「オリーブと芽キャベツの酢漬けが二樽分。果実酒8オンスが3ダースと4分の1 。それに、飼料用の燕麦、ねぇ」
小指で耳をほじりながらおざなりな態度で商品の確認を行う穀物商の旦那。
一応身なりはきちんとしているけれど、こちらを軽く見ているのか、どうにも横柄な態度が鼻につく。
内心ムカっとしながら店内を見渡すと、見習い達は仕事もせずに好奇の目でこちらを窺っているのに気付く。
カシミール商店であれば、ゲンコツでは済まないレベルの失態だ。もう、どうなってんのよ、ここの見習いの教育は!
「ま……全部で19エキューと80スゥってところだな」
程なく、つまらない取引だ、とばかりの態度で相場より遥かに下の額を提示する旦那。
私はふざけるな! と喉まで出掛かった罵声を何とか飲み込み、力なく首を横に振った。
私の計算では、少なくとも30エキューはくだらないはずなのに。
そもそも、買い値が23エキューと60スゥよ? 馬鹿にするにも程があるっての。
「お手数お掛けしました。他を当たらせて頂きます」
「おいおい、何が不満なのか知らんが、どこに行ったってこんなもんだぞ?」
「……そうですか。では、これで失礼しますね」
だからここで売っていけ、と言外に含みを持たせる旦那の言を軽く流して別れを告げる。
そんなわけあるか! と思うが、他の地元商社でも似たような値を付けてきたので、それは強ち間違いとも言えない、のか?
「人が親切で言ってやっているのに、なんだその態度は? 小娘の分際で随分と生意気だな」
「それは大変失礼をば」
うるさいなあ、と思いつつ、仕方なしに旦那の方へ向き直り、胸に手を添え頭を下げる。
「だから、そういう気取った所が気に食わねえってんだよ。新米なら新米らしく初々しい態度でだな……」
「他人にとやかく言う前に、まず我が振りを顧みられては?」
こっちは謝ってんのに増長しやがって。しつこいのよ、このハゲ!
……あぁ、何か凄く苛々する。
どうしてだろうか、いつも以上に感情がコントロール出来ない。
「やめいっ! 店主と喧嘩してどうするっ!」
「旦那さんも、その辺で勘弁してやってください。女子供の言う事ですから……ねっ?」
今にも手が出そうな罵り合いを見かねたのか、ロッテと、トリスタニアのとある組合から派遣された計量人が仲裁に入る。
「……申し訳ありません。少し頭に血が昇ってしまったみたいで。しかし、とにかく、ここでの取引は致しませんので」
謝罪をしつつも、計量人へと明確な取引不成立の意思を伝える。
「君ねぇ、いい加減にしてくれないか。これで三件目だよ?」
「あら、ハノーファーの計量人さんは十二件も付き合ってくれましたけどね? 取引額の一割六分なんて法外な入市税を取っている割に、少し怠慢なんじゃないですか?」
「っ……! こっ、ここはゲルマニアじゃないんだ、そのへんを弁えなさい。まったく、本当に生意気だな……」
苛々が止まらない私は、ついつい計量人にも噛みついてしまう。
物理的な意味でも傾きそうな商社ばかり紹介しておいて、いちいち人を子供扱いして。
そもそも、最初に組合を訪れた時から信用できない事ばかりじゃないか。
このトリスタニアには星の数ほど、とはいわないが、かなりの数の組合が存在し、その力関係も扱う商品も千差万別。
当然、外国人たる私には、どの組合に話を通せば良いかわからなかったが、とりあえずは今回トリスタニアで捌くのは農産物だけの予定だから、とグラーニィ・ウォロ・アルテ(穀物商組合)の門を叩いたのだが。
そこからはまるでお役所のようなたらい回し。
「やれ、これならあっちの組合へ」、「いや、これはこっちの組合が専門だろ」とトリスタニアの街を東奔西走させらされたのだった。
一番頭に来るのは、結局、最初に訪れた穀物商組合こそが、やはり農産物の担当だったという事だ。つまり、私達は全く意味のない往復運動をさせられたという事になる。
「わかりました。では次で終わりにします。その代わり……」
「その代わり?」
「貴組合はフッガー商会の代理店と繋がりはありますか?」
「……あの商社はたしか、ラナ・ウォロ・アルテ(毛織物組合)の所属だが?」
「ではそちらの組合へ紹介を」
出来れば地元商社との繋がりを作りたかったが……。この調子ではまともな商社に辿りつく事はなさそうだ。
ならば私が最も信用している、ゲルマニア国籍の大商社に売るのが一番だろう。
「取引相手の指定は、経営者、もしくはその家人と個人的な繋がりがないと──」
「そんな常識は百も承知ですよ。丁度、その店に、私宛てにフッガー伯の家人からの手紙が届いているはず。それで証拠になりませんか?」
「……ちっ、いちいち燗に障る小娘だな」
あからさまに舌打ちをする計量人。ほんっとに、なんなのよっ!
