月明かりの差し込む広間で語り合った後、母さんは俺を自室へ送るのをノノイとエルルゥに任せ、すぐに動き出してくれた。
「夜明けまで二刻、アンタの戦支度をして隊長さんとこにお願いに行って……厨の仕事もあるし、時間がないったらありゃしないね、まったく」
「ごめ……いや、ありがとう。母さん」
また反射的に謝りそうになって、俺は言葉を変えた。謝るくらいなら言うんじゃないと言われたばっかりだった。
だから替わりに言葉にしたのは、感謝。
意思を認め、送り出し、応援してくれることへの感謝。
そんな俺の気持ちを分かってくれたのか、母さんはノノイの肩を借りて立つ俺の目を一瞬見つめて微笑み、それから隣に立つふたりへと顔を向けた。
「それじゃあすまないけど、この子を部屋まで頼んだよ。エルルゥ、ノノイ。またどこぞへふらふら行かないように、寝床へ叩きこんで寝かしつけてやっておくれよ」
「ええ、そうします。ソポク姉さん」
「……だからそれはごめんってば」
――結局ごめんなさいを言うことになってしまったのだけれども。
腕まくりをしながら暗い廊下に消えて行った母さんと分かれ、俺達は別棟に割り当てられている自室へ向かった。
燭を持つエルルゥと、俺に肩を貸すノノイの三人は俺のペースにあわせてゆっくり進む。
来るときは夢中で気がつかなかったけど、結構な距離や段差がある。明かりも無しによく一人で来れたもんだな、などと考えていると、隣から小さな声が俺に問いかけてきた。
「――さっきの話、本当?」
ノノイだった。
俺は目を動かして隣を歩く彼女の顔を見ようとしたけれど、先を歩くエルルゥが持つ燭の明かりは僅かに及ばず、その表情は陰影に隠れて見えなかった。
そういえば、彼女のトレードマークの団子髪も今はほどけていて、緩く波打った黒髪が横顔を流れている。
もしかして、いやもしかしなくても、寝ていたところを起きて俺を捜すのに協力してくれたのだろう。
ごめん、そしてありがとう。内心で俺は彼女にもそう言いつつ、俺はノノイからの質問に答えるため、言葉を選んだ。
「さっきの……って、俺が前皇の子だっていう、あれ?」
コクリ。
ノノイは小さくうなずく。
俺は思っていたよりも静かなノノイの反応に少しだけ戸惑いながら、どう答えたものか考えをめぐらせる。
たぶん――そう、きっとノノイのこの問いは、俺が前皇の子であるかどうかの信憑性を問うものではなく……
「ノノイ」
彼女の肩につかまる手に、少しだけ力を込める。
そしてその名を呼ぶ声に、精一杯の誠意と感謝と願いを込めて、俺は語りかけた。
「――俺は、変わらないから」
「……」
「さっき母さんに言ったの、聞いてたろ? これからも、アオロでいていいかって」
ノノイは答えず、俺にあわせてゆっくりと歩いている。
でも、話を聞いてくれている。それははっきりわかった。
「母さんはそれでいいって言ってくれた……だから俺はアオロだよ。今も、これからも。皇族の血とか権利とか――俺は望んでやしない」
それはむしろこの子――アワンクルにとって、呪いだ。
自由に動ける脚を奪い、村を焼き、母を殺し、一生消えない傷を顔と背中に焼きつけた、おぞましい呪い。
「確かに、ベナウィさんのおかげで自分が何者か分かったし、チャヌマウでのことや母さん――僕を産んでくれた、楽を教えてくれたミライ母さんのことを思い出したりもした。こんな脚してるから何か訳ありなんだろうなって我が事ながら思っていたら、まさかインカラの異母兄弟だったなんてさ……」
でも、と俺は言葉を継いだ。
「でもノノイ。そしてエルルゥさんも。お願いだから……態度を変えたりしないで。距離を取ったり、祭り上げたりしないで欲しい。俺がそういう事を求めだしたらひっぱたいてでも目を覚まさせて欲しい。――頼むから」
次の言葉を言うべきか俺はしばし迷い……意を決して俺はとある名を出した。
「――俺が第二のヌワンギにならないように、見張っていて欲しい」
……前を進むエルルゥの足がとまり、燭を手に振り返ってくる。
そのおかげで、隣に立つノノイの顔も照らされ、ようやくその表情をうかがうことができた。
ふたりとも、驚きと不安がないまぜになった、もの問いたげな表情でこちらを見ている。エルルゥはそこへさらに痛みまでも加わっているのか、かすかに眉根を寄せている。
”ヌワンギ”
エルルゥの前でその名を出すことにためらいはあった。
大切な幼なじみであると同時に祖母を死に追いやった張本人であるヌワンギのことは、エルルゥにとって今も触れれば血が流れる生々しい心の傷であることは誰の目にも明らかだったからだ。
しかし、俺は決めたのだ。
俺はこれから原作の流れに逆らい、ヌワンギを捕らえ、活かす、ということを。
