「クロウ……さん!」
「おっと。俺のことも覚えてくれてやしたんで」
戸口に立ち、ニヤリと笑ってこちらを見るそのあまりに意外な姿に俺は一瞬放心し――直後、己の失言を悟った。
――ヤバい。うっかり名前を呼んでしまった。
俺は、この”俺”は、この男がクロウだと知っている。侍大将ベナウィの信頼厚い副長であると原作知識で知っている。
しかし、クロウが知っているはずのこの少年”アワンクル”は、果たしてクロウのことを知っているのだろうか。知っていたとして、どこまで知っているのだろうか……。
一昨日の夜、悪夢と共によみがえった過去の記憶はまるでバラバラになった写真のようにとりとめもなく断片的なもので、人間関係の細かな履歴のようなものは正直に言って覚束ないのだ。
とはいえ、すでに口から出たものはいまさら仕方がない。
クロウも「俺のことも覚えていてくれた」みたいな事を言っているからには、知っていて不自然というわけではないのだろう。ここは、適当にごまかしつつ乗り切るしかない。
「っと、すいません。お顔を見た瞬間、お名前がふっと浮かんで……」
すこし考えるフリをして
「……たしか、ベナウィ様の部下の方ですよね?」
「そうでさァ。 坊ちゃん――いや失礼」
そこで急に、クロウは膝を折って俺の前に傅き、胸に手を当て神妙な面持ちで頭を垂れた。
「ナラガン前皇が末子、アワンクル様」
「……っ!」
「我ら御身を護る役目にありながら、此度のチャヌマウの非道を防げず、ミライ様と御身をお救いすることもできなかったこと、隊長であるベナウィに成り代わり、深くお詫び申し上げやす」
そして一層深く下げられるその大柄な背中と頭に、俺は激しい困惑を覚えずにいられなかった。
なんだこれは。
誰だこれは。
俺の知っているクロウという男は――あくまで原作での話だが――豪快で、男らしく、建前や理屈より本音と男気を重んじるような、そんな人物だ。
それがなぜ今、俺を「アワンクル様」などと呼び、恭しく礼を示すのか。
いや、いかに粗野にみえるとて、一國の侍大将の副官にまでなった人物だ。必要とあらば、宮廷での礼儀作法を一通りこなすくらいのことはできるのかもしれない。
ベナウィはそういうのが得意そうだから、門前の小僧よろしく見て覚えたのかもしれないし、教育されたのかもしれないが……。
「どうか、頭をあげてください」
訳の分からない状況に飲まれつつある自分を自覚しながらも、とりあえず俺はそう言った。
俺やミライ母さんを助ける事ができなかったと、この人達が気に病む必要はない。そう思ったからだ。
「チャヌマウを焼き、村人と母を殺したのは、インカラでありヌワンギです。罪も呪いも彼らにこそ帰せられるべきもの。間に合わなかったと悔いるお気持ちは私の心の慰めとしてありがたく受け取らせていただきますが、どうぞ、ベナウィ様とクロウ様におかれてはそれ以上ご自分を責められる事のないよう、お願い致します」
「………」
「それに、今ではお互いハクオロさまにお仕えする仲間。この國にいち早く安寧をとりもどし、私のような家族や故郷を失うものを一人でも少なくすること、共にこの大義を果たす事に力を注ぐ事が、なによりもの贖罪となるのではないでしょうか」
クロウ。
見上げるほどの大きな体と、真っ直ぐで剛毅な内面をそのままに表す精悍な貌。
原作でも大好きで、実際にこうして会ってますます好感を覚えるこの見事な武人(もののふ)が、今俺の前に跪き、背を屈め頭を垂れ、堅苦しい礼儀を態度と言葉で表しながら謝罪をしている。
そのことが、まるで野生馬に曲芸をさせているかのような罪悪感を、俺に抱かせた。
――そしてなにより、違和感を。
「クロウ様、どうぞお手をお上げください。もう、充分ですから」
「は、それでは失礼しやして……」
重ねて俺がそう勧めると、クロウはようやく顔を上げ俺を真っ直ぐに見た。
「しかしアワンクル様、自分を『クロウ様』と呼ぶのはおよしくだせえ。すでに國替えした身とはいえ、御身は主筋にあたるお方。どうぞ、クロウと呼び捨てに」
「いえ、かつてはそうだったかもしれませんが、今はもうわたしは貴方の主筋ではありません。先ほども言いましたが、わたしたちはハクオロ様を皇として頂く仲間、同志なのですから」
「……では、なぜ」
ぎら、とクロウの目の奥に鋭い刃のきらめきが宿ったのを俺は見た。
「なんのために戦場(いくさば)へ行かれるんですかい。今ここに俺が呼ばれたのは、戦場へ向かう荷駄隊に同行したいとの依頼をうけてのはずですがね……。恐れながら御身におかれては剣も振るえず弓も引けず、ウマに乗る事はおろか駆けることもできぬ体。その上、血筋まで否定されちゃあ戦場でなしえる事など何もありはしませんぜ」