「お言葉ですが──むぐっ」
「いい加減にせんか。日が暮れてしまうわ」
ムキになって言い返そうとしたところで、ロッテの掌が私の口を塞ぐ。
「君がこの娘の保護者か?」
「……そのようなものじゃな」
計量人が呆れたような顔でロッテに話しかける。
違うっつうの! と言いたい所だが、口を塞がれたままでは言葉が出ない。
「では、もう少し礼儀というものを教えておきなさい。まったく、これだからゲルマニア人は……」
「ふむ……肝に銘じておこう」
ロッテはにこりともせずに言うと、私の首根っこを捕まえたまま、ずるずると外へ引っ張っていく。
私は恨みがましい視線を、前行く計量人の背へと送る事しか出来なかった。
*
トリステイン王国、王都トリスタニア──
由緒あるトリステイン王家が坐す、この“水の都”は、広いハルケギニアの中でも、最も美しい都市の一つに数えられるという。
古典的な芸術性を持つ王宮もさることながら、その周りの貴族街や、ブルドンネ街と呼ばれるメインストリートでは、全て伝統的な建築に基づく建物に統一され、調和を乱すような要素の一切が排除されている。
それはまるで、一片の狂いもないマスゲームを見せられているかのような威圧感を見る者に与えることだろう。
また、トリスタニアの美しさには、芸術の意味だけでなく、衛生の意味も含まれているらしい。
どんな安宿にも浴場(蒸し風呂だが)の備えが義務付けられており、厠も店舗の内外には必ず存在する。
さらに、ゲルマニアの都市であれば、掃除夫の仕事というのは他に食い手が無い者が就く最低賃金の職であるが、このトリスタニアでは王宮の管理下、水メイジの就職先としてそれなりの人気を博しているというのだから驚きだ。
これはかつて、不浄を元にした疫病がトリステインに蔓延した事が原因だという。そのため、トリステイン人は疫病や不浄に対して非常に神経質だと聞き及んでいる。
とまあ、表は王宮の力を見せつけるかのように、非常に秩序だった造りとなっているのだけれど、一歩裏通りへと足を踏み入れればそういった堅苦しさも霧散する。
「いやあ、堪能した、堪能した。ふふっ、多少田舎臭いが、さすがは王都、中々に洒落た街ではないか」
そんな雑多で猥雑な街並みの裏通り、チクトンネ街を歩きつつ、楊枝を咥えたロッテが満足気に腹をさする。
この下町の方が綺麗な表通りよりも落ち着いてしまう私は、やはり庶民の中の庶民である。
「まあ、街の雰囲気自体は悪くないわよね。問題はそこに住む人間の方なんだけど」
伏し目がちに含みを持たせた言葉を返す私。
街とは結局は人の集まりであり、いくら容れ物がよくとも中身が伴わなければ意味はない。
そういった意味で、私はあまりこの街を好きになれそうにもなかった。
結局、今日の取引は全てフッガー商会頼りだったしね……。
しかし、いつもいつもゲルマニア国籍の商社ばかりをアテにするわけにもいかない。
トリステインでゲルマニア国籍の商社がある都市といえば、トリスタニア、シュルピス、ラ・ロシェールの三都市くらい。
これから訪れる他の都市でもこの調子だったらどうしよう、と不安にならずにはいられない。
まったく、こんな最悪な気分じゃフーゴの手紙を開く気もしやしない。
今返事を書けば、恨みつらみばかりの文章になってしまいそうだし、もう少し気持ちが落ち着いてからにしようっと。
「いつまで不貞腐れておるつもりじゃ。お主、この国に入ってから、少しおかしいぞ」
「だって、商いが上手くいっていないんだから、苛立つのも仕方ないでしょ」
「はあ……。たまには商いの事は忘れんか。たしかに組合や商社の連中には腹が立ったが、それ以外は楽しかったじゃろ?」
「ん……まあ、ね」
商いを済ませた後は、遊びの鉄人・ロッテに連れられ、遊びまわっていたのである。といっても、あまりお金を遣うような遊びは控えたけれど。
都市の比較検証と称して、王宮(といっても外から眺めただけ)と貴族街、トリスタニア大聖堂といった名所の観光。
国民嗜好の調査といいつつ、ブルドンネ街と呼ばれる表通りの大劇場で「バタフライ伯爵夫人の憂鬱」を鑑賞。
トリステイン相場の再確認と銘打って、服飾店や装飾店関連の小売店ひやかし巡りをし、トリスタニア激安グルメ食い倒れツアーを堪能。
今後の旅の行く末を占うため、地下のカジノで散財……はさすがに止めた。
楽しくなかった、といえば嘘だけれど、もやもやとしたモノを心の中に抱えていた私は、それらを心の底から楽しむ事など出来なかった。
「……それで、どうじゃ、少しは息抜きになったか?」
「うん、まあ、ね……」
無邪気な子供のように張り切っていたロッテは、急に真面目な口調で言う。
風が吹いた。沈み落ちそうな金色の夕陽を受けたその髪が艶やかに揺れる。私は眩い黄金のようなその光景に見惚れ、曖昧な返事だけを返した。
「ふむ、ならば良かった。どうにも最近のお主には余裕がなさすぎじゃったからな」
