第二十六話:The Past stands besides happiness forever. (幸せの傍らに、過去は永久に佇む) 唇を離し、一息ついた途端に、遠のいていた周りの音が戻ってくる。何一つ遮るものがない顔が、酷く熱を持ち、それが瞬時に全身に回った。儀礼とはいえ、人前で口付けした、という事実に、今までに感じたことのないような気恥かしさを感じる。「あら、照れてんの?」「だ、黙ってろ」くすくすと笑われても、否定の言葉を吐くことが出来ない。こんなに居たたまれない気分になったのは、初めてで、気分が悪くなりそうだったが。「ジャギー! おめでとー!」ヘンリーの声の後に、ぴぃ、と甲高い口笛が続く。からかいのつもりだろう。「ジャギー! おめでとーう!」ビアンカの、明るい声が聞こえる。「ジャギさん、デボラお姉さん、おめでとうございます!」フローラの、心の底からの祝いの声が聞こえる。俺の耳に届く、声、声、声。どれもこれも、俺と、デボラのことを祝福するものばかりだ。「……デボラ」「何?」「幸せに、なろうな」じん、と熱くなった目で、デボラを見下ろす。額をつん、と突かれた。「あんたが私を幸せにするのよ。そうしたら、私はあんたを幸せにしてあげるわ」満面の笑み。幸せに、出来るだろうか。俺はこれからも旅暮らしで、こいつが望むような贅沢はさせてやれないだろう。「努力は、する」そう言ったら、ぺしり、と額を軽く叩かれた。「好きな相手と一緒に居られるのよ、幸せじゃないわけないじゃない。 全く……察しなさいよ、この、ばか」小さくなっていく語尾。その頬は、ほんのりと赤い。……確かに、女心なんか解らないが、流石にこれは解る。「なんだ、照れてんのか?」「だ、黙りなさいよ」にやり、と笑ったのが気に入らなかったらしい。足を思い切り踏みつけられた。「こほん、ジャギ。デボラとじゃれあっているところすまないんだがね」「のわぁ!」「きゃあ?!」いつの間にか隣に立ってたんだおっさん! 二人揃って変な声出しちまったじゃねえか。「宴会はサラボナだ。早速送り返してくれたまえ」……面倒くせえ。けどまあ、朝からあの鉄の味がする弁当しか食ってねえし、豪勢なメシのためだと思えば、面倒くささも半減する。「じゃ、全員正面に集めてくれ」精神力使うが、今の俺は酷く満ち足りた気分だ。倒れるようなことには、ならんだろう。 サラボナへ帰ってすぐ、飲めや歌えやの大宴会が始まった。街の奴らが次々に祝いの言葉をかけてくる中、妙な奴らがいた。本当に、本当に心底気の毒そうに、俺に励ましの言葉をかけてくる奴らだ。どうも、そいつらはデボラの性格について心配してるらしい。けっ。我が強ぇのも、ワガママなのも、この何日かで十分把握してる。オドオドしてるよりは、ずっと良い。「と、俺は思うんだがテメエはどう思う、ヘンリー?」十杯から先は数えるのを忘れた杯を呷りながら、隣のヘンリーに問う。「んー、確かにま、ちょっと気が強そうだよな、お前の嫁さん」「だーかーら、その物怖じしねえ性格が良いんだっつってんだよ。 ったく、人の嫁にイチイチ文句つけるんじゃねえっての」酒に浮かされた頭と舌が、軽い。ぷっ、とヘンリーが噴き出した。「んだよ、何笑ってんだ?」「いやあまあ、何、おかしくってさ」肩を震わせて堪えていたようだったが、とうとう抑え切れなくなったらしい。バシバシと俺の方を叩きながら、大声で笑った。「また随分、嫁さんにベタ惚れだなぁジャギ! おアツいことで何よりだぜ!」……さっき、俺が言った言葉。あれは、あれか。世間でいう、『ノロケ』か。「全く、見事なノロケだったぞ、ジャギ」心を読んだかのようなタイミングで、ピエールがうんうんと頷いている。足元のスライムの頬がほんのり赤いのは、酔ってるからだろう。「テメエら、学習能力ってもんはねえのか!」ごづん、と鈍い音が二つ響いた。