 働きの悪い奴はシゴトの打ち上げにゃ参加させないよ!」
「へい! すいません、姉御!」
プラタナスの花に似た薄紫色に染まった初夏の空の下、俄かに活気づく廃墟であるはずの集落。
煌々と燃える松明の、怪しげに揺らめく光の中で、重そうな荷を抱えながらあちらへこちらへと蠢く強面の男達。
そして、それらを睥睨するように、小高く積んだ空箱の上で指示を出すのは、豪快に紫煙を燻らす妙齢の紅一点。
はて、こんな朽ちた集落に引っ越しとは、酔狂な者もいるものだ。
「やぁれやれ、あんまり大所帯になるってのも、考えモノだね」
「姉御、お疲れ様です! あとはおいら達に任せて、休んで下さいよ」
いかにも疲れた、とばかりに大仰に息を吐く指示出し女の労をねぎらうのは、顔に大きな切り傷のあるガラの悪い男。
その隣で、不健康そうに目が窪んだ小男が木のジョッキ一杯に入った水を女へと差しだす。
この三人は荷運びの作業に加わっていない所をみると、この集団の中心となっている者達なのであろう。
「ほ~、ジロー、オノレ、お前らも気が利くようになったじゃないか」
「へ、伊達に俺らも〝新生〟マルグリッド盗賊団の副団長を気取っちゃいないってことですね」
指示出し女──シュルピスを騒然とさせている張本人の一人──女盗賊マルグリッドが目を細めて言うと、小男、オノレが少し照れくさそうに鼻の頭を掻きながら答える。
「しっかし、姉御もよく考えましたよね。『仕事はザルのトリステイン側、売るのと住むのは景気のいいガリア』って」
「だろう? 入国の税さえ納めりゃ、ガリア側の役人は文句言わないしね。国境さえ超えりゃ、トリステインのクソ役人共は追ってもこれないし。我ながら冴えたアイディアだと思うよ」
よほど今回の成功に浮かれているのか、マルグリッドは上機嫌な様子で自画自賛をする。
彼女率いる、〝新生〟マルグリッド盗賊団のやり口は、こう。
1 主にシュルピス界隈でかっぱいだ品を抱えたまま、堂々とトリステインとガリア間の関所を通り、ガリアの商社、モノによっては、闇屋で捌く。
2 アジトはガリアに置き、トリステインにはシゴトの時以外は近づかない。
3 狙うのはトリステイン国内のみに籍を置く、中規模以下の商社か、行商人に限る。
と、割とシンプルな物だ。
トリステインでいくら騒いだとて、ガリアとしては知ったことではないのだから、なるほど、悪い手ではない。
しかし、鬼門となるのが、国境の行き来である。
国を行き来する許可というのは、貴族にせよ、平民にせよ、簡単に出るものではない。
ましてや、彼女らのように素姓の知れぬ者に関所を越える事など到底出来ないはず。
しかし、世の中には、ごく簡単な手続きを済ますだけで、国境を渡れる人種もまた存在する。
すなわち、商人である。
彼女らは、商人から奪った同業者組合員証を利用し、商隊を装って国境を通過していたのだ。
もっとも、商人を装っているとはいえ、あまり同じ者が国境を頻繁に移動しては、関所の役人に怪しまれる恐れがあるため、リーダーであるマルグリッド以外の実行メンバーは常に入れ替わりのローテーションで変更されていたし、ガリア側からトリステイン側に行く際も、ガリアの廃品屋から購入した二束三文のガラクタを運んでいくというカモフラージュもなされていた。
また、トリステイン国籍の中小商社ばかりを狙うのは、その大半が国外に強力なコネクションを持たぬ、弱小のコミュニティであることが多いからである。
彼らの場合、商品を盗まれたとて、犯人が国外に逃げ込んでしまえば、泣き寝入りをするしかないのだ。
反対に、国外にいくつもチャンネルを持つような大商社や多国籍商社は、各地の役人に顔が利くため、そこに逃げ込んだと分かれば、地獄の底まで追ってくる可能性がある。
普通の賊であれば、無駄な出費と労力を嫌がって、このような工作はしないのだけれど。
しかし、マルグリッドは一度ならず、二度も地獄を見たことで、彼女なりに精一杯用心を働かせるようになっていた。
それを成長と取るかどうかは、個人の主観次第だろう……。
「ま、しかし、これで、あの国での仕事は終わりだね」
「一寸、勿体ねえような気がしますがね。まだまだイケそうな感じですぜ」
「引き際を間違えちゃあいけないよ。元々、総仕上げのつもりでの大仕事だったんだからね。あれだけ派手にやっちゃ、これ以上は足が付くってもんさ。それに──」
そこで一端言葉を止めて、マルグリッドはぷかぁ、と煙のドーナツを作って見せる。
「こんな、クソでかい臨時ボーナスまで手に入っちゃ、盗賊稼業を引退してもいいくらいだろ?」
「う、う、う~」
マルグリッドが、口の端を厭らしく歪めて、脇に置かれたワイン樽をぽん、と叩くと、樽の中から恨めしげな呻き声があがる。
「何か言いたそうだね、エレオノール・アルベル、アルベル? ……えぇと、なんとか、ヴァリエールさんよ」
「う~っ! もぐぐがふっ!」
天板が外された樽の中に詰め込まれているのは、豊饒な香りのするワインなどではなく、
ほんのりと汗の蒸れた臭いが漂う少女、エレノア、いや、ヴァリエール家長女エレオノール。
全身を縄と猿轡で雁字搦めにされながらも、ケタケタと笑うマルグリッドを憎らしげに睨みつけている。
彼女はシュルピスからこの廃村まで、ずっとこの空のワイン樽に押し込められていたのだった。
国境の荷物検査は、その全てを検品するわけではない。例えば、ワイン樽が大量にあれば、二、三個をランダム選び、それに問題が無ければ通ってしまう(そこで、彼女の入った樽を関所の役人が選び当ててしまえば一巻の終わりなので、そこだけはマルグリッドもドキドキだったのだが)。