「だからさ、こんな状況で余裕なんて持てるわけないじゃない。見習いとは違って、私達はもう経営者なのよ?」
「それじゃ、その顔がいかんのじゃ、ほれ、こうやってじゃな……」
「ちょっ?」
どうにも無責任に聞こえてしまうロッテに思わず反抗すると、彼女は両の手で私の唇をぐいっ、と持ちあげて、無理矢理に口角を吊り上げさせる。
「そんな仏頂面で客の前に出てみい。いくら良いモノを商っていても、鉄面皮の店主からモノを買いたくなるか?」
「あっ……。でっ、でも、お客さんの前ではちゃんとしているはず……」
そう返しつつも、あれ? していたっけ? と自問自答する。
「表面上はそうしているつもりでも、内面というものは伝わるモノ。心の粗が、言動の粗に繋がるのじゃ。そして、負の感情は相手にも連鎖する。自分を嫌っている相手は、いつの間にか自分も嫌いになるものじゃろ?」
「まあ、そうね」
「先の組合や商社の連中だって、お主の方が常に朗らかであれば、ああいう対応にはならなかったと思うぞ」
思い当たるフシはあった。
私は初っ端から、彼らの事をあまりよく思っていなかった、気がする。
「気負いならば良い。どうしたらいいかと悩むのも良い。ただ、お主の苛つきの本質はそこではないようじゃな」
「……何のこと?」
「ま、賊は採って売るほどに現れたし、そのくせモノはまったく売れんし、組合や商社の連中にも腹が立つ。しかし、この街にも長所はあるはず。演劇や美術などの芸術は優れておるし、飯も中々に美味じゃったろう?」
「だから、一体、何が言いたいっての? はっきり言ってくれないかしら」
ロッテの遠まわしな発言に、またワケのわからぬ苛立ちを覚えた私は、刺のある口調で問い質す。
あぁ、もう、なんでこんなにイラつくんだろ。
「つまりのぅ、お主はこの街が……いや、この国が最初っから、嫌いなんじゃな。お主を救わなかった、あまつさえ売り飛ばしさえしたトリステインという存在が」
がつん、と脳が直に揺らされた。そんな感じがした。
なのに、その言葉は胸にすとん、とすんなりと落ちていく。
「ちっ、違うわ! 私ってそんなに恨み深い女じゃないわよ。大体ね、トリステインって国自体が嫌いなら、一番先の旅先に選ぶわけがないじゃない? 捻くれた邪推をしすぎよ」
気付けば、私は無意識のうちにそれを否定していた。
「……お主って、好きなモノを最後まで取っておく性質じゃろう?」
「あ……っ」
「ま、この国を最初に訪れたのは、なるべく早く安心したかったから、といったところかのぅ」
「安心?」
「お主を捨てたトリステインは拾ったゲルマニアよりも無価値だと断じたかったのじゃ。それこそ、そんな下らないモノから見放されたとて痛くはないわ、という捻くれた根性でな」
「わっ、私は、行商人なら、この国にもビジネスチャンスがあると?」
回らない口で必死に言いわけを捻り出してみるが、それは自分自身で首を傾げる理由でしかない。
「ほう? では、ガリアにはチャンスがないのか? ロマリアには? わざわざ人気のないトリステインを最初に選んだのは、この国が最もチャンスがあると踏んだからか?」
「……からない」
「む?」
「わからないわ。そうかもしれないけど……」
私はぶつぶつ、と頭を抱えて独り語ちる。
自分の事が分からなくなってしまった。
私ってそんな人間だったっけ。
でも、たしかにロッテの言うとおり、私はトリステインに関して、悪感情しか持っていないかもしれない。
ゲルマニアよりも劣っている国。
古臭い伝統にしがみつくつまらない国。
領地に蔓延る賊の退治すら出来ない国。
民を平然と他国に売り飛ばす国。
私の遺伝子提供者のように、碌でもない人間ばかりが多い国……。
そういえば、今日だって、王都の粗探しばかりしていなかったか?
「しかし、だからといって、妾はお主を非難する気はない」
「えっ?」
「お主の経歴からして、この国に嫌悪感を抱くのは至極当然。領主が本来は守るべき領民を食い物にし、それを王宮は知ってか知らずか放置しておる。こんなものは許されざる裏切りじゃ。むしろそれを表に出すまいとしているだけでも立派なモノ。妾がその立場であったら、今すぐ王宮へ殴りこむじゃろうな」
平然と物騒な事を言ってのけるロッテ。
私は思わず辺りを見渡し、人がいないかどうかを確認した。しかし、ロッテはそんな事はおかまいなし、とばかりに言葉を続ける。
「じゃがな、そこをグッと押さえて、好きになる努力をしてみるのが大人というものよ」
「好きになる、努力……?」
「これはマドモワゼルからの受け売りじゃが。“嫌いな相手がいたら、悪い所よりもいい所を探せ”。どうやらそれが客商売にせよ、友人関係にせよ、上手くいく秘訣らしい。……ま、といっても、やはり嫌いなものはそう簡単に好きにはなれんし、明確な敵対者まで愛せ、などと拝み屋のような説法をするつもりはないが、な」
それは商いの基本。相手を愛さなければ自分が愛されるわけもない。
“モノを売り込む前に自分を売り込め”。
