フーゴは激怒した。
必ず、あの大男に追いつかねばならぬ、と決意した。
(くそっ……馬鹿みてぇに速ぇ)
フーゴは、はっ、はっ、と息を切らしながらも、まるで黒い風のように走り去る、アリアを抱えた大男に食い下がっていた。
人気の無い方へ、無い方へと、ケルンの街を走り抜けて行く二人を見咎める者はいない。
足は鉛を巻きつけたかのように重い。
心の臓がばっく、ばっく、と限界を告げる。
頭がクラクラして、どこかに吹っ飛んでしまいそうだ。
それでもなお、フーゴは走り続けた。
そこまでして、何故。
その理由は彼自身もあまりよく分かってはいない。
ただ、彼の深い所で、彼女を助けねば、という衝動が湧き起こっていた。
(全く、世話の焼ける子分だぜ……)
彼はその理由を職場の先輩、兄貴分として、彼女を助けねばならないのだ、と自分の中で納得させた。
(ぐ、こんな事ならもう少し真面目に“練習”しておくんだった……)
ぼぅっとしてきた頭でそんな後悔をするが、すぐに頭を切り替える。
(この先は袋小路じゃねーか。あの野郎、どういうつもりだ……?ま、いい。それなら)
ラストスパートとばかりに、軋む体に鞭打って大男を追い詰めるフーゴ。
手にはアリアが馬鹿にした“ハタキ”がしっかりと握られていた。
「…………」
「……はぁっ、はぁっ追い詰めた、ぞ。変態野郎」
袋小路の石壁を前に、はた、と立ち止まった大男に、ハタキを突き付けてそう宣言するフーゴ。
あたりには大小様々なゴミが散乱している。どうやらここは、ゴミ捨て場にもなっているようだ。
「追い詰めた……?ぷ、くく、俺は煩い小虫をここで始末しようと思っただけさぁ」
大男は両手を広げて余裕の表情を見せる。
それはそうだ。フーゴと大男では体格が違いすぎる。取っ組み合いになればやられるのはどちらか明白だ。
「むぅぐ、むっ、むぅき(フーゴ、一人じゃ無理だって!)」
アリアは塞がれたままの口でそう叫ぶ。
「はっ、何言ってるかわかんねぇよ、馬鹿」
馬鹿、と言いながらも、アリアを安心させようと、歯を見せて笑うフーゴ。
「むげふ、むぐ!(逃げろ、馬鹿!)」
それを見てときめく訳も無いアリアは、さっさと逃げろと、言葉にならない言葉で返す。
「ぷ、くく、そんな“ハタキ”を構えて正義の味方ごっこかよ、小僧。餓鬼はさっさとお家に帰らねえと怪我するぜ?」
「やれるもんならやってみろよ、木偶の棒」
「は、それじゃお言葉に甘え、てっ!」
ひゅん、と一閃。
言い切るや否や、一瞬でフーゴとの間合いを詰めた大男は、鋭い風切り音を立てる廻し蹴りを放った。
アリアをその腕に抱えたまま。
凄まじい、身体能力。
「がッ……?」
繰り出された蹴りの初速は異常。非情。過剰。
到底、人間の反応速度ではかわせるものではない。
案の定、フーゴはそれに反応できず、後ろに大きく吹き飛ばされた。
「おいおい、もうオネムかよ」
「む、むぅぐ……」
あまりの呆気なさに拍子抜けしたかのように呟く大男。
倒れ込んだフーゴにもう興味はないのか、大男は袋小路から立ち去ろうとする。
「……す……る……でる」
「あぁ?まだ起きてたのか……」
フーゴはまだ意識を失ったわけではなかった。
大男は、何事かを呟くフーゴにぴくりと反応する。
「面倒臭ぇ……余計な騒ぎは起こすな、つってたが餓鬼の一匹くらい、いいやな」
厄介そうに首をコキコキと鳴らしながら、大男は未だに倒れているフーゴにトドメを刺そうと、獲物を付け狙う獣のように、じっくりとその間合いを詰めて行く。
アリアが必死に身動ぎするが、がっちりと彼女の身体を締めつける太い腕の拘束を解くことは出来ない。
「……仕事はきちんとこなす。子分も守る。“両方”やんなくちゃあならないってのが“兄貴分”のツライところだよな……」
惨めに倒れたまま、大男にハタキを向け、どこかで聞いたような台詞を吐き出すフーゴ。
台詞は格好いいが、地に這いつくばった態勢ではあまり格好がついていない。
「なぁに、言ってやがる。ビビりすぎて頭がイカれちまったのかぁ?……ぅん?…………
な、何っ?」
馬鹿にしたような態度でニヤけていた大男の表情が凍りついた。
突如起こった、予期せぬ現象によって。
「むぅ?!」
大男に掴まっているアリアすら、その事を忘れ、ただ目の前で起こった信じられない事に目を剥いていた。
一体何が?