特に、身分のはっきりとした(組合員証を持った)商人が相手ならば、役人もそう目くじらを立てることもない。
「おぉ、怖い貌だねえ。チビっちまいそうだよ」
マルグリッドは半笑いでそう言うと、おもむろに樽の中に腕を伸ばし、エレオノールの猿轡を外してやる。
此処までくれば、如何に騒ぎを起こされようと、何の問題ないと判断したのだろう。
「ぷはぁっ! あっ、アンタ達、こんなことして、どうなるかわかっているんでしょうね?!」
「……この状況で、随分と勝気なモンだねぇ。公爵家のお嬢様にしちゃ、中々、肝が据わっているじゃあないか」
「薄汚い賊に褒められたって、嬉しかないわよ!」
開口一番、囚われの身であるにもかかわらず悪態を付くエレオノール。
しかし、喚いたところで状況は変わらない。ここは地獄の一丁目。罵声を飛ばそうが、悲鳴を上げようが、助けを求めようが──光の世界には届かない。
そんなエレオノールを華麗に無視し、マルグリッドは蠢く手下達へと向き直って、最後の指示を叫ぶ。
「さあて、お前ら、あとひと踏ん張りしな! ソレが終わったら、酒と食い物は、好きにやっていいからね!」
ひゃっほい、と歓声があげ、小走りになる男達を確認し、マルグリッドは満足気に頷く。
「ふぅ。じゃ、あたいはもう休むことにするよ。打ち上げの音頭はジロー、お前が取りな」
「え、姉御は参加しないんですか?」
「こちとら、あのクソ酒場で働いたせいで、酒の臭いを嗅ぐだけで吐きそうになるんだよ」
マルグリッドは吐き捨てるように言って、顔を顰める。
クソ酒場とは、シュルピスのランジェリー酒場〝疑惑の妖精亭〟のことだ。彼女にとって、それは消し去りたい歴史らしい。
「む、無視するなぁっ!」
ふん縛られたまま、無理矢理に樽から顔を出して、エレオノールはなおも喚く。
マルグリッド以下二名は、横目でそれを一瞥して、今後についての協議を始めた。
「で、コレの扱いは、どうします? まだ、詳しい受け渡しの場所とか、日時とか、方法とかはあちらさんに伝えちゃいませんが」
「当然、そのあたりはちゃぁんと、考えているさ。安全かつ、スピーディーなやり方をね。……ま、今日は一仕事終えたばかりだ。それは明日でもいいだろう? それともお前、今からひとっ走り、ル・マンの街まで、ペリカン便を頼みに行ってくれるのかい?」
「いやぁ、それは勘弁してほしいですね」
「っつぅわけだよ。ま、とりあえず、コレの面倒はあたいが見るよ。大事な大事な人質は丁重に扱わないと、ね? 飢えたクソ野郎共の中に置いておいたら、どうなるかわかったもんじゃないからね」
「おいらは餓鬼にゃ興味はありませんけどね」
ジローがそう言って肩を竦めると、隣のオノレもそれに同調するように頷く。
そこらへんは、存外に分別のある大人らしい。
「こ、ここ、殺していいかしら……っ?」
「はいはい、お嬢様がそんな言葉遣いをしないことだよ。【浮遊魔法】≪レビテーション≫」
マルグリッドは唇をひくひくとさせているエレオノールを【浮遊魔法】で浮かせると、
団長(つまり自分)の寝所としている廃教会の方向へと踵を返す。
「ぅ……っ」
エレオノールは零れ出しそうになる悲鳴を、なんとか堪えてみせる。
「あ、姉御、一人で大丈夫ですか? 餓鬼とはいえ、この娘も一応メイジですよ。万一ってことが」
「杖さえ取りあげときゃ、そこらのクソ餓鬼と変わらないよ。ほれ、ちゃんとしまっときな」
呼び止めるオノレに、懐にしまっていたエレオノールの杖を、ぽい、と投げて渡すマルグリッド。
「わっ、とっ、と。ちょ、姉御、こんなもん、折っちまいましょうよ」
「馬鹿を言うんじゃないよ。ソイツは〝万年樹〟って希少な材料を使った最高級品だよ。闇屋に売っても金貨で百はするってシロモンだ」
「ほへぇ、よくわかりますね、姉御。俺には、ただの棒っきれにしか見えませんや」
「はっ、あたいも昔は貴族の端くれだったからね。杖の良し悪しくらいの判別はつくのさ」
ふ、と自嘲したような笑みを浮かべ、マルグリッドは再び歩を進め出す。
ふよ、ふよ、と宙を漂うエレオノールは、自らの杖が持ち去られていくのを、ただ恨めしそうに眺めていた。
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アジトのド真ん中にある広場から、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎの音が微かに聞こえてくる。
さぞかし盛大に飲んでいるのだろう、度々あがる雄叫びのような声に、ミミズクがびく、と体を震わせて、飛び去っていく。
そんな喧騒を余所に、此処、マルグリッドの寝床である廃教会は、至って静かであった。
まばらな天井から差し込む、双子月のおぼろげな光によって照らし出される朽ちた無音の教会は、豪華絢爛な装飾に彩られた大聖堂よりも、ずっと神秘的な雰囲気を醸し出している。
一人で休む時には、こういった静けさも良いものだが、二人以上でいるとなれば、退屈に感じてしまうものである。
此処の主(不法占拠)も、いよいよ、その静寂に辟易としてきたようで。
「食べにゃいのかい?」
地べたに胡坐を掻き、鶏の手羽元を手づかみで豪快に貪っていたマルグリッドは、口にモノを入れたままで、対面のゲストへと声を掛けた。
「……ふん」
傾きかけた柱に、座った状態で括りつけられたエレオノールは、それには答えず、そっぽを向いて鼻を鳴らす。
