第二十話:Engage in futile regrets. (死んだ子の歳を数える)ずっと昔に、泣いていた俺に、声をかけてくれた奴がいた。金の髪をした、そう変わらぬ年頃の女。そいつのおかげで、俺は救われたのだ。それを、覚えている。それは、覚えているけれど、そいつの顔が、思い出せない。一緒に笑った。大事だと思っていた。何で思い出せねえんだ。……そいつは今、俺の隣に居るのに。《ジャギ》隣のそいつが、俺の顔を見上げてくる。顔は、影になっていてよく見えない。金の髪だけが、揺れている。……ここは、何処だ?俺は、何をしてたんだ?思い出そうとするたびに、頭が痛む。まるで、思い出すな、って警告してるみてえに。《ねえ、ジャギったら、返事してよ》ぼうっとしている俺が不満らしく、口を尖らせてそいつが抗議している。顔は見えないが、何故かそうだと分かる。「ああ、悪い悪い、そんなに、拗ねるなよ、……アン……」笑みを浮かべて、そいつの名前を、呼んだ。「ッ、ガッ」痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。頭が痛んで、何も考えられなくなっちまいそうだ。しゃがみこんだ俺の前で、景色が、一変していく。今まで歩いてた、渇いた、しかし明るい風景が闇に飲まれていく。真っ暗になった中に浮かび上がるのは、長い長い古びた石段。その途中に、女が倒れている。傷だらけで、ぼろぼろで。悲鳴だかなんだかよくわかんねえ声が喉を突く。震える手足に鞭打って、女の元へ駆け寄る。確かに叫んだはずの名前を、認識出来ないが、そんなことがどうだっていい。妙に歪んだ視界の中に映る、そいつ顔は、《俺》の知った顔じゃなくて、『俺』の知った顔だった。「アアアアアアアッ!」自分で出した声に、意識が急速に引き上げられた。ばちり、と音を立てて、瞼を開く。急に入ってきた光に目が眩んだ。何度か瞬きをして、ようやくまともに目が動き出す。俺の両の眼に映ったのは、それなりに年月を重ねてるらしい木製の天井だった。酷く、嫌な夢を見ていた気がする。どんな夢だったかは、さっぱりだ。ただ、前にも見たような気がする。昔の、夢だったような気がする。気がする、ばかりで何一つとしてはっきりしたことが分かんねえ。「……ジャギ、大丈夫?」女の顔が、俺の顔と天井の間にぬっと現われる。金の髪が、揺れている。「……アン……、ビ……アン、カ?」名を呼んでから、げほげほとせき込む。どうやら、随分長いこと寝てたらしい。喉がカラカラだ。それに気付いたビアンカが、水差しを渡してくれる。面倒なので、蓋を開けて、一気に喉奥へ流し込んだ。少し温い水で喉を潤してから、俺は言葉を続けた。「ここは、何処だ?」「サラボナよ。ジャギったら、三日も眠ってたんだからね」「サラボナ……? いや、それより、そうだ。そもそも、俺は、何で」何かがあって、意識を失ったのは、覚えてる。でも、その原因がちっとも思い出せやしねえ。くそっ、自分のことが分かんねえってのが、こんなに不愉快だとはな。「覚えてないの?」何故か、一瞬顔を赤らめてから、ビアンカが説明してくれた。滝の洞窟で、指輪を手に入れた後、俺は急に気絶したそうだ。で、スラリンがリレミトを唱え、入口に戻った後も、俺が全く目を覚まさなかったので、これはまずいかもしれない、と船でサラボナへ運んだらしい。山道を進んであの村へ行くより、船で下った方が俺を動かさずに済むから。そして、俺は町についてからもずっと眠っていたそうだ。「その間に、ちょーっとややこしいことになったのよ」「あ?」