酒に酔ったせいで手加減を忘れたが、まあこの程度で死ぬような奴らじゃねえから大丈夫だろう。 結局、宴会が終わったのは日もとっぷりと暮れてから。「……疲れた……」どう、とベッドに倒れ込む。流石に、半日も飲みっ放しは体がもたなかった。ただでさえあの人数をルーラで運んで気力を大幅に使ってたもんだから、抗い難い眠気が、体を襲っている。「くぁ……」欠伸が出る。倒れ込んだ布団の柔らかさが気持ち良い。このまま寝ちまうには、服が堅っ苦しくて邪魔だ。脱ぐか……、ボタンが上手くとれねえ、飲み過ぎたか?でも、破く、わけにも、いかねえしな……、よし、脱げた。脱いだ服は、とりあえず床に放っておきゃあいいだろ。もぞもぞ足を動かして、靴も脱ぐとベッドに潜りこむ。サラサラし、ヒンヤリとした布団が、火照った肌に直接触れて心地よい。あぁ、実に良い気分だ。腹はいっぱいだし、喉も渇いてねぇし、柔らかい布団で眠れて、他の奴から祝ってもらえる、幸せを願ってもらえる。天国、なんてもんが万に一つもあるんなら、きっとこんな感じに違いねぇ。そんなことを考える内に、瞼はとうに落ちている。眠気でボヤけた頭で、それでも、誰かがドアを開けたのは分かった。入ってきた奴は、俺の頭上で何かぶつぶつ言ってるが、霞んだ頭では、聞き取れない。眠いんだから、静かにしろ、という言葉を口に出すのさえ億劫だ。俺が喋らないことで、そいつは諦めたらしく、押し黙る。シュルリ、と何か布が落ちるような音が聞こえる。酔ってると、普段は気にしてもないような音に注意が向くらしい。ややあって、布団が捲られた。ベッドマットのスプリングが、軋む。「む……?」捲られた布団を取り返そうと、適当に手を伸ばす。ふにょん、と何かが手に当たった。布団とは違った、柔らかい何かだ。「やわ、ら、かい……」抱き枕に、丁度よさそうだな。当初の目的だった布団を被り直す。柔らかいそれを引き寄せ、両腕で抱え込んだ。「ん……、イイ……、ニオイ……だ」鼻の頭をそれに埋め、ニオイを嗅ぐ。花のような香りがした。すべすべで、しっとりで、良い匂いがするそれを、しっかと抱いたまま、俺は訪れた誘惑に抗うことなく、眠りに落ちていった。目を焼いた光に、瞼を開く。目に飛び込んできたのは、赤く染まった部屋。二、三度瞬くと、霞んだ視界がはっきりしてきた。何度か見慣れた炎に照らされた赤ではないことに、安堵の息を吐く。これはそう、単に夕日に照らされてるだけの、赤だ。「って、夕日だァ?!」がばり、と身を起こしつつ叫んだ声は、ガラガラに嗄れていた。「がっ、げっ、げほっ、げほっ」「起き抜けに大声なんて出すから、はい、水」差し出されたグラスになみなみと注がれた水を、一息に飲み干す。「遅いお目覚めね、ジャギ」手渡した本人、デボラは口を尖らせている。「もう夕方よ。あんたって、寝たら中々起きないのね」これはまあ、奴隷時代のクセだろうなあ。とにかく一分一秒でも長く寝て、体力を回復しないと、次の日に差し支えちまうからな。「息してなかったら、死んでると思ったに違いないわ」言葉の端々がなんだか刺々しい。「俺だって、こんな時間まで眠っちまうとは思わなかったっつーの。 ただ、あんまり、あんまり、気持ち良かったもんだからよ」昨日は、今まで感じたことが無いくらい幸せで、心地よくて、あんなに安らかに眠れたのなんて、初めてじゃなかろうか。特に、あの柔らかいなんかが最高に気持ち良かった。ちらり、とそこらに視線を送ってみるがそれらしいものはない。どうやら、片づけられちまったらしい。「まあ、結婚式の後休む間もなく皆を連れ帰ったし、それからあの大宴会だったものね。 今日のところは許してあげるわよ」腕を組んだまま、デボラがキッと険しい視線を向ける。「ただ、これからは私より早く起きること。あと、私より先に寝るのも禁止」「へーへー、分かった分かった。それより食うモンねえか?」