腕の拘束は、一時的にだろうが、外されている。なので、眼の前に出されている皿の上のパンと肉を食べようと思えば食べられるのだが……。彼女の意地がそうはさせないのだろう。
「喚いていたかと思えば今度はずっとだんまりかい。此処にきてから、もう二刻以上経っているってのに……。こりゃ、本当に強情っぱりだね」
マルグリッドは呆れたように言い、ぽい、としゃぶり尽くした骨を、窓の外へと投げ捨てる。
彼女はまだ焼けていない、新たな骨付き肉を掴むと、ぐりぐりと塩を塗り込み、それを火にくべる。
じゅうじゅう、と脂が焼ける香ばしい音と匂いが、エレオノールの鼻腔と鼓膜を刺激する。
オリーブオイルのような黄色い肉汁が、骨を伝って、ぽたりと落ちて、土に染み込んでいく光景が恨めしい。
ぐうぅ。
亡者の呻きのような低い音が、エレオノールの胃袋から発されて、彼女の顔が羞恥の赤に染まる。
「う、ち、違うわよ?!」
「丸一日以上何も食っちゃいないんだ、そりゃあ人間、腹も鳴るさ」
淑女らしからぬ生理現象を誤魔化そうとするエレオノールだが、マルグリッドは大して気にした様子はない。
「食いな」
焼けたての肉をエレオノールの前の皿へと、絶妙のコントロールで放って、短く命じるマルグリッド。
「余計なお世話よ」
「あたいが食えといったら、食うんだよ。お前、若しかして、自分の立場がわかっていないのかい?」
先程よりもドスの利いた声に、エレオノールの体が絞められる直前の魚のように跳ねる。
マルグリッドの剣呑な視線には、有無は言わさねえ、という圧力があった。
普段はお茶らけたように見えるが、彼女とて切った張ったの世界に生きる、という並ならぬ〝覚悟〟を決めた者である。
そこらの一般人など、彼女に一睨みされただけで、震えあがってしまうだろう。
「何よ、賊風情が偉そうに。盗人の施しなど受けるワケがないでしょ!」
しかし、それでも、エレオノールは気丈な言葉でやり返してみせる。
「あぁ?! …………はん、くく、身体は正直だねぇ。虚仮もここまでってことかい?」
マルグリッドは一瞬だけ声を荒げたが、エレオノールの様子を見て、満足したかのような笑みを浮かべる。
──エレオノールの身体はアルコール中毒者のように小刻みに震えていたのだ。
気丈に見える彼女だけれど、怖いものは怖い、当たり前のこと。
ましてや、彼女は生まれてこの方、命の危機になどに遭遇したことなどなかったのである(昨今の貴族子女ならば、そんな経験のある者の方が珍しいが)。
強いて言えば、伝説とまで謳われる騎士である、母の逆鱗に触れた事が2,3度あること。あとは、ごく最近、王都の徴税官と対峙したことくらいだろう。
しかし、前者は、相手に自分を害するような意志はないことが分かりきっていたし、後者は、危機かどうかもわからないままに終わってしまったので、彼女に本質的な恐怖を与えるには至らなかった。
だが、今回は違う。
身代金目当ての誘拐らしいとはいえ、その人質が絶対に無事で戻ってくるのか、と言われてばそうではないことをエレオノールは知っていたし、むしろ、死体で戻ってくる方が圧倒的に多い、とも知っていた。
大貴族の令嬢だけあって、その手の犯罪については、耳にタコが出来るほどに気を付けるよう、聞かされてきたのだ。
しかも、酒樽に詰められて運ばれる道中で、何とはなしに彼女の耳に入ってきた情報によれば、ここはヴァリエール家の力が及ぶトリステインではく、未知の異国、ガリアだという。これでは、すぐに誰かが助けにきてくれる、という希望すら持ちにくい。
本当のところ、エレオノールは恐怖やら、不安やら、混乱やらで、泣き叫びたい衝動で胸が一杯であった。
ただ、その欲求を持ち前のプライドによって、何とか抑え込んでいただけなのだ。
とはいえ、幼い彼女の〝誇り〟とやらは、未だ〝覚悟〟などには至っていない。 だから、マルグリッドの〝覚悟〟の前に揺らいでしまうのである。
(しっかりするのよ、エレオノール・アルベルティーヌ! 私は誇り高きヴァリエール家の長女なんだから! 大丈夫、大丈夫よ。少しの間、我慢をしていれば、きっとお父様やお母様が、助けだして──)
決壊寸前の自分をそうやって落ち着かせようとする、エレオノール。
ここで持ちなおそうという意志を持てるあたり、やはり、彼女も凡庸な存在ではないのだろう。彼女の年齢から考えれば、異常といってもいいくらい、立派な精神力である。
が、そこで、ふと、エレオノールの脳裏に、ここ二週間ほど、成り行きで同行していた平民の言葉がよぎる。
──まったく、誰かに依って生きている人間のカクゴなんて、信用するに値しないどころか、笑っちゃうわよね。
エレオノールは、ハッ、としたように、目を見開く。
面と向かって言われた時には、すぐさまにでも「アンタに何が分かるのよ!」とでも否定してやりたかった言葉だ。実際は、何故かひどく哀しくなって、言葉がうまく紡げなかったけれど。
が、今のこの状況に置かれた自分の有様はどうだろう。
(……その通りじゃない)
危機に追い込まれた時こそ、その人間の本音、本質が出る。
そんな状況で、彼女の頭に真っ先に浮かんだのは、当初の自分の〝目的〟を忘れ、家柄と両親に依ることであった。
情けない、とエレオノールは歯噛みした。
これでは、あの慇懃無礼で傲岸不遜な、天パで泣き黒子の平民牛女に指摘されたまんまではないか。
(……本当、笑い物だわ、これでは。『誰かが助けてくれる』? 違うでしょうが! 私がわざわざ家を飛び出してきた理由を考えなさい! 出戻るわけには行かないのよ! 私がやるべきなのは……!)
