第四十三話:悪夢眼前の魔物は何か言っている。天空の末裔がどうのこうの、勇者は高貴な血筋に生まれるどうのこうの。芝居がかった口調だということまではわかる。だが、それがなんだ。そんなことを気にしていてはいけない。だというのに、どうして俺は動けないでいる?腸が煮えくり返る。火で焼かれるようにじかじかと顔が熱い。今すぐ突っ込んでいって、八つ裂きにしてやらなきゃならん。それなのに――デボラが、俺の服の裾を掴んで離さない。赤子を二人も産み落とした直後だ。立っているのとて辛かろうに。赤子。ああ、そうだ。あいつらのためにも、逃がさねばならん。いいや、逃がすだなんて腑抜けたことを考えるな。今すぐ、殺せばいいだけの。脳裏をよぎる、炭色の床。一箇所だけ焼け焦げたそこに何があったかを覚えている。アレの下手人は、目の前の魔物で。俺は立ち向かわなくてはならない。倒して、帰る。デボラと帰る。あいつらのところへ帰るんだ。――ああ、俺は死にたくないのか。《身の焼ける苦痛》を二度と味わいたくないのだ、という考えが心の何処かにストンとはまった。この逡巡でだいぶ時間を無駄にしたことに、けたたましい笑い声に気付かされる。「さあ、ミルドラース様より授かりしの魔力を受け、石となって世界の終末を見届けなさい!」「ッ!」正気に戻ったのが遅すぎた。俺の両手両足はゲマの放った光の当たった場所から、徐々に動きを止めていく。まるで体が石の塊に置き換えられていくみてえに。「ジャギ!」デボラはいつの間にか俺の前に出ていた。あの障壁を割った力で、俺を庇おうとしたのか。「ッ、ふざけるな、俺ァ、こんなの認めねえッ」あいつらを逃がしたい。あの野郎を殺したい。どちらもできない。俺が弱かったから。俺が弱いから。俺は判断を間違えたんだ。『父さん』を奪われたときに、もう二度と、間違わねえと誓ったはずなのに!「ッ、ガアアアアアアッ!」獣じみた咆哮と、妙にどろりとした魔力を放ったところまではまともに意識があった。荒れ狂う力の奔流だか、爆発だかが発生して、視界が白く染まる。ゴウゴウと耳元で鳴るやかましい音の向こうにゲレゲレの鳴き声と、ピエールの「帰ってこい」という叫びが遠ざかっていったような気もする。そして最後に見えたデボラの顔は、笑っていた。何故だ? どうして、そんな顔ができる。笑えるようなことなんざ、何もないはずなのに。ああでも、こいつの笑顔が見られて、よかった。それだけを最後に認識して、俺の意識は沈む。ひどく耳障りな幻聴は《ジャギ』が幸せになれるはずもないと嘲笑う。だが、それにむきになって反論する気も起きなかった。俺の内から響く幻聴が泣いてるガキの声にしか、聞こえなかったせいだと思う。次に意識を取り戻したのは、セメント樽にでも突っ込まれたような不快感によってだ。動けない身体と、ぐちゃぐちゃとやかましく声が響く頭。俺の心に直接恨みつらみの叫びを叩き込まれている。天や運命を、あるいは有象無象へ向けられたものではない。《「どうして殺した」》《「死にたくなかった」》《「憎い」》《「お前が憎い」》《「俺たちの痛みや苦しみをあじわえ」》《「幸福になどさせてなるものか」》《「ああ、お前(ジャギ)が憎い!」》石像となって眠ることもない意識の中でぶつけられ続ける怨嗟は、全て《ジャギ》へ、前世の俺へと向けられたもの。老いも若きも男も女もあらゆる声が俺を呪う。「(……飽きねえな、こいつらも)」最初はうろたえた。肉体があれば反吐を吐きのたうち回るような苦痛に感じていたときもあった。けれど、どれだけ時が経ったのかすっかり慣れちまった。考えてみりゃ、恨み言をぶつけられて当然のことをしている。だから、こんなもんで俺の精神がどうにかなるわけなんざないんだ。《俺》に殺された程度の輩が、『俺』を壊せるとでも思ったのか。「(舐めやがって。ふざけんじゃねえ。殺す。体が動くようになったら、殺してやる)」この怨嗟が虚空から突如湧いて出たわけじゃねえくらいわかっている。これはゲマのクソ野郎か、魔王だかって野郎にかけられた呪いなんだろう。俺から自由を奪い、幸福を失わせようとする奴らへの怒りが募るばかり。その怒りが動けはずの身体にまで影響を及ぼし、ありありと憤怒を浮かべた相へと変形させたのは、あいつらにも想定外だったに違いない。少なくとも俺には想定外だった。