あ 長い初日の仕事が、終わった。
「うぅ……ずびばぜん……」
「気にしなくても大丈夫。初日はみんなそんなもんだよ。かく言う僕も最初はしょっちゅう裏で吐いていたからね、はは」
膝に手を付いて謝る私。本当、もう吐きそうです……。
エンリコは私の肩をぽん、と叩きながら気を遣ってくれる。
やっぱりいい人だなぁ。そこに痺れる、憧れるゥ!ってやつだね。
美形だし、さぞかし女にモテる事だろう。
でもその気遣いで余計に情けなくなってしまったり。実際、私は役立たずだったのだ。
さて、私の仕事はやはり単純作業がほとんどだった。
当然だが、私自らが取引を行ったり、契約書を作成したり、お金の管理をしたりするような事はない。
ちなみにそれを行っている駐在員と呼ばれる正規の従業員には、今日は会えなかった。
買付担当の人はずっと外回りをしているというし、経理兼公証担当の人は部屋に籠りきりで、一度も出てこなかったのだ。
見習い《ガルツォーネ》の一日は、まず早朝の在庫確認から始まる。
計量に関しては、数で数えるもの、天秤に乗せて重さを量るもの、物差しのような棒で長さを測るものなど様々だ。
これについては、単位についてエンリコに説明してもらいながらの作業となった。
一般的なハルケギニアの単位が統一されているかどうかはわからないのだが、商業的な単位としては、基本的にどの国でも、ガリアのシャンパーニュ地方を発祥とする、トロイ衡とよばれる度量衡を用いているそうだ。
一部アルビオンの年寄り達は独特の単位を使うらしいが、詳しい事はエンリコも知らないという。
まぁ、単位がはっきりしていないと商業取引なんてまともにできないものね。
長さの単位はリーグ、メイル、サント。
これは一般に使っている単位と変わりない(リーグは商業取引ではまず使わないけれど)。
サント以下に関しては1/10サントなどと分数で表わし、サント以下の単位は存在していない。
小数については概念自体がないようで、私が布地を計量している時に、うっかり「10.4メイルです」と口にしたところ、皆一様に、「何それ?」という顔をしていた。
とりあえず「“東方”の数字の数え方です、てへ」とか言っておいた。
いやぁ、東方って、ほんっとうに、いいものですね。
重さについてはトロイリーブル、トロイオンス、グレイン、それにサン・ポワという単位が用いられる。
リーブルは“天秤”という意味があり、一般的にもこの単位が使われているが、トロイ衡では通常のリーブル単位のおよそ5分の4程度の重さとなっている。
きっとシャンパーニュの商人が物の量を誤魔化した事が発端なんじゃないの?と勘ぐってみたり。
オンスは“1/12”という意味。その名の通り、リーブルのおよそ1/12に当たる。
グレインは“大麦の一粒”が語源で、非常に小さな単位であり、金などの少量で価値が高いものを計量する時に用いられる。
サン・ポワは“100倍の重さ”という事で、リーブルの100倍の重さを示し、大口の取引の時に使われるそうだ。
いつか私もサン・ポワ単位で金銀財宝を取引するような大商人になるのだ。ふふふ。
そしてそれらの合計などを計算する時は、頭で計算するだけではなく、倉庫の隅に仕切られたスペースに備え付けられている算盤《アッパゴ》というものを使用する決まりとなっている。
これは様々な色のついた球を盤に並べていくことで、誰の目にも間違いがないか確認できるようにするものであり、金銭の取引の際にも使用される。
私塾で算術を教えるときにもこういったものを使うらしい。まさにソロバン教室、と言った所か。
さて、在庫確認の時は「これくらいなら私でも十分やれる」と思っていたのだけれど、甘かった。ベリータルトの100倍くらい甘かった。
少し日が高くなって来た頃から、連絡員と呼ばれる人達や、個人の行商人(遍歴商人というらしい)がひっきりなしにやってくるようになり、それとともに殺人的な忙しさが襲ってきた。
彼らの応対は、カシミール、いや“親方”か、エンリコあたりがやっており、私の出る幕はなかったのだが、彼らは一様に大きな荷物を抱えてやって来る。
さらにその中には、商店の中から別の荷物を持っていく者もいる。