「……人型創造《クリエイト・ゴーレム》」
フーゴがのろのろと立ち上がりながらそう呟くと、目の前の石畳がぼこぼことせり上がり、人の形を成していく。
造りは粗く、材料も所詮は石。大きさも精々大男と同じ程度で、数もたった一体。
しかし、それは紛れも無く土の系統魔法、《クリエイト・ゴーレム》であった。
「め、メイジだとぉ?」
「ゴーレム、ちんちくりんを助け出せ!」
フーゴが“ハタキ”を振ってゴーレムにそう命じると、無骨な造りのゴーレムは、それに見合わないスピードで大男へと向かって行く。
「ぐっ」
ゴーレムは単純だが、重い打撃を両の腕から、次々と繰り出す。
それに対して、大男は防戦一方。
時たま、蹴りなどで応戦するも、硬いゴーレムの身体に傷を付けることすら出来ない。
大男は、徐々に壁際に押し込まれ、苦悶の表情を見せ出した。
「ちっ、面倒臭ぇ!面倒臭ぇえっ!」
「ひゃっ」
異常な身体能力を誇る大男とて、さすがにゴーレム相手では荷物を両腕に抱えたままの戦闘はまずい、と判断したのか、大男はアリアを宙に放り出した。
「危ねっ!」
「おわっ」
フーゴはそれを見てすかさず、宙に舞うアリアを目がけてダイビングキャッチ。
「……っと、無事か?!」
「お、おお。大丈夫。ありがとう」
所謂、お姫様抱っこという、何とも気恥ずかしい格好に、やや顔を赤らめるアリアの無事を確認すると、ほっ、と溜息を漏らすフーゴだが、すぐに表情を引き締めた。
「おし、走るぞ!」
「わ、わかった!」
大男の相手をゴーレムに任せたまま、フーゴはアリアの手を引いて、再び走り出す。
「く!待て!待ちやがれぇ!」
未だにゴーレムと戦闘を続けている大男の罵声が後ろから聞こえるが、二人がそれに振り向くことはなかった。
「あ、アンタ、メイジだったの?!」
「ンな事は後でいい!喋ってる暇があったら走れ!」
「だって、メイジ、なら、飛行《フライ》?で逃げるとか……」
「……俺は《練金》と、《クリエイト・ゴーレム》しか、使え、ねーんだよ!」
「えぇ?!」
息を切らしながらも、疑問をぶつけるアリアとそれに答えるフーゴ。
フーゴが告白した通り、彼が使えるのはその二つのスペルのみであった。
コモン・マジックを飛ばして《クリエイト・ゴーレム》とは、何ともバランスの悪いメイジだ。
しかしその未熟なメイジの勇気が、少女の危機を救ったのだ、と、締め括りたい所なのだが……。
いつの間にか現れた、黒いローブですっぽりと全身を覆った男が、袋小路の出口に陣取り、逃げ道を塞いでいた。
「ちィ、新手かよ」
舌うちをしつつ、男に正対して杖を構えるフーゴ。
「……全く、こんな小娘一人攫ってくる事も満足に出来ないとは。情けないですねぇ」
やれやれ、といった調子で首を横に振るローブの男。
「おい、ちんちくりん。お前何か恨みでも買ってんのか」
「……残念ながら心当たりは、無いわ」
フーゴは訝しげにそう問うが、少し逡巡するも何も思い当たらないアリア。
「くく、これは勇ましい。まるでお姫様を守る騎士殿ですね」
ローブの男は、アリアを庇うように構えるフーゴを嘲るように言う。
「けっ、こんなちんちくりんを捕まえて、何が“お姫様”だ。カンに触るクソ野郎だぜ」
「……同感。“騎士殿”なんて、ジョークにしてもタチが悪すぎるわ」
ローブの男に対して、若干の余裕を見せてダメ出しをするフーゴとアリア。
と言うのも、この男は、先程の大男よりも大分線が細く、組みしやすそうに見えたからだ。
「これは失礼、お気に召しませんでしたか」
「えぇ、全然っ!」
アリアはいつの間にか手にしていた、道端にゴミとして捨てられていた棒切れを持って男に突進する。
「おらぁあっ!」
フーゴもそれに合わせて、全力の体当たりを試みる。
系統魔法の同時行使は不可能。
ならば、大男の方に回しているゴーレムを解除するよりも、こちらの男は二人掛かりの肉弾戦で倒してしまった方が得策だ、と二人の考えは一致していた。
「やれやれ、これは勇ましいというより、無謀と言うべきか……」
