夜を迎えた藩城に、静かな弦の音が流れている。
満月からやや欠けた月に照らされ、地上は深い藍色に沈み、風はなく、空に雲もない。
人々はみな眠りについているのか、昼間の騒がしさが嘘のように静かな夜――その静謐の中を、まるで香の煙のようにユナルの妙なる調べがゆったりと流れている。
どこか懐かしいような、もの悲しいような、安らぐような……まるで母の歌う子守歌のような旋律を仲間の声と間違えたか、一羽の夜鳴鳥が藩城の一室、本殿の真上にある露台の欄干へと舞い降りた。
ユナルの調べはそこ、月光に照らされた露台の上から流れ出していた。
(鳥――)
ユナルを奏でる少年――アオロは、まるで自分に気遣うようにささやかな羽音ですぐ近くに羽根を休めた夜鳴鳥をちらりと見、ふと微笑んで再び目を閉じた。
弦を押さえる指と弓を操る手は、その間も一瞬の停滞さえなく動き続けている。
いま仮に彼の手の内からユナルを消し、その姿をオンカミヤムカイの僧に見せたならばきっとこう言うであろう。
彼はカムライの行を修めている――と。
事実、彼は今、深い思惟の中にあった。
この世界で目覚めてからこれまでのこと。ハクオロに拾われ、ヤマユラの人たちに助けられ、父と母を得たこと。
この身に刻まれた痕のこと。喪われた記憶のこと。原作では死んでいたはずのこの体の持ち主の謎。
自分が積極的に関わり結末を変えてしまった戦いのこと。
昨夜ベナウィから告げられた、このチャヌマウの少年の出自とその真相。その後みた悪夢――映像として蘇った記憶のこと。
そして、目覚めてから母とエルルゥに聞かされた、その後の状況のこと……
月明かりの下、少年はユナルと語らうように弾くともなく弾きながら、己の来し方行く末を案じていた。
※ ※ ※
(俺は――どうしたいんだろう。どうしたら、いいんだろう……)
答えはすぐそこにあるようにも思え、しかし手を伸ばすと何もつかめず思考の指先は空を掻く。
まるでこの空に浮かぶ月のようだ、と俺は思った。
俺は昨夜ベナウィから己の出生の秘密を聞かされた後、自室に戻るなり倒れたらしい。
そして長い悪夢に魘されながら今日の夕暮れになって目覚め、エルルゥと母さんから具合を聞かれ、俺も母さん達から俺が寝ていた間に起きたことを聞き、食事をしてから再び眠ることにした。今日は姿を見せなかったけれど、ノノイの言葉に従うことにしたのだ。『具合の悪いときに考え事をしても良いことはない』。悪夢で消耗し、一昼夜眠り続けていた体は栄養と休養を欲していた。
そして夜中になって目覚め、俺は寝静まった部屋からユナルを抱えて抜け出し、みんなの眠りを妨げない場所を探してここにたどり着いた、という次第だ。
悪夢によって蘇った恐怖と悲しみは深甚なものだった。
なにかを叫びながら目覚めた後、目の前にいた母さんにすがりついて泣き出してしまったのは今となってはやや気恥ずかしいけれど、しかし、あれで救われた。あのとき母さんが、激情の余韻に震える俺の体をしっかりと抱き、赤児をあやすように背を叩いて「大丈夫、心配ない」と声をかけてくれていなければ、きっと自分は今でも心のどこかが悪夢に囚われてしまっていたかも知れない、とさえ思う。
そしてきっと悪夢に囚われた自分は、それを払うために憎悪に身を任せていただろう……ユナルをことさらにゆったりと奏でながら、俺はそう自分を分析する。
自分はどうすべきか――そう悩めるということは、少なくとも今の自分は悪夢に囚われてなどいないとということだろう。
無論、母を殺し、村を焼いた兵達への怒り、憎しみが消え去ったわけじゃない。
しかし、夢から覚めてしばらく経ってみれば、あれはやはり俺にとっては夢――他人の記憶なのだ。あのまま悪夢に囚われていれば、憑依したはずの自分が逆に乗っ取られていたかもしれないけれど、その寸前で母さんとエルルゥが救ってくれた。
彼女らの優しさと明るさ――前に俺が居た日本ではずいぶんと胡散臭い言葉になってしまったけど、一言で言えば愛の力で、自分も、このアワンクル少年も救われたのだと大げさでなく俺はそう思っている。
だからこそ、迷っている。
この世界の行く末を物語として知る転生者である自分が、これからどう動くべきか。
何を目指して動くべきか。それで得るものと失うものはなにか……。