ついでに言えば、おぞましい顔を恐れて庭の片隅へと追いやられたことも。薄暗く湿った木陰では、せいぜい冬がきたかどうかくらいしか周囲を認識できやしない。あいつらは無事なのか。世界の滅びが遠いのはどうしてだろうか。憎悪と憤怒と苦痛の海の合間で、息を継ぐようにそんなことを考えたりもする。そう考え出す時にはいつだってデボラの顔が浮かぶ。あの笑顔と、はめたままだった火のリングの優しい温かさが、俺の心を壊れぬよう繋ぎ留めている。これを覚えている限り、俺は人でいられるに違いない。でなければきっと、壊れていた。時を、日を、月を数えることを投げ捨てどれだけの時が経ったのか。耳に馴染んだ怨嗟の合間に、聞きなれない声が混ざる。甲高い声は柔らかくて、温かくて、今までにないほど胸が痛い。その声の主が杖を掲げる。青い宝玉が光り、水のような魔力が俺の身体を包んでいく。「かっ、はっ」急に喉奥に吸い込んだ久方ぶりの空気でむせ込む。重力を思い出した体は上手く対応できず、地面へとへたり込む。「ジャギ様! ああよかった! わかりますか、ジャギ様!」「大丈夫かジャギ、痛いところは? 私たちの声が聞こえるか?!」未だぐらぐら揺れる頭を抱えたまま、乾ききった目を潤すように二度三度瞬く。「……サン、チョに、ピエール、か?」「ジャギ様!」「ジャギ!」「あ、れから、どう、なった、何年、経ったっ、デボラ、はっ」かひゅかひゅと鳴る喉を叱咤しながら、尋ねる。「……申し訳ありません。デボラ様の行方は、未だ掴めておらず」「すまない、解呪方法と君を見つけ出すので八年もかかってしまった」「そ、うかよ。それじゃ、さっさと」「ま、待って!」さっきも聞いた声が俺たちの会話に割って入る。視線を向けて、俺は息を飲んだ。子供がいる。黒い髪をした子供が二人、俺を見ている。まだ、十にもなっていなかろう男と女の子供が一人ずつ。声は上げたものの次が続かないらしい男の方の手を、女の方がしっかと握る。それで腹が据わったらしい。こっちを見る目に、覚えがあった。「お父、さん、なんだよね? 本物の、ボクたちの」「わたしたち、探しました。ずっと、色んなとこ、だって、会いたくて」舌より早く、体が動いた。両の腕でそれぞれを抱きしめる。この暖かな温もりを、覚えている。「ラ、カン、と、リリ」「!そうだよ! お父さん! ボクは、ラカン! それに、リリ!」「わたしたちの名前、お父さんがつけてくれたんですよね!」かき抱いたまま二人の髪を撫でる。綺麗な黒髪だ。「この髪が、俺たちに似ている」デボラにも、俺にも。よく顔を見れば、きっと他にも似てる場所はあるに違いない。俺とデボラの子だ。俺の、血の繋がった、息子と娘だ。さあ、何処が似て……待て。なんだ。これは。そんな、わけが。「お父さん、どうしたの?」「きっと疲れちゃったのよ。ずっと、立ったままだったんですもの」「ラ、カン」なあに、と無邪気に聞いてくる子供の背中に古びた剣。俺が初めて見たときよりも不思議と輝きを増している。正しい担い手と共にあるからだとでも言うように。「ラカン、これは。この剣は」「!あのね、お父さん聞いて、ボクね!」褒められたい子供にはきっと俺の顔は見えていない。「おじいちゃんが見つけて、お父さんが残した天空の剣が使えるんだよ!」声が。ぐるぐると回る。ゲマは言っていなかったか。勇者は天空の末裔の、高貴な血筋に生まれると。天空の末裔――ゲマはデボラをそう呼んだはずだ。高貴な血筋――「ジャギ王、やはりまだ体調がよろしくないのですか?!」俺が、グランバニアの王だ。「お父さん、お母さんもおばあちゃんも助けに行こうよ!」屈託もなく笑うこの子供が? 俺たちの子供が? 「ボクは勇者だから、ボクたちが世界を救うんだ」仇討ちのための手段としてしか考えていなかった、『救世主(ゆうしゃ)』……?『ずっと探してた勇者が自分の息子』なんて、そんな嘘みてえな話がありえるのかよ。『俺』は選ばれなかった。選ばれたのは、『俺の家族』。やっと見つけたという安堵と、苦難を背負わせる恐怖と、俺ではなかったという羨望と苦痛で、心が軋んで目が回る。視界が暗転する。どよめきが遠ざかっていく。何年も味わい続けた怨嗟と苦痛よりも、ずっとおぞましい悪夢のように思えた。――――――――――――――――――――――――――――果たして映画までに完結できるのか。頑張れ自分。