しかし、柳に風、といった風にふわりふわりと、その波状攻撃を悉く躱す男。
まるで宙を舞う紙のような、重さを感じさせない流麗さ。
「くそっ、当たらね、えっ」
「こいつっ!」
ぶんぶんと必死に攻撃を振り回し続ける二人だが、ずっと走り続けていた疲労からか、目に見えてその動きが鈍ってきていた。
「お二方とも大分お疲れのご様子。そろそろお開きにしましょうか」
男はローブからチラリと覗く口元を三日月のように歪めると、ぶつり、と何かを呟いた。
「何をぶつぶつ、と……?」
男が呟きを終えると、ふわり、とどこからともなく、抗う事のできない眠気を誘う風がフーゴとアリアを包んでいく。
その風に当てられた二人の動きは、さらに緩慢になり、やがてその動きは停止してしまう。
「な……杖なしで……ま、ほう……?」
「なるほど……そ、ういう事、ね……」
あり得ない、という表情のフーゴと、妙に納得したような表情を見せるアリアは、眠気に耐えきれずその場にへたり込む。
「それでは、良い夢を」
男はよく訓練された執事のように、こなれた様子で胸に手を当てて、深々と頭を下げる。
その芝居がかった気障な仕草を確認したところで、二人の意識は夢の中に飛んだ。
*
夕刻。
辺りの景色が朱から、黒に変わる頃。
ツェルプストー商会、新年恒例の初競りも大詰めを迎えていた。
この日のために各国から取り寄せられた、選りすぐりの商品達が次々と高値で落札されていく。
司会者は、出だしと変わらぬハイテンションで、買い手を煽る。
入札者席では、狙い通りの落札が出来て雄叫びをあげる者、胸を撫でおろす者、価格が高騰しすぎて頭を抱えて悩む者、全く落札が出来ずに落ち込む者など、十人十色の様相を見せていた。
目の玉の飛び出るような額の取引に、アリア達と同じく、荷物運びのために駆り出された見習い達からは溜息が漏れる。
しかしここに別の理由で溜息を漏らす見習いが一人。
「馬鹿タレ!お前が付いていながら何をやってんだ!」
「す、すいません!」
怒り心頭の親方、カシミールと、肩をがっくりと落とした見習い頭、エンリコ。
カシミールは、つい先程、本日の競りで予定していた分の予算を使い切り、入札を終わらせていた。
そこで、さぁ、帰ろうという段になってから、アリアとフーゴがおらず、そのせいで、荷が半分も纏まっていないという事に気付かされたのだ。
彼が怒るのも当然である。
「まぁ、お前に言ってもしょうがねェんだけどよ……。そう言う事はもっと早く言え。帰る時になってが人手がいません、荷が纏まっていません、じゃどうしようもねェだろうが」
「以後は気を付けます……」
カシミールは頭痛がするように額を抑えながら、買付られた大量の荷を親指で指し示す。
「しっかし、あいつら、何を考えてやがるんだ?」
「でも、あの2人が仕事を放ってどこかに行っちゃうなんておかしいですよ。2人とも仕事に関しては真面目ですし」
「会場の中は全部探したのか?」
「はい、くまなく。他の商店の見習い達にも聞いてみたんですが、それらしい子供は見ていないと」
「つぅ事は外か。仕事中に仲良く連れ合いかよ。餓鬼のくせしてマセてやがるな、あいつら……」
苛々とした様子で吐き捨てるカシミール。
エンリコはそれに異議を唱える。
「いやいやいや、そりゃないでしょう。あの2人、相当仲悪いですからね」
「お前って、顔に似合わず鈍いなぁ。そういうの……」
「え、そういうのって、どういう事です?」
「……いや、何でもねェよ。単なる年寄りの邪推、いや愚痴だ」
とぼけた表情をするエンリコに、カシミールは、はぁ、と溜息を漏らして、その話題を打ち切った。
人当たりも良く、容姿も端麗なエンリコに女の影が無いのは、この鈍重さのせいやも知れぬ。
「それにしても、この荷物、どうしましょう……」
「……ひとっ走り商店に行ってギーナとゴーロを呼んで来な。さすがにお前一人じゃキツイだろ。どうせ今日は誰も来る予定はねェし、店じまいにしとけ」
「それしかないですかね。ふぅ、じゃ行ってきますよ……んっ?」