その目的を果たすために、俺はこれから無理を通してまで戦地に行こうとしているのだから――避けては通れなかった。
「……母さんから聞いたんだ。ヌワンギのこと。むかしはヤマユラでエルルゥさんたちと家族みたいに暮らしてたってこと。ちょっと気が弱くてそのくせ強がりで、でも飼ってた小鳥が死んだときになかなか泣き止まなかったような優しい子だったって、母さん言ってた。でもササンテに呼ばれて都で暮らすようになってから変わってしまった、って」
「ヌワンギ……」
エルルゥの表情が、痛みを堪えるそれになる。
傷口をえぐる酷さを自覚しながら、俺は言葉を重ねる。
「それを思い出してさ――確かにヌワンギは俺の本当の母さんや村のみんなを殺した憎い仇なんだけど……許せないという思いは、確かにあるんだけど……それよりも今は、他人事じゃない気がして――怖いんだ」
知らず、声が震えた。
「皇の血は――権力の臭いは、人を狂わせるのかもしれない。俺や、その周りに集まる人を歪めてしまう力があるのかもしれない。俺の中を流れるその血の臭いに惹かれて歪んだ人が集まって、俺を狂わそうとするかもしれない――そして俺は、自分だけは大丈夫なんて思ってない」
あえて言わなかったが、俺はこれからその”血”の力を使ってハクオロさんたちの戦に介入するつもりなのだ。
そしてその後も、必要に応じてその力を使うことになるだろう。前皇の隠し子である「アワンクル」として行動しなければならなくなるだろう。
”血”の力を使いながら、その「影響」をまったく受けずにすむなんて、そんな都合の良いことあるわけがない。
自分が聖人君子なんかじゃないことは、自分が一番よく知っている――自分の本名すら思い出せない記憶喪失は相変わらずだけど、そのことだけは断言できた。
「だから俺はヌワンギに罪を償う機会を、せめてその可能性を与えたいんだ。彼の罪はあまりに深くて大きいけれど……だからこそその命を奪ってその罪が見えないようにするんじゃなく、俺たちの戒めになるよう活かすべきだと思うんだ」
「アオロくん……」
それは、俺がヌワンギを助けると決めた理由の一つ。俺個人にとっての、その意味の一つ。
エルルゥは俺の言葉に少し目を瞠り、それから短く祈るように目を閉じ――開いたときにはもう、不安な色は消えていた。
「……ありがとう」
その表情に、いまだかすかな痛みは残ってはいたけれども。
その後、俺達は口数少なく歩き続け、部屋にたどり着いた。
質問攻めにしてくるかと思っていたノノイが意外なほどおとなしく、最初に一つ質問してきた以外は何も語らなかったのは予想が外れたが、まあ夜中だったし眠かったのかもしれない。
いや、俺を布団に押し込んだらさっさと部屋を出て行ったところから察するに、機嫌を悪くしたのかもしれない。
……そうか。寝床で目を閉じながら、俺はそのときはたと気付いた。
そういえばノノイは、タトコリへ出陣するター兄さんを見送る時にもナーバスになってたからなあ。
アァカクルさんだったっけ? ノノイたちを置いて戦場に消えた彼女の父親の話を思い出す。
死にかけてたのを助けたのに、自ら望んで戦場なんかに行こうとする俺の勝手さに腹が立ったのかもしれない。
とはいえ俺も、だからといって予定を変えることはできない。
これはなんとしてもみんなで無事に帰るしかないな。
そんなことを思っているうちにだんだん意識が薄らいで行き……。
夜明けに揺り起こされるまで、夢も見ずに、俺は眠っていた。
※ ※ ※
「うー……眠い。自業自得だけどさ」
「うふふ。初陣前に熟睡できるなんて、アオロくんは大物ね」
四時間ほどの短い眠りを覚ましてくれたのはエルルゥだった。
中途半端に眠ったので眠くて仕方ない俺だったが、エルルゥはちっとも眠そうではない。
聞くと、彼女も母さんと一緒に俺の準備の手伝いをしてくれたらしく徹夜だそうだ。
みんなを送り出してから休むから気にしないで、と言われたけれど、なんとも申し訳ない。
夜明けの藩城内は出陣に向けて動き始めた人々の気配で、活気付きはじめている。
差し出された蒸かしモロロと干魚に煮豆の朝食を食べつつ、俺はエルルゥに母さんとノノイの様子を聞いた。
母さんは俺を起こして身支度を調えさせるのをエルルゥに頼み、今頃はちょうど荷駄隊の隊長へ掛け合ってくれているころだという。
正直断られるかもしれないとは思っているが、俺の背景を話してもいいと言ってあるので、おそらくは大丈夫だろう。
ノノイもまた母さんと一緒に手伝いをしていたが、半刻ほど前に自室に戻ったらしい。
やっぱり眠かったのだろうか。それなのに手伝いをしてくれたなんて、本当に有り難い話だ。
……でも、そんな三人がかりでやる準備ってなんなんだろう?
