第二十七話:Sorrow and Joy are today and tomorrow. (人間万事塞翁が馬) 出発したのは夕焼けが空を赤く染めていた頃で、幾らも行かぬ内に日が沈んだ。船乗り達は慣れたもので、真っ暗な湖の上をすいすい進んでいったが、上陸するのは、明日にした方が良いだろうという結論になった。あいにくと、今日の月は余り明るくない。目的の祠に、夜道を歩いて辿り着ける自信はなかった。「……っはぁー」甲板に出て、夜空を見上げながら思わず息を吐いた。いつ見上げても、綺麗な空には、数えきれぬ程の星が瞬いていた。「でも……、ねえんだよな」手すりに寄りかかって、呟く。船乗りに教えてもらった、ほとんど動かない北の星――北極星――の周りに、見慣れた星が、一つも存在しない。貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍、そして輔星。そのどれ一つとして、今見えてる空には存在していない。いやまぁ、輔星は見えない方が都合がいいんだけどよ。あれは、見た奴に死を告げる星だからな。今見えても困る。とにかく、それらがない、ということは、それらを繋いで象られる、柄杓が存在しない、ということだ。ついでにいうと、南の空には六つ星も、十字の星も、ない。それを思うと、何度目かになるか解らないため息が口から零れた。とっくの昔に理解しているはずなのに、何度夜空を見上げても、俺はあの星を……、《北斗七星》を探しちまう。あんな場所に、未練なんざ微塵もないはずなのに、な。「あんた、まだ起きてるの?」声をかけられて、そちらを向く。寝間着にカーディガンを一枚羽織った姿で、デボラがそこに立っていた。「……旅に寝間着持って来てんのかよ」「野宿じゃないんだからいいでしょう。で、何してたの?」「別に。ちょっと星を見てただけだ」「星、ねぇ」俺の隣に立ったデボラが、同じように夜空を見上げる。「……町の中よりは、確かに多く見える気がするわ」「ま、灯りが少ないからな」「そっか。小さな星だと、灯りに消されて見えなくなっちゃうのね」「……光の、強いもんばっかり、目に入るってことだ」《誰か》と比べられては、劣っているとされた《俺》のように。そんな考えが過った頭を、横に振る。「私、そんなことにも気付かなかったわ」「あ?」手すりに頬杖をついて、視線を空へ向けたまま、デボラが呟く。「パパの監視なしで旅をするのって、これが初めてなの。 子供の頃に、何度か旅行したことはあるんだけどね」デボラの口元が、楽しげに歪む。「大変な旅だってのは、分かってる。でもね、私楽しくてたまらないのよ。 例えば、たくさんの星が見える夜空とか、水の匂いとか」ひゅう、と水辺独特の少し冷たい風が吹いてきて、デボラが身震いする。「こういう、風とか、今まで感じたことがなかったもの」松明で照らされた、デボラの笑顔は、本当に楽しげで、俺は自分の心臓が、跳ね上がるのを確かに感じた。「ね、ジャギ」「な、なんだよ」「少し寒いわ」「……そんな薄着じゃ当然だろ」風は冷たいし、大体こいつの服は少々薄過ぎる上に、今は寝間着だ。「もう、気が効かないわね。ほら、こっちに来なさいよ」そう言ったかと思うと、ぐい、と手を引いて、デボラが腕に抱きついた。「なっ」「……こうすると、暖かいわね」デボラは、俺の体に縋って満足そうな笑みを見せる。いやまぁ、確かに、一人で居るよりは二人でくっついてる方が暖かいだろう。暖かい、ってのは十分承知してる。分かってる。だが、それより問題が。「あー、デボラ」「何?」見上げてくる顔。その口元は、悪戯っぽく歪んでいた。もしかしてわざとか、わざとなのか。「……当たってるんだが……」何を、なんざ言わせねえでくれよ、頼むから。「当ててんのよ?」くすくす声を立てて笑う。