きるきる、と腹が鳴る。朝も昼も飯抜きだし、仕方ないことだ。「まったく、どうしようもないわね、この寝とぼけ小魚は」「おい、何かいつもより手厳しくねえか?」「知らないわよ。あと、食事ならそこのテーブルの上」視線で示す先を見れば、ベッドサイドのテーブルに、食事が並んでいた。サンドイッチとゆで卵と、果物が幾つか。物足りない気もするが、寝起きの腹には丁度良いくらいか。ひょい、と手を伸ばしてサンドイッチを掴み、そのまま一口齧る。昨日の弁当と同じように、鉄の味がした。「あら、何よその不満そうな顔は」「いや、別に不味くはねえんだけどな、なんか、こう」妙な味に首を傾げる。「ブランチ用に作ったのにこんな時間まで放置されてたら、 味が悪くなるのも当然じゃない」作った? ああ、それで、さっきから腕組みしてんのに、指先は両方とも二の腕の下に隠してるのか。「デボラ、手」「な、何よ」「いいから、見せろ」少しきつめの声を出す。そろり、とデボラがバツの悪そうな顔で、指先をこちらに向けた。「鉄くさいと思ったら、やはりそうか。ホイミ」包帯の巻かれた指へ向けて、治癒呪文を唱える。「旅に出たら、飯は俺が作るから、テメエは無理すんな。 こんな鉄臭いもん食わされちゃかなわねえ」「何よ。だったら食べなきゃいいじゃない」手にしたサンドイッチ取り上げようとするのを、ひょいとかわして口に放り込み、飲み込む。「うるせえな。食えないわけじゃねえんだからいいんだよ。残したら勿体ねえだろ」水と食料の重要性は、身に染みついている。飯を粗末にするような奴は、馬か白鷺にでも蹴られてしねばいい。「……いいわよ、もう」諦めたのか、ベッドに腰掛ける。「それで、これからのことだけど。私も旅についていくわよ」「最初から連れてくつもりだ」ゆで卵を齧り、咀嚼する。もう少し柔らかい方が好みだな。「そう、よかったわ。家で待ってても退屈なだけだもの」二口目で、卵は俺の腹へ完全に消えた。む、塩かけるの忘れた。次に、とりあえずミカンっぽいものを手に取る。皮を剥くと、良い匂いが鼻をつく。房を一つ一つ取るのも面倒で、そのまま齧る。表面の白い部分には栄養があるから剥かずに食え、と教えてくれたのはそういや、誰だったかな。「ね、ジャギ」「おう?」「一生、私に尽くしてくれなくちゃ、いやよ」「俺は、俺がやりたいことをやるだけだ」ミカンも二口で飲み込む。少し険しい目をするデボラに、きっぱり答えた。「惚れた女を幸せにする、ってのはそのやりたいことの中に入ってる」ベッドから立ち上がると、クローゼットを開く。中にしまわれていた、着なれた旅装束に袖を通す。やっぱり、こっちの方がしっくり来るな。「んじゃ、行くか?」デボラに向かって、手を差し出す。「……一応、パパに話しておいた方がいいわよね」「俺の嫁なんだから、どうしようと勝手だと思うんだが」「あら。あんたの嫁でもあるけど、パパの娘でもあるんだもの。 子供の心配しない親なんか、いやしないんだからね」そう、なんだろうか。心配、するもんなんだろうか。《親》は、《子供》を、心配するもんなんだろうか。ずきり、と頭が痛む。くそっ、こんなに幸せだってのに、この頭痛は消えてはくれないらしい。「ほら、むくれてないで行くわよ」デボラが俺の手をしっかりと握って引っ張る。「だな」この手に伝わる温もりを、俺は今度こそ、守ろう。そう思えば、頭痛など何処へともなく飛んでいった。「やっとおでましか。心配したが、こうして見ると中々似合いの夫婦だぞ」本宅を訪れると、ルドマンは満足そうにニコニコと笑っていた。「ヘンリーさん達は、今朝早くお帰りになったよ」もう少し話したかったが、残念だ。まあ、会いたきゃルーラでいつでも飛んでいけるけどな。「で、帰って行く前にと話を聞かせてもらったよ。 母親を救うために、伝説の勇者を探す旅をしているそうだね」リビングに置かれていた宝箱へ、ルドマンが近づく。