だれがこのような展開を予想しただろうか。
濃紺の外套を翻して櫓から飛び降り、身を深く沈めた優雅な身のこなしで着地するベナウィの姿をあっけにとられて見ていた民たちは、槍を片手に
立ち上がり顔を上げた侍大将の気迫に押され、一歩無意識に退いてしまう。
強い――彼を前にした民は一斉に理解した。
いま眼前に現れたこの武人は、自分たちが束でかかっても敵わぬ相手であると、本能で悟った。
だれがこのような光景を予想しただろうか。
たった一人の男が、数百人もの軍勢と対峙し、刃を交えることさえなく一歩を退かせたのである。
伝説が、生まれようとしていた。
一方、関門の内側では。
「開門、開門ッ! ぐずぐずすんじゃねェ、急げッ!!」
クロウが怒声を上げて兵達を動かしていた。
てっきり叛乱軍どもと門の開閉をめぐって戦うことになると思っていた兵達は、見えない場所で起こった事態の急変に理解が追いつかず、門を開いて
外に出ろとのクロウの命令に困惑して動きが鈍い。
それがクロウをますます苛々とさせる。
兵たちの困惑もわかるが、今は一刻を争うのだ。
クロウは別に、自分らが出て行かなければやられてしまうのではないかとベナウィのことを心配しているわけではない。
クロウの自慢の『大将』はそんなヤワではない。共に戦場を駆けたクロウは、もっと危険な状況から涼しい顔をして帰ってくるベナウィを何度も見て
いるのだ。
ではなぜ彼はそんなに急いでいるのかというと――
「急げっ! 早く出ろっ! 始まっちまうだろうが!」
クロウは、見たいのだ。
彼の『大将』が――あの、苦労人で頑固で律儀で分別くさくて理性的で、しかし誰よりも深くこの國と民を愛し、愛するがゆえに憂いているあの大将が、
あの不思議な白面の男とどのような顔で向き合い、どのような言葉を交わし、どのような結論を出すのか、その目で見届けたいのだ。
クロウとベナウィは、ベナウィが侍大将になってからの付き合いである。それは時間にすればまだ五年ほどの期間にすぎない。
しかし短くとも、戦場で命を預け合った日々が築いた絆は時間の長短では測れないものがある。クロウは他の誰よりも、このベナウィという希代の傑物の
ことを知っている自信があった。
その彼にして、さきほどベナウィが見せた表情はまるで見知らぬものであった。
あのハクオロとかいう仮面の男は、たった一度会っただけで、ベナウィから副官でさえ見たことのない表情と感情を引き出した。
それがクロウには少しだけ悔しく――大声で叫びたいほどに痛快であった。
(大将、先におっぱじめねえでくだせェよ! 後生ですぜ!!)
鬼の形相で兵を動かすクロウの叱咤の甲斐もあり、兵たちはその後速やかに門外への展開を完了する。
いよいよ陽が昇り朝になりゆく峠の上に、両軍はベナウィを遠巻きに取り囲むようにして対峙する。
舞台は整った。
こうして、後々の世まで語り継がれる「タトコリ峠、夜明けの一騎打ち」は幕を開ける。
※ ※ ※
「おびえるなっ!」
ベナウィの劇的な登場に呑まれかけた味方に、そう活を入れたのはオボロだった。
民が一歩退くところを彼はむしろ軍の先頭に進み出て、双刀を鳴らして見事な構えをとる。
つま先が土を噛み、足腰は力をため込むように低く構え、目は爛々と輝いている。さながら狩りを始める前の狼であった。
しかし。
「――待て、オボロ」
「止めるな兄者、アイツは俺の獲物だ」
ハクオロの制止を、オボロはうなるような声で拒否する。
オボロにとって、ベナウィは因縁の相手であった。
最初に会ったときは赤子の手をひねるように倒され、殺す価値も無いとまで侮辱された。
再び会ったときは地下牢で情けを掛けられた。
三度目に焼け落ちた集落で会ったときは、手下の大男が邪魔をして戦うことすらできなかった。
