ナラガン皇急逝のすぐ後に、太后アムルタクが侍大将ヤラムィを伴い次男ササンテの統治下にある東部の藩を巡幸したことは歴史の記録に残されている。
それは表向きには、父ナラガンを喪った哀しみに暮れるササンテを慰め、またその支配ぶりを視察するためということにされていたが、そのようなあからさまにとってつけたような理由ははじめから誰も信じてはいなかった。哀しみに暮れるほどササンテが父を慕っていたとは初耳であり、視察するとしてもそれは言いがかりをつけて租(税)を巻き上げるための口実だろうと皆は考えていた。そしてそれは哀しいことに正鵠を得ており、その通りのことが行われた。
しかし、その途上でアムルタクとヤラムィがごく少数の供回りのみをつれて、チャヌマウという僻村を訪ねていたことを知るものは少ない。
まして、そこで何が起きたのかを知るものは……。
「――太后とヤラムィ様は、夜に、人目を忍ぶようにチャヌマウを訪れました。彼らの他には、護衛のケナシ兵十数名と太后の乗る輿の担ぎ手だけという、徹底した隠匿ぶりでした。私は当時侍大将直下の部隊に入ったばかりで、この巡幸にも同行していましたが、夜に出かけてくる、供は不要と言い渡されたきりで、何があったのかを知らされたのは都に帰ってからのことでした」
ベナウィは、そこでふと語る口を止めた。
不意に訪れた沈黙に顔を上げたアオロは、自分をまっすぐに見つめるベナウィの視線に気がついた。蝋燭のおぼろな照明を受けたその白皙は、相変わらず内心を悟らせぬ無表情だが、アオロにはこのときなぜかベナウィが痛みをこらえる少年のように見えた。
……ああ、本当にひどい話というのは、ここからなのか。
アオロがそう悟ったのとほぼ同時に、ベナウィの短い沈黙は終わった。
チャヌマウにまつわる真実が、たった一人の生き残りの少年へ、淡々と告げられてゆく――。
※ ※ ※
チャヌマウに到着した太后一行は、村長宅を乗っ取りその全員を庭に引き出した。
夜中の騒ぎに村人達が集まり始めたが太后の連れてきた兵達に追い散らされ、家から出ることを堅く禁じられた。
ミライの子の秘密を知る村長のカイは、事情を悟りうなだれるばかりであったが、二人の息子たちは横暴に怒りつつも兵達に怯え、落ち着きのないこと甚だしかった。ただ、先日皇の兵たちが妹のミライの輪を奪っていったことと今回の件が何か関係があるのだと察したのか、ミライとその子が隠れ住む小屋の方へちらちらと視線を泳がせては、不機嫌そうにキセルをふかす太后とその脇で思い詰めたような表情で立ち尽くす老武人を交互に伺うのであった。
やがて、二人の兵が屋敷の陰から戻ってきた。
伴われるは、首に縄をかけられた美しい女性と、年の頃六つか七つほどに見える泣きわめく幼児。かつては王宮の華と讃えられた楽士ミライと、その息子アワンクルであった。
ミライは庭に跪く父を見、怯えたような顔をする兄たちを見、それから太后とその側に立つヤラムィを見た。
ヤラムィもまた、ミライを見た。その一瞬でミライは全てを悟ったのか、その表情から恐れは消え失せた。
背を突かれるようにして太后の足下まで連れ出され、棒鞭で足を打たれ平伏させられるミライ。そのかたわらに、まるで猫の子を放るようにしてアワンクルが放り出される。
泣き怯えながら母にすがる幼児を、兵が蹴った。息子をかばう母をも、兵が蹴る。幾度も、幾度も……
夜の庭に、肉を打つくぐもった音が陰惨に響く。そして、それを誰も止めようとしなかった。
太后の肥えた円い顔は醜悪な悦びに歪み、侍大将の痩顔は凍ったように動かなかった。
やがて二人がぐったりとなり、うめき声さえ上がらなくなったころ、暴行は止んだ。
しかし、悪夢はまだこれからであった。
「ヤラムィ」
尊大な声が、かたわらに立つ侍大将を呼んだ。
呼ばれた老武人が短く「……は」と応えると、太后はニヤニヤとした声で語りかけた。
「お前、自分が何をすべきか、分かってるにゃもな?」
「……太后様」
ここでヤラムィは驚くべき行動に出た。
太后の前に進み出て、額をこすりつけんばかりに平伏したのだ。
「太后様、お願いがございます」
「……どういうつもりにゃも、ヤラムィ」
「この者達に死を賜る件、どうか思いとどまりくださいませ」
「ええい、このたわけが! 今更何を言い出すかと思えば!」
ガッ!
