膝裏に、深くて長い傷跡がある。
下履きだけの姿になり寝床の上であぐらを掻くようにして、自分の脚に刻まれた古い傷跡を俺は他人事のように指でなぞっていた。
「……傷は綺麗にふさがっていますから、手当もちゃんとされたみたいです。でも……脚の、この部分にある腱は、一度切れると元のようにはならないんです」
古い、と言っても、この体自体そう長く生きてるわけじゃない。
ただ、本来まっすぐ走っていたと思われる傷跡が、体の成長に引っ張られるようにしてたわんでいることから、少なくとも1.2年以内のものではないはずだ。
「私もおばあちゃんから聞いただけで、診るのは初めてだからはっきりしたことは言えないけど……訓練すれば、歩くことはかなりできるようになると思います。でも、走ったり、重いものを持ち上げたりとかは……ごめんなさい……」
偶然の事故で負った傷なんかじゃない。それにしては切り口が鮮やかすぎるし、両足の同じ位置に同じような傷をたまたま負うというのも不自然だ。
これは明らかに、なにかの目的のために、意図的に付けられた傷だ。
そして俺は思い出さずにはいられない。
うたわれるものでも、いたじゃないか。こういう傷を付けられた女の子が。
タイムテーブルからするとずっと先のことになるけど……
「俺は」
妙につるつるする傷跡を指先で触りながら、俺は疑問を言葉にする。
「……誰なんだろう」
答えが返ってくるとはすこしも期待してないけれど、問わずにはいられない。
心の中でつぶやいて済ませるには、ちょっとばかり、荷が重くなりすぎてしまった。
「なんで、こんな傷があるんだろう」
「……わからないです」
灯された明かりの柔らかい光は、目を伏せて答えるエルルゥの顔に陰影を刻み、まるで泣いているかのように俺には見えた。
エルルゥは、きっと勘違いをしている。
エルルゥはきっと、俺が「自分の体になぜこんな傷があるのか」と悩んでいると思っていることだろう。
でも、それは違う。
エルルゥがそう思うのは当たり前だし、説明しても理解してもらえるとは到底思え無いけれど、でも今俺の胸の中にわき上がっている感情は、そして疑問は――そうじゃない。
なぜなら、「この体」は「俺の体」では無いのだから。
俺は数日前にこの世界のこの体へ入り込んできた、言ってしまえばヤドカリの本体みたいなものだ。
そしてその入り込んだ「貝殻」つまりこの体には、少なくとも数年前以上前に刻まれたとおぼしき傷がある。
ヤドカリが言葉を解したとして、「自分の貝殻にはなぜこんな傷があるのだろう」などという苦悩を抱くことはあるまい。
「元の持ち主が、なぜこんな傷を負うに至ったのか」ということに関心は持ったとしても。
そう。俺は悩んでいるわけではないのだ。
確かに今の体が満足に歩けない身であるということについて、これからどうしよう、不便だ、という将来へ向けての悩みはある。
でも今はそれ以上に、「かわいそうに」という思いが大きいのだ。
自己憐憫ではない。
それはこの子――幼くして脚の腱を切られ、焼き討ちによって天涯孤独の身になり、大けがをした上に、俺によって体まで奪われ乗っ取られたこの体の前の持ち主への、哀れみ。
「君」は、一体「誰」なんだろう。
どうして、幼かった君はこんな傷を付けられなければならなかったのか。
チャヌマウの村はずれの藪の中に埋もれるようにして倒れていたという君は、どんな想いでそこまで逃げたのだろう。
そして君は今、どこへ行ってしまったのか。
――僕に体を明け渡して消えてしまったのか?
――それとも、僕のなかのどこかで眠っているだけなのだろうか?
