目の前で兄が崩れるようにして倒れた。操り人形の紐がプツリと切れたみたいに力なく。途中で伸ばした手は兄には届かず、その兄の体は机を倒す、大きな音を立てて。
「あはは、悪い悪い、ちょっと躓いちった」
楽しく迎えるはずだった。何日も前から皆を家に呼んで練習して作ったバレンタインチョコ。皆に色々なレシピを教えた御礼にと悪戯の手伝いまでしてもらった無駄に大きなチョコレートケーキ。大きなハートをかたどった、真ん中に皆で書いた文字があるソレ。授業前に渡して困らせて、騒いで、そしてやっぱり皆で笑って
「っ!兄さん!!」
喜んでもらえるはずだった。そんな悪戯でもいつも兄さんは笑ってくれる。ありがとうって頭を優しく撫でてくれる。そんな兄が目の前で
「杏、大丈夫だか」
倒れた。ふざけてる風を装っても私には分かる。いつも見てたから。いつも一緒にいたから。いつもいつもいつも、ずっと傍にいてくれたから。だから知りたくも無い事実も知ってしまった。
「兄さんは黙ってて!」
これは冗談じゃなく倒れたんだって。『やっぱり』兄さんは無理をしてたんだって。
「悪い」
謝ってなんかほしくない。そんな顔で何も言わないでほしい。
「黙って」
どうしてこんな事になっちゃったんだろ。どうしてこんな風になっちゃったんだろ。どうして。どうしてどうしてどうして
力が入らないくせに大丈夫だって何度も言う兄に腹が立つが。
どうして
いずれこうなる事を止められなかった私自身が一番許せない。
「……ほんと悪い」
どうしていつも私の
周りが何かを言っているけど耳に全然入って来ない。
「……黙ってて」
どうして私の大切な人ばかり。
騒がしく、馬鹿馬鹿しく、そして凄く楽しいイベントになるはずだった。なのに神様は私の事が嫌いみたいだ。
私が不幸になるなら別にいい、私はもう十分幸せになったから。だからこれからは兄が幸せに。
こんな事大した事ない、兄がそう考えてるであろう事が一番悲しくって、辛かった。
第13話(中篇)
「保健室に来た見舞いが妹、しかも二人っきりって最高じゃないか! あ、先生、いたんですか……そうですか……いえ、別に深い意味なんてないですよ?えぇ本当に。。。」
まだフラフラとしている兄に肩を貸せる程私の背は大きくない。だからって誰かに任せるという選択肢はなかった。軽くのしかかる様な体勢で人を運ぶ形になり正直大変ではあるけど、気を失ってる訳じゃないからどうにかといった所。兄じゃなかったら目的地に辿り着けなかったんじゃないかと自分でも思うぐらい頑張った。それだけ兄も余裕な状態じゃないって事だけど。
「兄さんもうちょっとだから」
目の前に保健室と書かれた札に少しだけ安心し、兄に声を掛けたのだが、
「っ!」
その言葉と同時に私は潰されてしまった。急に重くなった兄を支えきれなくなって。
「に、兄さん!?兄さん!?」
焦って兄さんを呼んでも返事が無い。しかも上に覆いかぶさる形になり上手く下から抜け出せなく、周りを見渡しても今はもう授業が始まっていて人は居ない。もう頭が真っ白になってしまってどうしたら良いか分からなくなる。
「兄さん、兄さん!」
それでも繰り返し兄を呼び続ける、自分にはそれしか出来なくなった様に何度も何度も。
「何やってるんだお前達は」
そんな私の声に気付いて目の前の扉から出てきたのは水越先生だった。ホッとする間も無く、その姿を見た私は
「兄さんが!兄さんが!」
叫び喚く事しか出来ない。声も震えて涙を目に溜めて
こんな時の為に色々と本を読んでいたのにも関わらず、兄さんが兄さんがとしか言えない私は本当になんなんだろうか。役立たずでどうしようもない、慌てふためいて泣く事しか出来ない駄目な妹。
そんな私の姿に、いつもだるそうにしているイメージだった水越先生の目がスッと細まり
「あんまりそいつを動かさないで」
冷たく、ただそれを言い、兄の状態を確認し始めた。今まで見た事のない姿に私の声は止まった。上にいる兄の容態がを祈るように
「ふぅ」
どんな人なのか、どういう人なのか、私にはこの人の情報が少なすぎて判断が出来ない。
「とりあえずベットに運ぶから手伝って」
だけど
「安心して、こいつは大丈夫だから」
私はむしょうに泣きたくなった。何も出来ない、頼るしかない、私の兄さんの事なのに。
「先生……」
兄さんを助けて。
でもその言葉は出なかった。いつまでも縋る様に見上げる私に水越先生はため息を吐いて