その内一つから取り出されたものに、俺は目を奪われた。「これが、我が家に代々伝わる、天空の盾だ。翼を閉じた竜神を象った、とされておるよ」「これが、天空の、盾」渡されたそれを、まじまじと見つめる。神々しい輝きを放つそれは、確かに伝説の一品であるに違いない。腰につけた袋の中で、カタカタと何かが揺れるような感覚。咄嗟に盾をデボラに押し付け、袋の中から天空の剣を取り出した。共鳴するように、二つの武具は強く光を放つ。あまりの眩しさに、咄嗟に目を閉じる。瞼を焼く白い光。その中に、おぼろげに浮かび上がる、光景。『これを、預かっていて欲しい』髭を蓄えた、小太りのオッサンに手渡される、天空の盾。『いつまで、ですかな』何処となくルドマンに似たオッサンは、それを受け取りながら尋ねる。『いずれ……、彼女の予言の通り、この盾を必要とする勇者が現れるまで』手渡したのは、緑の髪を持つ青年。顔は、見えない。『……城で、預かってもらっていた方がいいのでは』『いや。彼女の言葉によれば、それでは駄目だそうだ。 必ず、この地上に置かれていなければならない、と』男はそう言って首を振る。この男が、伝説に残る、勇者、か?かつて、地獄の帝王を討ち倒したという。『出来れば、そんな勇者など、必要のない世界なら良い』『……そうですねえ。私も、私達が守ったこの世界が、 いつまでも平和なら良いと、本当に思いますよ、勇者殿』オッサンがそう呼ぶと、男は困ったように告げた。『もう、勇者と呼ばなくて良い。普通に、名前で呼んでくれ』『ええ、解りましたよ、』オッサンは、確かに勇者の、男の名前を呼んだはずなのに。その名前が、まるで切り取られたように聞こえなかった。「どうしたの、ジャギ。クックルーが爆弾石くらったような顔をして」デボラの声に、こちらに引き戻される。「そりゃ、いきなりピカーッと光ってびっくりしたけど、それだけじゃない」どうも、あれは俺だけに見えたらしい。「何でも、ねえよ。とにかく、受け取って良いんだな?」「うむ。それで、デボラ。ジャギが旅に出ている間だが……」「ああ、そのことなんだけど、パパ。私、ジャギについてくことに決めたから」そう言い放つと、ルドマンが眉をひそめた。「むむむ、お前のことだからそういうのではと思っていたのだが、 やはり、旅は危険すぎる。お前は大人しく、家で待っていなさい」「心配すんな。女一人くらい守るから」剣と盾を袋にしまいこみ、デボラの肩を抱き寄せながら告げる。「むう、そうかね。しかし、足手まといになってもいかんしなあ……。 よし! ではこうしよう!」ルドマンは、デボラの旅立ちにある条件をつけた。それは、こいつが足手まといにならないことを証明するために、ある場所まで冒険して、戻ってくる、というものだ。地図で示された場所は、水門を挟んで山奥の村の反対側にある、一つの祠だった。「この祠の中の壺の色を、見て来て欲しいのだ。鍵はデボラに預けよう」移動の大半が船だ。これでデボラが足手まといになるかどうかなんざ、解りゃしねえと思うんだがな。「そうと決まったら、早速行くわよ、ジャギ」俺の懸念も知らずに、早々に鍵を受け取ったデボラが、俺の腕を掴んで歩き出す。外に出たら、馬車の中で大人しくしてて欲しいが、多分無理なんだろうな。それにしても、あの幻は、何だったんだ。どうして、俺にだけ、見えたんだ。勇者の姿を見た途端に訪れた、心臓の裏がざらつくような、首の後ろがじくりと焼けるような、あの不快感は、何だったんだ。どうして俺は、あの勇者を、《知っている》、と思ったんだ。解らないことだらけのまま、俺はずるずると引きずられていった。────────────────────────※作者からのお知らせ※タイトルのことわざ縛り、やめました。『天空御塩(てんからおしお)』お世話になったあの人に、塩。この話を読んでくださった皆様に、塩。