もしかして戦支度って、俺が思っているよりずっと大変なんだろうか。
そんなことを考えながらやけに腹にたまる朝食を終えて白湯を飲んでいると、給仕をしながら俺の寝床を片付けていたエルルゥが俺の前にやってきて、つい、と座った。
「アオロくん。ソポク姉さんたちが来る前に、ちょっとだけ話があるの」
「は、はい」
その改まった様子に、俺は正座になって背を伸ばす。
エルルゥは言葉を選ぶように少し黙って、それから意外な……しかし今の俺にとって必要な話を始めた。
「あなたが貰ったその『アオロ』という名前の由来を――戦場に行くというあなたには、知っていて欲しいの」
「アオロくんは、テオロさんが付けてくれたその”アオロ”ってお名前、どう思う?」
「気に入ってますよ。――単純だなあとは思いますけど」
俺は正直に答えた。
そう。
「アオロ」というこの名前は、ひどく単純で簡単な名前だ。
この世界の言葉で、この「アオロ」という三音は二つの部分に分解される。
「はじまり」や「最初の」「一番目の」という意味がある「ア」と、力ある人、つまり男を意味する「オロ」、の二部分だ。
性別での男を指す言葉は別にあるから、「オロ」は力強さや勇敢さなど男性の特質を特に意味する言葉で、人名によく用いられる。例をあげると父さんの名前「テオロ」は土や土地、大地を意味する「テ」にオロをくっつけたもの(「”テ”ヌカミ」つまり土の神は父さんの宿神)で、「ハクオロ」はそのまんま白い男(白の男)だ。
ちなみにこの「力強い」という意味がやがて権力をも指すようになり、「オロ」が転じて「オゥロ(皇)」という単語を産んだ。
さて、蛇足はさておき、つまりこのアオロという言葉の意味は「最初の男」――日本語で言うなら「太郎」とか「一夫」とか「初雄」とか、そんな感じになる。
あまりに単純すぎて逆に珍しいような、そんな名前だ。
父さんが、それを俺に名付けたのはなぜか。
どうせいずれ本当の名前がわかるまでの仮の名だから、と適当に付けたのだろうか。
まあ父さんの良くも悪くも大雑把な性格を考えると、あり得なくも無いかなとも思わないでもないが、しかしそれにしては、俺に「アオロ」という名を授けたときの父さんのあの様子――「文句は受付けねェ」と胸を張ったあの誇らしげな様子が腑に落ちない。
言われてみれば、違和感があった。
「由来って――この名前、何か意味があるんですか?」
「意味そのものはアオロくんの言うとおり単純すぎるくらいの理由だと思う。でも、テオロさんとソポク姉さんにとっては――」
エルルゥは、続く言葉を発する前に、きゅ、と膝の上の手を軽く握った。
「……その名前は、テオロさんとソポク姉さんの赤ちゃんに付けられるはずだった名前なの」
――驚きで息が止まる。
しかし、言われてみれば……これまで何故疑問に思わなかったのかが不思議なほどだ。
あれほど仲の良い二人の間に、子供がいないなんて。
これが他の人なら疑問に思ったのかも知れない。しかし、なまじ原作知識があるだけに、先入観というか、アニメやゲームの設定を当然のように受け入れていた。
しかし――いま俺の前にいるエルルゥや父さん母さんは、生きている生身の人間なのだ。「そういう設定」で思考停止してはいけなかった。
二人が住まうヤマユラは山奥の農村だ。早婚多産が期待される土地柄だろうに、何故。
……と、そこで俺はエルルゥの言葉に引っかかるものを覚えた。
「付けられるはず『だった』……? と、いうことは――」
まさか。
俺が目で問うと、エルルゥは小さな命を儚むように眉をそっとひそめて
「……流れてしまいました。そしてさらにその影響で、ソポク姉さんは――赤ちゃんが産めない体になってしまいました」
辛そうに、しかし薬師らしくしっかりとした声でそう言った。
幼なじみだった二人が結婚したのは、テオロ19才、ソポク17才の時だったという。
当時からあだ名が「オヤジ」だった父さんは、村一番の器量良しだった母さんと並ぶと新郎新婦というよりまるで父と娘で、ずいぶんと皆にからかわれたらしい。