その荷物を移動させたり、整理したりするのは私達見習いの仕事なのだ。
そして、これが本当、半端なく重いものが多い。
羊毛や銀鉱石がみっちりと詰まった箱、どでかい穀物袋や塩の袋、香料や酒の詰まった瓶のケース、家具なんかは言わずもがなである。
どう考えても一人で持てるようなモノではないのだが、エンリコや双子くらいになると、ひょい、という感じで、軽々と持ち上げてしまう。
坊主頭ことフーゴは小柄なのもあって、私と一緒で苦戦しており、「人に言う割には大した事ないじゃん」と心の中で舌を出したものである。
また、行商人や連絡員が連れてきた馬の世話などもあり、休んでいる暇は全くなかった。
そしてそのラッシュが終わると、もう夕刻。
当然昼ごはんを食べる余裕はないのだが、ラッシュが終わってから、見習いの者が全員で賄いを作る。
これは結構楽しい作業だ。自分達が食べる物なので、それほど気を使わなくてもいいしね。
まぁ、荷物運びと整理のせいでグロッキーだった私はあまり喉を通らなかったんだけど……。
賄いを食べ終わると、最後にお掃除タイムが待っている。
これが終われば、一日の仕事は終わりという事になるのだが、商店はとにかく広いので、かなりの時間がかかるし、重労働となってしまう。
全てが終わった今の私は、溶けたバターのようになっており、外はすっかり暗くなっていた。
明日筋肉痛になっていなければいいのだけれど……。間違いなくびっきびきになっているだろうなぁ。
「アリアちゃん、これから時間あるよね?」
「え、はい。大丈夫ですけど」
エンリコがへたって座り込んでいた私に話しかける。
おや、まさか歓迎会とかしてくれるのかな?と私はボケた事を考えていた。
「いや、朝の質問にも答えていなかったし、折角だから見習いのみんなで勉強会でも開こうかと思ってるんだけど、どうかな?」
「あ!そ、そうでした。お願いします!」
私は馬鹿です。本当にすいません。
そういえば、“あの”朝一で空気を凍らせた質問にはまだ答えてもらっていなかったのだ。
まぁ、今日一日の仕事で交易を生業にしている商社だろうという当たりはついているけど、詳しい事は全くわかっていない。
「よし、それじゃ黒板のある部屋……うん、いつも通り経理部屋がいいな」
「でも経理に使う部屋って大事な書類とかあるんじゃ」
経理ということは帳簿やら何やらもあるはずで、見習いの私達が入るのはまずい気がする。
それにしても黒板があるのか。あれって魔法学院とかにしかないものだと思っていたけど違ったのね。
「いや、ヤスミンさんが帰る時に、帳簿や大事な物は親方の部屋に全部持って行っちゃうから大丈夫だよ」
「ヤスミンさん?」
「あぁ、経理担当の駐在員をやっている人だよ。アリアちゃんが来る前は、この商店で唯一の女性だったんだけど」
「女性なんですか?でも商人って男の世界とか聞いたんですが」
親方、女の人もしっかりといるじゃないですか。
「あの人は元々商人じゃなくて算術の私塾をやっていた人だからね。かなりの変わり種だよ。性格の方も少し変わっているけど、ね」
「あ、そうなんですか……」
女商人なら話を聞いてみたいと思ったんだけどなあ。
しかし人当たりのいいエンリコが顔を顰めるとはどんな人なんだか。
「じゃあみんな経理部屋に集合ね」
エンリコはギーナ・ゴーロ兄弟とフーゴに向かって言う。
「……了解」「……先に行ってる」
双子はコクリと小さく頷いて、二人でさっさと行ってしまった。
うーん、二人の世界という感じだろうか。仲のいい兄弟だ。
「エンリコさん、俺もっすか?」
「ん、フーゴ君は何か用事があるの?」
「いや、特にはないっすけど……でも今日の勉強会はコイツのためなんっすよね?」
私を指さして嫌そうな顔で言うフーゴ。そんなに私が嫌いか。
「うん、そうだけど。君のためにもなると思うよ?人に教えると言う事はその人の三倍は知識がなくちゃいけないからね」
「でも」
「まさか来ないなんて言わないよね?」
エンリコは笑顔でフーゴの肩を掴む。その腕には太い血管が浮き出ており、ぎちぎちという音が聞こえてきそうだ。
いいぞ、もっとやっちゃえ!
