ケルンの冬、特にこのヤラの月の肌寒さは中々に厳しいものがある。
「よく降るわね……」
ほわほわと降りしきる雪を、窓から眺めてぼんやりとぼやく私。
外は一面さらりと降り積もった白銀世界。
私と同じくらいであろう歳の子供達が、白い息を弾ませて、雪だるまを作ったり、雪合戦をして遊んでいる。
(はぁ、私も普通の家に生まれていたら、ああやって遊んでいる歳なのよね……)
なんて、自分の境遇を悔やんでも仕方ないのだけれど。
ゲルマニアに来て初めての始祖の降臨祭の期間も終わりを迎え、また忙しい毎日が始まっていた。
「ぼうっとしてんじゃ……」
「おわっ!」
余所見をしていた私は、フーゴの注意も虚しく、ずる、と脚立の上から滑り落ちてしまう。
「つつ、気をつけやがれ、馬鹿!」
「ごめん、ごめん」
フーゴが下敷きになってくれたおかげで、怪我はしなかったようだ。
彼とは、年が近い事もあり、何かとセットとして扱われる事が多い。
彼としてはそれが気に喰わないらしいが……。
現在は年始の大掃除の真っ最中。
カシミール商店では、というか、多くの商店では年末の商戦で大忙しである年末ではなく、年始めに掃除をするのだ。
まぁ、年始めは年始めで忙しいのだけれど、貫徹当たり前の、地獄の年末に比べればマシだろう。
う、今思い出しても吐きそうになってきた……。
あの年末の恐怖が今年も来るのかと思うと、今からゾっとするくらいだ。
「って、いつまで触ってんのよ」
「え?あ……。わ、わりぃ」
私が冷めた目で睨むと、フーゴは慌てて、私の尻を鷲掴みにしていた手を引っ込める。
低かった背も少し伸び、体も若干丸みを帯びてきた今日この頃。
年が明けて、私は11歳になっていた。
「へ、元はと言えばお前の不注意じゃねぇか。それにちんちくりんの尻触ったって嬉しかねーよ」
「だらしなく鼻の下伸ばしてたくせに。このエロ河童」
「この……っ!てめぇのケツなんて頼まれたって触らねえよ、ドブス!」
パチパチと火花を散らしながら睨みあう二人。
「はい、はい、そこまで。喧嘩した罰として倉庫の掃除は全部二人でやること」
「えぇ……」「そりゃないっすよ……」
エンリコが、ぱんぱん、と手を叩いて仲裁に入る。
くそぅ、フーゴのせいで私までペナルティを喰らったじゃないか……。
「アンタのせいだからね」
「お前のせいだろ」
またもや睨みあいを始めた私達を見て、はぁ、と溜息を漏らすエンリコ。
「ほらほら、早くしないと帰れなくなるよ」
「くぅ……」
すごすごと作業に戻る私とフーゴ。年始めから残業確定である。
もう、泣きたい。
「全く、この2人はいつになったら仲良くなれるんだか……」
「……違う」「……逆」
エンリコの独り言にギーナとゴーロが意見する。
「逆?」
「……ケンカするほど」「……仲が良い」
「そんなものかなぁ?」
腑に落ちない顔のエンリコに、うんうんと頷く双子。
断じて違うからね。勘違いしないように。
ま、こんな感じで今日もカシミール商店は概ね平和である。
「アリア、いるか?」
ぶつくさ言いながら、たまにフーゴと言い合いをしながら、しばらく作業を続けていると、親方の呼び声が聞こえた。
「どうしましたー?!」
「ここの、面積の求め方がわっかんねェんだが」
窓を拭きながら、背を向けて親方に答える私。、
親方は、ボリボリと頭を書きながら、私が年末に出した宿題の書かれた紙をぺらぺらと揺らす。
読み書きの方は、毎日欠かさず勉強していた事もあって、既に問題はなくなっていた。
ロッテに習ったせいか、スラングがやたら多い気がするけどね。
「あ~、わかりました。えっと、どうしよっかな」