その視線は、俺を見上げたままだ。「何照れてるのよ。私達、夫婦なんだからいいじゃない……ね?」頬が、薄ら赤く染まっている。ああ、そういやあ、昨日は寝過ごした。つまり、その、そういう、こと、か?「あああああ、明日は、明日は早いから、ももも、もう寝るぞっ」その意図を意識すると、体全体が熱を持つ。この程度でうろたえる程初心でもねえし、向こうじゃ、それなりの経験もある。ある、はずなのだが、どうしても心臓の鼓動は穏やかになってくれねえし、顔は熱が籠り過ぎて今にも倒れちまいそうだ。今日は無理だ、つうか、まだ無理だ。折角のお誘いは、また後日、にしてもらおう。逃げるようにして背を向けて、速足で部屋へと戻っていた。余り眠れなかったせいでロクに動かぬ頭と体を叱咤しながら、パトリシアの手綱を引く。デボラは、馬車の中に待機してもらっている。こないだまで箱入りのお嬢様だった奴が、いきなりモンスターを相手に戦える訳が無いんでな。「やってやれないことは無いと思うんだけどねー」馬車からひょっこり顔を出して、不満げに口を尖らせる。「頼むからそういうのはせめて武器を持ってから言ってくれ」こいつが普段付けている爪。どうもそれを武器にしているらしい。あんな細くて柔らかい体で、武器も使わずに戦うなんざ自殺行為じゃなかろうか。これなら、ビアンカのように茨の鞭でも持っていてもらった方がマシだ。「ま、戦いに関しちゃあんたの方が上だし、言うことを聞いてやらないでもないわ」「へいへい」「パパが昔は冒険家だったからねー、護衛用に体術とちょっとした魔法くらいは、 習ったんだけど、駄目かしら」「駄目だつってんだろ」「あーあ。私もフローラみたいに、モーニングスターくらいは、 使えるようになってたらよかったかしら」箱入りお嬢様が学んだ護身術なんか、たかが知れてる、と言おうとして、予想外の言葉が聞こえてきて耳を疑った。寝ぼけて聞き間違えたか。「おい、今なんて」「ん? ああ、あの子ね、力はあんまりないけど、結構武器使えるのよ? 剣に、杖に、鞭。重いのは持てないけど。魔法の覚えもあの子の方がよかったわー」馬車の中で、家から持ってきたお気に入りのクッションを背もたれにしつつ、デボラが心底つまらなさそうに愚痴る。「私は体術の方が好きだけどね。相手の懐に潜り込んで戦える爪とか、 一撃で相手を押しつぶせる槌とか。剣も鞭も嫌いじゃないけど、 杖とかの長ものはあんまり使えないのよね」「……お前の親父は何でそんなもん教えてんだ」使ったことはないが、モーニングスターがどんな武器かくらいは知っている。戒律で刃物が使えない聖職者や非力な奴のために作られた武具らしいが、実際は、杖の先に鎖で繋いだ鉄球をぶん回すだけの代物である。どう考えたって、聖職者や、非力な女子供の武器ではない。明らかに、モヒカン共が持っていた方が似合う。「つうか、槌、っておかしいだろ。そんなもん女子供に護身のために教えるか?」「何でも、パパのご先祖様は、色んな武器を使いこなす武器商人だったらしくって、 その人の教えらしいわよ。剣とか斧とか棒とか算盤とか、何でも武器にしてたって」嘘くせえ。絶対、どっかで誰かが吹いた法螺が混ざってる。が、待てよ。昨日、盾を受け取った時に見えた、幻。あれが本当なら、あのおっさんの先祖は勇者と共に旅をしてたみてえだから、そんな風に、色んな武器が使えたっておかしくねえのかもしれない。「そんなもんか」驚きこそしたが、もう少しおとなしい武器を使え、なんざ言うつもりはない。勝つためにはどんな武器を使おうが、別に構わねえもんな。にしても、あの小太りがよくもまあそんだけ使いこなせたもんだ。「ジャギ、目的の場所はあれではないのかね?」ピエールが剣で示す先に視線を送る。確かにそこには、古びた祠が一つ、姿を見せていた。蔦や苔で覆われた祠。