見慣れたはずのそこが妙に厳かに見えた。もう二度と着ないだろうと思っていた礼服に袖を通して、石畳に敷かれた絨毯を歩く。一歩、また一歩。これが夢ではなく現実なのだ、と認識するために。いつもなら玉座に座っているおっさん……オジロン王は、今日はその傍らに立っている。大勢の兵士たちを始め、城の人間が固唾を飲んでこちらを見ていた。そうして、おっさんの隣に立つ。「……皆のもの!」張り上げた声はやはり父さんに似ていた。「既に告げた通り、ここにいるジャギは前王パパスの息子である!」兵士たちは黙って聞いている。大臣の姿は見えない。確か、この後の宴の準備に奔走しているのだと聞いた。へっ。あいつなんだかんだ言って、長いもんには巻かれるタイプのようだな。「故に! ワシはこのジャギに王位を譲ることを、神に誓おう!」ここからの手順は解っている。膝をつき、目を閉じた俺の頭に感じる重み。今の今までおっさんが被っていた王冠。ちょっと生温かい。次に肩に巻かれるマント。これもおっさんが着てたから生温けえ。それはともかく、王冠とマント。グランバニアにおける、王位の象徴。ゆっくりと目を開いて、立ち上がり、玉座の前へ。これからこの椅子は、俺のものだ。父さんから、受け継いだもの、だ。「それでは、新たなる王ジャギよ! 宣言を!」それを合図に向き直り、声を張り上げる。本当は難しい文言を並べていたらしいが、親父の代からは簡略化された、王位継承の誓いを叫ぶ。「グランバニアの民と国に、栄光あれ!」「「「栄光あれ!」」」兵士たちの唱和に続き、鳴り始める交響曲。それを背に俺はゆっくりと歩き出す。これから街へ出て、民へ顔見せだ。お人よしな国民共はきっと俺がこの国の王子だったこと、王になったことに、驚くに違いない。しばらく後。俺は宴の席で「皆、気が付いてたけど黙ってた」と知らされてテーブルに突っ伏していた。「むしろ信じ切っていたあんたのほうが凄いよ……」「うるせー……」ぐい、と杯を煽る。どこで見つけてきたのか、随分と飲みやすい酒だ。何処で飲んでるんだか姿が見えねえが、後で大臣を褒めてやらんとな。「にしても、そろそろだと思うんだがねえ」「あん?」産後すぐで起き上がれないデボラの代わりに、俺と呑んでいたドリスが何かを探すように辺りをきょろきょろと見回していた。その口元に笑みが浮かんでるのは、どういうこった?「ラインハット宰相閣下ヘンリー様御夫婦、御到着です!」「サラボナのルドマン様も御到着です!」「げふッ!?」兵士の声に飲んでた酒を盛大に噴き出す。「王位継承ってのは一大行事だぜー? そりゃ客人くらい呼ぶさー」「そ、そういうことはもっと早く言いやがれ!」「わはは、そう言うなってジャギ! 俺が黙ってて欲しいつったんだからな!」見慣れたニヤニヤ笑いを張り付けた男には、宰相閣下なんて肩書きが微塵も似合ってねえ。「テメエ、ヘンリー! まだそのイタズラ癖治んねえのか!」「うるせえなあ! こんな大事なことを黙ってるなんて、それでも友達かよ!」「友達に決まってんだろうが!?」ごん、と久しぶりの感触を拳に感じる。「まあまあ、相変わらずですわね、ジャギ様」「ったた……はは、いやしっかし驚いたあな、マジでお前が王様かよ」ヘンリーは笑って俺を見ていた。……考えてみりゃ、妙な話だ。いつか、俺はこいつを見て『住む世界が違う』と考えたことがあった。それがどうだ。今もこうやって、あの頃みてえにバカやって笑えてる。「お前が王様、ってことは……そういうことだよな、うん」「ん?」「……ジャギ様、この方は」俺とは離れたところで呑んでいたはずのサンチョがいつの間にか俺のすぐ側に来ていた。