「行ってこいよ」
フーゴは顎でしゃくって早く行け、と促す。
ほぅ……珍しい事もあるもんだ。
「ごめん、じゃ行ってくる。あとよろしくっ」
「お前の分は残しといてやるよ。俺は優しいからな」
ニヤリ、と笑って返すフーゴ。本当、イヤな奴だ。
これがこの半年で変わった事の一つ。
親方が“東方”の算術(というか現代数学)を教えてくれ、と言う事で、正規の終業時間が終わった後、私が数学を教える事になっていた。
彼に数学を伝授する授業料として、月に2エキューを給金に上乗せしてもらっている。
教えているのは、商売に使えそうな統計、幾何、行列の知識。
商売には全く関わりのない分野はスルーしておいた。
ちなみに先程、親方が分からないといっているのは楕円の面積の求め方である。
親方は中々勉強熱心で、既に基礎的な数学の考え方はモノにしているから驚きだ。
私としては、ハルケギニアの人には中々理解できる物じゃないだろうな、とタカを括っていたのだが。
ともかく、これで月の収入は8エキュー。月に貯金できる額もかなり増えた。
独立の日も近い、と言いたいところだが、お金は勿論、まだまだ色々な物が不足している事を痛感する毎日だ。
そしていつも授業に使っている、例の3階の事務室(親方の書斎)。
「そういやぁ、お前が来てからもう半年になるな」
カシミールは問題用紙と睨めっこしながら、そんな事を呟く。
「えぇ、おかげさまで」
「で、金は少しは貯まったか。独立を目指してるんだろう?」
「まぁ、少しずつですが。姉には負けますけどね」
「はっはは、そりゃ蟲惑の妖精亭のナンバー1には勝てねえだろ」
「むぅ……」
悔しそうに言う私を笑い飛ばす親方。
ロッテは入店以来、蟲惑の妖精亭のナンバー1の座をずっと維持しているのだ。
その収入は相当なもので、月に30エキュー近くを稼ぎ出している。
私の3倍以上の収入だ。
意外にもあまり散財はしていないようで、貯金箱の中身も私のものとは歴然とした差になってしまっている。
正直悔しいが、ロッテが真人間(?)になったと思えば、私も少しは安心だ。
「独立、か。懐かしいな。俺も駆けだしの頃は苦労したもんだが……」
「親方は行商人をしていたんでしたっけ?」
「あぁ、10年くらいな。それで金を稼いで、コネを作って、定住商人としてデビューしたってわけよ」
「やっぱり最初は行商人としてスタートするのが普通なんですか?」
「駐在員で金を貯めて、正社員(出資者)側に回るっていうやり方もある。その方が危険は少ないが、確実に遠回りだろうな」
「早く身を立てたいなら行商人、じっくりと安定を目指すなら駐在員、ですか」
「まあ、腕に自信があるなら行商人、ないなら駐在員だな。まぁ、自信がないやつが商売するな、って話もあるが」
とすると、私はまず行商人、つまり遍歴商人を目指すべきだろう。
ロッテとの約束もあるが、私自身が早く上のセカイを見てみたい、というのが大きい。
「行商人を選んだとして、初期投資ってどれくらいかかりますか?」
「……そうだな。まずは行商に絶対必要な馬車。2頭立ての馬車として、普通の馬が一頭大体80~120エキュー。馬車はピンキリだが、商売道具だからな。それなりに丈夫なのを買うとして、平馬車のいいヤツで150~200エキューってところか。次に組合(アルテ)への加入費と年会費が50~100エキュー。ケルンなら安いから50だな。それと最初の仕入れ、雑費、その他もろもろを考えると……まぁ、500エキュー程度を見積もっとけば問題ないだろう」
「ふむ、500かぁ。ロッテ……姉さんのお金が使えればなぁ……」