その扉に、デボラが鍵を差し込む。ぎぃぎぃ軋んだ音を立てて、扉がゆっくりと開いた。下へと下へと伸びる長い螺旋階段を見下ろしながら、デボラがふぅと息を吐いた。「こんな場所のこと、初めて聞いたわ」「当主以外には代々秘密、とかそんなんじゃねえのか?」何気なく口に出した途端に、ずきり、と頭が痛む。ああ、まったく、どうしようもねえな、俺は。『父親』に、『教えてもらえてなかった』ってだけで、《昔》のこと思い出すなんざ。「……大丈夫? 顔色が悪いけど」「ちょっと高くて、めまいがしただけだ」「確かにこの深さじゃねえ。ま、ここで見てたって仕方ないから行きましょ」デボラがつかつかと歩み出す。俺とスラリン、ゲレゲレも、その後に続く。「……ん? どした、ピエール」ただ、ピエールだけが馬車の傍から動こうとしない。「ああ、いや、その、私はここで敵が来ないか警戒していよう」上ずった声。もしや、と声をかける。「テメエ、ひょっとして高い所が苦手なのか?」ぎくり、と解りやすく背を揺らしてピエールが沈黙する。ニヤニヤ笑いながら見つめてやる。普段の意趣返しだ。そんな視線に観念したのか、小さく息を溢した。「……高い所が苦手なわけじゃあ、ない」「ほぉ? じゃあ、何だってんだよ」「……階段が、苦手なんだ」「階段?」高いとこが苦手、なら解るが階段が苦手ってどういうこった。「……酔う」ピエールの指先が、幾度か上下に動く。「ああ」納得して頷く。普段、平原を歩く時さえスライムに乗ったピエールの体は、かちゃかちゃと上下に動いている。それが階段ともなれば、上下運動はさぞ激しいことになるだろう。「……降りたらいいんじゃねえか?」「んもー、何言ってるのさジャギ。スライムナイトは、あんまり長いこと スライムから離れられないんだよ?」スラリンが、呆れたような声を出す。いや、知らんぞ、そんなことは。「スラリンの言うとおりなんだ、ジャギ。 普通、スライムと騎士は一心同体。故に、離れては動けない」開き直ったピエールは、本気で階段を下るつもりはなさそうだった。前から気になってたスライムナイトの生態について、解決したようなややこしくなったような。「あーまあ、いいさ。俺達だけで行ってくるから、馬車の警護頼む」「御意」そんなわけで、ピエールを残して俺達は階段を下る。ぐるぐると渦を巻いた形に作られている階段は、ピエールじゃなくて酔いそうだ。「あーもう、魔法で上と下を行き来できたらいいのに」ヒールの高い靴を履いているデボラは、歩きにくそうで、そんな文句を言っている。「同感だ。落ちるなよ」落ちないようにその手をとりつつ、下へ下へと歩いていく。「っ、と見えてきたな、あれか」祠の底に、ぼうっと青い光が見えてきた。「あれ、下まで降りないと駄目かしら」「壺の様子を見て来い、って言われてんだから駄目だろ」「頑張れー二人ともー、あとちょっとだー」スラリンが声をかける。「がう」ズルしてる奴は黙れ、とでもいうようにゲレゲレが一声吼えた。階段移動が大変なので、スラリンはゲレゲレの背中に陣取ってるから、そう言いたくもなるわな。そうして下りた先には、妙な壺があった。犬とも猫とも何ともつかないような、間抜けそうな顔の獣を模した壺。それが、どういう理由か青い光を放っている。だが、それを前にすると背筋がぞくり、と震えた。「ね、ジャギ、あっちの、あれ」デボラが、服の裾をひく。何故か小声だ。「何だァ?」デボラの指差す先。そこにあったのは……骨、だった。頭蓋骨や肋骨、それに手足の形状を遠目に見る限りでは、人間のものに、間違いない、だろう。「マヌケな盗賊が、足でも滑らせたんだろ。気にすることじゃねえ」「そ、そう、よね」デボラの体が、ほんの僅かに震えている。気丈なこいつでも、流石に人の死体は堪えたか。「……一歩間違えたら、私達もああなってたのかしら」「馬鹿かテメエは。