パリのテュイルリー庭園の並木道の先に店を構える洋菓子店の裏口。
既に営業時間は終わり、辺りはいまにも雪が降り出しそうに冷え込み始めている。
扉から一人の男が出てくる。
レザーのコートを羽織、上着は白いカーディガンとチェックのシャツ、灰色のジーンズに買ったばかりのスニーカー、背中には鞄を背負っている。
裏口から出た男は店の中にいる男達に向き直り、その短い黒髪の頭を下げた。
「…お世話になりました」
「………本当にお前が盗ったのか?耕介」
「ミシェル店長!今更、何を言うんです!? こいつの鞄から財布が出てきたんだ! ロイの財布を盗んだのはこいつしかいない!」
「ロック副店長の言うとおりだ! 警察に突き出されないだけでもありがたいと思え!」
「初めから金が目当てだったんじゃないか?」
ミシェルは困惑している。耕介を店に招き料理の手ほどきをしてきたのは、他でもないミシェル自身なのだ。
信じたいのに信じきれないという思いを抑えきれず、結果睨むように耕介を見ていた。
ロックの目には嘲笑と愉悦が満ちている。
…誰もお前の言う事なんて信じねえよ!こいつ等は俺には逆らえねえのさ!
…俺より菓子作りの上手い奴なんて、この店にはいらねえんだよ!
…ふふ、これで店長の座は俺のものだ。
耕介は頭を上げ、大通りに向けて歩き出す。
俺は財布なんか盗んでいない!
何で誰も信じてくれない…。
何でロイの財布が俺の鞄から出てきたのか俺が知りたいくらいだ!!
嘘だ。本当は分かっている。
ロックが俺を追い出すために嵌めたって事は分かっている。
だが、証拠は無い。
従業員の誰も庇い立てしてくれなかった。
ミシェル店長は庇ってくれたが、全員に言い寄られては庇い立て出来ない。
俺一人と副店長を含めて他の従業員全員では、どちらを選ぶのかは自明の理だろう。
ミシェル店長の事は恨んではいない。
養護施設で育ったと知った上で雇ってくれて、丁寧に仕事を教えてくれた。
今思えば、それもロック達の癇に障ったんだろう。
ミシェル店長が庇えば庇うほど、ロック達の不満は募っていったように思う。
分かっていた事だ。こうなる前に辞めるべきだった。
それでも、ミシェル店長から料理を少しでも長く教わりたかった。
そんな思いでずるずるとここまで来てしまった。
日本からフランスへ渡り約5年。
友達も恋人も作らずに、ただひたすら料理の勉強をして来た。
育った養護施設にも一度も帰らずに、だ。
今更、日本に戻ろうとは思わない。
フランスにも日本にも居場所が無いのなら、外国を見て回ろうかな。
幸い料理ばかりしていてお金を使う暇が無かったから、多少の蓄えはある。
…そうさ。こんな事で落ち込んでいたって仕方ない。
どこの国に向おうか考えながらスーパーで買い物をし店を出ると、雪が降り始めていた。
時計を見ると、22時過ぎ。
仕方ない。鞄にカバーをかけて胸に抱えて走り出す。
「はっ、はっ、はっ…」
耕介の自宅へ帰るには、トンネルを抜けなければならない。
走りながら耕介は今朝の天気予報を思い出していた。
そういえば、今日はこの冬一番の冷え込みとか、午後から雪が降るとか言っていたっけ。
体が突風であおられる。耕介は自分が抱きかかえている鞄が心配になり抱え直す。
鞄、濡れてないよな?
耕介が自分の体より心配しているのは、先月購入したばかりのショルダーバック型の「ジェネレーター」。
太陽電池を内臓しており、外側のパネルに太陽光を当てる事で発電。付属の専用バッテリーに充電し、それをノートPCに接続して充電する仕組みを持つ。
効率の高いパネルを採用し、5時間で専用バッテリーにフル充電出来る点を気に入り購入した、今では愛用としているお気に入りの鞄だ。
まぁ、バッテリーと太陽電池込みで約2キロという重さが難点だが…。
紫外線と水に強いとは記事にはあったが、せっかくのお気に入りを濡らしたくはなく、鞄にカバーをかけている。
ミシェル店長は「やっぱりお前は几帳面だな」と笑っていたが、俺は気にしない。モノを大事にする事のどこが悪いのだ。
トンネルに着いた頃には、すっかり息が上がっていた。
座り込みこそしなかったものの、手を膝につきしばらく動けなかったほどだ。
息を整えながら、雪に濡れた髪をかき上げる。
ここでタオル出しても、また雪で濡れるよな…。
耕介はそう考え、ため息を漏らしながら、トンネルの出口に向け歩き始める。
このトンネルは全長100mも無いが、大きく右にカーブしている為、入り口からは出口が確認できない。
出口が見えなくても気にならないのは、等間隔に並んだ電球が頼もしげにトンネル内部を照らしているからだ。
トンネルに入り半分ほど過ぎ、耕介がまだ見ない外国に思いをはせていると、突然、地面が揺れる。
耕介は咄嗟に壁に手をつき、態勢を保つ。
地震によって電気が途絶えたのか、頼りの電球は一つ残らず消えていた。
暗いトンネルの出口から漏れる月明かりだけを頼りに、トンネルを抜ける。
そこには森が広がっていた。
トンネル内のアスファルトの地面ではなく、柔らかい土の地面。
排気ガスとコンクリートの匂いではなく、木々の青々としたむせ返るほどの匂い。夏のような暑い熱気。
すぐに振り返り確認するが、トンネルは無い。
いや、トンネルだけでは無く、アスファルトの地面も排気ガスの匂いも何も無かった。
目の前にあるのは鬱蒼と茂った森。前も後ろも右も左も森だけが広がっている。
何度、周りを見渡してもトンネルも無ければ、見覚えのある景色など欠片もなかった。