いや、すぐ側と言うよりは……俺とヘンリーの間に入るように、か?「前に話したろ? ラインハットの、」言葉が喉奥で詰まる。ぞくぞくと背筋が震えた。出所は……サンチョ?いや、違う。サンチョからも感じるがこの酷く冷たい気配はどこから出てる。こんな気を出せる奴が、どこにいる?「ラインハットの、王子。ジャギと一緒にさらわれた方、じゃな?」「おっ、さん?」振り向いた先。今までに見たことのないような険しい形相のおっさんが、いた。「わしはグランバニア前王、オジロン。……パパスの弟と、言えば良いか」「っ……」ヘンリーの顔が強張る。今更、気が付いた。俺は十年も一緒に居たから納得できた事実を、おっさんとサンチョは受け入れがたかったのだ。「……謝罪させて、ください」ヘンリーが礼装の帽子をとり、頭を下げる。そして、ぐるりと国民に向き直った。「グランバニアの民よ! 真に申し訳ない!」深く頭を下げる姿に国民がざわついている。「貴君らの偉大な王、パパス王は……ラインハットの内紛に巻き込まれ、亡くなった」ざわめきはさらに大きくなる。「内紛の原因は私にもあり、私が、貴君らから彼を奪ったようなものだ」ヘンリーの声は震えている。「だが、今の俺があるのは、パパスさんのおかげで……そうしてまた、ジャギのおかげだ!」目に涙を浮かべたまま、ヘンリーは震える手を伸ばす。「ジャギ王。ラインハットはこれから永遠に、貴国に手を貸すと誓おう」握手してはいおしまい、めでたしめでたし、かよ。馬鹿馬鹿しい。「……アホかてめえは」その一言に呆然としたヘンリーの肩を、思い切り掴む。「友達に、んな小難しい誓いなんざ、必要ねえ! 俺は赦した! 王が赦したから国も赦せ!」「……無茶を言うなあ、お前……」呆れたヘンリーの声に続くように、どっと笑いが湧き上がる。「パパス様の取り持った二人の、そして二国の友情に乾杯ッ!」そう叫んだ声に釣られるようにして、宴は元の騒がしさを取り戻し始めた。「そういうことだから、よ」「……ジャギ様が、そうおっしゃるなら」サンチョは未だ納得しきれぬものを抱えているような顔だが、とりあえず引き下がる。「……いつか、そういう風に命を落とすと、思っておったよ、兄上は……」「……すみません」「いや、よい。……今からは、新しいものの時代じゃ」張りつめていた空気がふ、と和らぐ。おっさんはそれでもどこか寂しそうな顔で笑った。「兄上が守った命と国、大事にしてくだされ、宰相閣下」「……はい、必ず!」それだけ告げて、おっさんは俺たちから離れる。ドリスは心配そうにそれに付き添っていた。「悪いなジャギ。即位式だってのに雰囲気悪くしちまって」「……気にすんな。うちの国民はお人よしだ。明日にゃ納得してるさ」「あ、あのところでジャギさん。デボラさんのお姿が見えないのですが?」マリアが少し裏返った声で尋ねてくる。気まずげな雰囲気を断ち切るつもりらしい。「あー、あれだ。昨日赤ん坊産んだばっかでな、今日は出られん」「え、ええ!? 生まれそうとは聞いてたが、もう!?」「ま、まあまあ、それはおめでとうございますジャギさん」「な、何ーっ! もう産まれておったのか!?」いつの間にか俺の傍に来ていたハゲ……もといルドマンが素っ頓狂な声を出す。「まあな。ああ、それより……さっきは助かったぜ」さっき乾杯の音頭を取ったのは間違いなくこのジジイだ。あれがなけりゃ正直まだ妙な雰囲気のままだったかもしれん。「うむ。それはともかく、孫かー。そうかー、わしもおじいちゃんかー」ああ、そうか。ジジイが本当にジジイになったんだな。うん、そうだ。ここはめでたい席だ。ちょっと不安になったがなんてことはない。呑んで、騒ごう。