話の合間に腹が減ったという俺のために、ビアンカが剥いたリンゴをもしゃもしゃと食しながら、俺は眉をしかめた。「……ジャギ、あなたフローラさんのお姉さんに一目惚れしてたんですって?」「ぶっ」口から、りんごだったものが布団の上に散らばる。勿体ない。って、そうじゃない。現実逃避すんな。「な、何のことだぁ?」「とぼけないでよ。彼女の名誉のために、喧嘩したって聞いたわよ」誰だよビアンカに話した奴は。「それは、その、あれだ。ちょっとした、売り言葉に買い言葉で、 町の奴らが勝手に言ってるだけだ」「でも、その噂、ルドマンさんの耳にもばっちり届いてたみたいよ」ビアンカも、額に手を宛てて、心底困った、という顔をする。「それなのに、フローラさんとの結婚条件も満たしちゃうし、 加えて、その……、女性と一緒に、旅をしてるし、で、 ジャギは一体何を考えてるんだ、って話になっちゃって」「げ」それはまずい。心象が悪くなっちまったのか。油断させて家宝の盾盗んでトンズラするっつう、俺の華麗な計画が水の泡になっちまったってことか……。そうなったなら、もう強硬手段を取るしかねえ。強硬手段つったって、《昔》はよくやってたことだ。何を迷う必要がある。奪い盗れ、俺。「えーっと、言いにくいんだけどね」何処か照れたような声に、意識を引き戻す。「その……えっとね」モジモジと何かを言いにくそうにしている。一体、何なんだ?……どうも嫌な予感しかしねえんだが。「ジャギが目を覚ましたら、その、えっと、お姉さんか、フローラさんか、その、私、か。 誰と結婚するのか、ジャギに、選んでもらう、ってルドマンさんが」は?「はあああああッ?!」多分、人生で一番素っ頓狂な声を出した。「も、もう。そんなに驚かないでよ。ルドマンさんったら、ジャギが気に入ったみたいで、 誰と結婚しても式は挙げるぞーなんて言ってるのよ」「待て待て待て。おかしいだろそれ。今からでも断ってくる!」倒れたのは、体に問題があってのことじゃない。喉も潤い、腹も膨れた俺の体は、三日寝てたとはいえそこそこスムーズに動く。ルドマンのとこへ向かおうとしてベッドから降りる。立ちあがって、歩き出そうとした途端、ベッド脇に置かれていた何かに足を取られる。「のわっ!」ああくそみっともねえ。つうか、一体何にぶつかったんだ。足元に目をやる。息が、止まった。そこに転がっていたのは、鉄仮面だった。そうだ。どうして、気づかなかったんだ。水を飲む時も、リンゴを食うときも、何も、邪魔にならなかった。「見たのか?」「え……」馬鹿な質問をしてる。今この瞬間も、俺は顔を晒しているのに。「傷」「……うん」「悪かったな、気持ち悪いもん見せちまって」鉄仮面を、被る。何故か知らんが、かちゃかちゃと、五月蠅い。上手く、被れない。……俺の手が、震えてんのか。「あの、ジャギ、その、傷……」「……同情しねえでくれ」どうにかこうにか、被る。暗くて狭い視界は、落ち着く。どんな目をして、ビアンカは俺を見ているのか。それを考えると、頭が痛い。弾けそうな、割れそうな、そんな痛みだ。ここでその痛みに屈しちまったら、また二の舞になる。「とにかく、一度あのおっさんと話をしてくる」場合によっては、盾をかっぱらって、そのまま逃げる。「指輪は、どうした?」「ルドマンさんに、渡したわ」「……そうか」ついでに、指輪もだ。盗品を買う場所は、この世界探せばあるに違いねえ。そこで売って、旅費にして、こっから逃げよう。「ねえ、ジャギ、私も一緒に」「一人でいい」俺は、あいつを亡くした時から、ずっと独りだったじゃねえか。こっちの世界じゃ、上手くやれると思ったが、やはり無理だ。