エンリコがふと、会場の出入り口の方を見ると、商店で留守番をしているはずの双子のうち、一人だけがこちらに向かって来るのが見えた。
「ありゃ、あっちから来たか。帰りが遅いから様子を見に来たのか?何にせよ、呼ぶ手間が省けたじゃねェか」
「いえ、何か様子が変ですよ。すごく慌てているみたいですし」
「そういうのは敏感だな、お前……。俺にはあいつらの表情の動きがわからんぞ」
「それだけじゃないですよ。彼らが“単独”で行動するなんておかしくないですか?」
「む……確かにそうだな。店の方で何かあったのか?」
双子が別々に行動することはまずないのだ。
と言う事は、何か変事があったのだろうか、と勘ぐるのが普通である。
「……親方、大変」
駆けつけた双子の片割れが、カシミールの下にやってくるや否や、開口一番、そう報告した。
「えぇと、お前は…………ふむ、ギーナの方か。ゴーロはどうした?」
「……兄貴は、アリアの姉貴の所」
「あ?どういう事だ」
「……これが店の正門に挟んであった。とにかく読んで」
カシミールはギーナが差しだした紙をひったくるようにして受け取り、目を通す。
途端にだらけ気味だったカシミールの顔の筋肉が引き締まり、眉間に深い皺が刻まれた。
「……これは、まずいな」
「……すごく」
カシミールの焦ったような呟きに、ギーナはコクリと頷く。
「何が、あったんです?」
エンリコは、事情はわからないが、ぴりぴりとした空気を感じ取り、若干緊張した面持ちでそう尋ねた。
「アリアが、誘拐されたらしい。多分フーゴの奴も一緒だ」
「誘拐って、あの、人を攫う……?」
「それしかねェだろうが!」
「ですよね……って!シャレになりませんよ、それ!」
「だから、マズイ、っていってんだよ!くそっ、何てこった!折角モノに成って来た所だってのに……。おい、ギーナっ!文面はこれだけか?」
カシミールは誘拐犯からの書状をぺらぺらと揺らして催促するようにギーナに問う。
それはアリアを預かっているという旨と、ロッテに知らせろ、とだけ書いた書状だったのだ。
さしたる要求もなく、脅迫もない。何処に来い、とも書いていない。
ロッテを名指ししている事から、彼女に関係のある人間の仕業という事はわかるが、これだけでは、事件を解決する糸口にすらならない。
「……それだけ。他には何も」
「まさか悪戯じゃねェだろうな。この文面じゃ、何をすればいいのかわからねェし、役人に持って行っても追い返されるのがオチだぞ」
頭をがりがりと掻いて、悪戯であってくれ、と願うように言うカシミール。
そもそも、平民の子供がいなくなった所で役人が動くとも思えないのに、悪戯とも取れるようなこの文面では、更に望みが薄い。
役人達が本腰を入れる貴族の子女の誘拐事件では、被害者の命が助かることもしばしばあるが、平民が誘拐された場合は、その限りではなく、ほぼ死体になって発見される、もしくはそのまま行方不明になるのが常なのだ。
「……2人とも店には帰っていない。寮にもいなかった」
「あいつらがいなくなったのは、朝、か。流石にこの時間まで街で遊び回っているって可能性は低いか」
「でしょうね。特にアリアちゃんは倹約家ですし。街で遊んでいるってことはないと思います」
エンリコはアリアの倹約家(ケチ)ぶりを指摘して、事の信憑性を高める。
「とすると、真面目に誘拐のセンが強いな……。しかし、そうなると、フーゴが一緒っていうのはある意味運が良かったかもしれねェ。あいつの素性を明かせば役人も……?」
「お、親方、後ろ」
「あ?」
ぶつぶつと呟くカシミールに、エンリコが強張った表情で後ろを指さす。
「よっ、カシミール。役人が何だ、とか言ってたが、どうかしたのか?」
「おっと……これは、ツェルプストー辺境伯。実は少し困った事になっておりまして……」
声を掛けてきたのは、ツェルプストー商会代表、クリスティアン・アウグストその人であった。
後ろには護衛なのか、下級貴族風の男を従えている。
南の大商会、フッガー商会のケルン支部の代表であるカシミールとは、大きな身分の差こそあれど顔見知りであったのだ。