「……馬鹿野郎、商売の最初から人の金をアテにしてんじゃねェ!」
「あだぁっ……ぅう、すいません」
親方の鉄拳が飛ぶ。
カシミール商店の教育方法はスパルタ方式なのだ。
しかし、500エキューならば、そう非現実的な数値ではない。
おし、やる気出てきた。
「まぁ、良く考えて決めるこったな。行商人を選んだ場合、商会の後ろ盾はねェから、一つの失敗で破産する危険が高い。それに旅を続けるっていうのはキツイし、賊やら亜人やらに襲われる可能性もある。いい事ばかりじゃねェんだ」
「でも保険がありますよね?」
「行商人が保険に金を回せるほど余裕があるか、馬鹿」
「う……」
保険、というのは、荷にかける積荷保険だ。
その内容は、荷を不慮の事故で破損したり、紛失した場合に、それと同額の金銭を保証してもらえるというシステムだ。
昔は、空輸保険といって、フネでの輸送にのみ掛けられる保険であったが、近年では、商人の絶対数の増加により、陸路での輸送にも適用されるようになっていた。
これは銀行家、両替商の業務の一つなのだが、保険金はかなり割高で、大商社ですら、その保険金をケチる事もあるらしい。
「ま、独立以前に、仕事中にぼけっとしているようじゃ全然駄目だがな」
「げ」
そう言って親方がニヤ、と口を歪めると、もう一つ拳骨が飛んで来た。
うぇ、見られていたのか……。
親方は見ていないようで結構見ているから恐ろしい。
「あぁ、そうだ。仕事と言えば。お前、明日一日は外な」
「へ?」
思い出したように言う親方に、間の抜けた返事を返す私。
外、ってこの寒空の下、ですか?
「明らかに嫌そうな顔をするんじゃねェよ……。勘違いしてるみたいだが、別に外で作業しろ、とは言ってねェ」
「え、じゃあ、どういう事です?」
「ツェルプストー(商会)に、買付の勉強に行ってもらう。新年の買付はモノが多くなりがちだからな。その作業のついでってところだ」
「か、買付っ?!わ、本当ですか?!」
買付、という言葉に途端に目を輝かせる私。
それもそのはず、外回りである買付に付いて行く、正式な商店の一員として認められた、という事なのだ。
ちなみに、エンリコが初めて買付に付いて行ったのは、3年目の冬だったと聞いたことがある。
私って実はかなり評価されているのかも……!
「ま、そういう事だ。明日に備えて今日はもう帰」
「わっかりました!お先に失礼しまっす!」
「あ、あぁ」
テンションの上がった私は皆まで聞く前に、全速力で事務室を飛び出した。
何か忘れているような気もするけど、気のせいだろう。
「くっくく、あの変わり身の早さ。おまけに強欲で自分勝手。なかなかに商人向きな性格をしていやがる」
一人事務室に残されたカシミールは、誰ともなくそんな事を呟いていた。
*
帰り道、私はいつものルートで蟲惑の妖精亭に寄り道する。
ロッテがここに就職してからというもの、夕飯はここで食べさせてもらっているのだ。
「こんばんは、スカロンさん」
「お、いらっしゃい。お姉さんはまだ勤務中だけど、先に食べておくかい?」
「はい、お願いします。いつもすいません」
年内に独立するはずだったスカロンはまだこの店で働いている。
独立といっても、出来あいの店をオーナーから買い取る、という形を取るらしい。
それがこの店の姉妹店である、“魅惑の妖精亭”なのだそうだ。
「奥さんと娘さんはお元気ですか?」
「もう、ばりばり元気さ。嫁さんの方なんて、お姉さんの噂を聞いて、また蟲惑の妖精亭で働く、なんてライバル心を剥き出しにしてるよ」
はは、と愉快そうに笑いながら、料理を盛った皿を出してくれるスカロン。幸せの絶頂と言った感じかな?