激した太后が投げた酒杯がヤラムィの額で音を立てて割れ、一筋の血が眉間から鼻筋へと滴る。それをぬぐいもせずにヤラムィは訴え続けた。
「臆したがゆえに申し上げているのではありませぬ。この者らの命を奪うのは容易なれど、今は生かしておく方が太后様、ひいてはインカラ皇のつつがなき治世の御為に役立つかと存じます故」
「……ほう」
太后は目を鋭く光らせてヤラムィを睨んだ。
「どう、役立つと言うのか、言うてみるにゃも。……もしつまらん寝言を抜かしたら、そこの下民と一緒にその首打ち落としてくれるにゃもよ!?」
「まず申し上げたきは!」
声を張り上げてヤラムィは平伏したまま言った。
「ここに居ますこの幼児(おさなご)は、まさしく先皇ナラガン様の御胤に相違ございませぬ。このヤラムィ、ナラガン皇より命を受け、この者達をこれまで監視して参りました。命あっての事とは言え、これまで太后様へお知らせせなんだこと、深くお詫び申し上げます」
「……それがどうかしたにゃもか?」
あっさりとヤラムィが認めたことに僅かに驚いた様子の太后だったが、苛立ったようにそう応えた。ヤラムィはますます頭を低くして続ける。
「命あって、と申し上げましたが、今お願いしたきはまさにその事。不肖ヤラムィ、生前のナラガン様よりこの幼児が成人するまでよく見張り、ケナシの皇統に仇なすこと無きよう、また、その身命に万一の事も無きよう、くれぐれも頼むと直々に命じられております」
「……ふん」
「この者らが分を弁えず皇位皇権を望みましたのならば、御命なくともこのヤラムィがこの者らの素首を必ずや太后様の後足下にお並べいたしましょう。それがナラガン様の御遺志でもございました。されど」
ヤラムィはひれ伏していた額を決然と上げ、憎々しげにこちらを見るアムルタクと真正面からその眼光をぶつけあった。
「されど! 今はまだこの者らは何もしておりませぬ。ただただ、この僻村にて一農民として慎ましく暮らし居るのみ。ならばこのヤラムィは、この者の身命を保護せよという主命を果たさねばなりませぬ。その義務、使命は、この一命にかけても果たされねばなりませぬ」
「それはお前ゃあの都合にゃも。妾が聞いているのは――」
「もしこの願い太后様の御慈悲によりお聞き届け賜り、この老いぼれに主命を全うさせてくださるのであれば――!」
わめきかけた太后の言葉をさらに強い言葉で老将は遮り、挑むようにその目を睨みつけた後に再びその額が地に着くほど頭を垂れた。
垂れながら、血を吐くように、言った。
「……その御恩は死すとも返せますまい。このヤラムィ、これよりはいよいよ誓って太后様の御為に忠勤させていただきたく存じます」
周りの兵達は、その発言の意味がわからなかった。村長らもわからなかった。いまや最高権力者となった太后アムルタクにいよいよの忠誠をいまさら誓うことが、なぜこの者たちの命を贖うほどの価値を持つのか全くわからなかった。
ただ二人、痣だらけの身を引き起こされているミライと、輿の上の太后は理解した。
その発言の意味するところを余さず悟り、ミライは青ざめ、太后は嗤った。
「……ほう。この妾の為に働いてくれると」
ばさり、と広げた扇で太后は顔の下半分を隠した。口元が笑み崩れるのを抑えきれなかった。
「我が良人ナラガンへのものと変わらぬ忠誠を、妾に捧げると――そう申すか」
「は」
額を土に押し当てるように地に伏せるヤラムィの、表情は見えなかった。
ただ、その指先は耐え難い苦痛を耐えているかのように土を掻き、爪には砂が食い込んでいた。
周囲の困惑を余所に、太后は一転して満足げに笑いだし、異様に目を光らせた喜悦の表情でそのヤラムィの姿を眺めていた。
「ほぅほぅ……まこと、健気なことにゃも。主命というならば、仕方ないにゃも。その願い、聞いてやるにゃもよ」
「では――」
「しかし!」
顔を上げたヤラムィに、太后は喝とばかりに命じた。
「命までは取らねども、こやつらをこのままにしておくわけにもいかんにゃも! 我が子インカラの治世を脅かす憂いは何一つとして許すわけにはいかんにゃも」
「………」
「立て、ヤラムィ。改めてお前に命じるにゃも。この両名を――脚斬りにし、身分を奴隷(ケナム)に落とすにゃも。わかったにゃも?」
脚斬り――それは脚の腱を斬って歩行の自由を奪う刑罰であり、重罪人や捕虜や人質、奴隷や娼婦などの逃亡を防ぐためのものでもあった。