自分がただの孤児、テオロとソポクの養子である単なる少年アオロだったなら話は簡単だった。知識と縁を生かしハクオロの元で働き、いつかこの少年自身にこの体を返すときまでに、確固とした立場を得る――そのつもりでいたし、昨夜まではそれは上手く行っていた。ベナウィを師と仰ぎ、ハクオロの元で文官として働くという、願ってもない未来が開けたのだ。
しかし、そのベナウィから告げられた事実は、俺のその思惑に大幅な修正を迫るものだった。
この身――脚に奴隷の証を刻まれた小柄な少年は、ただの孤児ではなかった。
名をアワンクルという、前皇の隠し子。
インカラの異母弟にして、ササンテ亡き今はケナシ族系ケナシコウルペ皇位継承順位第一位という存在。
いま民を苦しめ、奪い、殺し続けているインカラやヌワンギが、実は親族(ウタル)――それが自分なのだ、という。
まるで悪い冗談だと思う。なぜよりによってそんなやっかいな生まれの人間に自分が入ってしまったのだろうとさえ、正直なところ思う。
しかし同時に、だからこそこの俺が入ったのかも知れないとも思う。
この少年は世界に願ったのだろう。祈り、求め、訴えたのだろう――だれか助けて、と。
そして俺が――原作知識を持つ自分が、彼に入ったのではないだろうか。検証のしようもないが、今はそう仮定してみる。
原作では、その願いは叶わず、彼は死んだ。チャヌマウはただの滅ぼされた集落の一つで、生き残りは居らず、ただハクオロとベナウィが最初に出会った場所としてのみ名を残していただけだ。
とはいえ、今となって思い起こせば、原作でも不思議な点ではあったのだ。
チャヌマウから引き上げてきたベナウィはインカラに焼き討ちの件を尋ねているが、その時のやりとりがやや不可解なのだ。
ベナウィはそのときインカラにこう言っている。
『やはり、あの集落の炎は……』
それに対し、インカラはこう応えている。
『刃向かうとどうなるか、見せしめにゃも。おみゃあがチンタラしてるから、こいつにやらせたにゃも』
”あの”集落、で話が通じているという点。そして、”その集落”に対し、インカラの指示の元にヌワンギが殺戮を行ったという点。
そしてなにより、その説明を受けた後の、ベナウィの静けさが不可解だったのだ。
後に、チェンマが制圧されたと聞いてあれほど強く諫言したベナウィが、なぜあのときはあれほど静かだったのか……。
叛乱が起きれば真っ先にあの村が潰されるという認識があったせいなのではないかと、今となれば考えられる。
細かいことは分からない。いつかベナウィに聞くとしても、それは戦が終わってからのことだろう。
ベナウィも、ハクオロも、テオロも、いまはこの城にはいない。
明日の予定だった出撃を繰り上げて、今日の昼過ぎに動ける兵だけを連れて出撃していったと母さんは教えてくれた。
その原因は、今朝になって駆け込んできた早馬の伝令にある。
チェンマ全滅――叛乱に加わるよう呼びかけた者たちに、中立を守ると応えたその村に対して下されたあまりに無慈悲な行いに対し、軍議の場は怒りの声で満ちた。
落ち着くように呼びかける皇(オゥロ)に、出撃を迫ったのはなんと父さん――テオロであったという。言葉少なに拳を震わせ『行かせてくれ、アンちゃん』と絞り出すような声で迫る父さんの怒りに、いつもなら、いの一番に出撃を唱えるオボロでさえ驚いて場を譲ったらしい。
しかしハクオロは、それを退けようとした。補給物資を運ぶ荷駄の手配が、明日にならなければ終わらないと分かっていたからである。
そこに膝を進め、一日早い出撃の利を説いたのが、ベナウィであった。敵はチェンマにいる――その後移動しているにしても、まだその近郊におり、今なら追跡も容易い。
早期決戦を実現させるには、一日も早いヌワンギ軍の捕捉が必要であり、今はその好機にある、とベナウィは説いた。
そしてハクオロさんたちがインカラ軍の主力を引きつけている間に、ベナウィらが皇城を落としインカラの首を上げる――皇はその策を審議の結果採用した。
――物事は原作から少しずつ変わりつつある。しかし、大きな流れは変わるまい。
このまま自分が出しゃばらなくとも、この戦は勝利に終わるだろう。ハクオロは聡明な皇となり、ベナウィはその良き臣下となるだろう。
優秀な人材は集まり、戦にも勝ち続け、國は栄えるだろう。
しかし――原作のままの流れに任せて良いのか。
俺はそう自問する。
答えは、否、だ。
