ピューーーイィ
ピューーーイィ……
「そっちへ行ったぞー!」
「逃すな! 追え!」
宵闇に包まれた林道の静けさを、兵達の怒声と甲高い呼子笛の響きが引き裂いている。
場所はケナシコウルペ國中部にある、タトコリ峠。
獣も迷うと言われる深い森と起伏の激しい地形の中をただ一筋貫くこの峠道は、建国以前より交通の要衝として有名である。
当然そのような道には関が設けられ、街道の安全を確保するという大義名分の元に関手(通行税)を旅行者や商人らから巻き上げるための兵員が配置されている。
関守という職は、決して軽いものではない。しかし――
「関破りたァね。ちっとは暇つぶしになりゃあいいんですがね、大将」
「――こちらに来ます。クロウはその影へ」
「了解!」
――少なくとも、一國の侍大将とその副官が直々に勤めなければならぬほどの要職でないことも確かである。
チャヌマウでの叛乱勢力との戦闘で、ベナウィ率いる部隊はムティカパ(通称ムックル)の咆哮に統制を失い撤退していた。
決して敗退などと評されるべきものではなかったのだが、遊興に明け暮れるインカラの頭脳ではそのふたつの区別はついていなかった。
逆らう奴らは皆殺し、そうできなければ負け、という非常に明快な理論でもってインカラはベナウィの行動を評価し、能なし、腰抜けと罵った上で、彼をタトコリの関守という閑職に追いやったのであった。
同時に侍大将の肩書きも皇甥ヌワンギに奪われたはずのベナウィであったが、なぜだか侍大将の職を免ずるという正式な降格手続きが取られることなく出立となったため、現在この國には侍大将が二人いるという不思議な状態になっている。
同情する声、いい気味だと笑う声、この國は大丈夫なのかと不安がる声……様々なささやきが遠巻きにこの主従を包んでいたが、ベナウィはそれらに全く取り合うことなく左遷そのものの任地へ淡々と向かい、誠実にその職責を果たしていた。
チャヌマウでの出来事からすでに旬日が過ぎ、部下をシゴき上げるのにも飽きたクロウがボヤき始めた頃――
関破りを知らせる笛の音が鳴り響いたのであった。
ガサリと藪が揺れて、若い男の顔が枝葉の合間から周囲を伺うように左右に振られる。
泥にまみれ、擦り傷から血を滲ませたその顔はひどく焦っている。追っ手がここまで来ていないことを冷静に確認したつもりなのだろうが、現にこうして木陰に隠れて男を見つめているベナウィやクロウの存在に気づいてはいない。
……もっとも、気が付いたところで、すでに逃げ道などないのだが。
「ハァ、ハァ……よしっ!」
追っ手から隠れて逃げるものが、かけ声など上げて走りだすものではありません。と、ベナウィは思う。
そういう甘さといい、服装といい、顔立ちといい、この若者が逃亡兵や密貿易を企む闇商人などではないことは明らかだった。
おそらくはどこかの集落の、単なる村人であろう。その推測に、ベナウィの心はわずかに重くなる。
集落から出ることさえ稀な単なる村人が、こんな夜中に関破りなどという大それた事を働く理由に、ベナウィは心当たりがあったからだ。
藪から飛び出て走り出した男が一瞬後方へ目をやった隙に、ベナウィはウォプタルを二歩だけ前へ進める。
たったそれだけで、男の行く手は完全に塞がれた。
急に目の前に現れたベナウィの姿に男はのけぞるように足を止め、たたらを踏むように数歩後ずさり、後方へ駆けだそうとして……
「あ……」
そこには音もなく詰めていたクロウが、わずかに眉根を寄せた表情で立ち塞がっていた。
月明かりに冷たく輝く得物を持ち、軍用のウォプタルにまたがる二人の武人に挟まれ、男の逃亡劇はこれで完全に詰んだ。たとえこの男の背中にオンカミヤリュー族のごとき翼があったとしても、飛び立つ前にその槍が