俺がそんな失敗するわけねえだろ」かたかた震える体を、少々強引に抱き寄せた。「絶対に、落ちねえし、落とさねえ。ほら、帰るぞ。リレミトも使えねえからまた階段だ」「……歩くのが面倒だわ」照れ隠しなのか傲慢なのかよく解らない声で、デボラが呟く。「んじゃ、こうすりゃいいだろ」そのまま、デボラを横抱きに抱える。「しっかり掴まってろよ」面食らっていたデボラは、俺がそのまま歩き出したのに慌てて、腕を首に回した。「落とさないでよね」「落とさねえつってんだろ」そのまま、一歩一歩慎重に階段を上っていく。……ピエールを連れて来なくて、良かったかもしれない。多分、あいつは今のこの格好を見たら、またいつものニヤニヤ笑いをしていた。階段の上り下りに随分時間がかかった気がしたが、実際はそんなに長いこと中に居たわけではないらしかった。「おかえり。どうだった」「お前は来なくてよかったよ」色んな意味でな。「あのねー、ジャギったらねー」「はいはい、余計なこと言わねえでとっととサラボナへ戻るぞ」喋り出したスラリンを摘まんで、馬車へ投げ込む。もそもそと草を食べていたパトリシアが、顔を上げて鼻を鳴らした。「ルーラは使わないの?」「船の人員まで一斉に動かすとなると、精神力と魔力を使い過ぎるんでな」結婚式のときでようく解った。あれはあんまり大人数を動かすのには向かない。動かせて、精々、八人と言ったところか。……人じゃない奴らと一緒に移動する方が多いから、八人、という言い方は間違ってるような気がするが、構わんか。「で、サラボナに戻ってからの話だが」「ああ、パパはね、旅用に船を一つ譲るって言ってたわ」「……は?」突然言われたそんな話に、つい間抜けな声を上げる。「古い船でね、昔はよく旅行に使ってたわ。それを、譲るって。 ラインハットの方の大陸と、こっちの方の大陸は大体回ったんでしょ?」手にしていた地図を、ひょいとデボラが覗きこむ。とん、とん、と地図の上に幾度か指先を置いた。「だから、このテルパドールって国とか、こっちの大陸とかに行くしかない。 で、そういうとこへ行くのに船は必要じゃない」「そう、だな」「でも、今定期船は出てないのよね、魔物が多過ぎて」そういえば、ラインハットへ戻る船もない。近海で漁をするのさえ、危うくなっている、という話を聞いている。確かにそうやすやすと他の大陸へ渡る船は出せないだろう。「だから、船と乗組員が、まるまる一つ私達のもの、ってわけ」「それはまた……豪快な」呆気にとられていると、デボラが笑った。「当然じゃない。私のパパよ」「……ああ」妙に納得してしまった。確かに、そういう勢いで物事を決める辺り、間違いなく、こいつとルドマンのおっさんは親子だ。二、三度遭った魔物の襲撃は何なく退け、船に戻る。それから寄り道せずにサラボナに戻る頃には、すっかり日が暮れていた。「そうか……、壺の色は青だったか」うむうむ、とルドマンは頷く。「それで……、デボラは足手まといにならなかったかね?」足手まといになるも何も、船と馬車に乗ってただけなんだが、と俺が言う前に、デボラが口出しする。「怪我もなく帰って来たのよ。足手まといだったわけないじゃない。 大体、パパは心配性過ぎるんだわ。そんな風だから頭が寂しいのよ」「ぶふっ」不意打ちだ。反則だ。卑怯だ。噴き出さずにはいられない。お前、そういうこというなよ。そりゃそうかもしれないけどさ。「とにかく、私はジャギと旅に出るわよ。文句は言わせないからね」「ああ……、解ったよ。お前は、昔から言っても聞かない子だったからなぁ」困ったような口ぶりのくせに、ルドマンの声音は優しい。これには、覚えがある。『父さん』がこんな感じの声で、よく話しかけた。「二人とも、旅に疲れたら、いつでもここへ帰ってきなさい。 ここが、お前達の家なのだからね」「解ってるわよ、パパ。