こんな傷を抱えて、誰か人間と一緒に旅なんざ出来るわけがねえんだ。困惑するビアンカを宿に置き去りにして、俺は宿を出る。街の奴らは、好奇心いっぱいに俺に語りかけようとするが、殺気を返して、そいつらを追い払う。俺に、構うんじゃねえ。宿を出て真っ直ぐに、ルドマンの屋敷へ向かう。殺さないまでも、殴ってでも、盾を奪って、逃げよう。……盾を奪ってどうする。誰と旅をすることも出来ないのに、こんな傷跡を晒せる奴は誰もいないのに、母親を取り戻す手掛かりなんざ集めてどうする。分からない。俺は、何がしたいんだ。何をするんだ。肩を落とし、俯いたまま、駆け出さない程度に動かしていた足を、止める寸前、柔らかい何かに当たって、俺の歩みは止まった。「……あ?」何に当たったのか、と視線を上げると、まず目に入ったのは桃色の服。ああ、そりゃ柔らかいわけだ。俺を不機嫌そうに見つめていたのは、デボラだった。「ちょっと、人の家に殺気塗れで入らないでくれる?」家へ渡る石橋の上で、デボラは仁王立ちしていた。「……テメエにゃ関係ないだろ」「あるわよ!」叫んだ声が、仮面の中に響いて頭が痛い。「大方、パパが決めたことに文句でも言いに来たんでしょうけど、 あんたね、少しは自分の立場ってもんをわきまえてよね」「立場、だぁ?」「そうよ! フローラとの結婚条件を満たすのに女連れなんて、どういうつもりなの!」目を吊り上げて、怒鳴る目の前の奴に、俺はぽつりと答える。「女連れ、ったって、ビアンカは昔の友人だし……」「それはビアンカから聞いてるわよ。良い子だものね、あの子。放っておけなかった、って」……何時の間にビアンカと話したんだこいつ。そんな疑問を口にする前に、どんどんと捲し立てられる。「あんた、フローラとビアンカ、どっちと結婚するのかはっきりなさいよ!」「それは……、その」どっちとも結婚する気なんざねえ、っつうんだよ。ああもう、良いから早くここをどかねえだろうか。「まったく、あんたどんだけ優柔不断でノロマなのよ!」だが、こいつはどくつもりは無いらしい。何が気に食わないんだ。つううか、どっちも選ばないってことを決めてんだから、優柔不断でもノロマでもねえよ。「ほら、来なさい! 明日まで猶予を与えるよう、私がパパに頼んであげるから!」ぐい、と手が掴まれ、そのまま引きずられていく。いやいやいや、どうしてそうなった?! 後、何で俺はこの手を振り払えねえんだ?!「パパ! ジャギが目を覚ましたわよ!」結局、引きずられるままに家の中に連れ込まれる。「おお、ジャギ、心配していたんだよ」「……人が寝てる間に、勝手に話を進めておいてか?」「? それがどうかしたのかね」ああ、ダメだ。話が通じる人種じゃなかった。こういう、善意で物事をやってる奴ってのは相手が困惑してるのを読み取らない。そうだよなあ、このオッサン、見ず知らずの男に船を貸すような奴だもんな。「はっはっは。まあ、話はビアンカさんから聞いたようだね。 決めるのは早い内が言いだろう。で、誰にするかね?」……マジでこっちのことなんざ考えちゃいねえ。逆に怒る気がなくなった。なんか、あんだけ殺気立ってたのがバカみてえだ。「ちょっとパパ。いきなりは無理でしょ。明日まで待ちましょうよ」「おお、そうだな。ではビアンカさんには、我が家の別邸に泊ってもらおう」話がどんどん進んでいく。もうそれを敢えて聞かないことにした。明日まで、ってことは今夜一日猶予があるってことだ。……まあ、どう考えたって、昼間よりは夜の方が盗みには入りやすいな。よし、決行は今日の夜。夜陰に紛れてトンズラすりゃいい。