タトコリを抜け、木々に閉ざされた細い道をさらに数里進むと、緩やかになり始める山麓の山間に不意にやや開けた場所が現れる。
チクカパの集落である。
かつてこの國の政が滞りなく行われていた頃には、山地を抜ける旅商人達の宿場町としてささやかながらも賑わいを見せた村であったが、今では見る影もなく廃墟が立ち並ぶ有様である。
しかし、その責は村人達には無い。
たしかに、近年は往事の賑わいは無くなりつつあったのだ。それはタトコリの関手(関税)が不法に値上がりし、また治安が悪化したため、商人達が敬遠し始めたことも要因の一つであっただろう。
とはいえ――事態が急激に悪化したのはほんの二月ほどのことである。
山向こうで大規模な反乱が起き、皇弟ササンテが殺されるという事件があった。
ついに起きたか――それが人々の偽らざる思いであった。
血縁のある関係ではないが、互いに山の民である。暮らしの辛さはわがことのように分かる。
さらにあの地には政争に敗れた者達が潜むと言われており、今の皇族たちから目をつけられ、事あるごとに言われ無き搾取を受けているとも伝え聞いていた。
しかし、皇族殺しとは目も眩むほどの大罪である。
朝廷による徹底的な報復によってあっというまに元通りになってしまうだろう。
それならば、巻き添えを食らわぬようしばらくはおとなしく暮らすのが最善。
気の毒だとは思うが、それでこれまでもやってきたのだ……チクカパの村長はそのように考えた。
しかしその予想は外れ、物事は急速に、そして劇的に進行した。
その変化の早さと容赦の無さは、残酷なほどであった。
反乱の制圧に乗り出した朝軍は、その度手痛い敗北を喫して逃げ帰ってきた。
こちらまで名が聞こえる山向こうの豪族たちが次々と傘下に加わり、反乱勢力は日に日に拡大した。
ついにタトコリは閉鎖され、山向こうの情報が手に入りにくくなった。
経験した事のない状況に言いしれぬ不安を抱えるチクカパの人々に、そんなある日、悲劇が訪れた。
『我々は侍大将ヌワンギ様の命によってやって来た! この村には、反乱に荷担した疑いがかけられている。そのため全ての財産を没収し、食糧は九割を租として取り立てるものとする! 逆らうものは反乱勢力の手先と見なす! 異存ないな!』
ウォプタルにまたがってやって来た小太りの貪欲そうな中年男は、のけぞるような姿勢で笑いながらそう言った。
無茶苦茶な要求であった。
疑いだけで全財産没収のうえ、九割の租。これでは死ねと言うのと変わらない。
集まった民の間に怒りが満ちるのを、老いた村長は感じた。
不穏な空気を感じ取った村長は、意を決して前に出て跪き、哀れを求めて言った。
『財産は持って行ってかまわない。しかし食糧は七割にして欲しい。そうでなければ皆飢えて死ぬしかない』
それに対して小太りの隊長は愉快そうに答えた。
『お前達山猿が、山で飢え死にするとは笑わせる。キママゥのように木の皮や根をかじればいいだろう』
男と、その背後の兵達は嘲笑を谷に響かせた。
山猿とは、山の民への最高度の侮辱である。ついに村長は叫んだ。
『我々が一体何をしたというのだ!』
『貴様、逆らったな! この反乱の手先め! もはや一割も残さぬ、全て奪い去れ!』
そうして略奪が始まった。
呆然として村の広場にへたりこんだ村長の周りで、悲鳴と怒号が次々と上がる。
ほどなく、どこかから断末魔の声が上がる。抵抗した若者が兵達の手にかかったのだ。
『殺せ、殺せ、逆らうものは殺せ。女は数人連れて行けよ』
先ほどの隊長の粘ついた声が、呆けていた村長に現実を取り戻させた。
彼は無駄にした時間を悔やみながら、立って近くの男達を数人呼び集めた。
『村に火を放て。抱えられるだけの荷物を持って落ち延びるのだ。バラバラに散って、見つからないようにイクタラの洞窟で落ち合おう』
男達は速やかにそれを実行した。
立ち上る炎は見る間に村を飲み込み、兵達は舌打ちをしながら略奪を中断し引き上げていった。
その混乱のなかで、さらに二人の村人が命を落とし、十三人が怪我をし、三人が行方知れずとなった。
避難場所となった山の民しか知らぬ断崖の洞窟に潜むこと数日、兵達の姿が失せたことを確認した村人たちが戻って見たのは、廃墟と化した村の景色と、行方が分からなかった一家三人の、焼け焦げた遺体であった。
家の中で、幼子をかばうように夫婦で身を寄せ合って、一つの丸い炭となっていた。
村長は人目をはばからず慟哭し、許してくれとその家族の骸の傍らで泣き続けた。