商品よりも、まず自分を好きにさせる事。人は好きな相手のためになら、多少の無理くらいは効かせてくれるものなのだから。
確かに、今まで訪れたトリステイン北東部の村は貧しかっただろう。とてもじゃないが、シュペーの農具や包丁など買える余裕などなかったかもしれない。
しかし、誠心誠意を持って尽くしていたら、もしかしたら一つ、二つは売れていたんじゃないだろうか……。
「はっ……はははっ」
「むっ、いきなりなんじゃ、藪から棒に」
「いえ、すっごい気分が良くなっちゃったからさ、いや、ありがとね」
もう、私は否定できない。
私は、このトリステインが“嫌い”である。
ふふふ、考えてみれば当たり前の事じゃないか。
自然と笑みがこぼれる。
何とまあ、まだ私はあの取るに足らない過去の出来事を引きずっているらしい。
余り認めたくないが“恨み深い”、“しつこい”という醜さもまた、『私』の本質の一部なのだろう。
「うわ、何じゃ気持ち悪い。お主、説教されて悦ぶ性癖持ちだったのか」
「だっ、誰がマゾヒストか!」
もう、人が折角感謝しているっていうのに……。
しかしまあ、ロッテに商売上の事を諭される事になるとは。私もまだまだひよっ子ね。
『あ~……その、すまん。いい所を邪魔をして悪いんだが』
「ん?」
『何か騒ぎがあったみたいだぞ、朝に立ち寄った酒場の方で』
遠慮がちな腰の地下水に言われ、前方を見渡すと、“魅惑の妖精亭”に人集りが出来ている事に気付く。
なんだやっぱり繁盛しているんじゃないか、などと一瞬思ったが、どうにも様子がおかしい。
「なんだろ……?」
『あまりいい雰囲気じゃねえな。争い事のニオイがするぜ』
ナイフに鼻はついてないだろう、と突っ込みたくなるが、地下水の言うとおりに物々しい雰囲気なのはたしかだった。
店の前には何かを囲むような人の輪が出来ており、その中には武装した衛士の姿も見える。何より、怒声や罵声のような声がここまで聞こえてくるのだ。
店で何かトラブルが発生してしまったのかもしれない。というか、多分したのだろう。
「どうする? 何やら面倒事のようにみえるが。やはり君子危うきには、とやらか?」
「……厄介事がごめんなのは確かだけど。スカロンさん達も心配だわ。こういう場合は義見てせざるは勇なきなり、とも言うわね」
「くふ、ようやっとお主らしくなってきたの」
ロッテは今日で一番声を弾ませて、ばんっ、と私の背中を叩く。
私は心のもやもやを道端に置き去りにして、“魅惑の妖精亭”へと全力で駆け抜ける。
高速で流れていく夕陽に紅く染まるトリスタニアの街。
すぐには気持ちは変わらないと思う。また、この国の全てを認める事は一生ないだろう。
しかし、まず、その景色を素直に美しいと認める事から始めてみよう、と私は心に誓った。
*
さて、時間は少し遡る。
魅惑の妖精亭の経営者であるスカロンは、ブルドンネ街を汗だくになりながら走っていた。
終業時間も近いこの時間帯には、いくら王都のメインストリートといえども、それほどの混雑はしていない。
「くぅっ、開店の直前まで調味料を切らしている事に気付かないなんて。急いで帰らないと……」
妻であるドリス作の、可愛らしいパッチワークをあしらった手提げ袋をぶんぶんと振り回し、どすどすと揺れる漢らしい筋肉のカタマリ。
それが独り語散るその姿は少々、いや、かなり不気味で、道行く人々は「どいて」といわずとも道を開けていく。
「ん?」
そして、ブルドンネの噴水広場に差しかかった時。
スカロンはとある光景を目の当たりにして疑問の声をあげた。
噴水のヘリに腰掛けた女の子が力なくうなだれている。
薄汚れたブロンドに赤縁の眼鏡、ぶかぶかの商人服を身につけているという何ともちぐはぐな格好が印象的だ。
年の頃はアリアと同じくらいだろう。……胸のボリュームは全く違うようだが。
とはいえ、珍妙な格好をしているだけの女の子なら、スカロンもさして気にも留めなかったろう。
彼が気を惹かれたのは、おおよそ半刻前、つまり、香辛料屋へと向かう途中にも、同じポーズの、同じ女の子を、これまた同じ場所で見かけたからだ。
はて、旅商人の娘が親とはぐれてしまったのだろうか、とスカロンは推した。
王都だけあって、トリスタニアの街は広い上に入り組んでおり、地元民でもなければ大人でも迷う事もしばしば。子供であれば尚更だろう。
目立つ噴水広場でじっとしている事からも、迷子である可能性は高い。
「ねえ、君、どうしたんだい? 迷子かね?」
ここで普通の都市民なら、「ふ~ん、大変だね」で通り過ぎてしまうだろうが、そこは人の好さには定評のあるスカロン。
あまり時間がないのにも関わらず、つかつかと少女へと近づいて行って、ごくごく優しげな口調で語りかけた。
「あによ、うるさいわね」
しかし女の子は虫を払うような動作で冷たくスカロンをあしらう。
「いっ、いや、僕は怪しい者じゃないよ?」
