タトコリ攻めは、罠――。
顔の左側に残る火傷の跡を引きつらせ緊張した面持ちでそう告げた少年の言葉は、背伸びしたがる子供の差し出口にしてはやや剣呑に過ぎた。
しかし隣にいるテオロが驚いていないところを見ると、すでに彼ら親子の間では話してあるのだろう。そしてテオロやおそらくは一緒にいたであろうソポクらはその話に信憑性を感じたからこそ、この一刻を争う時に自分の元に連れてきたのだ。
ハクオロは一瞬目を閉じて考え、それから穏やかな声で問い返した。
「どうして、君はそう思う」
「関向こうのチクカパ村から、峠を越えてやって来た使者がいたと聞きました。気になったのは、その人が傷だらけだったということです。チクカパはタトコリを含むあの一帯の森を生活の糧を得る恵みの森としていると聞きます。父さんたちヤマユラの民にとっての、カカエラユラのように」
カカエラユラ――懐かしい場所だ、とハクオロは思った。
エルルゥと薬草を摘みに行ったのは、ムティカパ退治にテオロと森の奥に分け入ったのは……時間で言えばついこの間だというのに。
「生まれ育った森を抜けたのに、なぜそんなに傷だらけになったのだろうか、とそれが気になるのです。昼間ならなおのこと、夜でも昨夜は今夜と同じ、月の明るい夜でした。使者に選ばれるほどですから森に詳しい人でしょうし、不自然だと思いました」
ほう、とハクオロは声を上げかけた。
帯(トゥパイ)も締めぬ少年と思いきや、その謂いにはなかなかに筋が通っている。
しかし、まだ分からない。この少年が何を、どこまで考えているのか……
「……しかし森の獣道を急いで走れば、枝や葉で切り傷を作ることはそれほど不自然ではないだろう」
「その通りです、ハクオロ様。おそらくは傷の原因はそういった、急いだが故の傷でしょう――気になるのは」
少年は膝の上で握った拳に力を込めて、ハクオロを強い目で見つめた。
「その人は、なぜそんなに急ぐ必要があったのか、ということです」
「――ほう」
ついに声に出てしまった。ハクオロは軽く目を見開いた。
認識を改めるとしよう。この少年は――少なくとも背伸びをして大人の戦に口出しをしているだけではなさそうだ。
「助けを求める使者が、急ぐのが不思議かい」
「テオロさ……父から聞きましたが、その人の伝えてきたことは、関向こうの勢力が傘下に加えて欲しいと願っているということですよね。たしかに重要な用件ですが――傷だらけになってまで、つまり枝や茂みにぶつかる物音をたてながら森を駆け抜けなければならないほど一刻を争う用件というわけではありませんよね。むしろ敵に捕まって秘密が漏れるのを恐れて、静かに、慎重に進むはずではないでしょうか」
少年の横で腕組みをしているテオロは、目を閉じて顔をしかめている。
こちらをまっすぐに見つめてくるアオロに目を合わせ、ハクオロは気が付けば手元で弄んでいた鉄扇をパチリと鳴らして言った。
「それで――君の予想が正しいとして、彼が傷だらけになった本当の理由は何だと君は言うのかい」
「関の見張りに、見つかったのだと思います」
しん、と部屋に沈黙が落ちた。
窓の外から聞こえる出陣の準備のざわめきが、その沈黙を一層際だたせる。
少年はその瞳に込めた力をいささかも揺るがすことなく、しばしの間の後に言った。
「――罠とはそのことです、ハクオロ様。敵は襲撃を予想して、待ちかまえていることでしょう」
「ふむ……」
少年の話を聞き終えたハクオロが、言葉を返そうと口を開きかけたその時、荒々しい足音が部屋に入ってきた。
「――兄者! 俺たちはいつでも出れるぞ!」
出陣準備完了を告げに来たオボロだった。帯に二刀を差し込み、鈎の付いた足袋と革の手甲に身を固め、すでに臨戦態勢だ。
ハクオロに呼びかけつつ勢いよく入ってきたオボロは、室内から一斉に向けられた視線に一瞬たじろいだ。
「な……なんだ。親父さんに――子供?!」
「オボロさま、お邪魔しております」
「ああ、傷はもう良いのか――っとそうじゃない! 何の用だかは知らないが、今は忙しいんだ! 後にしろ!」
殺気立つオボロは邪険にアオロへ手を振る。
確かにオボロの言う通り、出陣の時刻は迫っている。今すぐにでも出なければ、夜明けに間に合わないかもしれない。
しかしハクオロはオボロに呼びかけた。
「まあ座れオボロ。タトコリ攻めに関係ある話だ」
「まさかアオロを戦に連れて行くなどというんじゃないだろうな、兄者」
「いやそうじゃない。アオロは親ッさんから話を聞いて、チクカパ村の彼は関を抜ける時に見張りに見つかったのではないかと考えているんだ。それでタトコリの関守はこちらの襲撃を予想して守りを固め、待ちかまえているのではないかと心配してそれを言いに来てくれたんだ」
「奴らが待ちかまえてるだと――?」
ハクオロの傍らにまでやってきたオボロは、立ったままアオロを見下ろすように見やり
「――それがどうした」
と、事も無げに言った。
「待ちかまえていようがなんだろうが、力で食い破るまでだ。重要な場所とはいえ、所詮、城でも砦でもないただの関に過ぎん。関の向こうも援軍に駆けつける以上、もはや俺たちの勝ちは動かんが、それでも兄者はなるだけ犠牲をすくなくするために、速攻、夜明けの奇襲を決めたんだ。そんなことを気にする暇があったら、少しでも早く出発すべきだ!」
「……そういうことだ、アオロ」
腕組みをして叩きつけるように言い放ったオボロの言葉にハクオロは小さく頷いて、目の前の少年にむしろ優しく語りかけた。
「敵がこちらの襲撃に用意しているだろうことは折りこんだ上で、私は出陣を決めた。遠からず単独でも攻めるつもりだったが、チクカパ村の彼のおかげで関の向こうの応援も得られることが分かったので、予定を少し早めたに過ぎないんだ」
「そうだったのかィ……」
ううむ、と唸っているのはアオロの後ろにいたテオロだった。
ハクオロはふっと微笑み、膝立ちになってアオロの肩に手をかけた。
「アオロ。お前がその歳にしては驚くほど智恵働きができることはよく分かった。戦が終わったら良い師を探してやろう。お前ほどの理解力があれば、すぐに算法論の三学に通じるようになるだろう。だから今は焦るんじゃない。いいね」
「――さすがはハクオロ様です。恐れ入りました」
観念したかのような少年の言葉に、これで話は終わりだと誰もが思った。
だから、アオロが言葉を続けた時に皆が眉をひそめた。
「しかしながら、あと一つだけ、お尋ねしたき事がございます!」
「アオロ」
「坊主!」
「……わかった、言ってみなさい」
テオロがたしなめ、オボロが怒鳴る。強面の大人二人の叱責に、しかしアオロはハクオロを睨むような視線を動かさない。
そのひたむきな視線に負けて、ハクオロは浮かせかけた腰を下ろして話を促した。
アオロは床に打ち付けんばかりに礼をして、それから、奇妙なことを言いだした。
「それで、そのチクカパ村からの使者は――関の見張りから、無事に逃げおおせたのでしょうか」