村人達も泣いた。
そして――涙はやがて、怒りへと変わった。
その怒りは村を焼いたのより遙かに大きな炎となって、人々の魂を焦がすのであった。
これが、チクカパ村がハクオロへ使いを出し、反乱に加わることになった経緯であった。
そして忘れてはいけないのは――これと同様の、否さらに酷い悲劇が今、この國のいたるところで起きているということである。
※ ※ ※
「ハクオロ皇。このような何もない場所にお迎えしなくてはならぬこと、深く恥じ入る次第にございます」
――そして、今。
廃墟と化したチクカパの村の中心で、痩せた老人がハクオロの前で深々と頭を垂れた。
ほんの一月たらずの間でさらに十年は年を取ったように見えるその老人こそ、チクカパの村長、クネラゥであった。
藩城を出て進軍を続けたハクオロ達本陣は、タトコリを通り過ぎて、ここチクカパで夜営の準備を行うところであった。
焼け残った壁や梁に板や布をわたして即席の家とし、身を寄せ合うようにして暮らしているチクカパ村の住民達は、やや離れたところで向かい合う二人を見ている。
タトコリが落ちた後にそのまま藩城へやって来て軍議に参加し、チェンマの凶報によって進発してからここまでずっと同行してきた村長が、ここに至ってそのような改まった態度を取った理由を、ハクオロはすぐに察した。
兵達に略奪された村人達は、味方とは聞いてはいるものの、初めて見る軍勢におびえているのだ。
この村長はそれを理解しているので、わざと村人たちが見ている前でハクオロの前に跪いたのだ。
何が求められているのか、どう振る舞うべきか、分からないハクオロではなかった。
「――悲しい景色だ」
「……」
「賑わう町が、穏やかな人々の暮らしが、子供達の遊ぶ姿と微笑む女達、働く男達の姿が、かつてここにあった――しかし、それは無残に喪われてしまった。それが見える……本当に悲しい、景色だと思う」
村長はただ頭を深く下げた。
背後ですすり泣く声が聞こえた。
「クネラゥ。私も同じなんだ。私たちは皆、何かを喪ったものの集まりだからだ。だからもう、これ以上誰かから奪う事などしない。だから――顔を上げてくれ」
「はっ!」
「チクカパの村長、クネラゥ。あなたの村に宿営を張る事を許してもらい感謝する。我々は明日の朝にここを発つ予定だ」
再び頷く村長に、ハクオロはいたわるように声をかけた。
「……そして村人達に伝えて欲しい。どうかしばらくの間、耐えて欲しいと。そしてできるならば、トゥスクルという私たちの新しい國造りに力を貸して欲しいと」
するとすかさずクネラゥは地にひれ伏し、声を張った。
「慈しみ深い皇にウィツァルネミテアの恩寵あれ! ハクオロ皇万歳! トゥスクル万歳! この老骨、塵となるまで御前に忠誠をお誓い申し上げる!」
「ハクオロ皇、どうか俺……わたしもお連れ下さい!」
「私も! 私も付いていきます!」
背後の集団から数人の男達が駆け寄ってきて、クネラゥの後ろで同じようにひれ伏した。
そのなかには、タトコリ越えを成し遂げてハクオロ達の藩城へ最初に接触したかの青年フマロの姿も含まれていた。
(不思議なものだ。あれからまだ数日しか経っていないというのに、あの夜のことは遠い昔の様に感じる)
鷹揚にそれらの声に応えながら、ハクオロはふとそんな思いにとらわれた。
チクカパ村からやってきたフマロによってタトコリへの出陣を決めた、あの慌ただしい夜を思い出す。
そうだ、あのときはまだ、皇(オゥロ)と呼ばれるつもりなど全くなかったのだ。
それがどうだ。今ではトゥスクルさんの名前をつけた國を立ち上げ、タトコリを落とし、ベナウィを仲間に加え、決戦をするべく兵をそろえてタトコリを越え、こうして皇らしい振る舞いで人心を慰撫することさえしている。
それもこれも――
(アオロ――もう目を覚ましただろうか。目覚めた彼は、記憶を取り戻しただろうか)
悲劇がありふれたこの時代にあって、なおアオロを取り巻く状況は数奇としか表現しようがない。
あの時彼がみせた、年に似合わぬ知謀も落ち着きも、ハクオロにはどこか悲しいものに思えていた。
(あれほど賢い子だ。自分の置かれた状況をすぐに理解するだろう。そしてきっと……)
彼はすぐに、自分が藩城に置いて行かれた理由を、出る前にソポク達に「二人の子アオロとして扱う」と言い残した理由を、察するだろう。
ハクオロは願う。どうか、そのままアオロとして生きて欲しい。
いずれ世に出るとしても、もっと世の中が落ち着いてからでいい。