いたいけな少女に近寄る巨漢の男。たしかに不審か? と思ったスカロンが焦ったように言葉を補足する。
怪しい者ではないと名乗ると余計に怪しく見えるのはご愛敬だろう。
「アンタが怪しいか怪しくないかはどうでもいいの。私に構わないで頂戴」
「しかし……。そろそろ日が暮れてしまうし、いつまでもこんな所に一人でいると危ないよ? それに君、地元の子じゃないだろう? 親御さんはどうしたの?」
「……知らない」
「え?」
「あ、ん、た、に関係ないでしょっ! 何なのよ、このへい──」
何が気に入らないのか、突然に癇癪を起こす女の子。
しかし、そのヒステリーは突然のアクシデントにより中断された。
ぐぅうぅぅ。
乙女にはあるまじき、あの音である。
「……うぅっ!」
女の子は恥ずかしそうに顔を紅潮させて下腹を抑える。
そう、腹の虫が鳴ってしまったのである。
「はは、お腹が空いていたのかい?」
「ふんっ!」
女の子は顔を紅くしたまま、誤魔化すようにそっぽを向いて鼻を鳴らす。
(どうにも気位の高い子だな。親の事を持ちだしたら怒ったって事は……これは迷子じゃないか。これだけ他人を突っぱねるという事は、物乞いというわけでもないし。そもそも、乞食にしては身が綺麗すぎる……)
迷子ならば衛士の詰め所へ連れて行く。乞食ならば1スゥ銀貨の一枚でも恵んでやるか。
しかし少女はそのどちらでもなさそうだな、とスカロンは思った。
「そうか、お腹が減っているなら、どう? ウチの店に来てみない? サービスするよ」
「……お店?」
「おっと、これは失礼。僕はチクトンネ街で酒場をやっているスカロン。あっ、酒場といっても、料理の腕には自信があるんだよ」
何か事情がありそうな女の子を、このまま放っておくのも後味が良くない。
かといって通り一辺倒に官憲に引き渡すというのも忍びない気がした。
「……お金」
「ん?」
「お金がないわ」
ぐっ、と歯を噛んで屈辱の表情で呟く女の子。
「大丈夫、お金はとらないよ!」
「なっ、この私に施しをしようとでもいうの?!」
「えっ」
「馬鹿にしないでっ! こう見えても私はこぅ……っ」
女の子は、はっ、としたように口に手を当てて言葉を止める。
「こぅ……?」
「こ、こっ、香辛料がたっぷりと使われた料理が好きなのよ……」
「はっはは、それなら丁度良かった。今、胡椒とシナモンを仕入れてきた所だからね。ご期待に沿えるんじゃないかな」
スカロンは似合わない手提げ袋をひらひらとさせて、にこりと笑いかける。
「う、うぅ~」
気難しそうな彼女も、やはり空腹には勝てぬのか、それともスカロンの根気に負けたのか、恨めしそうな唸り声をあげながらも立ち上がる。
「よし、じゃあ行こうか──っ? うっ、まずい、もうこんな時間か」
ブルドンネの広場に面した、トリスタニア大聖堂の鐘の音。
それは多くの人々にとっては終業を報せる音であるが、酒場を営む者にとっては始業の合図である。
「ごめん、少し急ぐよ! 付いてきて!」
「え、ちょっと……! もう、仕方ないわね!」
仕事終わりの人々でがやがやと混雑し始めたブルドンネ街。
大きな男と小さな女の子は、少し距離を空けたまま、その人混みを掻きわけるようにして、裏通りへと消えていった。
*
「……ごちそうさま。おっ、思ったよりは、美味しかったわよ。褒めてあげるわっ!」
終業後のゴールデンタイムだというのに、客もまばらな妖精亭の店内。
何だかんだとといいつつも、結局出された料理をペロリと平らげた女の子は、ぷい、と顔を背けて捻ねた礼を言う。
「それはどうもありがとうねぇ。……あなた。ちょっといい?」
ドリスはにこやかにそれに応じつつ、スカロンの脇腹を肘で突つき、女の子から見えない位置へと誘導する。
「なんだい、ドリス」
「『なんだい』じゃないでしょ。お金も持ってない子供なんて連れてきてどうするの!」
暢気な様子のスカロンに、ドリスは顔を顰めて耳打ちする。
その口調にはいつもの緩さは全くなく、遠慮もなかった。どうやらこちらが彼女の本性らしい。
「いいじゃないか、これも何かの縁だよ」
「もう、ほんとに人が好いというか、馬鹿というか。そんな余裕がどこにあるっていうの?」
ドリスは空席の目立つ店内を顎で示して憤って見せるが、スカロンは困った顔をするばかりだ。
妖精さん(以下、ホステス)の数もドリスを入れてたったの3人。店舗は立派なのに、人の数がそれに見合っていないために余計寂しく感じる。
客が少ないという事は儲けが少ないという事で。見ず知らずの人間にタダ飯を食わせている場合ではないのだ。
「はぁ……そういう所を好いて一緒になったのだから、文句はこれくらいにしておくけど」
「はは、そうしてくれると助かるよ」
「真面目に経営を考え直さなきゃ駄目ね、これは」
ドリスはなんとも頼りない夫を冷ややかな目で見つつ、実は冗談半分でしかなかったカッフェの経営について、少し本気で考えてみようか、と思った。
「ぅん? どうかしたの?」