ここは、私の家で、ジャギの家」デボラがいつものように笑って答える。「うむ。さて、今日はもう休むと良い。別邸も、寝られるようにしてあるよ」「そうねえ……、私の部屋だと、ちょっとベッド狭いわね」思い立ったように、デボラが俺を見上げて首を傾げる。「私の部屋だったら、あんたが床に寝ることになるんだけど」「……あっちで、休む」ふと浮かんだ考えで頭がいっぱいで、俺の声はぼそぼそしたものになってしまっていた。「そうか、それでは、夕食は、あちらへ運ばせよう。ゆっくり、休むとよい」」「……はぁ」ベッドの上に、ごろりと転がってもう既に見慣れた天井を眺める。見慣れた天井。何度も眠ったベッド。また、息を吐く。ピエール達は居ない。新婚の邪魔をする程野暮じゃない、と言って、馬車の中で眠っている。改心したとはいえモンスターなので、人工の建物の中より外に居る方が寝やすいんだとよ。「なぁに、しけた顔してるのよ」ベッド脇に腰掛けていたデボラが、額を小さく弾く。「何でもねえさ……ただ、なぁ」「ただ?」「……家族が、出来たんだな、って……」ルドマンの、あの優しい声は、デボラだけに向けられていたものじゃない。俺にも、きちんと向けられていた声だ。親が、子供に向ける声。そんな声を、もう一度聞けるなんて、信じられなかった。「なんか、よ。俺ぁ、まだ夢を見てるような気分だ」デボラが、黙っているのを良い事に、俺は言葉を続ける。「周りで起きてることが、信じらんねえ。十年奴隷やらされて、 逃げ出して、この街に来て、一月も経たん内に、 テメエと出会って、結婚して、家族が出来た、なんて」瞼を閉じ、顔に腕を乗せる。真っ暗な、闇。「今、この腕をどけたら、あの岩天井が見えても、俺は驚かねえ。 ああ、夢だったんだな、って納得するだけだ」これは、奴隷の俺が、見ている幻なのかも、しれない。あるいは……、《俺》が死に際に見ている、幻かもしれない。そうだと言われても、多分、俺は受け入れるだろう。「だって、あんまり幸せ過ぎる」《いつか》、そんな《夢》を見た気がする。《俺》と、《あいつら》が、きちんと《家族(きょうだい)》で居られた《夢》を。いつ見たのかも思い出せない、ただの夢想。だけどあれは、ひょっとしたら、もしかしたら、万に一つの可能性だが、《俺》が、本当に望んでいた光景だったのかも、しれねえ。「馬鹿なこと言うんじゃないわよ」飛んでいた思考は、腕がぐいと掴まれ、動かされたことでこちらへ戻ってくる。瞼ごしに光が入ってくる。思ってたより、眩しくねえ、な。目を開けると、デボラが不機嫌そうに俺を見つめていた。その両手で、しっかりと俺の片腕を掴んでいる。「あんたは、ここに居るわ」その腕を、何を考えたのかデボラが胸に導いた。「私も、ここに居る」胸の中央から、やや左。そこに宛がわれた俺の掌に伝わる、少し早いくらいの、鼓動。「……馬鹿なこと、考えた……、すまん」この温もりや、鼓動が、幻や夢だなんて、んなこと、あるわきゃねえんだ。「いいわよ、別に。この私と結婚出来たんだもの。夢みたいに幸せで当然じゃない。 今までは不幸だったかもしれないけど、これからは、幸せよ」笑うデボラの、少し赤く染まった頬から、目が離せない。少し歪んだ口元から覗く白い歯が、眩しい。「なあ……」「何?」「……灯り、消しても、いいか」「……いいわよ」ベッドサイドのランプを吹き消す。それから、ゆっくりと、掴まれているのとは反対の腕をデボラの背中に回して、抱きしめる。この柔らかさには、覚えがあって、苦笑する。一昨日目を覚ました時に、こいつの機嫌が悪かったのは、そういうことか。────────────────────────※作者からの一言※自分で書いておきながら甘過ぎて生きるのが辛い。次回からはもう少し起動修正しないと糖尿で死ぬ。