眼光の鋭さと、全身から放射されるその迫力。
甘い、生半可な答えは許さないという威圧を感じる。
そうか。
俺はクロウのこの質問、そして態度で、ようやく腑に落ちる事があった。
――なるほど。
このためにクロウがここにいたのか。
「……優しいですね」
「は!?」
「クロウ様――いえ、この場合はベナウィ様なのか……ともかく、ありがとうございます」
「いや、いきなり何の話ですかい」
睨みつけるような眼光が戸惑ったように揺れ、眉をひそめてこちらを見上げたクロウに俺はにこりと意図的に微笑み、言った。
「――私を、試したんですね? クロウ様」
※ ※ ※
「大将、どういうことですかい! 俺に荷駄を任せるってのァ……!」
それは昨日の朝の事。
反乱勢力改めトゥスクルを名乗ったこの軍勢が拠点にしているこの藩城に、ヌワンギによるチェンマ全滅の一報が夜明けと共に飛び込んできて、ベナウィの進言を受け入れたハクオロが予定より一日早く、今日中の出陣を決めた後の事。
急な出立に城中が大わらわになっているなか、慣れているせいかすでに全ての準備を終わらせたベナウィとクロウは、客将としてベナウィに与えられた一室で向かい合っていた。
とはいえ、それは戦場へ向かう手はずを確認するための話し合いなどではなかったのである。
「そのままの意味です。クロウ、貴方はここに残り、明日出発予定の荷駄隊の隊長としてこれを纏め、保護し、合流まで導き、その後は聖上の指揮下に入りなさい」
「だからそれがわからねェと言ってるんですわ!」
「荷駄の、補給線の重要さを理解できない貴方ではないはずですよ。クロウ」
「分かってまさぁ……ソイツは大将に万べんも言われたからそいつはよおォォォォォォォッく分かってまさぁ! 俺が分からねぇって言ってんのは――」
「聞きなさい、クロウ」
「――ッ!」
クロウは奥歯をかみしめ、言いかけた言葉を飲み下した。
若かった頃、力任せに敵をなぎ払っていればよかった時代にはできなかったであろう自制が、今のクロウにはできるようになっていた。なぜなら彼が大将と認めた男が「聞け」といった言葉に、無意味な物はこれまで何ひとつ無かったからだ。
「不服なのは分かります。私も、これから行う皇城攻略のことだけを思えば、貴方を伴わない理由は何もありません」
「………」
「しかし、大きくふたつの理由で、貴方を連れて行く事はできないのです。ふたつのうち、ひとつは表向きの理由。そして今ひとつは……」
ベナウィはそこで歩を進め、クロウの目の前に座り直した。
その目には極めて怜悧な、冷たい輝きがあった。
「クロウ、貴方にしか頼めないことです」
「……あ~~ッ!! ッたく!」
さっきまでの剣呑な気迫はどこへやら、クロウはがしがしと頭をかきむしりうなり声をあげた。
「わかりやした、わかりやしたよ! 大将にンなこと言われちゃあ駄々ァこねられませんわ。――で、俺は何をすれば良いんですかい」
「その前に、順を追って説明しておきましょう。貴方を連れて行けない表向きの理由とは、私たちがまだ合流して日が浅く、このトゥスクルの民から十分な信頼を受けていないからということなのです」
「……ああ、なるほど」
はぁっ、と面倒くさげにクロウはため息をついた。
とはいえ、たったこれだけの説明で理解できたクロウもまた、単なる猪武者ではないことは明らかであった。
「聖上は、下ったばかりの私を信用しいきなり二千もの騎馬隊(ラクシャライ)を任せ、皇城攻略をお命じになりました。無論、私はその任務を全うするつもりです。インカラに通じる気など毛頭ありません。……ただ、他の者たちは、未だそこまで私たちを信用しているとは言えません。それも無理のない事です。一昨日まで私たちはケナシコウルペの将としてタトコリでにらみ合っていたのですから」
言いながら思い出すのは、タトコリ攻めの翌日、トゥスクル建國の宣旨を発した後の軍議でそのことを諮った際、猛烈な反対を唱えたオボロの姿だ。ハクオロがあの場は宥めたが、その場にいた他の豪族達のわずかに不安げな表情もまたベナウィは見ていたのである。
「なので、貴方を同行させないことで、そして荷駄隊という後方の隊を任せる事でその不安を和らげるのが、ひとつ」
ひとつ、と軽くベナウィは言い、クロウもそれを当然とばかりに聞き返しもしないが、これは余人が放てば傲慢のそしりを免れない発言でもあった。
つまりベナウィはこう言っているも同然だからである。