やや険悪な雰囲気を漂わせる夫婦に気付き、食後の紅茶を流麗かつ上品な手付きで口へと運んでいた女の子が首を傾げる。
まるで上流階級の教育を受けたかのような茶の作法。そういえば、食事の仕方も実にサマになっていたなぁ、とスカロンは思い出した。
「いや、料理の味の事でね。お客さんからクレームが」
「ウソ? ウチのシェフよりも美味しかったのに?!」
「シェフ……?」
「あっ」
女の子はまたもはっ、としたように口を押さえる。どうにも彼女は、利発そうな見かけに反してうっかり者らしい。
「まさか君──」
「おい、店主! 来てやったぞ!」
スカロンがとある確信を持って核心を突こうとした時、入り口の方から何とも高圧的な声が響いた。
数少ない店の常連達は、嫌悪感を露わにした顔をそちらに向けて、「またか」と嘆息を漏らす。
「これはこれは、徴税官殿。お待ちしておりました」
しかしスカロンは嫌な顔一つせずに、揉み手でマントを羽織った小太りの中年男に走り寄る。
中年男の後ろには、物々しい武装に身を包んだ衛士が二人、ぐずぐずと厭らしい笑みを讃えている。
「オラ、貴様ら! この店は今から徴税官殿の貸切だぞ。さっさと出て行かんか!」
衛士の一人が店内の客を恫喝すると、客達は不満気な顔を見せつつも、仕方なしに立ち上がる。
スカロンとドリスは、蜘蛛の子のように退散する客達に向けて、申し訳なさそうに、深々と頭を下げた。
しかし、客達は哀れなモノを見るような視線を送るばかりで、誰も彼らに声を掛けたりはしない。誰だって、面倒事に巻き込まれるのは御免なのである。
「ん~、それで、どうだ、店主。少しは儲かるようになったかね?」
いつの間にか、店で最も良い席である一番テーブルにどっか、と腰掛けた徴税官がパイプを吹かしながら居丈高に尋ねる。
店内にはもう、他の客の姿はない。
「いえ、その、恥ずかしながら、ご覧のありさまでして……」
「ふん、そうか。それではもっと精進せねばな。……ほれ、ドリス、ほさっとしておらんで、さっさとこちらへ来んか」
「は、はぁい! 只今!」
スカロンの名は覚えておらずとも、ドリスの名は覚えているらしい。
指名されたドリスは、素早く最高級のタルブ・ワインを棚から選び出し、冷えたグラスを3客、指の間にするりと入れて、徴税官の下へと駆け付ける。
「まったく……客を待たせるとはどういう了見だね? こういう所を改善しなければいけないのだよ、店主君」
「なるほど、参考にさせていただきます。いやはや、徴税官殿のご慧眼にはかないませぬな」
徴税官はまるで自分がオーナーかのように尊大に振舞い、あまつさえ隣に座ったドリスの肩をこれみよがしに抱いてみせる。
それでも、スカロンは依然、朗らかな態度でそれに応える。しかし、傍から見ている者にとってはそれが歯がゆい。
「何よあのデブ、ほんっと、サイテー……」
「マジ、オーナーも、ドリスさんもよく耐えてるよね~。でも、私はもう限界かも。夜のお仕事の割にぜんっぜんお金稼げないもん」
そんな様子を遠巻きに眺めて愚痴をいい合う、ドリス以外ではたった二人だけのホステス達。
彼女達は徴税官達がやってくると同時に、隠れるようにして厨房の影へと逃げ込んでいたのだ。
「ねぇ、貴方達」
「ヒッ?! も、申し訳ありません?!」
予期せぬ第三者から声を掛けられ、冷や水を浴びせられたかのように飛び跳ねるホステス達。
マントを羽織った徴税官は当然に貴族。ソレを侮辱するような発言をしていたのだから、聞かれていたらまずいに決まっている。
「なっ、何っ?!」
しかし、もっと驚いたのは声を掛けた方だったらしい。ホステス達のリアクションの大きさに、声の主はもんどりうって後ろにすっ転んでいた。
「なんだ……オーナーが連れてきた子かぁ。びっくりさせないでよ、もう」
小さな来訪者の姿を確認し、ホステス達はほっ、と胸を撫で下ろす。
「びっくりしたのはこっちよ!」
「そりゃ、冷や汗も掻くわよ。あんな言葉を聞かれてたら、私達タダじゃ済まないもん」
「陰口を叩く方が悪いんじゃない。お説教くらいされて当然でしょ?」
女の子は冷ややかに言うが、ホステス達はそれを鼻で笑う。
「はい? 貴族を侮辱してそんなもので済むわけないでしょう。下手したらその場で殺されるわよ」
「えっ、でも公の場で侮辱したワケじゃないでしょ? 貴族たる者がその程度で、そんなムゴいことをするわけ」
「ふふん、お嬢ちゃんって世間知らずなのねぇ」
「な、なんですって、う」
ホステスの一人が、癇癪玉が爆発する前に、「シッ」と人差し指で女の子の唇に蓋をする。
「あんまり大きな声は出さないでね。アイツらがこっちに来たら面倒でしょ? ……ま、殺されるってのは最悪の場合、だけどね。でも、そう低い可能性じゃないわよ? ちょっと前にも、とある貴族の悪口をあちこちで吹聴していたオジサンが無礼打ちにされたもの。ま、あそこまで大々的にやっちゃったら、自業自得ってやつだけど」
「そ、そうなんだ……」