なぜならこのままでは――原作のままでは、ヤマユラは滅びるのだ。クッチャケッチャの奇襲によって集落のみんなは皆殺しにされ、一人使者として走った父さんも背に受けた毒矢が元でひっそりと死ぬのだ。
それはすなわち、俺がこの世界で得た温かい家族と居場所を喪うということ。
それはすなわち、全てを失ったこの少年がようやく再び得た家族と絆を失うということ。
俺に名をつけてくれた、強くて頼もしくて側にいると安心できる父、テオロを。
肝っ玉だけど優しい、さっきは悪夢に怯える情けない俺を抱きしめてくれた母、ソポクを。
最初に目覚めた俺に食事を食べさせてくれ、それからもなにかと面倒をみてくれるノノイを。
個性豊かで、朗らかで、いつも気分のいいウーさん、ター兄さん、ヤァプさん……その他のヤマユラのみんなを。
失うことなど考えられない。
まして見殺しにすることなど――絶対に、絶対に、できない。
この体の持ち主である、この少年にとっても、意識の主であるこの俺にとっても、彼らはもはや喪うことなど考えられないほど大切な存在になってしまっていた。
護りたい。命の恩は、命で返すべきだ。
しかし、そのためには力が必要だ。これまで願っていたものよりも、もっと、もっと、もっと強い力が。
なにせ敵はもう一方の神……あのディーなのだから。
この身は幼く、しかも脚萎えである。ゲンジマルでさえ勝てなかった相手に力で勝つことは不可能だ。
かといって憎悪の力を借りるのは悪手中の悪手である。それではむしろ黒い神の手中に堕ちてしまうだろう。
しかし愛や善で屈服させられる相手でもない。
こちらのアドバンテージといえば、原作をしっているが故に、ディーの存在と動きをこちらが知っているということ。
そして、向こうは俺が知っていると言うことを知らないはず、ということ。
であれば……
それから一刻ほども時は経っただろうか。
俺の中で一つの答えがまとまった。何度も何度も検討し、覚悟を自問し、後悔しないかと確認した。
指が止まる。
そこで俺は自分がユナルを弾き続けていたことを思いだした。
――”俺”はユナルなど弾けない。奏でていたのは”彼”だ。
であれば、今の思索は俺一人ではなく、彼と二人で行っていたということ。
ユナルの音が途切れず、最後まで穏やかに弾き続けられたのは、その結論に彼も同意してくれたということ。
勝手かもしれないけれど、俺にはそう思えた。
(ありがとう……)
俺はそう心の中で彼に言葉をかけ、閉じていた目をそっと開いた。
欄干の上で翼を休めていた夜鳴鳥がこちらを見ていた。俺と目が合うと小さく首をかしげ、美しい鳴き声を一つあげて飛び立っていった。青黒く輝くその姿が夜の空に溶けていくのを見送り、それから俺は床に手を突きながらゆっくりと立ち上がる。
先日ハクオロさんが建國を宣言しみんなに呼びかけたこの露台は、その後ろに宴を催せるほどの広間がある。
その室内、戸の形に切り取られた月明かりがぎりぎり届かない場所に母さんが座っていた。その後ろにエルルゥもいる。そしてなぜかノノイまでいた。
俺は三人が見つめる中ゆっくりと歩き、影と向き合うようにして母さんの前に進む。
俺の背に月の光は届き、影に座る母さんの顔は磨かれた床に反射する月明かりに照らされてぼんやりと白い。
母さんは黙っていた。真剣な目つきと表情で俺を見ている。
俺はままならない脚をそろそろと動かして正座し、ユナルをかたわらの床に置いた。
そうして俺は母さんと一呼吸分ほど見つめ合い――それから頭を下げた。
「心配かけて、ごめん」
夜中に目覚め、ゆっくりと考え事をしたくて一人ふらふらと部屋から出てこんなところに来たが、考えてみれば母さんをさぞ心配させたろう。
恐ろしい過去を聞かされ、ひどい悪夢から目覚めた子供が、夜中に姿を消したのだ。
俺はどうしても今の自分が見た目十代前半の少年であるという自覚が薄いので、そういう勝手な行動を取りがちだ。
――ごめん、母さん。
ふぅ、という小さなため息が聞こえ、下げた頭にげんこつがコツンと落ちてきた。
全然痛くない。なのに、どうしてか俺は泣きそうになった。
嬉しかった。
「……それで」
痛くもない頭を手のひらで押さえてうつむき、まばたきで涙をごまかしていると、母さんは俺に問いかけてきた。
「――決めたのかい?」
主語の無い問いかけは、もはや断定だった。