結婚前から決まっていた力関係が結婚してから覆るはずもなく、父さんははじめっから母さんの尻に敷かれっぱなしで、でもとても仲の良い夫婦だったという。
それだけに、子宝にはすぐに恵まれるだろうと周囲も本人達も信じて疑っていなかったのだが、一年経っても二年経っても、子を授かる気配がなかった。
当時生きていた双方の親族たちも気を揉んだし、村長として、また薬師として二人の相談に乗っていたトゥスクルも心配した。
しかし、一番辛い思いをしていたのは当人達だった。
――もしかするとソポクは石女なのではないか
――いや、むしろテオロが種なしなのではないか
そんなささやきが聞こえる度にテオロは血を見るほどの大げんかを始め、それをソポクが泣きながら止める。そんなことが繰り返された。
だから、数年後にソポクが妊娠していることが分かったときの、テオロの喜びようといったらなかったという。
まだ膨れてもいないソポクの腹を日に十回は撫でて蹴飛ばされ、会う人会う人捕まえては。子が出来た、これで俺も本当の親父になるんだと自慢した。
幼児だったエルルゥと赤児だったアルルゥのところにソポクを連れて行って、お前ェらに弟が出来るから仲良くしてくれと頼みに行ったりもした。
――そう。テオロは産まれる我が子が男児であると決め込んでいたのだった。
アオロ、という名前はこれもまたかなり早いうちに決まっていたという。
いろいろ呆れたソポクは浮かれるテオロに言った。
『もう少し考えて名前を付けたらどうだい』
すると、テオロは笑って答えた。
『いや、これが良いんだ。トゥスクルさまも賛成してくれたしよ』
こんな大雑把な命名にトゥスクルが賛成したと聞いてソポクは驚き、改めて命名の理由を尋ねた。
テオロは堂々と胸を張って答えた。
『最初の子だからよ!』
ずっこけそうになったソポクだったが、続いたテオロの言葉に、自分の夫がいかに子宝を願っていたか、懐妊を喜んでいるかを思い知るのだった。
『次の子はトゥオロ、その次はレオロ、そのまた次はネオロ……これから十人だって生まれるんだからよ! わかりやすくていいじゃねえか!』
それはまるで、太郎、次郎、三郎――とでも言うような安易きわまる命名法だったが、それだけにテオロの思いは妻に伝わっていた。
次に繋がることを願っての「アオロ」、であるのだという――。
――しかし。
悲劇はやってきた。
腹部の膨らみが目立ち始めたある日、身重の体で畑にいたソポクは突然痛みを訴えて倒れた。
異変に気付いた知人が彼女を自宅へ運びトゥスクルを呼んだが、産道から激しく出血していて、顔色は青ざめ、脂汗をびっしょりとかいていた。
予定よりも、二月も早かった。
到着したトゥスクルによって処置が行われ、ソポクは一命を取り留めた。
しかし、目覚めたソポクに、トゥスクルは薬師として告げねばならなかった。
子供は助からなかったこと。
そして――今後、子を宿すことは難しい体になってしまったということを。
――これが、およそ10年前の出来事です。
そうエルルゥは締めくくった。
「10年前――!」
またか。
俺は運命のあまりの残酷さに天を仰いでしまう。
10年前……國全体に疫病が流行った年。
あまりにも多くの命が奪われ、あまりにも多くの人の人生が、そして運命が狂った年。
しかしそんな俺にエルルゥはゆるやかに首を振った。
「この出来事は、流行病が村に伝わる前の事なんです。だから、ソポク姉さんの赤ちゃんの事と流行病は関係無いとお婆ちゃんも言っていたんだけど……」
父さんと母さんは、そう思わなかったらしい。
すぐ後に流行った疫病に、二人は罹らなかったのだ。流産の直後で体力を落としていたソポクは病に対して弱い状態にあっただろうに、疫病が治まるまで一度も、どんな小さな症状すらも出ることはなかった。そしてそれは夫であるテオロも同じであったという。
次々に病に倒れる村人達の看病と、働き手を大きく喪った村を支えるための過酷な労働、そしてきちんとした葬儀すらできぬままに荼毘に付されてゆく死者たちの弔い……
死にものぐるいで動き回り、死と悲痛と苦悶に充ち満ちた数ヶ月が去った後、二人は不思議なことを言い始めたという。