また、奴隷とは他者の所有物となり労働や奉仕を強制させられる”人の形をした道具”の状態であるのに違いはないが、一般の理解としては奴隷となった経緯によってそれは二種類に分かれた。
ひとつは、借財などの返済のために『自ら望んで』奴隷となった人たちである。貧しい村から娘を買い上げたり、戦争難民を囲い込んでは助けた恩を借金として背負わせる人買い、人さらいの類が供給するのは、この部類の奴隷である。たいていは無法な額を背負わせて低給金でこき使うため返済は無理であるのだが、幸運にも大金を手にした奴隷が身代を支払い、奴隷から脱する事がある。
対して、為政者によって身分を奴隷に落とされたものは、金で我が身を贖うことはできない。為政者が恩赦をださぬ限り死ぬまで奴隷であり、その子も、子の子も、奴隷である。クンネカムンが建國されるまではシャクコポル族はもっともありふれたこの部類の奴隷であり、よってかの國は「奴隷の國」と呼ばれ侮られているのであった。
脚斬り、そして奴隷へ……それは殺さぬというだけで、人としての権利や尊厳、自由をことごとく奪う、恐ろしい刑であった。
ヤラムィは震える指先を地に押しつけた。唇を食い破ったのか口角からは一筋の血が流れだしたが、指先を見つめたまま強張った目はその痛みにすら気がついていないようであった。
ふと、ヤラムィの目がミライを見た。
ミライは脚斬りが命じられてからずっとヤラムィを見つめており、目が合うとミライは小さく、しかしはっきりと、頷いた。
それを見たヤラムィは言葉もなく、ただ一度、何かに懺悔するかのように目を強く閉じ――再び開いたときには迷いは消えていた。
「仰せのままに、太后様」
一礼して立ち上がり腰の佩刀を抜き放ったヤラムィは、兵達に二人が暴れぬよう取り押さえるよう命じた。
口には布が詰め込まれ、悲鳴が響かぬようにされた。
ヤラムィはその元へ無造作に歩きより、一度、そしてまた一度、見事な刀さばきで刃を振るった。
暴行で気を失っていたアワンクルはその激痛にくぐもった悲鳴を上げたが、ミライはうめくだけで悲鳴を上げなかった。
あるいは彼女は、自分の悲鳴がヤラムィの負担になることをさえ、懼れたのかもしれなかった。
ミライはヤラムィの立場をよく理解していた。彼は己の魂を太后に売って、自分たちの命を救ってくれたのだということを。
ヤラムィが己の命じた脚斬りをし終えるのを見届けた太后は輿を下ろさせ、自分の脚で地面に立った。
刀の血を払い、納刀して跪くヤラムィを見下し、尊大に嗤った。彼女はついに、この小うるさい老武人を屈服させ、自分の手駒にできたのだ。
――確かに、こいつらは生かしておいた方が都合がいいにゃも。
太后はほくそ笑んだ。
――殺してしまっては、この老いぼれに対する切り札にならんにゃも。これで妾に逆らう者は居らぬ……!
しかし、それでもまだ太后は今宵の楽しみを終わりにする気はなかった。
殺さぬと決めたときに胸の内に沸いたある欲望を果たすために、アムルタクは輿から降りたのだ。
近くにいた兵の手から松明を奪い、地に転がるミライのそばへ太后は歩み寄る。
兵たちを手で追い払い、その鈍重な足先でミライの顔を蹴り、面を晒させた。
痣だらけの肌に脂汗をかき、血の気は引き、髪はほつれて土にまみれていても、彼女は美しかった。
それが、その美しさと気高さが、アムルタクには許せなかった。
「太后様、何をなさいますか!」
「黙れヤラムィ。まだこやつの罪は残っておるにゃも」
振り向きもせずに太后は応えた。
「脚斬りで贖ったのは、皇統を脅かした罪にゃも。しかしこの小娘にはまだ――」
松明の炎がぼう、と音を立てて揺れた。
「この小綺麗な顔で人の良人(おっと)をたぶらかした姦通の罪があるにゃも」
「太后様!」
「黙りゃ! ……わかっておる、殺しはせんにゃも」
そう言って太后は懐から砂金の詰まった袋を取り出し、離れたところで震えている村長らの足下にそれを放った。
「――せいぜい良い薬師を呼んでやるにゃも」
そして、彼女は燃える松明を足下のミライの顔に押し当てた。
皮膚の焼ける音とにおいが場に満ちた。あまりに壮絶な光景に兵の一人が吐くのにもかまわず、太后はぎらぎらと異様な笑みを浮かべながらミライの顔を灼いた。
あああぁあぁぁぁあああああ……!