「わ、わかりましたよ。行くっす、行きますから!」
「よしよし。同僚の輪を乱しちゃいけないからね」
涙目で肯定の意を示すフーゴに、エンリコが満足そうに頷く。
普段温厚な人ほど怒らせると怖いというのは本当だ。私は怒らせないようにしないと……。
若干エンリコへの恐怖を覚えた私だったが、初めての“勉強会”は、見習い全員参加で行われる事になった。
*
さて、カシミール商店の“勉強会”。今日は臨時ということだが、普段は週末に親方や正規の従業員が講師となって行われているらしい。
商店の見習いをしている者は、独立を目指す者、実家の商売を継ぐための修行に来ている者、そのまま正規の従業員として雇われる者、の三者に分けられるだろう。
私は当然、独立を目指す者だ。
他の見習い達はどうなのか、今のところはわからないが、どの道に進むにせよ、商人としての知識は非常に重要。
そこで、カシミール商店では私塾では教えられないような商売のテクニックや、国際情勢、金融取引などの議題を取り上げて、議論形式で勉強していくそうだ。
きちんと若手を育てる意志が見える辺り、この商店は“当たり”なのだろう。
今回の勉強会に関しては他の見習い達による私への講義、という感じみたいだけどね。
いや、本当貴重な時間を割いてしまって申し訳ないです……。
私達が集まった経理部屋と呼ばれる2階の部屋には、エンリコの言うとおり、帳簿と思われるような書類は一切なかった。
そのかわり、筆記具や紙が乱雑に散らかっており、インクで汚れ放題になっている事務机が痛々しい。
「また散らかしてるなぁ。この前の週末に掃除したんだけど……」
エンリコが部屋の惨状を見て端正な顔を歪める。
双子はやれやれ、と言った感じで肩を竦めて首を振る。
フーゴは深く溜息をつく。
この部屋の主のヤスミンさんは結構ずぼらな性格のようだ……。
算術の先生をしていたというし、学者肌の人(悪く言えばやもめのような生活をする人)なのかもしれない。
「では今日の勉強会を始めます」
私を含む他の見習い達を席につかせて、黒板の前で開会宣言をするエンリコ。いや、先生。
双子は無表情に拍手をし、フーゴはふくれっ面で面白くなさそうにしている。
「さて、では最初にアリアちゃんに問題です」
「えっ」
「商売の基本とは何でしょう?」
開幕早々、漠然とした質問を投げかける先生、エンリコ。
「う~、モノを作って売る事です?」
自信無さげに答える生徒の私。でも間違ってはいないはず……。
「ぷっくくく、さすがちんちくりんの百姓は言う事が違うな!」
フーゴは私の答えを聞いて腹を抱えて笑いだした。
「……職人向き」「……確かに」
双子にまでそんなことを言われる始末だ。
えぇ、違うの?『僕』の知識によると、モノ造りが全ての基本だって……
「はい、みんな茶化さないように。ただ、確かにアリアちゃんの答えはちょっと違うかな」
「うぅ」
「ただ、北部の人だとそういう考え方をする商人もいるからね。完全に間違いって訳ではないよ」
エンリコはソフトに言ってくれているが、やっぱり間違いは間違いらしい。
「エンリコさん、甘いっすよ……」
「それじゃ、フーゴ君。答えを言ってみて」
「ういっす。商売の基本は“取引する双方が等価の物を交換し、双方が利益を出す”です。わかったか、ちんちくりん」
得意げにふんぞり返って言うフーゴ。でもそれってどういう事?