エレオノールは歯を食いしばって、身体の震えを無理矢理に止め、マルグリッドの顔を正面から見据える。
その眼には、先程までとは違う、何らかの強い光が宿っていた。
「……あん? 何を笑っているのさ?」
その様子を見て、マルグリッドは不快そうに言う。
「え? いえ、こうしているのも何だし、少しお話でもしない? と思って」
「へえ、どういう心変わりかねぇ」
「暇になっただけよ。あ、食事、頂くわね。はぐっ、はっ、ふぐっ」
「…………? ま、まぁ、いいけどさ。だが、話っつったってねぇ……」
人が変わったかのように、皿のパンと肉を両手に掴み、もしゃもしゃ、と噛み砕いていくエレオノールに、マルグリッドは訳も分からず首を捻った。
「しっかし、アンタ達って、随分と命知らずよねぇ」
「なにさ、藪から棒に。ま、縛り首が怖くちゃ、盗賊なんてやってられないのは事実だね」
「だからって、私が誰か知っている癖に手を出すなんて。素直に私を何処かの屯所か、ヴァリエール家まで連れて行けば、少なくとも30000エキューは手に入ったっていうのに。こんな無茶なやり方、本気で成功すると思っているワケ?」
食事の手を休めることなく、マルグリッドに問うエレオノール。
「はっ、思っていなけりゃ、こんな大それた事をするもんか。それにね、お前を連れて行ったところで、その相手があたいらみたいなモンだとわかりゃ、公爵もそんな馬鹿げた額の金なんざ、踏み倒すに決まっているさ。それどころか、あたいらは誘拐犯にしたてあげられて、絞首台行きにされちまう可能性だってある」
「……随分と貴族に対して、信用がないようね」
「貴族なんてモンに、ロクなやつがいるもんか。どいつもこいつも、あたいらみたいな賊なんかより、よっぽど性質が悪い腐ったクソばかりじゃないか」
「あら、アンタだって、元は貴族という話じゃなかったっけ?」
「……さてね。そんな昔の事は忘れちまったよ」
吐き捨てるように言うマルグリッドだが、その横顔には、どこか哀愁めいた寂しさが漂っている。
彼女にも、彼女なりの人生を選んだ理由というものがあるのだろう。
「ふぅん……。で、元は腐ったクソのアンタが、どうしてそれに集る蠅みたいな真似をしているの?」
「ほ~、お前、あたいに喧嘩を売っているってのかい?」
「べ、別に? ただ、どうして普通に働かないの、と疑問に思って」
明らかな不快感を示すマルグリッドに、ちょっとだけびびりつつも、冷静に返すエレオノール。
「馬鹿だね。マトモな仕事で食えるようなヤツがこんなヤクザな商売をやるわけないだろう」
「そんなの、ただの言い訳だわ。楽をしたいだけでしょ? 私の知っている平民は、みんな真面目に働いていたわよ」
「平民にもいろいろいるのさ。お嬢様の目に止まるような平民なら、そりゃあ上等なヤツらだろうさ。だがね、世の中にゃ、いくら働こうが、今日の飯にも困るっていう人種もいるんだよ。そもそも、あたいらみたいなヤツってのは、端から、ロクな仕事にゃあり付けないしね」
さすがは世間知らずだね、とマルグリッドは付けくわえると、慣れた手付きで煙草に火を付けて一服を付ける。
今度はエレオノールは言い返さなかった。モット伯の一件で、自分の見方が必ずしも世間と合致する訳ではない、というのを学んだから、もう少し彼女の話を聞いてみるか、と思ったのである。
勿論、盗人の言にまんま同調するような気はなかったけれども。
「ま、つまり、上に立つ貴族がクソだからこそ、あたいらみたいなのが増えるってこと。特にお前の国は酷いよ。何せ、最初はあたいを入れてもたった三人しかいなかった団員が、半年もしないうちに、五十を超える大所帯になったんだからさ」
「あれ、アンタはトリステインの人間じゃないのね?」
「あぁ。結果としちゃ、こっちに来たのは正解だったよ。巷じゃ賢君、なんて言われているサン=シュルピス伯も、ツェルプストーの赤い悪魔やら、ザクセンの鬼坊主よりゃ全然チョロイし、ね」
「ゲルマニア人、ね…………。でも、メイジがアンタ〝だけ〟じゃあ、大変でしょうに」
「あたいらは傭兵やマフィアじゃあないんだ。これ以上の下手な戦力なんざ要らないね」
盗人にも三分の理か、とエレオノールは顎を撫ぜる。
同じゲルマニア人のアリアとロッテは、この国に来たのは失敗だったかもしれない、とぼやいていた。
それはつまり、外国人の目線から客観的に見て、トリステインという国は、まともに稼ぐには辛く、犯罪を行うのは容易であるということである。
それは誰が原因か、といえば、マルグリッドの言うとおり、貴族であり、王家の責任が多分にあるだろう。
以前のエレオノールなら、嘘だッ! と突っぱねたのだろうが、この二週間という短い期間で、エレオノールは、祖国の憂慮すべき現実に、薄々気付いてしまっていた。
「やっぱり、そうなの」
エレオノールは、朽ちた教会の全景を仰ぎ見るようにして、大きく息を吐く。
祖国は、この教会のように、朽ちて、傾きかけている──あまり認めたくもない事であったが、残念ながら、それは事実のようである、と彼女は認識を強める。
彼女は頑固だけれど、『頭さえ冷えた状態であれば』、物事を客観的、合理的に見極める資質を備えているようだ。
「納得したかい? さて、今度はあたいが聞く番だよ」
「ん、まだ聞きたいことは山ほどあるんだけど?」
「おいおい、等価交換って言葉をしらないのかい?」
「よく言うわ……。アンタ達は一方的に奪っていくでしょ」
「あっはは、そう言われればそうだね」
「はぁ、まあ、いいけどね。何よ?」
「お前、どうしてヴァリエールの領地から遠く離れたシュルピスの商店なんかにいたのさ? しかも、馬車なんかに忍び込んで。まさか、公爵家のお嬢様ともあろうものが、金に困ってのコレかい?」
マルグリッドは、人差し指を鍵状に曲げ、エレオノールへと問う。スラング的に言うと、ギる、ガメる、のジェスチャーだ。
「んなわけないでしょ! あれは、……そう、アレは、ちょっとした顔見知りの商人の馬車でね」
「知り合い、ねぇ。お家に帰る途中だったのかい? だったら、コソコソせずに、堂々としてりゃいいじゃないか」
「……国境を渡りたい、と頼んだら、断られたのよ。荷の中に隠れておけば、案外そのまま行けるかも、と思っただけ」
アリアの馬鹿にしたような顔を思い出して、むす、と頬を膨らませるエレオノール。
「は? 国境を? 何でまた」
「個人的な理由」
「はぁん、お勉強に嫌気がさしての家出ってやつかい。いいご身分だね」