カシミールが最敬礼で頭を下げると、エンリコとギーナもそれに倣った。
「はっはは、まさか競り落とした品をもう盗まれたのか?しょうがない奴だな」
おどけて言うクリスティアンはおよそ厳格などという言葉とは程遠い、人好きのしそうな青年だ。
「親方、辺境伯に相談して頂いた方が役人に掛け合うより確実かもしれません」
「……自分も、そう思う」
エンリコとギーナが、カシミールにそう勧めると、カシミールも黙って頷く。
確かに、木端役人の所へ行くよりも、この地の領主でもある彼に直談判した方が話は早いだろう。
もしかすると、取引先のよしみで、便宜を図ってくれるやもしれぬ。
「おいおい、何だ、お前ら。何週間も糞が出ねーような深刻なツラして。そんなにやばい事情なのか?」
「実は、ウチの見習い共がですね……」
カシミールが身ぶり手ぶりを交えて、事の次第を説明する。
最初は、競売の成功によって上機嫌だったクリスティアンの表情は、説明が続くにつれて、どんどんと不機嫌な表情へと恐慌していった。
(うわ、やっぱり平民の誘拐なんて、貴族にとってはどうでもいい事を聞かされて怒っているのかな……)
エンリコは腕組をしつつ、口をへの字に曲げて、しかめっ面をしたクリスティアンを見てそう推測した。
しかし、彼は全く違う事で腹を立てていた。
「……俺の、商会の競売会場で誘拐事件、だと?」
ぴくぴくと、口角を震えさせて怒りを露わにするクリスティアン。
「しかも、挙句、それを餌にしてその姉までも手篭めにしようとしている、だとォ……」
クリスティアンの口元の震えは、段々と全身に伝わり、額には青筋がしっかりと浮き出ていた。
「ええ。それと、男の見習いも多分一緒でして。その見習いというのが、実は」
「男なんぞどうでもいい……」
「は?」
「その姉妹は美人姉妹なんだろう?」
「まぁ、姉の方は蟲惑の妖精亭という酒場のナンバー1を張っているくらいですから、かなりの器量良しかと思いますが……」
「何っ?!あの高レベルな女の子ばかり集めている店のか?」
「え、あ、はい」
何故クリスティアンが蟲惑の妖精亭の従業員事情を知っているのだろう、と思いつつ、カシミールは首を縦に振った。
「と、言うことは……妹の方も数年後には……。なるほど、ね。俺の庭で、俺のモノを盗んでいくとはな。くっくく、ふざけた野郎だ」
「あの、辺境伯?誘拐されたのはウチの見習い……」
「あれ、でも待てよ?その野郎を俺がカッコ良く倒したら、姉妹揃って、俺にベタ惚れじゃね?これってむしろチャンスじゃ……」
百面相をしているクリスティアンは自分の世界に入り込んでしまっているようで、既にカシミールの声は届いていないようだ。
見かねた護衛の下級貴族がカシミールに耳打ちする。
「つまり、辺境伯はですね。『領内の美人は全て俺のモノ』と言っているんですよ」
「…………はぁ?」
「馬鹿みたいですが、あの人は本気なんです。貴賎問わず、女を口説くのがライフワークみたいな人ですからね……。とにかく、誘拐された子についてはひとまずはご安心を。恐らく辺境伯自ら、全力で動くでしょうから。動機はきわめて不純ですけど……」
呆れるカシミール他、商店のメンバー達。
クリスティアンは病的な女好きであった。
と言っても、どこぞの色狂いの貴族のように、権力を嵩に来て女を侍らす訳ではない。
彼は狩人なのだ。
その狩人ぶりときたら、正妻との結婚式の最中に、別の女性を口説いていた、という逸話すらある程。
彼の迸る“情熱”には、奥方ですら、とっくの昔に匙を投げているらしい。
それでも、歴代のツェルプストー家の面々から比べるとまだマシな方、というから、げに恐ろしきはツェルプストーの血という所か。
「しかし、辺境伯自らってのは……有難いんですが、大丈夫なんですかね?」
「まぁ、この事件に関しては大丈夫でしょう。もっとも、後始末が大変そうですけど……。あの人、やりすぎる所がありますからね。この間の盗賊団の討伐だって……」
下級貴族は聞いてもいないのに、つらつらと愚痴を吐き出す。