堕ちたりとはいえ一國の皇城を攻め落とすに、腹心の驍将の助力は不要、と――。
「そして今ひとつ。貴方に本当に頼みたいのはこちらなのですが……」
ベナウィはそこで言葉を句切り、少し言葉を探すように考え、それからクロウを見つめて淡々とした声で言った。
「クロウ、貴方は一昨日、タトコリからこの藩城に入ったときに雅なユナルの楽を奏でて迎えた少年が誰か、気がついていますか」
「……まさかとは思いましたがね」
クロウは厳しい表情になって床を見つめながらつぶやいた。
あのときウォプタルの上から見上げた少年の白い貌は、遠目で、しかも櫓の影にあってはっきりは見えなかったが、ベナウィとともに何度も訪れた山村チャヌマウの『あの少年』のものに相違ないはずであった。
――母親とともに死んだと、殺されたと、そう思っていたあの少年に。
「あの者はひどい傷を負い、ほとんど死にかけているところをあのとき聖上に救われ、それ以来この藩城で過ごしているそうです。ただ傷のためか記憶を失い、名前すら思い出さない、そのような状態であったようです」
「………」
クロウは思い出す。
村人がおびえるからと他の兵士を村の外に留め、ベナウィとふたりで訪れたあの村はずれの粗末な小屋を。
前皇の寵をうけた元宮廷楽士と、前皇の落胤が住まうにはあまりにみすぼらしい――家畜小屋同然のあの家を。
何度か訪れ言葉を交わすうちに信頼を寄せ、こちらの求めに応じて楽を奏でてくれることもあった母親に対し、いつまでたっても懐いてくれず、こちらの足音が聞こえただけで母親の背にしがみついて隠れていたあの少年の姿を――。
「昨夜、私はあの者に会い、全てを教えました」
「大将、そりゃァ……」
あの線の細い坊主には酷なことを、と言いかけて、クロウはまたも言葉を飲んだ。
余人ではともかく、相手はベナウィなのである。彼の大将が、言うべき相手を間違えるとは思えなかった。
事実、ベナウィはクロウが言いかけたその言葉の先も察した上で、小さく頷いた。
その言葉は、驚くべき、信じがたい言葉であった。
「彼が、”あの少年”であることは間違いありません。火傷でいささか損なわれているとはいえ見間違える顔ではありませんし、なによりあのユナルの腕前がその確たる証拠です。しかし同時に、私は懸念を抱いてもいるのです。本当にあの者は――昨夜私の前に立ったあの少年は”あの者”のままなのか、と」
「どういうことですかい」
「クロウ、信じられますか。密かにタトコリに入り待ち構えていた私たちの存在をわずかな手がかりから推測し、堂々たる弁舌をもって聖上に作戦変更を説き、私たちへ投降を呼びかけるよう献策を行ったのが、あの者であると」
「まさか!」
反射的に言葉が付いて出て、ベナウィの顔を見直し、その表情が揺るがない事を見て取ったクロウは、驚きのあまりについつぶやいてしまった。
「……あの陰気な坊主が……ですかい?」
「不敬ですよクロウ――とはいえ、私もはじめは聖上の戯れかと思いました。しかし直接言葉を交わすうちにそれは事実だと確信するに至りました。今のあの者は、私たちが見知っているチャヌマウの幼子と同人物でありながら、その魂のありようはまるで別人のようです」
ベナウィはふと目を伏せ、再びそれを上げたときにはそこには、情を廃し大局を決することのできる國士としての表情があった。
「――今の彼は、危険です」
「っ!」
「私はあの者に、あの者が忘れていた、または知らずにいた過去の出来事を教えました。あの者はその衝撃のため、いまは深い眠りについているそうです。私は真実を伝えた者の責任としてあの者が目覚めるまで待つつもりでしたが、戦の状況がそれを許さなくなりました。なのでクロウ――貴方をここに残すのです」
キン……と硬質な音を立てそうなほどに二人の間の空気が張り詰めた。
二人の間では過不足なく聞こえるのに、他の者には一切聞こえない、そんな不思議な声でベナウィは彼の腹心に告げた。
「当初の予定通り、明日の朝に出立できるよう、荷駄隊の準備を行いなさい。それまでにあの者が目覚めず、または目覚めてもなにも言ってこない場合はそのまま何事もなかったように出立しなさい。後の指示は先に述べたとおりです。しかしあの者が目覚め、かつ、戦場に出ようと貴方に願い出てくるときは、その願いに応じなさい」
「そんなバカな……あり得ると思うんですかい、大将」
「私はその可能性は充分にあると思っています」
ベナウィは至極真面目な表情のまま頷いた。
「――今の、あの者であれば」
「そこまでですかい……」