「はい、フーゴ君正解。でも一言多いから気を付けるように。どう、アリアちゃん、わかった?」
「えぇと、つまりどういう事でしょう?」
「分かりやすく言うと、“その時、その場所で等価のもの”を交換し、その差益によって両方が得をしようという考え方の事。……そうだなぁ」
未だ理解していない私の表情をみて、エンリコは少し首を捻って考えた後、黒板に図を描いて説明をする。
「例えば、アリアちゃんが湖のほとりに居たとします。その時に水を買いませんか?と言われたらどう?」
「無視、しますね」
「だよね。いくら安くても水がいくらでもあるような所では絶対に水は売れない。じゃあ砂漠で何日も彷徨っているところで同じ事を言われたらどうかな?」
「あっ、なるほど……そういう事ですか」
私はポンと、手を叩いて納得する。さすがエンリコの説明は分かりやすい。
つまり、需要と供給の関係を上手く活かして儲けようという事か。
「でも双方が得をする、というのは?自分が儲ければいいんじゃ……」
「……相手の利益を考えないと」「……商売は長続きしない」
今度は双子が私の質問に答える。静かだが、諭すような口調だ。
自分の事だけってのはダメってことか。なかなか難しいものだなぁ。
「はい、と言う事で、その考えを基本としているこの商店は遠隔地商業、つまり交易を生業としている商社です。これが朝の質問の答えだね」
「あ、やっぱりそうなんですか」
「ただ、この店は商社といっても、本店というより支店的なものに近いけどね」
「支店、ですか?」
本店?支店?え、ここって親方の店じゃないの……?
「そう。商社というのは、個人の遍歴商人、つまり行商人だね。彼らとは違って、定住したまま遠隔地取引をするんだけど、その時に一番重要なのは、はい、フーゴ君どうぞ」
「えと、“正確かつ迅速な情報”っすね」
うーん、即答できるとは、さすがにフーゴも威張るだけあって知識はあるんだなぁ。
「その通り。そういう訳で、大商会になればなるほど、国内外にたくさんの支店や代理店を置いて、その情報を集めようと躍起になっているんだよ。その情報を伝えるのが連絡員の役目ってわけ。単に荷物を運んでいるわけじゃないってことだね」
「情報っていうのはどういうものなんですか?」
「物価相場の変動もあるし、社会情勢の変化、地域で起こった出来事とか色々だね。例えば、ロマリアで新教皇の選挙があるだとか、ゲルマニアの東で飢饉が起こったとか、アルビオンで反乱の兆しアリ、とかね。そういう情報は商人にとっては全て儲け口になるんだ」
アルビオンで、のあたりでビクリ、としてしまう私。
それって“原作”の、アレだよね……。まさかそんな情報まで既に掴んでいると言うのか?!
「……飽くまで例え」「……反乱なんて起こらない、大丈夫」
双子が青い顔をした私を慰めるように言う。
いや、そういう意味で青くなったわけではなくて、商人達の情報収集力に驚いたと言うか。
でもこの二人、実は中々イイ奴なのかもしれない。ちょっとイメージアップかな。
「はは、例えがちょっと物騒だったね。ごめんごめん。……まあ、この商店はそういう大商会の支店みたいなものって事だよ。完全に傘下というわけではないんだけどね」
ふむ、支店のようなものだからこそ、“駐在員”と“連絡員”というわけか。
「その大商会っていうのは、もしかしてツェルプストー商会とか?」
「おいおい、ケルンにツェルプストー商会の本店があるのに支店があるわけねーだろ。少しは頭使えよ」
フーゴが横から馬鹿にしたように口を出す。
く、いちいち突っかかって来るなぁ。だって私はそれしか大商会なんてしらないんだもん。
「フーゴ君、駄目でしょ。ツェルプストー商会は、商社としてはウチの最大の取引先だね。ケルンのあるゲルマニア西部は彼らのテリトリーだから、西部の特産である穀物や食料品、それと諸外国からの輸入品は、ツェルプストー商会から買付しているよ。逆にウチで扱っている銀鉱石や、羊毛、羊皮紙、絹、毛皮、馬なんかはそっちに卸しているから、持ちつ持たれつといった感じかな。南部と西部は同盟を結んでいるしね」
何と、ツェルプストー商会は取引先なのか。しかし同盟とは何だろう。
「南部と西部、と言う事は、この店は南部の大商会の支店?」
「そうそう。南部のアウグスブルグを本拠地としているフッガー商会。カシミール商会の正社員《ファットーレ》名簿にもフッガー伯の名前があるし」
は、伯爵、ですと?!