俺が夜中にこんな場所で月を見ながらユナルを奏でていたのが、ただの気散じではないと母さんは分かってくれているのだ。
俺が自分の事についてゆっくりと考えるためにここに来たということ、そしてその結果、俺がなにか決意を固めたのだということを、ただ俺と向き合うだけで理解してくれた。
それがまた、嬉しかった。
「うん、決めた」
俺は母さんの目を見て頷き、膝の上で拳を軽く握る。
「――母さん、頼みがあるんだ」
「なんだい」
「先行した父さん達を追って、明日荷駄隊がここを出るんだよね? ……俺も、それに同行させて欲しい。歩いて行ければいいけどこの脚じゃ無理だから、荷車の端っこでかまわないから乗せてもらえるよう、隊長さんに頼んで欲しい」
俺の願い事に、後ろに座るエルルゥとノノイは目を見開き驚いた顔をするが、母さんは俺を厳しい目で見つめ問い返してきた。
「それはつまり戦場に行くってことなのは……分かってるんだろうね」
「わかってる。もしかしたら戦に巻き込まれて死ぬかも知れないってことも、わかってる。それでも」
膝の上の拳を握りしめ、口を堅く引き結び、俺は覚悟を口にした。
「……それでも、俺は行く。行かなくちゃ駄目なんだ」
「一人で満足に歩きもできないアンタが、戦場で何をしようってんだい?」
厳しい指摘。でもそれは、俺のことを大切に思ってくれているが故の言葉だ。
子供の言うことと適当にあしらわず、俺と正面から向き合ってくれているからこその言葉だ。
だから俺は微笑む。母さんには、知っていて欲しい。俺の思いを。
「みんなには怒られるだろうけど、俺は兵になりに行くんじゃない。ヌワンギに――俺の村を焼き、母さんを殺した奴に会いに行くんだ」
「会って、どうするんだい」
ヌワンギ、と言った瞬間、エルルゥがぴくりと肩を震わせるのが見えた。
「殺すのかい?」
「殺さない。殺させないために――父さんを止めるために、俺は行く」
ヌワンギを、救う。
それが、今俺が打つ一手。
原作介入と、俺自身の将来のためへの、それが布石。
「そんなことがアンタにできるのかい。タトコリで上手く行ったからって、戦をナメちゃいないだろうね」
「……本当は、怖いよ。戦は怖い。ヌワンギも、憎い。だけど――アオロとしてじゃなくアワンクルとして、俺はこの戦に無関係ではいられないんだ」
「アンタはまだ腰帯も巻いてない子供なんだ、関係も責任もあるもんかい!」
「母さん――」
強く言い切った母さんは、痛みを堪えるような辛そうな顔をしていた。
「ありがとう、母さん。でも、俺がそうしたいんだ。そうしなきゃきっと――俺は一生後悔すると思う。俺のせいで殺されたチャヌマウの人達のことも、俺を逃がして死んだミライ母さんのことも……自分の中でけじめをつけられずに、ずっと引きずることになると思ったんだ。だから俺はアワンクルとして――」
言いながら、そういえばノノイにとっては初耳になるな、と思った。
かまわない。こういうことはどうせ隠してもいつかはわかるものだ。
「――先のケナシコウルペ皇ナラガンの末子としてこの戦に関わり、この國を終わらせる。そのために、俺は行く」
俺がはっきりとそう告げると、部屋には沈黙が落ちた。
後ろでエルルゥはなんだか悲しそうな顔をしている。相変わらず優しい人だ。俺はちっとも悲しくなんてないのに。
ノノイは案の定びっくりした顔をしている。これは後できっと質問責めだな。
母さんは……しばらくじっと俺の顔を見つめていた。
そしてやがて、何かを諦めたように小さなため息をついて天井を仰いだ。
「やれやれ……嫌だね男の子ってのは。あっという間に大人になっちまう」
「……なんか、ごめん」
「謝るようなら言うんじゃないよ、まったく。――わかったよ、明日荷駄隊の隊長さんに頼んでやるよ。……ただし!」
ありがとう、と言いかけた俺の鼻先に指を突きつけ、母さんは怒ったような顔で言い渡した。
「絶対に、無事に、父ちゃんと一緒に帰ってくるんだよ! いいね」
「うん、約束する。……ねえ、母さん」
「なんだい」
「俺、本当の名前がわかったけど――戦が終わっても、このままアオロって名乗っていても、いいかな」
「……」
「父さん母さんの息子でいて――いいかな」
それは、本当は真っ先に訊きたかったこと。
だけど最後になるまで勇気がだせなかった質問。
「――あたりまえさ」
返答は、抱擁と同時だった。
「アンタは、うちの子なんだよ」