スカロンの奥さんは蟲惑の妖精亭で結婚前はナンバー1を張っていた女性らしい。
娘の“ジェシカ”も将来は美人になるのだろう。
「しかし、こうして笑っていられるのもアリアちゃんのお陰だけどね」
「大した事はしてませんよ。私は親方に秘薬の手配を頼んだだけですし」
「駄目駄目。商人なら謙遜なんてしないで恩を着せておかなきゃ」
「……そうですね。じゃあ、もっと感謝しなさい」
「はは、その調子だ」
偉そうに胸を張る私に、手を叩いて言うスカロン。
実は、スカロンの奥さんが出産後、著しく体調を崩したのだ。
すぐにでも治療が必要な状態で、水メイジはスカロンの方で早急に手配できたものの、その症状に合う秘薬が見つからなかったらしい。
スカロンの奥さんがピンチ、という事をロッテから聞いた私が、その水メイジから必要な秘薬の情報を聞き出して、親方に手配を頼んだのだ。
目的の秘薬は、カシミール商店から緊急の連絡を受けた国際交易に強いツェルプストー商会によって、秘薬などのマジックアイテムの本場であるガリアから早急に取り寄せられ、事なきを得たのだった。
もしかしたら、これで“スカロンの奥さんが死ぬ”という運命は変えられたのかもしれない。
その時の秘薬はかなり高価なもの(云百エキュー)だったので、そのせいでスカロンの独立が遅れたんだけどね。
まぁ、奥さんの命に比べれば些事だろう。
「交易商として独立したらトリスタニアにも遊びにおいで。サービスするよ」
「ふふ、何年掛かるかわかりませんが、その時はよろしくお願いします」
そう言って私は頭を下げる。
よし、行商人として独立したらまずトリステインに行ってみようかな?
売る物は……。とりあえず最初は無難に、北部製の質のいい金属農具あたりか。
ゲルマニアの農村では当然のように使用されているものだけれど、トリステインではまだまだ出回っていないはず。
私の故郷のように、木製農具を使っている時代遅れな辺境の農村すらあるのだ。
トリステインはどちらかと言えば農業国だし(というか他に産業が……)、そういう実用的な物の方が売れるだろう。
あぁ、でも農民は金がないから……。利益が取れるかどうか微妙な所、かも。
うん、商売に行くならタルブ地方あたりの、農村でも比較的裕福な地域が良いだろう。私の故郷のような貧しい農村では商売にならない。
農民相手ではなくて、領主に直接交渉にいくのも手か。農具を取りかえる事による、税収増加の期待値をチラつかせれば飛びついてくるやもしれない。
仕入れはウィンドボナ経由じゃなくて、ハノーファーかハンブルグの工房から直接仕入れたい。
いや、入市税まで考えるとカシミール商店に仕入れを頼んだ方が安くつくかも……。直接仕入れるなら、北部とのコネが必要、かなぁ。
「……えんのか、馬鹿妹」
「いったたったた」
私が気持ちよく妄想にふけっていると、後ろから突然頬を抓られた。
「おや、ロッテさん。今日はもうアガリですか」
「んむ。今日は早番じゃからな」
ロッテはそう言って私の隣の席に着くと、私に出された皿に盛ってあった一口サイズのチェリーパイをパクリと頬張る。
「あっ、コラ!それ楽しみにしてたのに!」
「くひヒ、妾を無視した罰じゃ」
悪戯っ子のように笑うロッテに私の毒気は抜かれてしまう。
「はぁ、もういいわよ」
「そうか。では、これで食事は済んだな。そろそろ帰ろうぞ」
「え、もう帰るの?」
「暗い夜道は危険じゃからの。人通りが少なくなる前に、な」
「……そう?」