「それでは、明日の朝までよく考えて決めてくれたまえ。明日の朝、宿に人をやろう」計画がまとまったらしく、おっさんが声をかけてくる。「あ、ああ。あー、あれだ。ちょっと、馬車の奴らに声を」「そういえば、あんたモンスター連れて旅してるんだってね。ちょっと見せてよ」それは困る。今から盗んで逃げる相談をすんだから。「あー、暴れるといけねえから駄目だ。その、なんだ」こういう時、何て言やあ良いんだ。あんまり多くない他人との接した記憶をほじくり返す。そういや、確かヘンリーがマリアに対して言ってたことがあったな。あれを応用すりゃあいいか。「よ、嫁入り前の体に、傷でも付いたら大変だからな」よし、これで誤魔化せただろう。何故か顔を真っ赤にしたデボラを置いて、俺はそそくさと家を出て行った。いつの間にか、頭痛は止まっていた。「爆発しろ」「なんだ急に」馬車へ戻って、俺の容体を心配してた奴らに事情を説明してたら、ピエールが何の脈絡もなくそんなことを言った。「爆発しろ、とはスライムナイト一族に伝わる言い回しで、 『モテてる奴死ね』の意だ」わなわなと震えるピエールが、手にメタルキングの剣を持っている。どうやら、割と本気で言ってるらしい。「ピエール落ち着いて。ちょっとジャギの話を聞こうよ」スラリンとゲレゲレに抑え込まれて、未だ不満そうながら、とりあえず剣を下ろす。俺がいつ誰にモテた、っつうんだか。ビアンカは俺に同情してるだけだし、フローラは俺以外に好きな奴がいる。デボラは……何だろうな、よくわからん。「ま、とにかく結婚なんざするつもりはないし、俺は盗んで逃げるぞ。 盾と、指輪と、あと船もな」「船も、か?」ピエールの問いに頷く。「こっちの大陸で行けるとこは大体行ったしな。 となると、後は南の方と西の方へ行くしかないだろう」手元の地図を広げて示す。どっちに行くにしたって、船は必要だ。恐らく、定期船は南へは行かないだろうし、と説明していく。「あれ?」頭突き合わせて地図を見てたら、スラリンが何か言いたげな声を出した。「どした?」「ここんとこ、なんか印がついてるけど、ジャギ、行ったことあるの?」スラリンが示したのは、南東にある大陸の真ん中辺りだ。「いや、ねえな。親父がつけた印か?」この地図は元々親父がもらったもんだ。その可能性は高いだろう。しかし、なんだってこんな場所に印がついてんだか。「そこに、勇者の手掛かりがあるのかもしれんな」「かもな。……じゃ、なんだって親父は行かなかったんだ?」「子供連れでは厳しい場所なのかもしれん」ああ、成程。親父は俺を連れて旅をしてたから、行けなかったのか。……もし、俺が今くらい大きくて、強かったら、親父は死ななかっただろうか。勇者の手掛かりを見つけて、『母さん』を取り戻せたんだろうか。そんなことを考えて首を振る。考えても、どうしようもねえだろ。「よし、んじゃ今日の夜中には出発するぞ」「ああ、分かった」「がう」ピエールとゲレゲレが頷く。ただ、スラリンはまだ何か言いたいらしい。「いつもだったら、ピエール、泥棒は駄目ーっていうのに今日は言わないんだね」その問いかけに、ピエールは少し戸惑い、やがて呆れたような声で答える。「ジャギなんかと結婚したら、相手のご婦人が不幸になりそうだからね」「うっせえよ」んなもん、俺が一番よく分かってるっつーんだよ、バーカ。──────────────────────────────※作者からの謝罪※更新遅れてすいません。ジャギの精神が何か不安定ですいません。8月12日致命的な誤字を発見したので訂正。グランバニアは南東の大陸じゃあああorz