「ヒムカミよ――!!」
ハクオロの叫びは紅蓮の炎を巻き起こし、目の前に立つベナウィの姿を飲み込んだ。
それは、オンカミヤリューの法術兵が使う火神(ヒムカミ)の術、ヒム・トゥスカイの炎であった。
炎に包まれその身を炙られながらも、ベナウィは瞬時にそのことを悟った。このケナシコウルペには社も無く、オンカミヤムカイとは絶縁
状態であるため法術そのものはさほど身近ではないが、法術を使う敵と戦うのはベナウィにとって別に初めてではない。
ベナウィが驚いたのは、ハクオロが法術を放ったという事実についてであり――
「なるほど、それはササンテの……」
「逆転したなベナウィ」
炎が消えたベナウィの首筋に白刃を添えて立つ、ハクオロの冷静な目を見たからであった。
ここにきて、ベナウィは全てを悟った。全てがハクオロの計画通りに進んだのだということを。
法術は別にオンカミヤリュー族にしか使えない力ではない。しかし法術を使うには生まれついての素質が必要であり、また特殊な訓練と教育
が必要である。そのため法術兵のほぼ全ては、背に翼を持つ一族――オンカミヤリュー族のものである。
しかし、素質の無い者でも法術を使う方法がある。それは、ヒムカミ、クスカミ、フムカミ、テヌカミといった神の力を宿した特別な装備を
身につける事によってである。
その一つが、ヒムカミの指輪である。今ハクオロの手の内にあって赤く輝いているそれは、元は藩主ササンテの宝物であった。
”この國でもっとも強く美しいもののふ”であると自称していたササンテは、自分が法術を使えないことが我慢ならなかったらしい。むしり
取るように租をかき集め、それでも足りない分は兄インカラから借りて(それもまた新たな収奪を産む)、極めて高価で貴重なこの指輪を手に
入れていたのであった。
その指輪が、ここにある。
対峙したとき、また打ち合っていた最中に見たハクオロの手には、指輪など無かった。
地に倒れ、起き上がるその時に、隠しから取り出して嵌めたのであろう。
それはつまり――ベナウィの挑発に乗って激したように見えたのは、この一瞬を誘うためであったということ。
いや、それよりも前。自分と一騎打ちになることから彼は予測していたということか――。
「石頭の頑固者だと聞いていたが、噂通り、いや噂以上だな。ベナウィ」
「――全ては貴方の計算通り、というわけですか」
ベナウィは首筋に擬せられた白刃を見やりもせずに、ただまっすぐに目の前のハクオロを見据えた。
「殺しなさい」
「………」
「関守に降ったとはいえ、いまだこの身はケナシコウルペの侍大将。裏切り者の名でこの外套を汚すことはできません」
そう言って、ベナウィは観念したように目を閉じた。
「さあ」
「……本気か」
ハクオロは、ベナウィの言葉になんの強がりも嘘も駆け引きもないことを感じ取った。
ベナウィは真実、ここで死ぬつもりなのだ。
気がつけば取り巻く両軍が静まりかえっている。
ささやくように交わされる二人の言葉が届いているはずもないが、まるで音を立てることを恐れているかのような静けさである。
ハクオロは決心し、ベナウィにこう問うた。
「……わかった。最後の言葉があれば聞こう」
「良い皇に……民が幸せに暮らせる、良い國を」
「ああ、約束する――では」
――覚悟。
ハクオロの、むしろ静かに告げられた言葉にベナウィが唇を固く結び――
バサッ
首筋に感じたのは刃の冷たさではなく、布と木の柔らかさであり。
耳に届いたのは肉と血管を切り裂く死の鋭音ではなく、まるで鳥が目前で羽ばたいたかのような軽やかな音であり……
「これは……!」
「ケナシコウルペの侍大将ベナウィは、たった今死んだ」
開いた目に映ったのは、開いた白い布扇を刃に見立てて、ベナウィの首に押し当てているハクオロの姿であった。
「ハクオロ、貴方は――」
「これからは、トゥスクルの侍大将ベナウィとして……生きて貰うぞ」
ベナウィは何かを言い返しかけ、ハクオロの何もかもを分かっているかのような目を見て口をつぐんだ。
ハクオロの顔に、勝利の高揚は無かった。はじめて会ったあの時――焼け落ちたチャヌマウで対峙したときと同じ眼をしていた。
もし地獄(ディネボクシリ)という場所が本当にあるのなら、自分はそこへ落ちるだろうと告げた、あの時と――。
「ふっ……ふふふ、はっはっはっはっはっは――!」
気がつけば、ベナウィは声を上げて笑っていた。
その明るい笑い声は、静まりかえった両軍兵士の上に、戦いの終わりを告げる角笛のように響き渡ったのであった。
※ ※ ※