らしくない事をいうロッテに、少し訝しげな表情を見せながらも、黙ってそれに従い帰り支度を始める私。
最近、ロッテの様子が少しおかしい気がするんだよね……。
まぁ、元々変なヤツだけど、そういうのとは違うというか……。
「どうした。妾の顔に何かついておるか?」
「ん、別に?変なヤツ、って思っただけ」
「……ほぅ。また、意識を失うまで吸われたいらしいのう?」
意識がなくなるまで血を吸うのはロッテが得意としている報復方法の一つである。
これをやられると、すごく気持ちイイ……じゃなくて、翌日までグッタリしてしまうからシャレにならない。
「あ、今日は駄目。明日は大事な日なの」
「大事な日?」
「そそ、買付に連れて行って貰える事になってさ。ついに一人前と認められたっぽいよ?」
「ふむ、買付……か。外に出るのか?」
「そりゃそうでしょうが」
「……気をつけるんじゃぞ」
「え?あ、うん」
やっぱり変なロッテ。
最近は行き帰りの時もやたらとこういう注意を促してくる。
何かあったのか、と聞いても何もないの一点張りだし。
不気味だ。
私は何とも気味の悪い違和感に、首を傾げながら帰路についたのだった。
*
翌日。
朝一から、“私達”はケルンの中心部にそびえ立つ、ツェルプストー商会本社へとやって来ていた。
「ウチの商店より、更にデカイわね」
「当たり前だろ。ウチは飽くまで支社。こっちはゲルマニア四大商会の本社だぜ」
いつものように「そんなことも知らないのか」と、偉そうに言うフーゴ。
「何でアンタまでいるのよ」
「そりゃこっちの台詞だろ、使えない癖に出しゃばってんじゃねーよ」
「ふん……大体なんでアンタ、ここにまで“ハタキ”なんて持ってきているのよ」
「いや、これは……」
フーゴは何故かいつも掃除に使う“ハタキ”を腰にぶら下げて持ち歩いている。
本人に言わせると、気付いた時にいつでも仕事ができるスタイルなのだとか。
仕事=掃除かい。見習い根性の染みついている事で。
「それ、カッコイイとでも思ってるわけ?まじダサイんだけど」
「言わせておけば、このっ……」
「何よ、このくらいで怒るなんて度量の小さい男ね」
あわや掴み合いの喧嘩になりそうな雰囲気を出す私とフーゴ。
「はぁ、またか……」
頭痛がするように頭を抑えるエンリコ。
見習い組からは、この3人が買付の手伝いに駆り出された。
双子は留守番組である。
「2人とも、いい加減にしときなさい。今日は外の人の目に触れるんだから、商店の恥を晒さないように」
「……はぁい」「……ち、わかりました」
珍しく、厳しい態度で言うエンリコに、一時休戦、と言った感じで渋々離れる私とフーゴ。
「で、エンリコさん。今日は何をするんですか?」
「うーん、まぁ、僕達のする事はいつもとあまり変わらないよ。親方が競り落とした商品を次々と馬車に積み込む、ってだけかな。重い物も多くなるから気を付けてね」
「競り?」
「そう、初物競り、ってやつだね。普通は商社の場合は競りに参加せずに、事前に契約している値で取引するんだけど、今回みたいに、特別な時期や行事がある時はウチや他の商社も競りに参加するんだ」
「へぇ、何か面白そうですね」
ちょっとワクワクしてきた。オークションみたいなものだろう。
私も参加してみたいなぁ。
「さ、そろそろ始まるからね。僕達も行こう」
「はいっ」「ういッス」
競りの会場はツェルプストー商会本社の中庭。
競りにかけられる現品の一部(と言ってもかなり大量)が中庭に所狭しと並べられ、買付に訪れているのであろう、入札者席に陣取った商人達は、今か今かと、競りの開始を待っているようだ。