「違うわ! 家出、家出って、しつこいわね! 失礼よ!」
「しつこい? いや、初めて言ったと思ったけどねぇ……」
マルグリッドの見下すような表情が、アリアとダブってカチンと来るエレオノール。
いけない、いけない、冷静に、とエレオノールは、一つコホン、と咳をする。
「アンタ、〝人魚の生胆〟って、知ってる?」
「なんだい、そりゃ。たしか、お伽話に出てくる、どんな病気でも治しちまう秘宝だったっけ?」
「お伽話じゃなく、実在するの! 私が家から離れているのは、それを探しているからよ。断じて、お転婆の家出なんかじゃないの」
「ほ~。で、そのお宝はこのガリアにあると?」
「いえ、もっと先のロマリアにあると聞いているわ」
ここで隠しても意味もない事なので、エレオノールは放蕩している目的の一端をマルグリッドに話す。
実際、彼女は、アリア達にも、その旨を伝えようと思っていたのだが、機会を逃したというかなんというか。
仮に彼女が、最初からアリア達にその目的を話していたとしたら──
「ぷっ、あっはははは!」
さも可笑しそうに、腹を抱えて笑うマルグリッド。
ほら、こうなるに決まっているのだ、とエレオノールは溜息を吐く。
だからこそ、ギリギリまでエレオノールはロマリアに行きたい、ということをアリア達に伝えられなかったのである。
「そんなもんあるワケないだろう。獣人、翼人、吸血鬼、エルフ……、亜人ってのは数多くいるけれど、人魚ってのはただの伝説上の存在だよ?」
「でも、確かに存在するという、公式の文献があるの!」
「ははっ、どうせ、メッゾ・デ・モルトの、〝青い海と白い空の漂流記〟とでも言うんだろ?」
「……案外、教養あるのね」
メッゾ・デ・モルト。ロマリア出身の冒険家兼空賊で、後に叙勲され、貴族に列せられたという異色の経歴を持つメイジ。
彼の死後、五十年以上経つ今でも、彼の半生を記した冒険小説、〝青い海と白い空の漂流記〟はロングセラーとなっている。
「ありゃ、確かに、『これから話す事は、全て、著者の実体験である』から始まるけどねえ。その半分以上は創作だって知らないのかい?」
「えぇ、〝虚言〟のメッゾ。巷ではそう言われてしまっているようね。でも、人魚の部分が作り話とは限らないでしょう?」
「普通、そこをフィクションだと思うだろうに。事実、その本が出てから十数年は、人魚を探し回る阿呆も居たみたいだけどね。どいつも、痕跡すら見つけられなかったって話だよ。あり得ない、あり得ない」
「うっ、うるさい! お父様やお母様と同じような事言わないで!」
今度は、マルグリッドの姿が両親や屋敷の従者の姿と重なって、エレオノールは語気を強める。
大人はみんなこうなのだ。人が大真面目で話しているというのに、馬鹿馬鹿しい、お笑いだと、取り合ってもくれない。
「はん、なるほど……大体のことは分かってきたよ。しかし、そこまでしてどうしてそんなモンが欲しいんだい?」
「カト……、いえ、妹のため、よ!」
「ふぅん、妹が病気か何かなのかね。それで、お前は、怪しげな情報を元に家を飛び出したってわけか。あっはは、こりゃ、美しき姉妹愛だね。可笑しくて涙が出ちまいそうだよ」
興奮気味のエレオノールは、ついつい、お家の内情を喋ってしまう。
病床の妹のために、姉が体を張って助けようとする、とは中々イイ話ではあるが。
しかし、マルグリッドは、まるで心を動かされた様子がないどころか、さらに声高らかに哂ってみせる。
「家族を思いやる事の何が可笑しいのよ?! アンタだって、忘れたとかいって、家族の事くらい!」
「知らないね。インチキ商人に騙されて、勝手に破産して、勝手に居なくなったようなクソ親共はね!」
エレオノールのテンションに釣られたか、マルグリッドは言ってしまった後に、気まずそうな顔で、ふい、と顔を反らした。
「……それで、商人ばかりを狙うってワケ?」
「ちっ。少しばかり話し過ぎたね。あたいはもう寝る。お前も寝な」
「私は事情を話したのに、それは狡いんじゃない?」
「黙りな。あたいを怒らせるんじゃないよ?」
マルグリッドは、エレオノールの批難には取り合わず、焚いていた火を乱雑に足で踏み消して、盗品であろうベッドへとダイブする。
「ちょっと! 私の世話はアンタがするんじゃなかったの?!」
「……ケッ。クソでもしたくなったら、外で見張ってるヤツを呼びな。そこらで垂れ流されても迷惑だからね」
マルグリッドは面倒そうにそう言うと、エレオノールに背を向け、わざとらしい鼾を掻き始める。
エレオノールは、ふぅ、と首を横に振り、それ以上の話を続ける事は諦めるのだった。
ж
それから、四、五刻も経っただろうか。
先程よりも、静けさの度合は増し、今は風と草木の擦れる音しか聞こえない。
その無明のしじまの中、エレオノールはあらかじめ予定していたかのように、パチリと目を開けた。
(大分話は逸れてしまったけど……。とりあえず、必要な事は聞けたわ)
すぐ頭に血が昇る癖は直さないとね、と反省しつつ。
エレオノールは、今までの道程と、先程のやり取りで得られた情報を、頭の中で纏めていく。
その一。ここはガリアの廃村である。トリステインとはそれほど離れてはいない。
その二。賊の人数は全部で五十余名。そのうち、メイジはマルグリッドのみで、戦いにはそれほど重きをおいていない。
その三。この廃教会は集落のはずれにあり、常時、見張りが付いているようである。夜中の世話は、そちらの見張りに言いつけろ、とのこと。
その四。没収された杖は、廃村の中で最も大きい建物の前に並べられた木箱の行列を正面から見て、左下を原点とすれば、横3、縦4の位置にある黒塗りの箱に仕舞われている。
その五。マルグリッドには、この誘拐取引を成功させる自信があり、人質の扱いは割と丁重な方、だと思われる。少なくとも、今の時点で殺されるような事はなさそうだ。
その六。今夜は盗みの成功を祝う宴をすると言っていた。ならば、おそらく、賊のほぼ全員に酒が入っているのではないだろうか。
その七。リーダーのマルグリッドは、思ったより理知的な人物のようで、ある程度の教養もあるようだ。あまり舐めては掛れない相手かもしれない。
(これらを総合すると……。やるなら今夜しかない、わよね? 多分、時間が経てば、経つほどに、状況は悪くなる)
エレオノールは、ごくり、と唾を飲み込み、ギュっと目を瞑る。
(大丈夫! 唯一のメイジである、女頭目の初動さえ遅れれば、おそらく、多分、いえ、絶対、逃げ切れる! やれる! 出来る! 私はやれば出来る子!)