男を貫き地に落とすだろう。
男は、己が陥った状況をまだ上手く理解できていないのかもしれない。ベナウィとクロウを交互にキョロキョロと見上げてはうろうろしている男の目に、ゆっくりとゆっくりと絶望の色が浮かびだすのをベナウィは見た。
……まだ、どこか幼ささえ残す顔立ちの若者だ。
汗と泥と血にまみれたその顔には、純朴さが一目で見て取れた。殺さず奪わず貪らず、ただ太陽と森の恵みに感謝し日々を生きる、真っ当に暮らしてきた農民だけが持ちうる純朴さがそこにはあった。
その頬が今、闇の中で絶望と恐怖に引きつり――
「行きなさい」
瞑目してベナウィは言った。
それを聞いたクロウは、えっと微かに声を上げベナウィの顔を見やり、主が本気であることを悟って頭を掻いた。
「ああっ! さっさと行けって言ってんだ!」
声が荒ぶったのは、関破りを見逃すというベナウィの決定に不服があるからではなかった。
クロウはその外見と普段の言動のせいで筋肉馬鹿の典型のように目されているが、決して頭の巡りは悪くない。
このときクロウは、この「見逃す」というベナウィの決定が何を意味しているのかをほぼ正確に読みとっていた。
見逃したのは、男への哀れみではない。良心が痛んだせいでもない。
そんなものは二人とも、とうの昔に戦場に捨ててきた。そんなウェットな、生ぬるい感情で動く男達ではなかった。
ベナウィが男を見逃したのは、この男がどこから来て、どこへ何をしに行こうとしているのかを悟ったからに他ならない。
(こりゃあウチの大将は相当、あのヘンテコな仮面の男に期待してるみてぇだな……)
つまりは、これはベナウィによる叛乱なのだった。
いくら罵られようとインカラに黙って仕えてきたベナウィだったが、その彼が今、インカラの敵に塩を送る決定をしたという事実は極めて大きい。
とはいえベナウィ自身が叛乱軍側へ寝返ることはあるまいし、今後の叛乱軍との戦いで手を抜いたりも決してしないだろう。しかしそれは、ベナウィがインカラに忠誠を誓っているからではない。
ベナウィが仕えているのは「この國」そのものであり、ベナウィにとって國とは民であった。
つまり、叛乱勢力が単なる一時の勢いで終わらず、新たな秩序と平和を民草の上へもたらすのであればその方が良いとベナウィは考えていたし、クロウはそれを理解したからこその『ああっ!』であったのだ。
「いたかーッ!」
「あーコッチにはいねえ! 向こうを探すぞ!」
呼ばわる足軽頭の声にクロウは応え、ベナウィの顔を一瞥すると何食わぬ顔で兵達のところへ去っていった。
※ ※ ※
ベナウィは峠道を必死に駆けていく名も知らぬ青年の後ろ姿を一瞬だけ見送った。
曲がりくねる険しい峠道は、すぐにその影の中へ男の姿を飲み込んでしまう。ここから藩城まではウォプタルで半日、人の足なら一昼夜というところだ。この先にも検問はいくつかあるが、どこもまともに機能していない。
使者に選ばれるほどだ、あの青年は健脚自慢の若衆なのだろうし、明日の夜には藩城に――”あの男”の元へたどり着くだろう。
見逃した関破りの青年が去り、クロウも去った。
月明かりの青に沈む峠道に残されたベナウィであったが、彼は最前から背後の藪に潜むもう一つの気配に気が付いていた。
ひどく巧みに気配を消しているので、クロウでさえおそらくは気が付いてはいまい。
「――待っていましたよ、チキナロ」
「やれやれ……あなた様の目はごまかせませんか」
こちらを試していたのか、気づかれたことに苦笑するような様子で一人の男が藪の中から返事をしてきた。