何故か意気を消沈させる女の子に、ホステス達は首を捻る。
「で、何? 声を掛けてきたってことは、私達に聞きたい事があったんでしょ?」
「そっ、そうだったわ! あの、徴税官って何なのよ? いきなりずかずかと踏み込んできて、我が物顔で振舞って!」
「徴税官は徴税官よ。税金を徴収しに来る役人の事」
「そんなことくらい知っているわよ……。私が言っているのはそういう事じゃなくて、どうして、あの徴税官があんな態度をとるのって事。スカロン達が何かまずい事をしたの?」
「していないわよ。ただ、どうにも目を付けられちゃったみたいね。ほら、オーナーってゲルマニアで修行していたから」
「え、そうなの? あ、いや、私もゲルマニアは好きじゃないけど。でも、そんな私情は理由にならないでしょう。他に何か理由はないの?」
やはり納得いかないのか、女の子は顎を撫ぜて難しい顔をする。
「ま、あの徴税官個人ってより、アイツの金蔓であるロッカンダ・リストランテ組合の差し金ってセンもあるけどね。同業者として、ゲルマニア帰りの新鋭を叩いておきたい、ってのはあると思うし……」
「う……え~と……それって、ロマリア語?」
ホステスをやっているだけに、都市内の権力図には詳しいのだろう。
しかし、それを子供に理解せよ、というのは酷な話。事実、女の子はもはや訳が分からない、という顔をしてだまりこんでしまう。
「あ、ごめんごめん。……とにかく、オーナー達に落ち度はないわよ。それなのに、今じゃ毎週のように現れてああいう嫌がらせをしていくのよ、アイツ」
「な、何よそれ?! そんな弱い者虐めをする貴族なんておかしいわ! どうしてスカロン達は黙っているのよ?」
「ま、一通りイヤミを言わせて、ドリスさんをからかわせたら、最後はオーナーがお金を握らせて帰って頂くのが通例だから。放っておけばこちらに害はないし」
「自分だけよければいいって言うの!」
「あなた、見た目以上にガキんちょねぇ。いくら理不尽でも、貴族には逆らえないでしょ? オーナー達だって、無駄に波風を大きくしないためにああして耐えているんだから」
ホステス達は口を揃えて呆れたように言う。しかし女の子は引かなかった。
「じゃ、じゃあ、役人が不正をしているのだから、王宮に報告すれば──」
「王宮が一平民の声なんて聞くわけがないでしょう? いくらヘンリー殿下が立派な方だと言われていても、何万もの声は聞けないもの。それに、あの徴税官はただ傲慢がすぎるだけで、完全な不正だと言い切るのは難しいわ」
「え、不当にお金をせしめているんでしょ? それに、お店の客を勝手に追い出したりして、明らさまにひどい事をしているじゃない」
「あちらからお金を出せ、とは一言もいってないのよ。とはいえ、お金を出さなきゃいつまでも居座るつもりでしょうけど。お客を追い出すのも、ほとほと営業の邪魔ではあるけれど、それを取り締まるようなはっきりとした法律はないっていうし……お手上げよ」
「……それじゃ、スカロン達はどうするの? このままあの徴税官にいいようにされたままってこと? そんなのって!」
「嵐が通り過ぎるのを待つだけ、ね。ま、アイツのせいでかなり客足が少なくなっているから……下手したらその前に廃業かもしれないけど」
ホステスはそこで、ふぅ、と疲れたように息を漏らす。彼女達とて、この店が潰れてもいいなどと思っているわけではない。
しかし、ただの町娘にすぎない彼女達に為す術はなく、それはスカロン達も一緒であった。
昼間、スカロンが、前オーナーの経営がいまいちだったのが売上低迷の原因かも、と言っていたが、それは要因としてそれほど大きくはなく、実はこちらの問題の方が深刻だった。
しかし、貴族に、しかも徴税官に目を付けられている、なんてことをアリア達に知らせてしまえば、彼女達にも迷惑がかかるかもしれない、とスカロンは思った。
何せ、ゲルマニアとトリステインでは貴族観が全く違う。
彼女達がゲルマニアと同じ感覚でこういった汚職貴族と接する事は非常に危険なのである。下手な正義感でも持たれて、貴族と敵対させてしまっては洒落にならない。
「……許せない」
「はっ?」
「誇り高きトリステイン貴族の名を与えられた者が、あまつさえ王陛下から官職を頂いた者が──絶対に許せないっ!」
女の子は先とは違い、羞恥ではなく、憤怒により顔を真っ赤にし、肩を怒らせてずんずん、とフロアの方へと戻っていく。
あぁ、なんという正義感の強い子なのだろう。しかし、それは無謀であり蛮勇という他ない。
「ちょ、ちょっと待ちなさい、何処に行く気……えっ、あっ、あっ……?」
ホステス達はすぐさま女の子を止めようとしたが、いつの間にか彼女が手にしていたあるモノに気押されて、踏みとどまってしまう。
「徴税官殿、今日はそろそろ……」
「ん~、まだよいではないか。飲み足りぬぞ、私は。ふわっはっはっは」
女の子がフロアへ戻ると、丁度スカロンが現金の入っているのであろう、小さなずた袋を徴税官に渡しているところだった。