曰く 「アオロが、うちの子が、護ってくれた」――と。
「二人はいまでもそう思ってます。あの子は自分たちの身代わりに死んでしまったんだ、って。自分たちがあのひどい疫病を無事に乗り越えられたのはあの子のおかげだ、って……。お婆ちゃんも、何も言えなかったそうです」
経験豊かな老薬師ですら何も言えなかったのだ。
半端な記憶と知識しか持たない若造の俺に、何が言えるだろう。
ただただ、自分の無知と無力を思い知らされるばかりだった。
そして、悟らずにはいられなかった。
なぜいま、この時にエルルゥがこの話を俺にしたのか、その理由を。
「――だからね、アオロくん。あなたは決して自分を粗末にしてはダメ」
まっすぐに俺を見据えて、エルルゥは蔀から差し込む白っぽい朝の光の中で俺に告げる。
「貴方の本当の名前がどうあろうと、本当のご両親が誰であろうと――”アオロ”というその名を名乗る限り、あなたはテオロさんとソポク姉さんの子供なの」
――そんじゃあ父親として、お前ェに名前を付けてやる。
「あの二人を、父さん母さんと呼ぶのなら」
――坊主、お前ェ……ウチの子にならねェか?
「死にかけていた貴方を助けて、面倒を見てくれたことに恩を感じているのなら」
――これが、あんたの記憶が戻る手がかりになればいいね……
「今の私の話を聞いて、その名の持つ重みを少しでも分かってくれたのなら」
――お前ェの名前は 『アオロ』 だ。文句は受付けねぇ
「……お願いだから、無事に帰ってきて。あなたにその名を与えた姉さんたちの思いを、忘れないで」
俺はもう、エルルゥの顔を見続けて居られなかった。
その語られる言葉へ、はい、というそのたった二言の返事が、どうしても言えなかった。
うつむいて、唇を噛み、鼻の奥に思い切り力を込める――涙を堪えるので、俺は精一杯だった。
ただ小さく、頭を揺らすようにして伝えた俺の意思を、エルルゥはきちんと酌み取ってくれた。
ありがとう、アオロくん――そう言って深々と下げられたエルルゥの頭と耳が、うつむいた俺の目にも見えた。
※ ※ ※
それからしばし。
食事を終え、旅装に着替えた俺の元に母さんがやってきた。
徹夜の疲れなど一切見えない母さんは、俺の目の赤さに気がついた様子だったが何も言わず、飯は済んだかだの襟が曲がってるだのと言って相変わらずやかましく面倒をみてくれた。
そして、思い出したかのような軽さで最重要案件について語り出した。
「ああ、そうだった。アオロ、隊長さんのお許しいただけたよ」
「そうだった! すっかり出陣する気マンマンだったけど、まだ決まってなかったんだった!」
絶対無事に帰ってくること、という話を涙ながらに聞いていた俺だったが、これで帯同まかり成らぬという事になって出陣が無しになっていたら、この高まった気持ちをどこに持って行けば良かったのか。
いやまあ、それも一つの親孝行だったかもしれないと思いつつ、それでも正式に出陣が決まったことに改めて気を引きしめていると、ノノイの声が戸口からした。
「ソポク姉さん」
「ああ、ノノイかい。すまなかったね、さあ入ってもらっておくれ」
「はい――隊長さま、どうぞ」
どうやらノノイは、その隊長をこの部屋まで案内して来たらしい。
本当なら、我が儘をいった俺のほうが行かなければならないところを、わざわざ来てくれるなんて――気さくないい人なのか、それとも前皇の子としての俺に気を遣っているのか……
そんなことを考えながら、居住まいを正し、床に手を着いてその人を迎えることにした俺は。
「――失礼しやすぜ。ああ、やっぱり大将の言ったとおりだった」
その巨体をかがめるようにして戸を潜ってきた隊長の姿を見た瞬間、全ての計算は吹っ飛んでしまったのだった。
歴戦の武人らしい精悍なその貌。左目に縦に走る刀傷。
それは紛れも間違いもなく――
「クロウ……さん!」
「おっと。俺のことも覚えてくれてやしたんで」
あちらの世界の俺がうたわれキャラの中で二番目に好きだった頼れる副長が、ニヤリと笑って俺の前に立っていたのだった。