「ほへ~、なんかエラく殺気だってますね、ココ」
「まぁ、誰だって新年一発目にコケたくないしね。初物競りの成功はゲン担ぎの意味もあるんだ。それもあって入札者のメンバーも結構凄いよ。ゲルマニア中のやり手の買付担当者が来ているからね」
「親方、大丈夫ですかね」
「はは、親方はやり手中のやり手。心配ないさ」
親方は私達より先に会場入りしており、入札者席の最前列に陣取っていた。
その表情は真剣そのものである。まぁ、あれなら心配するまでもないか。
「ところで、あれって何ですか?」
私は入札者席の前に設置されている、黒板を細切れにしたような札を沢山差した大きな看板のような物を指差す。
「あれは入札表だね。入札した値段をあの札に書いてどんどん表に差していくんだ。新しい入札は上に、古い入札は下に、って感じで移動させていく。いちいち消したりしていたら間違いが起こるかもしれないからね。“入札”っていう語源はあの札の事なんだ」
「あ、なるほど、納得」「へえ、そうなんっスか」
む、フーゴと被ってしまった。コレについては知らなかったみたいね。通りで大人しいはずだ。
エンリコの話から、どうやら、この競売は、入札者側(買い手)のみが値段を提示する、シングルオークションで、かつ値段が公開される、公開入札方式、という方式が取られているようだ。
所謂、最も一般的に知られている競売の形である。
「お集まりの皆様、大変お待たせ致しました!毎年恒例、ツェルプストー商会の初競りを開始致します!」
私達がエンリコの説明に聞き入っていたところ、いつの間にか入札表の前に登場していた、競りの司会、といった服装をした男が良く通る声でそう宣言する。
「おぉ~」「早く始めろーっ!」「待ちくたびれたぞ!」
その宣言がなされた途端、会場に蔓延していたどよめきは、皆の様々な歓声にかき消された。
その大音量に、私は会場全体が揺れているような錯覚を覚え、思わず耳を塞いだ。
すごい、まるでお祭りのようだ。いえ、お祭りなのかもね。
「皆様、ご静粛に、ご静粛に。開会の前に、本商会代表、クリスティアン・アウグストより皆さまに」
「ハァ~イ、元気してるぅ?」
司会の男の後ろ側からひょっこりと現れ、その声をかき消す形でお茶目な言葉を吐いたのは、褐色肌に赤毛の、スマートな青年だった。
あれが、ツェルプストー辺境伯、なのか?
「今日は俺の商会の競りに参加してくれてありがとう!愛してるぜ、お前らっ」
パチ、とウィンクを飛ばして言うツェルプストー辺境伯(?)。
ゲルマニアでも屈指の貴族であるだけに、会場を埋め尽くしている商人達もどう反応していいのか分からず、何とも言い難い気まずい雰囲気が会場に漂っていた。
何か、凄く軽薄な感じがするんですが……。
私としてはもっと、重厚なとっつきにくそうなオッサンを想像していただけに、びっくりだ。
「よぉし、お前らっ!商売に一番大切なのは何だっー?」
しかし、その雰囲気に構わずツェルプストー辺境伯はなおも続ける。
資金?人脈?いやいや、先見の才だ。などと商人達が口々にその疑問に対する答えを述べる。
「ち、が、あ、う!何事も一番大切なのは“情熱”だっ!」
静まり返っていた会場は、その言葉によって拍手と歓声の音に再び包まれた。
「はっはは、それじゃ、その情熱を忘れずに今日は楽しんで言ってくれよな!よし、挨拶終わり!」
何ともすげぇ、挨拶ですね。ツェルプストー辺境伯。
これが“あの”キュルケの父親なのか?娘以上にぶっ飛んでるんじゃないの……?