そう、エレオノールは脱走を試みようとしている。
それが正解なのか、不正解なのか、いまだ答えは出ていないが、とにかく、彼女は、他力に依る事は辞め、自力での突破を決意したのである。
先のマルグリッドとの話で聞きたかった主な事は、盗賊団の戦力と、マルグリッドの人柄。
前者は逃走成功の確率に大きく関わるし、後者は、もし失敗してしまった場合、生命の危機となるかどうかを判定する上で必要なことだった。
もし、マルグリッドがキレやすく、向う見ずな性格であれば、その場の勢いでエレオノールをどうにかしてしまう可能性もあるからだ。
だが、マルグリッドは、あれだけエレオノールが挑発的な言葉を繰り返したのにも関わらず、一度も彼女に手を上げる事はなかった。
ならば、もし逃亡に失敗したとしても、扱いは厳しくなるにせよ、命を取られることまではなさそう、というのがエレオノールの判断だ。
失敗した時の事を考えるなんて──とは言うまい。
孤立無援の見知らぬ土地で、五十人以上の賊に包囲されている上、頼みの杖とも離れ離れ。どう考えても、失敗する可能性の方が遥かに高いのだから。むしろ、ここで失敗した場合のリスクを考えないのは、ただの無鉄砲でしかない。
なお、『敵に後ろを見せない者が貴族』という矜持は、既に彼女の頭からは消え失せつつあった。
「ふぅ~……………………よし。作戦、開始よ!」
長く長く息を吐いたあと、エレオノールは意を決す。
ここに、電撃エスケープ作戦(命名・エレオノール)が発動する!
「ねぇ、ちょっと。誰か、誰かいないかしら?」
第一手。エレオノールは、教会の外に居るであろう見張りへと、出来るだけ平素な声で呼び掛ける。
「………………は、はいっ?! 何ですか、姉御?! ハッ、もう朝で?!」
やや間をおいて、ガタガタッ、と喧しい音を立てながら、見当違いの答えを返す見張りの声。
どうやら、番の最中に寝入っていたらしい。
マルグリッドはともかく、部下はかなりヌケサクなのかも、とエレオノールは少しの楽観をするが、油断など出来るわけもない、とすぐにその考えを打ち消した。
「残念。姉御ではないわ、若くて綺麗な方よ」
「あ~、驚かせるなよ。ちなみに、ソレ、姉御に聞かれたらぶっ殺されっからな? で? 何か用かよ」
「あら、淑女にそんなことを言わせる気なの?」
「はぁ。なんだよ、小便でもしてえのか、仕方ねえな」
「すっ、少しはオブラートに包みなさいよ」
大の方と言わないあたりは、マルグリッドよりは上品かな、などとどうでもいいことにエレオノールが考えをやっているうちに、見覚えのある疵面の男──ジローが、ゆっくりと扉を開けて、廃教会の中へと入ってきた。
彼は特に警戒をする事もなく、エレオノールに近づき、腰部と柱を繋いでいる縄を手早く外し、それを自分の腕に巻き付ける。
手足の拘束を解かない所をみると、どうやら、素巻きのまま、担いで行くつもりらしい。
しかし、その形はエレオノールにとってはマズイ。
「こっ、これじゃ歩けないのだけど?」
「あん? 負ぶっていきゃあ、いいだろうが」
「そ、それがね。実は、その、ちょっと、漏れそう、っていうか。いつ出ちゃうか分からないっていうか、ね? ほら、アンタも、背中に掛ったりしちゃ、イヤでしょう?」
「うげ。ったく、手間掛けさせやがるなぁ……。ほれ、これで歩けんだろ」
貴族の誇りをドブに捨てる発言により、とりあえず、足の枷だけは外させる事が出来たようだ。
エレオノールは、ほ、と安堵の息を吐く。
「ほれ、急げ。ちゃっちゃと行って、パッパと済ますぞ」
「つっ! ちょっと、人質はもっと丁寧に扱いなさいよ」
「シッ、姉御が起きちまうだろ」
ぐい、と縄を乱暴に引っ張る行為にエレオノールが文句を言うと、ジローは口の前に人差し指を添える。
エレオノールがちらりと、マルグリッドの方へ目をやると、彼女は規則正しい寝息を立てて、完全に熟睡しているようだった。
そのまま寝ていてくれ、とエレオノールは心の中で十字を切る。彼女が出てくるか否かで、作戦の成功率は大きく変化するのだから。
丁度、犬の散歩のように、リードを付けられたエレオノールが先を行き、ランタンを持ったジローがそれに続く形で、廃教会を出る。
外は真っ暗かと思いきや、広場の方には、まだ灯りが点いているようで、男達が雑魚寝しているのが見えた。
酒瓶やらゴミやらが散乱していることから、宴が終わってそのままそこで寝入ってしまったのだろう。
よし! とエレオノールは小さくガッツポーズを取る、のだが。
「おい! お前ら、何をしているんだ?」
そこで、小男、オノレが慌てたように追いすがってきた。どうやら、廃教会周りの見張りは、一人ではなく、二人だったらしい。
マルグリッドも、ジロー一人に全てを任すほど、彼の能力を信用してはいないようだ。
エレオノールは、面倒な、と小さく小さく舌を打った。
「いや、こいつがションベンしてえ、っていうからよ」
「むぅ……。じゃあ、俺も付いていくとするか。人質に逃げられでもしたら、俺まで姉御に大目玉食らっちまうからな」
「はは、このお嬢様にそんな度胸あるかよ。なぁ?」
ドキーン! である。
「まさか。私が、そんな無謀な愚か者に見えるのかしら?」
しかし、エレオノールは、取り乱すことなくクールに、淡々とジローに答えて見せた。
(はぁ……。もう! 余計な事言い出さないでよ、この三下! 蛆虫! くそったれぇ!)