「……エルルゥ、持ってきたよ」
「ありがとう、ノノイ。――あの、少しでも食べられそうですか?」
エルルゥの呼びかけに顔を上げると、いつの間にか隣にノノイが来ていて、良い匂いのする葉包みが盛られたザルをこちらに突き出していた。
「出来たてのチマクさ。温かいうちに食べな」
いつも通りを装おうとしていることが一目で分かる硬い表情で、ほれ、とノノイはさらに俺の近くへザルを寄せる。香ばしい香りがぷんと鼻をくすぐる。
確かに俺はさっきまでものすごく腹が減っていた。
しかし――今は。
「……いらない」
「冷めちまうよ。いまお食べ。一口食べれば全部食べちまうさ」
「そんな気分じゃない」
「いいからお食べ。そして食べたらまた寝な。ああ、喉が渇いてるんなら水を先に――」
「ノノイ」
俺はノノイの目を見つめて首を振った。
「本当に、食欲が無いんだ。俺は平気だから、ノノイはもう休んでくれ」
「………!」
すると、ノノイもエルルゥも驚いたように俺を見つめ、それからなぜか泣きそうな顔で目を伏せた。
そんな二人の反応が理解できず俺が戸惑っていると、ノノイはチマクの乗ったザルを傍らに置いて、俺がさっき蹴飛ばして壁にぶつけてしまった鏡を持ち上げ、何も言わずに俺の前に構えた。
薄明かりをうけて鏡の中に映る、いまだ見慣れないこの白い顔は――
「え?」
――いつの間にか、涙で濡れていた。
「……どうして」
「俺は平気、だって? 平気なわけないじゃないか。平気ならなんでアンタ泣いてんのさ」
「いや違う、これは」
これは――”俺”じゃない。
その瞬間、俺は天啓のように理解した。
――君か。
君は、ここにいるのか。
この涙は声なき君の叫びなのか。
生き残ったという喜びの涙なのか。
死に損なったという絶望の涙なのか。
体を傷つけ村を焼いた者への憎悪の涙なのか。
救われ手厚く看護されたことへの感謝の涙なのか。
この涙がどんな意味を持つのか、俺には分からないけれど、今はそれでいい。
”君”が消えずに残った――そのことが、俺には何故かたまらなく嬉しかった。
頬の上を、新たな涙が滑る。
さっきまでの自覚のない、温度のない涙とは違う……肌を灼くほどの熱い涙だった。
……これは、俺の涙だ。
二人の涙が、頬の上で混じり合い、あごの先から雫となって滴りおちる。
掌で受けたそれを俺はまるで宝石のように見つめ、そして、唇へ含ませた。
まるで盃を傾けるようにして。
そんな俺をエルルゥとノノイが心配そうな表情で見つめてきているのに気が付いてはいるけれど、二人にこのことを説明しようとは思わなかった。
これは誰にも言う必要のない、俺からこの子への一方的な、約束。
この体を君から奪ったものとして、俺にできる最大の誠意の表明。
いつになるかは分からないけれど、俺は必ず君にこの体を返そう。
その日まで、俺は責任を持ってこの体を養い、護ろう。
君にとって生きやすい、よりよい未来も添えて、君へ渡せるように……
「――あ」
手を伸ばして、ノノイの膝元に置かれたザルから一つのチマクを取り、葉を剥いて口へ運ぶ。
モロロではない、もちもちとした穀物の歯触りと香ばしい薫りが口の中いっぱいに広がって、のどを滑り落ちて行く。
あっという間に一個を食べ終え、次の一個に手を出す。
葉を剥くのももどかしくかぶりつく俺に、硬直していた二人がようやく声をかけてきた。
「あの、もっとゆっくり食べた方が……」
「む、無理しなくていいんだよ……?」
「なんだよ、食えっつったのノノイじゃん」
もう心配無用だということをアピールするために、意図的に軽口を叩く。
「――もしかして、自分が食べたかった?」
「馬鹿ッ!」
お、怒った。ということは図星だったのか?
俺は二個目の最後の一口を口に放り込み、三個目に手を伸ばしながら正面にいるエルルゥに言った。
「エルルゥさん」
「――はい」
「傷のこと、話してくれてありがとうございました。それと、心配かけてすいませんでした。もう大丈夫ですから……たぶん」
俺の雰囲気から、さっきとは違うものを感じたのだろう。
エルルゥは俺の目をちょっとの間見つめて、それから口を開いた。
「あなたは……強いですね、とても」
「そんなんじゃないですよ」
俺は行儀悪いと思いつつ、チマクを頬張りながら答えた。
「強いとか、そんなんじゃないです。ただ、決めただけです」
「決めたって、何を……?」
「優先順位。体のこととか、記憶のこととか、すぐにはどうしようもないことは先送りして、今はともかく傷を早く治すことに集中しようって。さっきノノイにも言われましたからね。具合の悪い時に考え事しても良いこと無い、元気になってからゆっくり考えればいい、って」
「そうだよ! 分かってんじゃないか」
さっきまで傍らでうつむいていたノノイが、顔を上げて力強く微笑んだ。
「ほら、あと二つあるからたんとお食べ。足りなきゃもっと持ってくるからさ!」
「あ、あの、一応薬師としては病み上がりの大食はオススメできませんよっ!?」
「――それより……ヒクッ……ノノイ、水を……ヒクッ」
「「きゃー!」」
※ ※ ※
……うち沈んだ当初の空気はどこへやら、急に賑やかになった室内を戸の影からそっと伺う気配があった。
ノノイの様子が気になってこっそり見に来た、ソポクだった。
厨の女性衆からも後で様子を聞かせてくれと頼まれてきたのだが、ソポクは今心から驚いていた。
(なんて子だい……まだ元服も迎えてない――アルルゥよりかちょっと上なだけの歳の子供なのに……)
強くない、と少年は言ったが、ソポクはその言葉こそが、強さのしるしだと思った。
あの子供が決めたのは、優先順位だけじゃない。
受け入れること。そして、立ち向かうこと――だからこその、あの言葉なのだろう。
(ウチの宿六も気にかけてたけど……確かに気になる子だね……)
水差しの水を喉を反らせて飲み干し、エルルゥから窘められている少年の姿を目に収めて、ソポクはそっと足音を立てないようにしてその場を立ち去った。
厨で待っている皆に、この成り行きをなんと説明しようかと考えながら。