俺は幸せだ。今までで一番、幸福なんだ。闇の中。声がする。その声に覚えがある。『幸せになれると思ったのか』思ってもみなかったが、なれた。『幸せが続くと思っているのか』どういう、ことだ。『ジャギに幸せが訪れるはずはない』黙れ。俺は幸せだ。親父から受け継いで、嫁がいて、子供までいる。これを幸せと言わずに、何と言うんだ。『そうか。それがお前の幸せか』おい、何を笑ってやがる。姿を見せやがれ。『……幸せになれるもんか。《ジャギ》なんだから』ずぎり。ずぐり。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!なんで、今、頭痛が。ありえねえ、ありえねえだろ!何も辛いことなんざねえのに、俺は幸せなのに、どうして、頭が痛むッ!?『だって、《ジャギ》が幸せだと思っていたとき、《アイツ》は』うるさいうるさいうるさいうるさい。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。「ぐぅああああああああああッ!!」喉をついて出た悲鳴に目を覚ます。ちきしょう、なんだったんだあの胸糞悪ィ夢は。「……あー、ちきしょう。頭痛ぇ……」飲みやすいからって呑み過ぎたのがいけねえ。おかげで妙な夢なんざ見ちまう。いつの間にか城は薄暗くなっていた。朝早い時間から日暮れまで飲んじまうなんて、少々はしゃぎすぎちまったか。「……は?」待て。おかしいだろ。薄暗いってレベルじゃねえ。灯ってる明かりが足りん。恐る恐る天井を見上げる。オレンジの光がぽつぽつと灯っている。――聖なる松明の光が、一つも、見当たらん。「ぐごぉ……すぴぃ……」俺の隣ではヘンリーがいびきをかいている。ヘンリーだけじゃあない。目に付く奴らは、机に突っ伏すか床に寝ころぶかの体勢で、どいつもこいつも眠りこんでる。「な、んだ、こりゃ」おかしい。幾らはしゃいだからって、全員眠りこむなんざ、そんなこと普通なら、ありえねえ。「あ、あああああああああッ!?」絶叫が城に響き渡る。二度めの叫びに何人かが身じろぎするのを横目に見ながら、俺の脚は自然、寝室へと向かう。ここは平和なグランバニアだ。俺は酔っておかしな夢を見ただけだ。こいつらも呑み過ぎて酔っ払ってるだけだ。魔物を避ける聖なる松明が灯ってないだなんて、目の錯覚だ。そうさ。だからこの俺を突き動かす焦燥感も馬鹿げてる。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえちゃならねえ。なんでだよ。俺は幸せなんだぞ。幸せだったはずだぞ。もう一回手に入れた幸せはそんな簡単に壊れるもんじゃねえ。だから、な? ほら、俺の手の震え止まれよ。落ち着いて、ゆっくり扉を開けるんだ。そしたらそこにデボラがいて、赤ん坊も隣にいる。「またこざかなみたいな顔でどうしたの?」ってそう聞いてくるに決まってる。ああそうだよそのはずだろそうでなきゃいけないだろ。「なん、で……」だからほら、このぐちゃぐちゃに荒らされて、あちこち焼け焦げた後があって、血とかで汚れてる寝室はきっと、俺の見間違いだ。真っ暗な部屋の中に誰もいないなんて。そんな、ことが、あるわけが。止まれ。頭痛止まれ。変な幻を見せるな。止まれ、止まれ。「い、あ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ」喉から出てくる、この引きつれた声も、止まれ。これはきっとまだ、悪い夢だ。───────────────────────────────────────らいふく【来復】一度去ったものがまた戻ってくること。