「後で話すから、今はまず」
その言葉を言い、私の方を見たから。
「ぁ」
自分がどんな状況か思い出した。
すぐに周りが見えなくなる。そんな自分が嫌になるけど今はただ言われた通りにするしかない。急いで兄の下から這い出ようとするとやっぱり上手くいかなかったが、先生が少し手を貸してくれるだけであっさり立ち上がることが出来た。
冷静に、どこか怒ったように兄を見る先生に言われるがままに。
すぐ目の前に保健室があった事もあり、すぐに兄をベットに運ぶ事が出来た。けれど兄は死んだ様にピクリともしない。規則よく胸が動いているのが分からなかったら勘違いしてしまう程に顔色が悪く、とてもじゃないけど普段通りとは言えないだろう。だから私は落ち着きなく兄の顔を覗き込んでは息をしてる事にホッとして、椅子に据わり直しては心配になったりと、そんな事を繰り返してしてしまう。
今、先生は何かを取りに行っていて保健室にはいない。だから余計に心配になっているのだけど、一応はどういう状況なのか説明は受けた。
ここを出る前に
「その様子だと知らなかったんだろうけど、前にも倒れたんだよね、この馬鹿は」
呆れたと言うよりは、やっぱり怒った様に言っていた。
けど、そんな事より私は前にも倒れた、その言葉にまた寒気の様な嫌な感覚になる。こんな時にも関わらず馬鹿って言葉にムッと眉が寄ったのは別として。
それに、兄からそんな事聞いてないし気付けてなかった。
「この子の事だから話してないと思うし、あなたに気付かれない様にって余計な事をしたんだと思うけど」
教えてくれなかった事を責める様に兄に顔を向けた私に気付いてなのか、私の心を読んだと錯覚するぐらい的確に答えられ情けなくなる。
兄さんの事になるとすぐに顔に出ちゃう。
それに兄を責める様に向けてしまった視線は八つ当たりみたいなもので、本当だったら私が気付かないといけない事だったから余計にへこむ。
「まぁ、だからって訳じゃないけど今見た感じでも前と同じ、寝不足と過労、かな。もう少し色々調べないとはっきりとは分からないし、一応また病院には行ってもらう事になるから結果はそこで詳しく話すよ」
前にもこの事で病院にいったんだ……。
「今回も頭をどこかに打ったわけじゃなかったから良かったものの」
再び先生は溜め息をつく。
いつも一緒にいるのに知らない事がこんなに。そんな大事な事をなんで?とか、知らないのは私だけ?さくらさんは?音姫さんは?由夢は?もしかしたら自分だけ?
もしかしたら私だけ気付いてなかったのかも、皆はずっと昔から―――。そんな事ばかり考えてしまって悲しさにまた涙が出そうになる。
「前に病院で会った時は自分で話すからって、私から妹に言うと余計に心配かけるからって説得されたけど……ふぅ」
何故か溜め息を吐き
「あんな性格の子って知ってれば嫌でも伝えたんだけどね」
今までにあった何かを思い出した様に顔をしかめた。
「あんな言葉信じた私も馬鹿って言えば馬鹿、か」
学校でどんな子か分かってたのに、とか、すぐに確かめればよかったと小さく呟いた言葉にまた胸が苦しくなる。
信用出来ない様な事をしてたのか、それとも
私の知らない事がまた一つ、また一つと増えていく。不安はどんどん大きくなる一方だけどそれは後回しにしないといけない。
今は私の感情は関係ない。兄さんがどういう状況なのかしっかり聞かなきゃ。
だから流れそうになる涙が落ちないように袖でゴシゴシと乱暴に拭う。先生の言葉を聞き逃さない様に、自分が情けなくって悔しいって思いも一緒に拭い去る様に何度も何度も。
けど、そんな私の手を先生は優しく止めて
「だから今回は逆によかったって、不謹慎ながら思ったよ。これでちょっとはこんな事減るだろうし、妹の君が兄を支えてくれるだろうしね」
励ます様に言ってくれた。
どうしよ、また鼻の奥がツンとしてきた。
「今まで自分だけ内緒にされてたとか、信用されてないとか、そんな事ないから。どんな人って一番君が知ってるでしょ?」
そんなの当たり前、普通だったらそう言い切れるんだろうけど
私はすぐに頷けなかった。
昔から何か隠してる気がする。それも私が本当に小さかった頃からずっとずっと。昔、一回だけ見た日記の様な、よく分からない言葉が書いてあったノートの事を思い出しながらそう感じてしまった。そのノートの事はいつもはぐらかされてしまっていたのを思い出し気が沈む。
だけど、励ましてくれる先生に