しかし藪の中から出てこようとはしない。ベナウィの部下がいつ現れても姿を見られることのないようにしている。
実際、得体の知れない男である。
暗器を扱う技や気配を消すことなど、商人としては不必要なほどこういう暗い技に長けている。
しかし役に立つ男であることも確かだったし、報酬さえ弾めばこちらが望む商品をきちんと仕入れてくれる。
――たとえば、敵陣の情報など。
「それで、いかがでしたか」
挨拶は不要とベナウィは報告を求める。
茂みの奥にちらりと目をやると、微笑んでいるように見える商人の顔が葉影に紛れて見えた。しかし笑っているように見えるのは上げられた口角と口調のせいで、その細い目はすこしも笑ってはいないのだった。
「なかなか面白い御方でした。詳しい内容は……こちらをご覧下さい」
かさり、と微かな音がして、木簡の巻物がひとつ地面へと置かれた。報告書ということなのだろう。
それを横目で見やって、ベナウィは問うた。
「……チキナロ、あなたはどう見ましたか」
ベナウィが聞きたいのは、報告書には載せなかったであろう、チキナロ自身の意見であった。
反乱軍の情報などわざわざ高い金を払ってこの男に依頼せずとも、手持ちの情報だけで押さえ込む自信がベナウィにはあった。ベナウィがもっとも知りたいのは、反乱軍の弱点などではない。
あの男――ハクオロのことだった。
チキナロも、そのことを十分に分かっているのだろう。主語を抜いた質問であったにもかかわらず、わずかな沈黙のあとに的確に答えてきた。
「――惹きつけられるのです」
「……」
「一見そんな風には見えないのですが……惹きつけて止まないのです」
ベナウィは内心驚いていた。
この男が、誰かに心を惹かれたなどということを言うとは信じられなかった。
そして何より驚いたのは――それが、チャヌマウで対峙してからの自分と、全く同じ意見であるということだった。
「……約束のものです」
ベナウィが腰から放って寄越した金袋を両手で受け止め、商人は藪の奥で笑った。
「お代は確かに――毎度ありがとうございますです、ハイ!」
商人らしい猫なで声で告げられた最後の決まり文句が実に空々しい。
得体の知れない奴だという念が一層強くなるが、仕事さえ信頼できればそれでよい。
商人が金袋を抱えたまま後ずさるようにして闇の中へ去って行った後、ベナウィは槍の穂先で木簡をすくい上げた。
しかし、その場で開いて読むようなことはしない。関へ帰り、人払いをしてから読むとしよう。
ベナウィは木簡を懐に収め、ウォプタルの頭を巡らせた。
帰り道、ベナウィはふと夜空を見上げた。
樹と岩ではさまれた狭い夜空だったが、透き通るほどに晴れていて星がよく見えた。
ベナウィは占いを信じない。星読みをしてこれからの國の行方を占おうというつもりではなかった。
しかしもし、占師が主張するように人の運命(さだめ)が星辰によって支配され導かれているというのなら――
(愚かな皇を支え数多の兵を戦に導き、叛乱の長に心惹かれ敵を見逃す――随分と半端なことしていますね、私は)
――この自分の役回りは、いかなる星の導きだというのだろうか。
埒もない、と小さく息をついて、ベナウィは思いをさまよわせるのをやめた。
あの青年がハクオロの元にたどり着けば、必ずここを攻めてくる。
彼はそれに備えなければならない立場であったし、そこで手心をくわえるつもりはベナウィには一切無かった。
(ハクオロ――あなたが真に皇の器ならば、この程度の試練、打ち破って見せなさい)
――自分はディネボクシリ(地獄)に堕ちるだろう。
チャヌマウでの別れ際、ハクオロが言った言葉をベナウィは思い出していた。
それでも、成さねばならぬことがある。