正直、信じがたかった。いつも母の背に隠れ、おびえたような目でこちらをうかがっていたあの子供が、戦場などに行く事を望むとはクロウには考えられないことであった。
しかしクロウは信じる事にした。なぜならベナウィがそう言うからである。
「わかりやした。ンじゃあそん時は荷車にでも放り込んで連れて行きやす。……んで」
クロウはハッと荒く息をついて、頭をぽりぽりと掻いた。
「大将、だいたいわかりやした。だからこの際はっきり言ってくだせぇ。俺はあの”坊ちゃん”に何をすりゃあいいんですかい」
「私に代わり、見定めて下さい」
簡潔に、それでいて触れれば切れるほどの鋭さでベナウィは言葉を吐いた。
「真実を知り目覚めた彼が戦場で何を願うのか。今のあの者が――何者であるのか」
「………!」
「それでもし、あの者が野心を――前皇の遺児として名を上げることを望み、聖上に仇なす虞があるのであれば」
淡々とした、冷たい覚悟のにじむ声だった。
「――殺しなさい。責任は私が負います」
それは彼の選んだ新しい皇、ハクオロと同じ覚悟。
もしも地獄(ディネボクシリ)があるのなら自分はそこに堕ちるだろうとあの村で言った、あのハクオロと同じ覚悟だった。
※ ※ ※
「――はじめは驚きました。違和感があったんです」
口をつぐむクロウに、俺は説明をすることにした。
「歴戦の戦士で、まちがいなくこの國有数の騎馬武者で、ベナウィ様の副官として信頼厚く、本来ならばハクオロ様やベナウィ様とともに戦場へとっくに向かっているはずの貴方がここに残っていて荷駄隊の隊長として現れた事が、どう考えても変だったんです」
俺はそこでちらとクロウの顔をうかがったが、怒るでも驚くでもなく、ただじっとやけに真剣な目で俺を見つめていた。
「そしたら、そもそも最初から変な事を言ってた事に気がついたんです。『ああ、やっぱり大将の言ったとおりだった』……たしかそんなことをつぶやかれましたね。……つぶやくにしては少し大きい声でしたけど。でもそれで私は気がついたんです。それはつまり、出立するまえに貴方とベナウィ様の間で、私に関するなにかが話し合われたんだな、と」
クロウは黙っている。
俺はそこから先を話していいものか一瞬悩み、周囲にいる母さんやノノイをちらと見て、話そうと決めた。
この二人には、知っておいてもらった方が良い。
これから俺がどんな世界に身を置こうとしているのかを……。
「此度の出発は急だったと聞いています。そのあわただしい出立前にわざわざ私について話し合い、その結果ベナウィ様の右腕であるクロウ様、貴方がここに残った。だとすればそれはアオロとしての私ではなく、アワンクルとしての私についての話であるに違いありません。――ここまでは、簡単でした」
少し目を見開いたクロウに、俺は反応を待たずに続けた。
「分からなかったのは、その私について何を話し、何を託してベナウィさまは自らのもっとも信頼する部下をここに残したのか、です」
いよいよクロウの目に真剣さが強くなる。
俺が何を話すのか、その内容に強く警戒している。
……そのことが、これから話そうとしている推測の正しさをさらに補強してくれた。
「最初は本当に分からなかった。でも、クロウ様の振る舞いや言葉を拝見するうちに、今の私が何者であり、どのように思われているのかに気がつく事ができました。――前皇の末子、主筋と何度も持ち上げ、過剰なまでの礼を尽くしてくれました。血筋なくして戦場に出る事の無意味さも教えてくれましたね。そして何をしに戦場にいくのかと理由を問われた……」
この違和感には、この世界の人間では気がつく事ができなかっただろう。なぜならそれらはいずれも事実で、主筋に礼をつくすのは当たり前のことだからだ。そして俺たちとクロウは初対面かそれに近い関係で、お互いの人柄などはまるで知らないはずなのだ。
しかし俺は、原作知識でクロウの人柄をよく知っている。その彼からして、さっきまでのアレは彼にあまりに似合わない振る舞いだったのだ。
だからこそ気がつく事ができた。そして察する事ができた。
――試されているのだ、と。
「前置きが長くなりました。クロウ様、ご質問にお答えしたいと思います」
居住まいを正し、精一杯の威厳を取り繕って、俺はクロウに告げた。
「私、前皇ナラガンの末子であり、ササンテ亡きいま皇位継承権最上位であるこのアワンクルは――
――ベナウィ様の部隊が現皇インカラを斃した後に、ケナシコウルペ皇およびケナシ族族長として名乗りをあげるために、戦場へ向かうつもりです」
2015.10.12 投稿
2015.10.15 誤字修正