「せ、正社員ということはその方もこの商店に、き、きちゃったり?」
「そんなわけ無いだろ。正社員ってのは従業員じゃなくて出資者って意味だし。つーか貴族くらいでいちいちビビってんじゃねーよ、みっともねぇ」
フーゴは嫌悪感を隠そうともせず、吐き捨てるように言う。
ありゃ、こいつは貴族嫌いなのかな?
「うん、言い方は良くないけどそう言う事。ゲルマニアじゃ貴族が商売に出資するのは普通だしね。ゲルマニアの四大、いや五大商会組合《アルテ》の代表者も、全て商会を経営してる貴族だし。それで他国から“商人の国”とか“野蛮”なんて言われているみたいだけど。まぁ金回りのいいゲルマニアに対するやっかみが半分だろうね」
へぇ、貴族が先導して商売をしているのか……。むぅ、これは成り上がるのも大変そうだなぁ。
しかし、色々とよく分からない単語が出てきたなぁ。
「ゲルマニアの五大商会ってなんですか?というかアルテって……」
「そうだね。そこから説明しなきゃいけなかったか。商会組合(アルテ)っていうのは、元々は同業者組合、という意味だったんだけれど、それが合併、吸収を繰り返してどんどんと大きくなったものだよ。諸外国じゃ、まだ職業別なのが普通な国が多いね。その中で、ロマリアはちょっと特殊で、自治都市政府《コムーネ》が前身となった、都市内商業組合というものが発展しているけど」
そういえば、ロマリアは今も都市国家の連合国だったわね。貧富の差が激しいはずだけど、商売は栄えているのかな?
海上貿易が存在するのなら、地理的には商売が最も栄える土地のはずだけれど……。
「つまり都市毎にある商人の集まりのようなもの?」
「さすが、アリアちゃん。飲み込みが早いね。ただ今は都市毎というよりは、地方毎、つまりゲルマニアの東西南北、それと中央のアルテの5つに統一されている。だからこれを五大商会アルテと呼んでいるんだ。ちなみに、ゲルマニアでは、アルテに属していない商人は商人として認めれられない。昔は組合の規則が嫌で、あえて所属しないという人もいたみたいだけど、今じゃありえないね」
「えっと、認められないとどうなるんです?」
「モグリの商人じゃ、仕事を回してもらえないだろうね。他にも、都市部で商売をする許可が下りないし、他の商人と取引もできない。アルテに所属するのに大金がかかるわけじゃない。遍歴商人だって所属してるし。それに属していないということは信用されないのは当然さ」
つまり、商業組合《アルテ》に属していないような商人は怪しい奴しかいない、という事か。
アルテは商人の身元保証をしてくれるらしい。
「この商店はどこのアルテに属しているんですか?」
「良い質問だね。カシミール商店は西部にあるけれど、フッガー家の資本が入っているし、親方は元々、南部の人だからアウグスブルグ商会アルテに属しています。ちなみにフーゴ君も南部出身だね。ギーナ君とゴーロ君は北部、僕はここ、西部が生まれ」
ふむ、所属するアルテがどこかっていうのは、その店が建っている場所よりは出資者の出自によるところが大きいという事か。
それにしてもみんな色々な所から来ているのね。私に至ってはトリステインだし……。
「ところでアリアちゃんは将来的にはどうするつもり?トリステインからわざわざここに来たってことは独立を目指しているのかな?」
「あ、はい、そのつもりです」
ま、ゲルマニアに来た理由は、能動的なものではないのだけれど……。
これは秘密にしておこう。さすがに口入屋に売り飛ばされたとは言いたくない。というか、言ったらフーゴあたりは奴隷女とか言いそうだし……。
「け、お前みたいなちんちくりんが独立できるんだったら俺はとっくに独立してらっ?!ちょ、ギーナさん、ゴーロさん!や、やめっ」