「目が覚めたらいっぱい文句言います」
その言葉だけを返した。
そして今、出て行った先生を待ちながら昔見たノートの内容を頭から引っ張り出しながら兄の顔を横から見続けている。パイプ椅子の位置をベット近くに持って行った私は当然授業に戻る気はない。
あのノート、今も多分鍵のある机に閉まってると思うそれを私は一度だけ見た事がある。内容が分かれば兄ともっと仲良くなれる。もっと話せると思った私は何度も何度もその一回の時に読み返したのだけど、桜に願いを叶えてもらう前で殆ど忘れてしまって内容が虫食いみたいになってる。むしろ記憶力のなかった私の場合火で燃やした紙ぐらいしか残ってないけど、それでも桜を見た時まで覚えていた事は全部思い出せる。そのノートを何度も何度も読み返して記憶しようとした過去の自分も褒めてあげたい。
だけど書いてある意味は私が小さすぎて理解出来てなかったし、未だ会った事がないさくらって人が兄に悪い事する。そんな解釈をしていた。
自分がさくらさんを知らないだけで兄は知っていた人物、それだけの事だし、未来の事だって何でそう思ったかなんて自分の事でも知らないけど、そんな有り得ない物を信じてた私はやっぱり子供だったんだと思う。
だけど私はそのせいで、さくらって名前の人が全部悪い人で、家にも近づきたくなかったし今でもその頃の名残なのか話す時ぎこちなくなる。
こんな私が記憶違いなんて言葉を出すのも微妙だけど。
この能力があるせいで普段思い出せない事が無い私にとって、それはやきもきととした気分にさせる。今思えば、母代わりになってくれたさくらさんと、そのノートに出てきたさくらさんが同一人物とは限らない訳だし。
昔から今にかけてさくらさんには本当に悪い事しちゃってるなぁ。
そんな事を過去の自分せいにしつつ誤魔化す。
いつかは謝らないと。
そんな未来の事を思い浮かべて苦笑を一つ。
いつだって昔の兄さんを思い出すと少しだけ元気が出てくる。いつも手を引いて好きな色々な場所に連れて行ってくれた兄、私が出来ない事を何でも出来て何でも知ってる兄。今も昔も変わらずに優しくって頼りになる、そんな人。
だけど
そんな兄が今倒れている現実にまた落ち込む。
「はぁ」
普通に吐いたはずが溜め息の様に出てしまう。
こんな私を兄さんに見せるから兄さんは
そう思い気を引き締めようとするけど結局同じ思考がグルグルと。
「……ふぅ」
また溜め息をついてしまう。
そんな事を何度繰り返しただろうか、先生が帰って来てないのであまり時間は経ってないだろうけど、兄さんが倒れてから時間の感覚が曖昧になってる。
そんな中、私の気持ちも知らずにゆっくりと目を開けた兄さんは
「っ!!」
焦った様に辺りを見渡す。それも本当に鬼気迫る様子で、なのに泣きそうな顔で。
「に、兄さん?」
そして私は、いきなりの事で取り乱した兄に驚き小さく声を掛ける事しか出来なかった。普通に起きてくれたなら自分から抱きついていたかも、とか、抱きついて恥ずかしい思いしなくって良かったと喜ぶべきか、チャンスを逃したと嘆くべきか、とかそんな事をもうちょっと落ち着いていたら考えたと思う。けど、今の私も見慣れない兄に対して十分混乱しているのかそれ以上言葉が出ない。
そんな兄は上体を急に起こしたからかフラリと崩れたが、そんな自分にも構わず腕を使い体を起こそうとしている。本当に焦っているからか、真横にいて、しかも小さいとはいえ声を掛けた私にも気付いてないようだった。
だからって悲しさはない、そこまで子供じゃなければ、今そんな小さい事気にする時じゃないって分かる。
だから兄が何を心配しているのか分からないけど、それでも手助けが出来ればと手を伸ばす。
そんな兄の体を支えようと肩に触れて、初めて目が覚めた兄と目が合って
「――――っ!!??」
私は声にならない声を上げた。
え?なんで?どうして?
多分顔は真っ赤になってるし、ドキドキと心臓が痛いぐらい鳴っている。
わたっ、私が、え?
目が合った瞬間、兄に抱きしめられてる私がそこにいた。
「よかった……まだ初音島だ」
その言葉で火照った思考が冷める様に一つの文を思い出していた。
震える兄の声に釣られる様に私の体も震える。今まで感じた事のないその恐怖。こんなに近くにいるのに遠くに感じる想いに思い出してしまった。そのノートの最後に書いてあった一文を。
『俺はいつまでこの島にいられるんだろ』