まあ、心臓はバックバクで、思わず、彼女らしからぬ下品な罵りをしたくなってしまうほどの精神的なストレスは受けていたのだけれど。
(あと200メイル……。まだ、まだよ。もう少し、せめて、あと50メイル……)
それでも彼女は、杖のある位置へ近づけるように、大股でずんずん、と廃れた集落の中を突っ切っていく。
後ろの二人も、それに釣られるようにして、彼女に付いていくが、広場の手前ほどまで来たところで、オノレから当然の突っ込みが入る。
「なぁ、どこまで行く気なんだ? そこらの草むらでいいだろう、小便なんて」
「イヤよ。茂みなんかでしたら、変な虫に刺されそうだもの。おまけに、変態の虫共には覗かれそうだし」
「ふん、何が悲しくて餓鬼の便所なんて覗くかね。面倒だ、そこでしろ」
「で、でも」
「デモも、芋もない。早くしろ。まったく、これだから我儘なお嬢さんは困る」
「わかったわよ……」
全く取り合う気のないオノレに、エレオノールは仕方なしに、木蔭の方へ歩いていく。
(ぐっ……。遠すぎるっ。しかも、予定と違って見張りは二人……! どうする? ここは、やめておくべき? ……いえ、行くしかないわ。見たところ、今起きているのは、この二人だけ。五十人を相手にするよりは、この二人を出し抜く方が遥かに楽。ここまでのチャンス、みすみす逃してなるものですか)
エレオノールは用を足すフリをしつつ、高速で思考を回転させ、そう判断を下す。
予定とは少し違ってきてしまったが……作戦の第二手、発動である。
「あっ」
全く唐突に、エレオノールは飛び跳ねるようにして、奇声を発する。
「ん?」
「貴方、逃げなさいっ!」
「っ?!」 「はぁっ?」
誰もいないはずの集落の外に広がる、雑木林の方へ手を伸ばし、甲高い声で叫ぶエレオノール。
ジローとオノレは、吃驚としたように目を見開いて、辺りをキョロキョロと見回す。
「おい! こいつ、何を言ってる?!」
「早くっ! 捕まってしまうわよっ!」
「ぐっ……!? 誰かいやがるのか!? 有り得ないとは思うが……。あぁ、くそ、俺が行って確認してくる。ジロー、お前はコイツを見張っていろ!」
「お、おう」
エレオノールのあまりの豹変ぶりに、疑心暗鬼に取りつかれたオノレは、腰の短剣をすらりと抜き放ち、そそくさと臓器林の方へと駆けていく。
この集落に、一般の街道は通っていないし、最も近場の都市や村へ行くにも、馬で半日近くかかる。
なので、常識で考えれば、一般人が迷い込むなどということは、オノレの言うとおり、ほぼあり得ないこと。しかし、万一、ということもある。更に、あの大仕事の後だ、もしかすると、鼻の利く役人か傭兵あたりが、此処を嗅ぎつけたという可能性もなきにしも非ず。
どちらにせよ、彼らの立場としては、ただ放っておくわけにもいかないだろう。
「けっ、神経質なやつだな。どうせ、鹿かイノシシか、それともゴブリンかの見間違いだろうが」
「ふふ」
オノレの背を見やりながらぶつくさと文句を言うジローが、ふと視線をエレオノールに戻すと、何故か、彼女は彼の正面に相対し、不敵な笑みを浮かべていた。
「あん?」
何だこの餓鬼、とジローが首を傾いだ、次の瞬間。
「それっ!」
アリア張りの、とまではいかないが、エレオノールの全力を込めた蹴りが、無防備のジローを襲う!
もちろん、狙うは──
「ひ、ぐぅっ?!」
俗に言う、オトコの急所。
淑女が絶対に狙ってはいけない、禁断の聖地。
ソコをエレオノールのつま先が上手い具合に掠めると、ジローは頭が真っ白になるほどの衝撃に、思わず縄を握る手を緩めて、うずくまってしまう。
普段は正々堂々が信条のエレオノールも、今はなりふり構っちゃいられない。
彼女は、一瞬だけひしゃげたようなジローを見やり、自らの凶行の結果を確認すると、すぐに目的の方向へ、全力をもって駆け出した。
彼女は別に、厳しい肉体的鍛練をしてきたわけではないが、血統だろうか、同年代の子供と比べれは、かなり運動神経はよく、足も速い。
まともな状態であれば、大人であるジローやオノレともいい勝負をするほどだろう。しかし、今の彼女は足以外のほぼ全身を拘束されている。
これでは、普段通りに、というワケには中々いかないはずで。
「はぁっ、はぁっ、くっ、足がもつれっ……うぐっ!」
ベチャ、と。
少し進んだところで、地に足を取られ、顔からこけるエレオノール。
「負ける、かぁっ!」
しかし、彼女は間髪いれず、歯を食い縛って起き上がる。
ブロンドの髪は鳥の巣のように乱れ、ただでさえボロの服は泥でさらに汚れ、鼻から大量の血が噴き出ても。
彼女は、一心不乱にただ、走って、走って、走り続ける。
「う、ぐぐ、……あ。あの餓鬼、何処行きやがったぁっ!」
その甲斐あってか、ジローが地獄の苦しみから回復する頃には、追いつけない、と瞬時に判断が付くほどに、彼とエレオノールの背中は離れた距離にあった。
「ち、畜生……! お、オノレっ! 非常事態だっ! さっさと戻ってきやがれ!」
ジローははち切れんばかりの青筋を浮かべ、未だ、雑木林の中で見えない敵を探しているオノレへ呼びかける、が。
(ふ、ふふ……! もう、遅い……っ! 既に、ゴールは、目前よっ!)
背にジローの声を受けつつ、エレオノールは血と泥に塗れた顔で、ようやく笑みを見せた。
杖までは、あと、たったの数メイル。
そこまで行けば、勝利は確定する、と彼女は確信していたし、実際にそうだろう。
何せ、賊を相手に迎え討つわけではなく、逃げるだけなのだ。
【飛行魔法】≪フライ≫でも使ってしまえば、魔法を使えぬ盗賊に、彼女を追う術はない。
さあ、国境の方向へ向かうか、それとも、このままロマリア方向へ突っ切るか。
眼前のゴールテープならぬ、ゴールキューブを見据えながら、彼女は、すでにその先の未来へと思いを馳せる。
が。
しかし!
「……へっ? えっ? きゃ、きゃああぁっ?!」
まったくの不意だった。
上からの突風に、エレオノールの身体は、花吹雪のように吹き飛ばされる!