「大将が……笑って……」
兵達の先頭に立って一騎打ちの推移を見守っていたクロウは、突如響いたベナウィの朗らかな笑い声に呆然とつぶやいた。
彼の知る侍大将ベナウィは、およそ笑うという行為に縁遠い人間であった。人柄は元来物堅く、浮かれるということのない質である。それに
加えて若くして背負った侍大将という役目と、目を覆わんばかりの國の状態が、彼に笑うことを許さなかったのだ。
夜営時に宴となり、兵達がおどけた踊りや歌で座を湧かせても、せいぜいが微笑み程度。このように声を上げて笑うのはクロウですら初めて
目にする。もしかすると、本人でさえ生まれて初めてなのかもしれないとクロウは思った。
しかし、初めて聞く彼の大将の笑い声はなんと明るいのだろう。なんと――若く希望に満ちているのだろう。クロウはそこでようやく、ベナ
ウィが己よりも年下の、未だ青年と呼ばれる年齢でしかないことを思い出した。
(大将……生まれて初めて、負けちまいやしたね)
しかし、それが全く不快ではないのはなぜだろう。
関の防衛に失敗したのに、どうしてこうもすがすがしく、痛快な気分なのだろう。
ここからではハクオロとベナウィがどのような言葉を交わしたのか聞くことは出来なかったが、クロウは今、まるで手に取るようにベナウィの
気持ちが分かる。
ハクオロは――あの白い仮面の男は、ベナウィを解き放ったのだ。
ケナシコウルペの侍大将という呪いからベナウィを解放し、一人の青年ベナウィへと戻らせたのだ。
あの頑固者をよくぞ……クロウの心に浮かぶのは、ハクオロへの素直な賛辞。
(かなわねえ……アンタはやっぱり、うちの大将が見込んだ男なだけあったぜ。完敗だ)
そしてクロウもまた、覚悟を決める。
笑いを収めたベナウィはいま、全軍が見守る中、武器を捨て、ハクオロの足下に跪いた。
それを見て、クロウもまた腰から大刀を鞘ごと引き抜き地に投げ捨て、背後の兵たちに振り返って怒鳴った。
「戦は終わりだ! 手前ェら武器を捨ててひざまずけ! 新しい皇の御前だ!」
※ ※ ※
一方、状況が分からず混乱していたのがタトコリ関の西門、ハクオロとベナウィが大立ち回りを演じた場所とは反対側の森で、合図は今か今かと
待ち構えていたドリィグラァの双子率いる、チクカパ村をはじめとする中央部叛乱民の面々である。
はじめにドリィグラァに託された使命は、獣も迷うと言われる険峻を乗り越え、フマロを送り出したチクカパ村へ赴き、そこにいる叛乱民をまとめ
て明朝のタトコリ攻めに参加することである。急なこともあり、人数は集められるだけで良い、とにかく自分たちが攻めている最中に駆けつけて、
敵の後方を混乱させてくれるだけで良い、という、時間重視の命令であった。
しかし、ウォプタルを乗り捨てながらタトコリの森へ分け入りキママゥもかくやという速さで山を登った二人が真夜中に村に着くと、そこで待って
いたのは200名を越える武装した男達であった。
防具など無く、手に持つ得物は斧や鎌、木を削っただけの槍という有様。しかしその全員が壮絶な目をしていた。
短い誰何の後、ハクオロの作戦通り森を進むことになったが、全員は連れて行けなかった。夜の森を進むには目立ちすぎるのだ。
それで村長らと諮り人数を50人まで減らし、さあ出発、となったところでオボロの配下の若者がふらふらになりながらやってきて、作戦の一部
変更を告げたのであった。
奇襲の中止。降伏勧告を行うこと。
戦鼓の斉打による演出。これは注意を引きつけるのと同時に、関向こうに伏せるドリィたちに戦闘の開始を伝える目的もあった。
そしてもし戦闘となったら、鏑矢にて西門襲撃のタイミングを伝えること。
それを伝えるなり若者は気絶してしまったが、大事なことは伝わった。
強硬意見が出るかと思ったが、二人の説明に集まった民たちは異を唱えなかった。
そして、いま。
関の向こうで戦鼓が鳴り響き、ふれ係の美声が響き、急に関の中が慌ただしくなり、歓声がわきおこり――
――明るい、こころの底からの溢れるような笑い声が聞こえてきたのである。
「え? 笑い声? どういうことドリィ?」
「ボクもわかんないよそんなの! あ~ん、若様~!」
鏑矢の合図があるまで動けない。動くなと言う命令である。
しかし見えない場所、関の向こう側で状況がどんどん動いているのにその状況がまったく分からないというのは恐ろしく不安だった。
そのとき、木の陰からのぞき見ていたタトコリ関西門の扉が内側から開かれた。
「「――!」」
高まる緊張。
ドリィグラァは矢をつがえて静止する。背後の藪に伏せる農民たちも武器を握りしめて息を呑む。