しかし、きっとあの少年は――
「皆の気持ちは確かに受け取った。望むものは隊伍に加わることを許そう。村長クネラゥはこれをとりまとめ、隊長として明朝夜明け前半刻より始める軍議に参加するように」
「はっ!」
ハクオロは、それ以上ここにいない少年について考えるのをやめ、村長の前から踵を返した。
兵達のざわめきと視線を感じる。背後に付き従うオボロと双子の気配を感じる。
目線だけでふと仰いだ空はすでに茜色から藍色に染まりつつあり、森に帰る鳥たちの群れの鳴き声が木霊のように聞こえてくる。
その眺めだけは、懐かしい、あのヤマユラでの記憶に酷似していた。
遠くに来た。
そしてこれから、もっと遠くまで行くのだ。
戻れぬ道を歩むことは、皆あの夜に覚悟したはずだ。
ハクオロはそう思い、手の中の鉄扇を握りしめて、再び歩みを進めるのであった。
※ ※ ※
ハクオロが、チクカパ村の村長から忠誠の誓いを受けているころ。
ベナウィは同じ陣営のなかに張られた本陣の片隅で筆をふるっていた。
とはいえ、兵糧の管理などの事務をしているわけでも、戦記のような記録をつけているのでもない。当然ながら詩などを吟じているわけでもなかった。
一つ書き終わった書簡を、書き違えがないか今一度目を通した後、くるくると筒のように巻いていく。
傍らの箱より短い紐を取り出してその巻物がほどけないように結び、最後に表面に宛先を記す。
そう、それは信書であった。
ベナウィは完成したそれを文机の横に置き、休むことなく再び新しい書簡を手に取り次の信書を手がけ始める。
すでに文机の横には書き終えられた書簡が小さな山をなしている。
(エルスンガの族長は日和見で利に聡い。私が國替えしたことを知れば、加勢は望めなくとも物資や通行で協力はしてくれるでしょう。ホゥホロは遠すぎて此度の戦には関係しないでしょうが、あすこは難攻不落の名城。逃げた残党に籠もられても厄介です。城守のエベルイはケナシ系ですが皇族本流からは距離をとっている男。これより大きな戦があるので流賊に注意するように伝えれば察するでしょう。問題は、ヌワンギと聖上が決戦を行う予定のマシュケ平野近辺に住まうアトゥとヤタムの不仲ですが……)
手に執った筆は一時も止まることなく木簡の上をさらさらと流れ、完璧な書法と形式で信を作り上げていくが、同時にベナウィの脳内ではこれからの戦をいかに手際よく、効率的に終わらせるか、その方策が怒濤のごとく渦巻いていた。
すでに、大方針は決している。
藩城を出る前の軍議でそれはハクオロに奏上され、認可を受けている。
その上でベナウィは今こうして信書をしたため、各所へ繋ぎを取ろうとしているのだ。
(それにしても……)
手を休めることなく筆を進めながら、ベナウィはちらと思う。
(アワンクル、あの少年はもう気がついたころでしょうか)
ハクオロに招かれた藩城の一室で記憶を喪っていたあの者と向かい合い、この國の歴史からあの者の出自に至るまでの秘密を語ったのは昨晩のことだ。
気を失い魘されていると聞き、それが気がかりだが、エルルゥという若いが優秀な薬師が側にいる。なによりあの者を心から案じている新しい母がいる。ベナウィは、彼に対してこれ以上自分にできる事はないと見切り出立したのだ。
むしろ、ベナウィはあの少年の健康を案じる以上に、あの少年の置かれている立場と、あの異様なまでの変化を懸念していた。
ベナウィは思う。あの者がチャヌマウで瀕死の重傷を負い、記憶を喪っていた事は嘘ではないだろう。
しかし、記憶を喪ったものが、喪う前と喪った後で、あれほどまでに人間性が変化する事があるのだろうか。
ベナウィも若いながら侍大将として戦場や荒事をあまたくぐってきた男である。心身に強い衝撃を受けた者が記憶を喪うということは知っていたし、実際にこの目で見もした。
しかしその場合、大抵は記憶がないだけで、人としての本性に変化はなかった。
記憶がない、という自分の置かれた状況に怯えはするものの、悪人は悪人のままであり、善人は善人のままであった。勇敢なものは記憶が欠落しても勇敢であったし、口べたなものは口べたなままであった。
ベナウィは、それらは記憶に支えられた特質ではなく、魂のありようによって顕れるものだと考える。
だからこそ、アワンクル――アオロというあの少年の変化は、異様なのだ。
彼の変化は、まるで魂が入れ替わったかのようだとベナウィは感じている。
(それとも、これまで私たちの前では隠していた……?)