どうやら、彼は護衛というより、奔放すぎるクリスティアンに対するお目付け役のようだ。
「ありゃ、辺境伯は何処行った?」
下級貴族の男の愚痴を聞いているうちに、いつの間にか、クリスティアンの姿が忽然と消えていた。
「……あそこ」
ギーナが指し示した方向は、入札表前のステージ。
そこに、クリスティアンは渋い顔をして仁王立ちしていた。
突然の彼の乱入によって、競りは一時中断してしまっているようだ。
「何をする気なんでしょう……?」
「私もわかりません。やれやれ、全く派手な事が好きなんだから……」
首を傾げたエンリコに、下級貴族は疲れたような顔でそれに同調した。
「競りも大詰めだが、ここでお前らに頼みがあるっ!」
しばらく、仏頂面で佇んでいたクリスティアンだが、会場中の視線が自分に集まるのを確認すると、山の向こうまで届きそうな大声を張り上げた。
「なんだ?」「俺たちに頼みだって?」「商品を返せとか言わないよな……」
ざわ、ざわ、とどよめく会場。
「今日、この会場で非道の輩によって、商人見習いの女児が攫われたっ!これがどういう事か解るかっ?!見習いってのは、ゲルマニアの商業の未来を担う、言うなれば金の卵だ!それを商人がこれだけ集まった会場で堂々と攫って行きやがった!……つまり、俺達はそのクソ野郎に舐められているんだっ!」
舐められているという言葉に、更に会場のどよめきが大きくなっていく。
「さて、こんなクソ野郎を許していいのか?舐められっぱなしでいいのか?」
「良くねぇっ!」「ぶっちめろ!」「ぶッ殺せぇ!」
会場中の犯人許すまじ、という雰囲気に、うんうん、と頷くクリスティアン。
「よっしゃ、流石はゲルマニアの商人だっ!……だが、悲しいかな、野郎をブッ殺そうにも何処に居るかわからねえ!そこで、お前らには情報を集めてほしいっ!商売の情報網を使って野郎がどこにいるか割り出せ!有力な情報をくれた奴には、今日の競りのトリを務める予定だった、ガリア産の宝飾細工一式をくれてやるっ!」
気前のいい発言に、おおっ、と沸く商人達。
クリスティアンは、今から役人を使って、ちまちまと捜査するよりも、今日、ここに集まっている商人達の情報網を使って、犯人の足取りを追った方が早く確実だと判断したのだ。
それにしても、ガリア産の宝飾細工一式を進呈とは、大盤振る舞いにも程があるのではないだろうか。
「それじゃ、とりあえず解散だっ!集めた情報はツェルプストー商会に持ってきてくれ!」
解散の一声とともに、会場の商人達は、我先に有力な情報を手に入れようと会場を後にしていった。
こうして、カシミール商店見習い誘拐事件は、ツェルプストー辺境伯の音頭によって、ケルンの街全体を巻き込んだ、大騒動へと発展したのである。
「ふぅ、とりあえずこんなもんだな。後は情報が入ってくるまでは待機ってところか」
演説を終え、ステージから降りたクリスティアンがカシミール達に向かって言う。
「辺境伯。ありがとうございます!」
カシミールは、感謝の念を込めて深々と頭を下げる。
エンリコとギーナも、その後ろで頭を垂れる。
「……礼を言うのはまだ早いぜ。野郎の居場所すらまだ分かっていないんだからよ。ま、居場所さえ分かれば、俺がちょちょ、っといって、解決して来てやるから安心しとけ」
「はっ。しかしそれにしても……」
「何だ?」
「いえ、情報の見返りに宝飾細工一式というのは流石にやりすぎかと……よろしかったのですか?」
クリスティアンが情報の見返りとして提示した宝飾細工一式は、競りのトリを飾る商品だけあって、今日一番の高額品のはずなのだ。
カシミールとしてはありがたい事ではあるが、同時に心苦しい事でもあった。
「えっ?代金はお前んとこの商店に請求するに決まってんじゃん」
当たり前のように言うクリスティアン。
そう、彼もまた一級の商人なのである。自分の損益になるような事をするはずがないのだ。
「はは……そう、ですよね……」
カシミールは乾いた笑いを吐き出しながら、もし会う事があれば、犯人のクソ野郎を1発と言わず、100発は殴ってやろう、と心に誓った。
つづけ