しかし、そこから現れたのはあまりにも意外な人物であった。
「おい、二人とも。出てこい」
「「わ、わ、若様~~~~!?」」
現れたのは、数名の手下を従えただけの、抜刀もしておらぬオボロであった。
「ご苦労だったな。みんなを連れて関に入ってくれ」
「若様! 一体何がどうなったんですか!?」
「若様! お怪我はございませんか! 兄者様はご無事ですか!?」
「「若様!!」」
聞きたいことが多すぎてパニックのようになりながら駆け寄ってきた二人に、オボロはどことなくつまらなさそうに、そっけなく、
大変なことを告げた。
「戦は終わった。ベナウィは降伏して、関の連中含めて兄者――ハクオロ皇の配下になった。つまらんな」
「ハクオロ――皇!?」
「兄者様は皇になられたのですか!?」
そういえば、こいつらは知らなかったか。オボロは二人が出発した後で藩城の一室で起きた驚くべき出来事を教えようとして
「面倒臭い」
「「若様あ!」」
何を言うにしても言葉が揃う二人の、教えてください! という見上げるような眼差しにニヤリと笑ってみせるのだった。
「長い話なんだ。後でゆっくり教えてやる。それより今は兄者が呼んでいる。行くぞ」
※ ※ ※
戦うことなく開かれたタトコリの関。
ハクオロはまず関の兵たちに、去る者は見逃すこと、ベナウィと共に降るものは咎めぬことを告げた。去る者はいなかった。
関には当面警備を置き、一旦藩城へ帰還すること。そしてそこであらためて、中央部の農民たちや降伏したベナウィ一党を正式に
迎え入れ、トゥスクル國建国を公式に宣言することを告げた。
関にはオボロの配下の屈強な戦士達が残されることに決まった。
全ての準備が整い、藩城目指して凱旋の隊列が出立したのが昼前。
テオロやウー、ヤー、ターなどは歩きながらこう語り合うのであった。
「ものすげェ時間が経ったみてェだけどよ、まだ昼飯前だぜ」
「なんだか長い一日だったねぇ。いろんなことがありすぎて目が回りそうだよボク」
「……一日じゃない。まだ、半日」
「なにはともあれ、犠牲が無くてなによりダニ」
勇ましさには欠けるが、これらの言葉は藩城から出撃した農民たち全員の、偽らざる気持ちであっただろう。
行きは馬車の集中運用によって駆け抜けた道のりも、帰りは徒歩でおよそ二刻半の道行き。
藩城にはすでに味方大勝利の早馬が飛んでいる。
遠くに見えた藩城の城門前には出迎えの女房たちが、祈るような表情で群れを成していた。
「おおおーーーい! 帰ったぞーーーっ!」
「勝ったぞーーーっ!」
わぁぁっ わぁぁぁっ
家族の姿が見えるや、雄叫びのような声がわき上がる。
それに応えて女達のいる城門前も一気に騒がしくなる。
ハクオロは列の先頭でウォプタルを歩ませながら、これからの事を考えていた。
今後の戦況予測、戦略。中央農民たちの扱い。増えた味方の分の食料物資の確保。そして、武装解除されたが騎乗を許され今はハク
オロの斜め後ろでウォプタルを歩ませる、ベナウィの処遇……
考えながら、ハクオロは群衆の中に家族の姿を探していた。
今は亡きトゥスクルから託された、大切な彼の家族を……
(エルルゥ、あの子には心配ばかりかけている。……アルルゥも、見送りには来てくれなかったが……)
そこで、ハクオロは見る。
群衆の一番先頭に立つエルルゥと、ムックルの白い巨体を抱きしめるようにまたがったアルルゥの姿を。
――そして、聞く。
歓声に満ちるこの城門へ続く道の上に、いつの間にか妙なる調べが流れている。
そのことに、歩き続ける民らも気がつき始めた。
「……なんだ? 楽の音が……空耳か?」
「空耳じゃねえ、これはユナル(弦楽器の一種)だ。それにしてもこりゃあたいした腕だ……」
「誰だ弾いてるのは」
「楽でお迎えたぁ雅だな、わはは!」
近づくほどに、明るい曲調のユナルの調べが聞こえてくる。
音の源を探し、城門の上にある小さな櫓にハクオロは目をやり――
「アオロ」
そこで小さな椅子に浅く腰掛け、瞑想するように目を閉じて流れるような指遣いで弦を押さえ弓を弾いているのは、このタトコリ攻めを
大勝利に終わらせるのみならず、ハクオロに重大な決意をさせる進言を行った少年、アオロであった。
頭の良い少年だと思っていたが、楽の心得まであるのか。
ハクオロはますます、彼がどのような生まれなのかが気に掛かり。
――そのため、気がつくことが無かった。
彼の背後でベナウィが、一騎打ちの時にも見せたことのない張り詰めた表情で、アオロを見上げていたことを。