チャヌマウ巡邏を重ねる間、ベナウィは幾度かアワンクル少年と話した事がある。
ひどく内にこもる少年で、人と目を合わせる事を極度に恐れ、ベナウィのそばに立つときはいつもその手が強く握りしめられ、かすかに震えていた。
一度、母のミライが不在のときに訪問したことがある。
そのとき、たった一度だけ、挨拶とお礼以上の言葉を交わし、会話らしい会話をした事がある。
従兄弟にあたるチャヌマウの村長の孫たちが怖いこと。
焼きモロロが好きだけど、食べ頃のモロロは滅多に回ってこず、いつも固くなった古いものしか食べていないこと。
母親のユナルの練習が厳しくて辛くてイヤなこと。だけど上手くできたときは褒めてくれるから嬉しいこと。
こないだ夜に起きたとき、母親が月を見て泣いていたこと……
純粋で、優しく、繊細な少年であるとベナウィは感じた。
話し相手が母だけのためか、年齢よりも語り口は幼く、途切れ途切れに思いついたままに話す様子だった。
比喩や反語や対照と言った修辞で言葉を飾り、自分の意志や考えを相手に理解させ、強い印象を残すことなど思いも寄らぬ様子であった。
アオロは――あの少年は違った。
純粋で、優しいという心根の部分は、そう変わっていないのであろう。真実を聞いて寝込むのであるから、繊細というのも変わっていないのかもしれない。
だが、あの少年が示した勇敢さと、他者を動かす強さは、明らかにアワンクルのものではない。
真実を知り、目覚めたあの少年がどのように動くのか。
ベナウィは武将の本能と理性の両面で、彼を危険だと感じていた。
もはやケナシコウルペの皇朝は、早晩滅ぶ定めである。他ならぬベナウィがそれを行うのだ。
油断も慢心もなく、ただ季節が変われば木々の葉も入れ替わるような当然の摂理の結果として、皇座はインカラからハクオロへと、國号はケナシコウルペからトゥスクルへと移ろうのだ。
しかしそこに、あれほどの知性をもった直系の皇族の存在が明るみにでたらどうか。
その者が、私心無く新しい皇に仕えるつもりであるのならば、それはむしろ良い一手を打ちうる駒となる。
しかし、あの者に野心あらば、再び國を乱す元凶となるであろう。
ベナウィは、それを、その可能性を看過できない。
だからこそ、この大事の前に片腕をもぐようにして、信頼する副官を適当な理由をつけて残してきたのだ。
(……私情を捨てるとは、難しいものですね。あの者の立場とその身を襲った出来事を思うと不憫の極みではあるのですが)
それでも、かつてケナシコウルペの侍大将であり、今はトゥスクルの侍大将である者として、非情の決断をせねばならぬことはある。
たとえそれが、足なえの無力な少年を密かに殺せという陰惨なものであっても――
(大神よ、どうか聖上と民の歩む道を照らし賜え。我が魂に厄災神の影が及ばぬよう。そして願わくば、あの少年の魂を護り賜え――)
声に出さずに祈りながら、ベナウィはただひたすらに、この戦を一刻も早く終わらせるために手を打ち続けるのであった。
2015.11.22 投稿
2015.11.22 誤字と一部表現を修正