ついにミライの口から悲鳴が漏れた。かつて都の貴人らを虜にした美声はひび割れ、聞くも恐ろしい苦悶の声であった。
太后はそれを聞いて、うっとりとした顔で松明を引き上げた。
「……その声が聞きたかったにゃも」
――揺れる松明の炎が、悪鬼の如き陰影をその顔に刻んでいた。
その後、同伴した兵らはもちろんのこと、村人らにも固い箝口令が出され、太后らがチャヌマウを訪れた事実は徹底的に伏せられた。
チャヌマウは今後も表向きは行方の知れぬウルブ族の追跡拠点として監視の対象とされた。ただ、ヤラムィが派遣していた細作のワチが事件以降姿を消しており、ヤラムィは新たに麾下の若武者ベナウィをチャヌマウ巡邏の任に充てた。
これ以降、ヤラムィは太后の暴走を諫めることができなくなった。しばしば出される無法な命令に、かつては正面切って反論し時には思いとどまらせることができていたものが苦悩しながらの嘆願という力弱い物言いとなり、それも最後には太后が何事かをささやくと拳を振るわせながら諾と応える、そのような光景が皇殿で繰り返されるようになった。
ケナシ族の専横はますます目に余るものとなり、心ある人はその横暴に耐えきれず、國を見捨て野へ下って行った。
そしてその彼らが口々に言うのが、侍大将ヤラムィの変節であった。
「ケナシコウルペの守護神も、今ではケナシの傀儡。人は老いてもああはなりたくないものよ」
太后の言いなりとなり、民を苦しめるような以前ならば決してしなかったであろう任務まで果たすようになったヤラムィは、民からの軽蔑と憎しみを一身に受けた。正義と民の安寧を護る百戦錬磨の英雄という輝かしい名声は地に落ちた。
それからのヤラムィは一年が十年であるかのように年老い、ついに病に倒れた。
このままでは死ねぬ。このまま自分が死ねば、その途端にあの親子は殺されるに違いない。しかし、もはや何が出来ると言うのか……
病床で、ヤラムィが絶望の涙を流していたとき、驚くべき知らせが舞い込んできた。
太后アムルタクの、急死である。
ケナシ一族の者を招いた贅を尽くした、とある宴の席で、アムルタクは突然倒れ鼾をかいて眠り始めた。酒席だったこともあり、その場にいた息子でさえ「母様は酔われたにゃも」と言って取り合わなかった。
しかし太后はそのまま目覚めることがなかった。己の悪政のために、まともな薬師が宮中から消えてしまっていたことが、結果として彼女の命を失わせる結果になったことは皮肉としか言いようがない。
ヤラムィはその後一年を生きた。苦しみに満ちた余生であった。臓器が腫れる恐ろしい病の苦しみはひどいものであったが、彼を真に苦しめたのは民を護れなかった己への自責の念であった。
「自分は、あの二人の親子の命を救うために、多くの民を苦しめた。自分のあのときの決定は、間違いだったのではないだろうか。侍大将としてこの濃紺の外套を身に纏うのであれば、皇の遺児だからとて無数の民の幸福と天秤にかけるようなことをしてはいけなかったのではないか。結局、自分も太后らと同類ではないか……」
病がその身を苛み、苦悩がその心を乱しても、それでもヤラムィは最善を尽くした。
その彼が最後に打った手が、ベナウィへの侍大将の座の移譲である。
お前しか居らぬと言い残し、わずか二十歳の若者にこの末期の國を預けて逝くことの非道さを、誰よりもヤラムィが知っていた。
だが、その手を握り返しその志を継ぐと言ってくれたベナウィのまっすぐな眼差しは、彼の苦悩する魂の最期の救いとなった。
「ナラガン様、お許しくだされ……お許しくだされ……」
こうして、ケナシコウルペにその人有りと名をはせた英雄ヤラムィは、亡き主人に許しを請いながら死んだ。
チャヌマウにまつわる秘密はこうしてベナウィに引き継がれ、5年の歳月が流れる事となった――。
※ ※ ※
「そのようなわけで、私はチャヌマウを年に数度訪れていました。この地方で反乱が起きたときは藩城陥落の報を都に届けに戻り、その後すぐに駆けつけたのですが、皇の兵が先に村を焼いた後で……それからのことは、すでにご存じかと」