「フーゴ君、アリアちゃん。僕はちょっと倉庫の方で手伝ってくるけど、どうする?しばらくここで競りを観ていてもいいよ?」
「あ、観たいです!」「お、俺も」
「じゃ、用ができたら呼ぶから、勉強しておくこと」
「はい」「ういッス」
ツェルプストー辺境伯の挨拶が終わった後、エンリコがそんな提案をしてきた。
これを観ずに、倉庫で作業しているのは勿体ないというものだ。
「では栄えある一番目の商品はっ、アルビオンからっ!グラーナを大量に使用した高級毛織物だぁーっ」
入札表の前に、見本であろうキレイな染色をされた毛織物が掲示された。
グラーナ、というのはアルビオンで生産される最高品質の羊毛の事である。
または、それを染め上げる赤色染料の事を指すこともあるが、この場合は羊毛の方で間違いない。
現在では各国で牧畜されている羊だが、未だにアルビオンの羊毛の質には勝てないと言われているのだ。
「毛織物か。こりゃウチの親方は手は出さねえな」
「なんで?」
顎に手をやったフーゴの訳知り顔の発言に、疑問を投げかける私。
「ウチの本社のある南部は羊毛の生産地だろ?いくら質がいいつったって羊毛製品じゃ需要がねーからな。買うのは金の余ってる貴族くらいってなもんだ。北部は毛織物自体を生産してるから同じく需要がない。あれを買うとしたら、西部の連中か東部の連中だろうな」
「なるほどねぇ」
フーゴも興奮しているのか、珍しく私の疑問に素直に答える。
事件はそんな時に起こった。
「もし、君がアリアちゃんかな?」
「はい?」
私達が競売の行方に熱中していると、ふと後ろから声を掛けられた。
声を掛けてきたのは、大柄で屈強そうな、しかしどこか暗い感じの男。
「はい、そうですけど。何か?」
「ちょっと一緒に来てもらえないかな」
「え、困ります」
意味の分からない突然の勧誘に、私は当然拒絶の意を示す。
「本当にちょっとでいいんだけどなぁ」
「おい、何なんだよ、てめぇ」
なおもしつこく誘ってくる大男に、明らかに不機嫌な様子になったフーゴが私の前に立ちふさがり、喧嘩腰に男に詰め寄る。
あれ、何か男らしいぞ、今日のフーゴは。
「邪魔だよ」
そう言って詰め寄るフーゴを突き飛ばす大男。
「な、何するんですか?!」
「……っ、てめぇっ!」
倒れたフーゴに駆け寄ると、フーゴは当然激昂していた。
しかし、この騒ぎにも関わらず、競売に熱中して大声を張り上げている周りの人間は気付かない。
仮に気付いても、下らない小競合いだと思って捨て置かれているのかもしれない。
「嫌でも来てもらうよ、主からの命令は絶対だからね」
そう言って厭らしく微笑む大男。
身の危険を感じ、逃げようとした瞬間。
「む、ぐぅ……っ」
私の口は塞がれ、大男に軽々と抱え上げられてしまっていた。
そして大男は外に向かって尋常ではないスピードで走り出す。
(だ、誰か、助けてっ!)
しかし、この非常事態にも、周りの人間は気付いていないのか、関わりたくないのか、一様に無関心。
競売の値を吊り上げる声だけが、私の耳に虚しく響く。
しかし、一人だけ、追いかけて来てくれる人物がいた。
「待ちやがれ、てめぇっ!アリアを離せ、クソ野郎がっ」
フーゴだった。
彼だけは顔を真っ赤にして、必死の形相で追いかけて来てくれる。
腰から抜いた“ハタキ”を手に持って。
あれ、あんなに仲が悪いはずなのに、何でだろう?やっぱり、商店の仲間、だからかな……?
というか、ハタキなんて持っても役に立たないよ、馬鹿。
私は異常事態についていかない頭の片隅で、ぼんやりとそんなことを考える。
「おかしいな……何処行っちゃったんだ?全く、あの二人は……」
二人を呼びに来たエンリコは、その二人が直面している危機をよそに、暢気にぽつりと呟いていた。
つづけ