一度は近づいたはずのゴールが、5メイル、10メイル、と遠ざかっていく。
「かはっ」
広場に置かれていた酒樽に背中から激突し、エレオノールは肺に溜めていた空気を全て吐きだした。
「う、うぐ……」
朦朧とする意識の中、彼女は苦悶の表情で顔を上げる。
杖との距離は再び、30メイル以上離れてしまっていた。それでも、とエレオノールは立ち上がろうとするが、先程の激突のダメージは大きく、上手く身体を起こせない。
「な?」
そうやってエレオノールがじたばたとしているうち、彼女の目の前に、ふわり、と空から何かが降り立つ。
天使か、悪魔か。天使だったらいいわね、と彼女は回らない頭でぼんやりと考える。
「相変わらず、クソ使えない部下共だねぇ。餓鬼一人まともに管理できないのかい」
しかし、エレオノールの希望はブリミルには聞き入れられなかったようだ。
それは、現在の彼女にとっては悪魔より性質が悪いであろう、灰色の頭をぼりぼりと掻きながら嘆くマルグリッドであった。
エレオノールの未来をもぎ取ってしまった先程の突風の正体は、彼女の魔法、【風槌】≪エア・ハンマー≫だったのである。
「あ、姉御っ」
内股のジローと、肩で息をするオノレが、遅ればせながら駆けつけてくる。
その表情には、「やったぜ」という安堵の色と、「怒られちまう」という不安の色が複雑に入り混じっていた。
「どうしてお前らはそんなに間抜けてるんだい!」
「いや、こいつがですね」「おい、てめえ、他人のせいに」
「うるせえ! 言い訳してんじゃないよ!」
「申し訳ない……」「すんません……」
「ったく、副団長ってのも考え直さなきゃ駄目だね、こりゃ。とりあえず、他の野郎共も起こしてきな」
「えっ、でも、どうして」
「全体が弛んでいるからこんな間抜けをやるんだよ、このクソ馬鹿! 根性の入れ直しだよ!」
マルグリッドの鋭い一声で、ジローとオノレは飛び跳ねるようにして、他の男達を起こしに散る。
そして、それは、エレオノールの計画が頓挫してしまったことを意味していた。
「ど、どうして……っ! 寝ていたはずでしょう?!」
納得のいかないエレオノールは、マルグリッドへ食ってかかる。
「ありゃ、タヌキ寝入りってやつだよ。こんな稼業をやっているとね、人の足音なんかすりゃ、一発で目が醒めるのさ」
「ぐ……。私が行動を起こす事なんて、お見通しだった、とでもいうわけ?!」
「いんや、まさか、お嬢様にこんなクソ度胸があるとは思わなかったさ。ただ、まぁ、念のタメってやつだよ。まあ、だが、それが正解だったってワケだ。さすがに杖を手にされちゃ、ちっとばかし厄介な事になったかもしれないし……。世の中、神経質すぎるほどが丁度いいのかもねぇ」
マルグリッドは疲れたような表情でそう言って、大きく息を吐いた。
何となく不安だったから。
それだけの理由で、マルグリッドは寝床から起きだし、【飛行魔法】≪フライ≫によって、上空からエレオノール達の様子を窺っていたのだ。
しかも、エレオノールが駆けていく方向から、その狙いが杖だという事もバレてしまっていた。
つまり、この作戦、最初の時点で、エレオノールに勝ち目はなかったという事で。彼女は、マルグリッドの掌の中で踊っていただけという事である。
(何よ、それ。ふ、ふっ、ふざっ……)
エレオノールは、もう、何か、限界だった。
「ふざけるなぁっ!」
プチッ、と頭の中の何かがキレたような音を聞いた後、彼女は気づけば、マルグリッドへ向かって駆けだしていた。
その顔は、泥、汗、血、涙、鼻水、涎……、あらゆるモノで、ぐちゃぐちゃに汚れ、その貌も、泣いているのか、怒っているのか、笑っているのかすらわからないほどに、とにかく、ぐちゃぐちゃだった。
「おぉっと! 往生際が悪いねぇ。それでも貴族かい?」
「う、うるさいっ!」
渾身の突進を軽くいなし、エレオノールの首元に杖を突き付けるマルグリッドだが、完全に頭に血が昇ったエレオノールは止まらず、なおも素手での攻撃を試みる。
その姿は、確かに到底貴族のご令嬢には見えず、まるで生きるのに必死な、貧民街≪スラム≫の子供達のようだった。
「あっははは! 本当に面白いねぇ、お前。お嬢様が素手ゴロなんざ、聞いたことが無いよ」
「くっ?! 離しなさい、離せぇっ!」
しかし、エレオノールの抵抗など、マルグリッドにとっては児戯に等しい。
突き出したエレオノールの腕を捻りあげ、後ろ手を取るような形で、地面へと叩きつけるマルグリッド。
魔法ナシでも、彼女はそこらのチンピラよりは遥かに強いのである。でなければ、女だてらに賊の頭など張れるわけがない。
「さあ、冒険の時間は終わりだよ、お嬢様」
倒れ伏すエレオノールの背を、片膝を付く形で踏みつけるマルグリッド。
そして、ジローとオノレに起こされ、続々と此方へ集まってくる盗賊達。
ぐうの音も出ない、完全なる詰み。誰の目にも明らかな失敗、敗北である。
「うぬあぁっ! 私、私はっ! こんな所で、捕まっているワケにはいかないのよっ!」
しかし、エレオノールは、じたじたと身体を揺らし、不格好にもその結果に抗おうとする。
「いい加減に諦めな……っ?!」
マルグリッドはそこで急に言葉を切り、猫のような俊敏さで後ろへ飛び退く。
一体、何が?
「え?」
突然、背中の重量がなくなった事に、エレオノールは間の抜けたような声をあげる。
刹那。
マルグリッドが陣取っていた場所を通過して、カカッ、と二発。
どこかで見覚えのある、奇妙な形の矢が地面を抉り、突き刺さる。
もしマルグリッドが飛び退いていなければ、丁度、彼女の頭と心臓を直撃していたであろう、危険な凶撃。
「誰だい……っ! こんな舐めた真似をしてくれたクソはっ!」
明確な殺意の籠った攻撃に、マルグリッドは血相を変え、犬歯を剥き出しにして、矢の飛んできた方向を睨みつける。
そこには━━
「諦める? その必要はないわ、エレノア」
「そこは一応、エレオノール様、じゃろ。公爵の娘を平民が呼び捨てはさすがにまずいと思うぞ、妾は」
エレオノールにとっても、マルグリッドにとっても、見覚えのある影が二つ、惚けた顔をして立っていた。
つづけ