ベナウィは今、そのために闘っているのだった。
※ ※ ※
「ずいぶん良くなりましたね。傷口も乾燥して堅くなったし、この調子だとあと数日で巻き布を外せそうです」
エルルゥが背中の傷を見ながらそう言ってくれた。
自分で背中を見られないのは残念だが、順調に治っているのは実感できる。盛り上がる新しい肉がかさぶたの周囲の皮を引っ張って近頃痛いやら痒いやらなのだ。
食事の方も今はがっつりと普通のものを食べている。兵士や肉体労働をする人以外は一日二回、朝夕のみの食事というこの世界の食事習慣だが、俺は怪我人だからと皆さんの好意のおかげで昼食まで頂いている。
「エルルゥさんのおかげです。本当に、ありがとうございます」
「アオロさん、もうお礼はいいですから。それよりも、きちんと完治するまでこないだみたいな無茶はしないで下さいね。ノノイから聞いた時ビックリしたんですから」
「あはは……反省してます」
こないだした無茶、というのは数日前に夜中こっそり行った筋トレの事である。
足がこんななのはもう仕方がないのでせめて腕力で補おうと、寝てばかりいてヒマだったこともあり上半身の強化に取り組んだワケだが……
結果、傷口が開いて出血、発熱。ノノイに怒られソポクさんに呆れられ、テオロさんに頭を撫でられた。
「ねぇエルルゥ。巻き布を外せるようになったら、アオロはあたしらんとこに引き取っていいんだろう?」
親子になったその日以来、頻繁に顔を見せてくれるようになったソポクさん――母さんがエルルゥにそう尋ねる。
「はい。かさぶたの周りがまだ少し赤いので、これが引いたら大丈夫です。というか、こないだのアレがなかったら今日にもこの部屋をでれたんですよ?」
「誠に申し訳ありませんでした……」
平伏して許しを請うしかない俺だった。
とはいえ、乾燥させたカリンの種を握りしめて握力を鍛える訓練は今でもこっそり続けてるんだけどね。
「さて、あたしはそろそろまた厨に戻るよ。エルルゥ、ハクオロに会ったらチカの仕入れを頼んどいておくれ。できればネウの乳と肉も。ああ、塩も足りなくなってきたね」
「はい、伝えます。お疲れ様ですソポク姉さん」
「あんたほどじゃないさエルルゥ。うちの子の面倒見てくれるのは嬉しいけど、あんたが無理しちゃだめだからね?」
立ち上がってそう言う母さんのエルルゥを見つめる目はとても優しくて、温かかった。
はい、ありがとうございますと答えるエルルゥの表情もまた温かく、それは二人の間にある肉親のような確かな絆を実感させてくれるものだった。
「エルルゥ、お水持ってきたよー。あ、ソポクさん行っちゃうの?」
そこにタライを抱えたノノイが帰ってきた。
お団子の髪を包む布が今日は薄い青になっている。これがこの娘のオシャレポイントだと最近気が付いた。
「そろそろ夕飯の仕込みだからね。ノノイ、うちの子がまた馬鹿なことしでかしたら遠慮なく殴ってかまわないからね」
「母さんっ!?」
「あっははは! そうします!」
「うわっ、すっげえいい返事だし!」
「当たり前さ、ソポクさんはあたしらヤマユラの女衆みんなの姉みたいなモンだからね」
そう言って俺のそばにタライを下ろすノノイ。
「さて――アオロ、体拭くから脱ぎな」
「もう脱いでるよ」
「下もさ」
「いやいやいや、それはさすがにもう自分で拭けるから! というか自分でさせて」
「――アオロ?」
母さんの怖い声。
「観念しな」
「下帯までは脱がなくていいですから」
「ちょっ! ちょっ! やめっ……ああっ!?」
――大体こんな感じで、日々は過ぎているのだった。
とはいえこの平穏が破られる時が近いことを俺は知っているし、皆も知っている。
俺たちは今、戦をしているのだ。