「そこまでよっ! この悪徳徴税官っ! 同じ貴族として、あんたの不正は許さないっ!」
自称貴族と名乗った女の子は、徴税官に向けて、手にしたあるモノを突きつけながら声高に叫んだ。
気分は幼いころに寝物語で聞いた、只々信ずる正義を執行する女騎士。
「同じ貴族として、だって……何だこのガキ、ふざけた事をっ……うっ?!」
徴税官にコバンザメのように付き従っていた衛士の一人が凄んで見せるが、女の子の構える──まるで指揮棒のような、ひ弱な棒きれを見た途端に尻込む。
そう、彼女が手にしていたのは、タクト型の杖。メイジである事を示す証。
彼女はまだ子供でしかない。しかし、メイジというだけで、ただの衛士風情には、永劫敵わぬ相手なのである。
「何やってるの! 早く謝りなさい! 貴女!」
「え? どうして私が謝らなくちゃいけないのよ? 悪いのはコイツじゃない」
顔を真っ青にしたドリスが半ば命令のような口調で言うが、女の子はきょとん、とした顔で、徴税官を杖で指す。
「やれやれ、困ったお嬢さんだ。人聞きの悪い事を言わないでくれたまえ」
「惚けても無駄よ! 事情は全て、あそこにいる平民から……って、あれ?」
振り返るとホステス達の姿は既に厨房にはなかった。
メイジ同士の諍いは周りにも危険が及ぶ。恐れをなした彼女達は、とっくに、裏口から逃げだしていた。
「と、とにかく。真面目に働いている平民の生活を踏みにじろうなんて、恥を知りなさいっ、恥をっ!」
「まったく、口の悪い。一体、どこの家の者だ、お前は? まったく躾が出来ておらんな……」
「家は……関係ないでしょ。家は」
「家が関係ない……? お前、本当に貴族か? 騙りではないのか?」
「失礼な! 私を見てわからないの? だとしたら貴方の目は節穴ね」
自信満々に無い胸を張る女の子だが、沢山の人間を観察する商売を営むスカロンですら、彼女が貴族であるという確信はなかったのだから、見た目でそれを判断せよというのは些か無理がある。
「違うというなら名乗られよ。家名を名乗れぬニセモノでないのなら」
「上等よ! 私は、エレっ…………じゃないわ。そうね……マイヤール、うん。私の名はエレノア・ド・マイヤール?」
徴税官のあからさまな挑発に、威勢よく応えようとした女の子だが、どうしてかどんどんと口調が疑問形へと変わっていく。
「どうしてそこで首を傾げる……? そもそもマイヤール家、など聞いた事もないな」
「そっ、そんなのはあんたの不勉強よ!」
「ふん、その家名が本当だとしても、どうせ名もなき平貴族だろう? そんな弱小家の書生“ごとき”が、王都徴税官である私を侮辱するのか?」
「木っ端役人“ごとき”がご大層な口を利くわね。それに、私はあんたを侮辱したつもりはないわ。事実を述べたまでよ」
家の力を持ちだして脅迫まがいの恫喝をする徴税官。
しかし、エレノアと名乗る女の子は、全く動じず、自分の意見を曲げる事はしない。
どうしようもない頑固者で、捻くれ者。はて、誰かに似ているような。
、
「本当に……教育がなっていないな。親の顔がみてみたいものよ」
「腐った性根を叩き直されるべきなのはあんた、よっ!」
のろのろと杖を抜く徴税官に、エレノアは安物の手袋を投げつけた。
それは“決闘”の合図。“決闘”を申し込まれてしまえば、相手の爵位も、役職も、性別も、年齢にも関係なく、それに応じなければ、貴族にとっては最大級の恥となる。
「この意味がわかっているのか? 子供とはいえ、もう冗談ではすまないぞ」
「私は最初から最後まで本気よ。あんたみたいな貴族を私は認めない」
「子供にここまでコケにされるとは。いいだろう、表に出たまえ。私が教育をしなおしてやろう」
徴税官は憮然としたような口調で席を立つ。
そして、くるりとエレノアに背を向けた時、彼の顔には愉悦の色が浮かんでいた。
彼とて、もとより冗談で済ます気などなかったのである。
だから貴族が最も屈辱に思うであろう、家や親を持ちだしてまで、彼女を馬鹿にしてみせたのだ。
「上等……!」
「逃げるなら今のうちだぞ? 去る者は追わんよ、私は」
「ふざけないでっ! 敵に後ろを見せない者を貴族と言うのよっ!」
思考を誘導された事に気付かぬのか、それとも敢えて挑発に乗っているのか、エレノアはただ吠えていた。
何とも愚かで、不器用で、穴だらけで、真っ直ぐな意気地を。しかし、それが必ずしも人のためになるとは限らない。
「どっ、どうしようか。なんとか止めないと」
「貴族同士の決闘、という事になると、私達じゃ止めるのは無理ね。ここは官憲を呼ぶしか」
「衛士なら徴税官殿の後ろに隠れているけど」
「ほんと、どうしましょうね……」
あまりの急展開に、すっかり置いてけぼりを喰らってしまったスカロン夫妻。
そんな二人に、「一食の恩は返すわ」と不敵に笑ってみせるエレノア。
夫妻は揃って、これ以上のトラブルは勘弁してくれ、と頭を抱えるのだった。
つづけ