ベナウィはちらとハクオロを見て、長い話を終えた。
「……以上が、かの村にまつわる私の知る限りの出来事にございます」
語り終えたベナウィは、目の前に座るアオロ――アワンクルを見つめた。
正座した膝の上で拳を握り、顔が見えぬほど頭を垂れて話を聞いていた少年は、しばらくの後に、深い呼吸を一つして顔を上げた。
驚くほどに、落ち着いた顔をしていた。
「大丈夫か、アオロ」
「――ありがとうございます、ハクオロ様。そしてベナウィ様も……包み隠さずお話下さいましたこと、心から御礼申し上げます」
深々と礼をするアオロに、大人二人はかける言葉が無かった。
何を言っても、この少年には今は遠かろう。ただただ、取り乱さず落ち着いた様子の少年が、かえって不憫で、哀れに思えた。
「それで、ベナウィ様。よければその後のことも――ベナウィ様が見た、私と母の暮らしぶりなどを、お聞かせ願えませんか」
「――はい」
軽く目を瞑り、ベナウィは記憶から語り始めた。
「お二人の脚と、ミライ様の火傷の治療をされたのはトゥスクル様であると聞いております。トゥスクル様の優れた医の術と、その後の療養の指導無くば、いま貴方は歩くことはおろか立つことさえかなわなかったでしょう。チャヌマウは皇家からの監視を受けておりミライ様との接触は厳しく制限されていましたが、トゥスクル様はそれでも時折診察に来られ、ミライ様もトゥスクル様に脚のこと以外にもいろいろと相談をしていた様子でした」
「トゥスクルさんが……」
「脚斬りにあったときほんの幼子であった貴方に、楽を仕込むようミライ様に勧めたのもトゥスクル様であると聞きました。奴隷に身を落とされたこの子に、ミライ様が渡せる唯一の財産は楽だと。楽の芸が出来れば脚萎えの奴隷でも口を糊して行くことができよう、と。……それまでもミライ様は笛などを貴方に与えていたようですが、それ以降のミライ様は鬼気迫る様子で貴方に楽を仕込んで居られました」
ベナウィは思い出す。かつては三国一と歌われた美貌も美声も、太后の押しつけた炎に焼かれて失われてしまった。
しかし、その手は無事であった。その指の紡ぎ出す天上の音色までは奪われることはなかったのだ。
はじめは警戒されていたベナウィであるが、その若さと誠実さによって次第にミライからの信頼を勝ち得ていた。むろん、兵達が見ているので親しく言葉を交わすことなどなく、あくまで監視者と被監視者の関係ではあったが、それでもある程度のやりとりはあった。
ベナウィはしばしばミライに奏楽を望み、ミライはそれに応えた。アワンクルも、母と並んで弾くことがあった。
「貴方には母譲りの楽才があったのでしょう。幼子とは思えぬ奏楽を、早くからしていました。ただ……」
「ただ?」
「――楽は貴方にとって、喜びよりも苦痛であるように、私の目には見えました」
それも無理からぬことであったろう。
わずか6つか7つで自由に駆け回る脚を失い、人が変わったように厳しい母から毎日毎日楽の稽古をつけられるのだ。
自ら望んだ訳でもなく、ただただ母を悲しませたくなくて続ける稽古に、喜びなどなかっただろうことは想像に難くない。
「……ですから昨日、城門の上でユナルを奏でる貴方の姿を見たとき、その調べを耳にしたとき、私がどれほど驚いたかおわかりになりますか」
「あのとき、私が、アワンクルだと……?」
「他にはおりましょうか。あの”ナタム・ハラツヌィ”を、しかもその歳であれほど達者に弾きこなす少年など」
「ナタム・ハラツヌィ?」
「はい、昨日貴方が我々を迎えるために城門の上で弾いていた、あの明るい楽の名です」
ベナウィはそうして、今宵最後の秘密を明らかにした。
「ナタム・ハラツヌィ――『ハラツィナの春』。ハラツィナ出身のナラガン様のために、村に伝わるヒビウラを元にミライ様が作曲された曲です」
※ ※ ※
――その後、どうやって自分が部屋に戻ったのか、俺は覚えていない。
長い長い夢を見て、目が覚めたら次の日の夕暮れで――
すでに、ハクオロさんたちは出撃した後だった。
2011.12.24 一部誤字修正。反乱発生時の表現修正。