「……人の目標を笑うのは」「……よくない」
茶々を入れたフーゴを、双子がタッグ技で締め上げる。
“目標”というところに若干力が籠っていたので、もしかすると何か思うところがあるのかな。
「だったらなおさらゲルマニア国内の商業地図を覚えておいた方がいいね。モノの流れを、五大アルテの関係と照らし合わせてみようか。それで今日はお開きにしよう。国際取引に関しては少し難しいからまた今度ってことで」
「あ、はい」
エンリコは未だに締められるフーゴを無視して、そう提案すると、黒板に何やら図を書き始める。
「大体こんな感じの関係かな」
エンリコがチョークを置いて手をぱんぱん、と叩く。
北部 ハノーファー工業商会組合 リューネベルグ公爵
{火薬、砲弾、造船、紡績、楽器、毛織物、絹織物、織機、生活用品、製鉄、合金、武器、防具、刃物、鉄製農具、馬具、馬車、装身具、細工品、ニシンなどの魚介類}
↓ ↑↓
西部 ケルン交易商会組合 ツェルプストー辺境伯 → 中央 ウィンドボナ中央金融・商取引組合 皇帝アルブレヒト3世 ← 東部 ドレスデン資材商会組合 ザクセン=ヴァイマル辺境伯
{穀類、果実、野菜類、根菜類、麦酒、果実酒、塩、香水、製本} {コークス、木炭、木材、鉄鉱石、黄鉄鋼、銅鉱石、石英、各種宝石、顔料(ミョウバン、鶏冠石、石黄、酒石英)、綿花}
↑↓ ↑
南部 アウグスブルグ自由商業組合 フッガー伯爵
{銀鉱石、羊毛、羊皮紙、毛皮、皮革、蜂蜜、染料(細葉大青、虫瘤)、香料(乳香、カルダモン、甘松油、没薬)、家畜、乳製品、養蚕}
黒板に書かれたのはこんな図だった。さすがに覚えきれそうにないので、羊皮紙を一枚貰って板書する。
まぁ、私はまだ字が読めないので結局エンリコに読ませてしまったが……。
当然だが、地方によって特産品が異なっているようだ。
まず、ガリア、トリステインに隣接する、ここケルンを中心とした西部は、国際交易による輸入品全般が目玉。
それと肥沃な穀物地帯を持っているため、ゲルマニアの食糧庫にもなっている重要地域だ。酒造りも盛んで、果実系の香りのする香水なんかも名産。
国際交易をするつもりならば、西部と相場は決まっているらしい。う~ん、やっぱり私が独立する時に所属するのはここがいいかしらね。
そしてこの商会が属しているアウグスブルグを中心とするらしい南部は、ハルケギニアでも有数の銀鉱脈を持ち、それが目玉となっている。
他に、新興産業として、羊、馬などの牧畜や、養蚕、養蜂を行っているという。
東方じゃなくても絹はあるんだね。というか当たり前か。貴族の着る服って大体シルクだし。
次に工業都市が多く存在する北部。ここはゲルマニアの目玉である工業製品を売り物にしている。
工業製品ならなんでもござれで、商人と職人の結びつきが強く、メーカー的な要素が強いという。
『僕』の知識を活かすなら北側の方がよくない?なんて思ってしまう。
最後に鉱山、炭鉱、林業地帯となっている東部。悪く言うと田舎なのだが、ここがゲルマニアの縁の下の力持ちといったところではないだろうか。
何せ、鉄、銅、硫黄、木材など工業的に重要なものが大量に採掘されているらしいのだ。さらに、大規模な綿花の生産地でもある。
最近では炭鉱も開発されているらしく、非常に安定した実績を挙げている地域でもある。
ま、お堅い分、新参者には少し厳しい組合みたい。
「これって、北と南とか、東と西の交易はウィンドボナを通るという事ですか?」
「うん、アルテ同士で同盟を結んでいる南と西、それと北と東は直接取引をするんだけどね。それ以外は一度ウィンドボナを経由する事になっている。だからウィンドボナには各地の物産が全て集まっている、というわけ」
私の質問にエンリコはすらすらと答える。さすがとしか言いようがない。
それにしてもなるほどなぁ。これも中央集権化政策の一環なのかもしれない。
モノが皇帝直轄の都市であるウィンドボナに溢れているということは、それだけ皇帝の力を示す事にもなるしね。
「それと、中央の金融取引組合っていうのは一体?皇帝が出資者なんですか?」
「あぁ、大分昔に高利貸しが問題になったことがあってね。その時は貴族が随分破産して没落したらしい。その対策として、金貸しの規制をするために、皇帝の許しを得た商人以外は金融業ができない事にしちゃったんだ」
逆に言うと、一番美味しいところは皇帝が握っているという事になる。
ゲルマニアの皇帝は他国の王より格下といわれているけど、こういうところはしっかりしているよなぁ。
他国の王室はどうなっているんだろう。
「それにしても完全に組織化されているんですね、正直ちょっと意外でした」
「ま、ゲルマニアは新興国と言われてはいるけれど、それなりに歴史はあるしね」
まぁそうだよね。実際他の国が長すぎなだけだよねぇ。
6000年って……。10倍くらいサバを読んでいそうな気がする。
「さすが“商人の国”ですね。すごいです」
「へ、弱小国のトリステインなんかとは格が違うからな。格が」
フーゴが私の褒め言葉に気を良くしたのか、胸を張って自慢する。
トリステイン人がゲルマニアを田舎、といって馬鹿にするのと同様に(ゲルマニアの方がよほど都会な気がするんだけど)、ゲルマニア人もトリステインが好きではないらしい。
君を褒めた訳じゃないから勘違いしないようにね。
「じゃ、今日はここまでにしとこうか。少しはためになったかな?」
「えぇ、凄くためになりました!ありがとうございます」
講義が終わった後、窓から外を見ると完全に真っ暗で、道を歩いている人はほとんどいなかった。
私はエンリコだけでなく、双子にも頭を下げる。無知な私のためにわざわざ時間を割いてくれたのだ。感謝せざるを得ないだろう。
フーゴ?知らないよ、そんな人。
「よし、じゃ忘れ物をしないようにね」
「はい。ん……?忘れ、もの?」
そこで私は思い出した。用事を忘れていた。
一つは給金の事。
いくら貰えるのかはわからないが、前借でもしないと生活できないまでに金がないのだ。
昨日の夜ロッテと数えたのだが、手持ちの有り金の残りは86スゥ、8ドニエ。これではとてもではないが一カ月生活するのは無理だ。
もう一つはロッテの事だ。
あの吸血鬼を無理にでも職に就かせないと、このまま引き籠り化してしまいそうなのだ。
それは非常に困る。
早いうち、いや今日のうちに親方に相談をしておきたい。
「あの、まだ親方っていますかね」
「3階の事務室にいると思うけど……何で?」
「ちょっと私行ってきます、今日は本当にありがとうございましたっ」
そう言ってもう一度深々と頭を下げると私は3階に向けて走り出した。
その私の後ろ姿を見ながら、見習いのメンバーが口々に感想を述べていた。
「はは、面白い子だなあ。仕事で大分参っていたと思ったらもう元気になってる」
エンリコは苦笑しながら言う。
「……それに頭も良い」「……うん」
双子がそれに同意しながら、褒め言葉を口にする。
「褒めすぎっすよギーナさん、ゴーロさん。知ってて当たり前の事じゃないっすか」
フーゴはそれに反発して文句をつける。
「でも実際あの子は頑張っていたしね。今日のところは。フーゴ君は、意味も無くあの子を虐めないように」
「……虐めてたら」「……お仕置きする」
エンリコが「めっ」と釘を刺し、双子がさらに脅しをかける。
「みんな甘過ぎるぅー!」
私が去った後の経理部屋では、そんなフーゴの叫びが響いていたと言う。
つづくでござる