自分は誰よりも強い。強くなければならない。一族のためにも、最愛の妹のためにも……オボロのその誇りを、ベナウィはそのたびに踏みにじった。
だからこそ、アイツは俺が倒す。
そう固く心に決めていたオボロであったが。
「オボロ!」
「……くっ」
再度のハクオロの声に、オボロは構えはそのままに一歩だけ引いた。
オボロとて分かっているのだ。ベナウィの眼中には今、自分など映っていないことを。
ベナウィが現れたのは、そして戦いを挑んでいるのは、ただ一人、ハクオロだけであるということを。
しかし――それを認めるのは、あまりに苦しかった。
「兄者、俺にやらせてくれ!」
「駄目だ」
「アイツは強い。それは兄者もよく知っているだろう。このなかでアイツと戦えるのは俺だけだ。違うか兄者!」
逆手に握った双刀を顔の前で交差させる独特の構えをとったまま、オボロは振り向きもせずに背後のハクオロと言葉を交わす。
ベナウィの強さはオボロが誰よりも認めている。そしてハクオロは、単に武力のみで比較するなら、オボロはおろかテオロよりも弱いのだ。
だからオボロが代わりに戦う、というのは別におかしな話ではない。むしろそちらが一般的な一騎打ちの形でさえある。
しかし、今回は事情が違うのだ。
「そうかもしれない。しかし……」
ハクオロは答えながら、ウォプタルをおもむろに進ませ、ベナウィへと歩み寄る。
「それではベナウィを倒せても、手に入れることは出来ない」
オボロの隣で一瞬足を止めたハクオロはそう語り、それからオボロを追い抜いて行った。
ゆっくりと離れていく後ろ姿にオボロは叫ぶ。
「――兄者ッ」
ハクオロはわずかにオボロの方へ振り向き、横顔で小さく頷いた。
オボロはそれを見て、ようやく構えていた剣を下ろしたのであった。
風が吹き、背後の森がざわめいた。
わずかな土煙と木の葉が舞い、青く晴れた空へさらわれていく。
木立を揺らして風は山肌を滑っていき――
そして、峠には洗われたような静けさが残された。
※ ※ ※
ベナウィまで十歩の間を置いて、ハクオロはウォプタルを止めた。
長い首を押さえひらりと鞍から降り、手綱を軽く引いて頭の向きを変えさせたところに尾の付け根を軽く叩く。
それでよく訓練された軍用のウォプタルは主の命を理解し、自軍へむけて歩き去って行く。
ハクオロはそれを目で追うことさえしなかった。まっすぐに正面に立つベナウィを見据えたまま、腰帯(トゥパイ)にねじ込んでいた鉄扇を無言で
引き抜き、右手にだらりと下げた。家族や仲間の前ではいつも穏やかな笑みを浮かべているその口元は、今は固く結ばれている。
ベナウィもまた無言であった。この國一番の武将とは思えぬ端正怜悧なその顔も、いまは触れれば切れるほどの鋭い闘気をその目に宿らせている。
背には濃紺の外套。手には馴染んだ斧槍。今のベナウィは、ただそこに有るだけで魔を撃ち邪を祓うというウィツァルネミテアが子神ビシュアラムィの
化身であるかのようであった。
無言の対峙は長くは続かなかった。
ベナウィが槍を構えるのに合わせてハクオロも構えを取る。その緊迫した空気の中、ベナウィが口を開いた。
「――始める前に、ひとつ聞いておきましょう」
「なんだ」
「貴方が皇を名乗った、その新しい國の名を」
ハクオロは、右手にずしりとした重みを感じながら、その問いに答えた。
「トゥスクル」
「………」
「偉大な薬師の名だ。多くの民の病を治し、傷を癒し、命を救った。私も彼女に救われた一人だ」
「この戦はその復讐、というわけですか」
言いながら、ベナウィ自身そうではないと確信している。
まるで否定させるための質問のようであり、ハクオロもその言葉に激することはなかった。
「始まりがそうであったことは否定しないが、今ではそうではない。第一彼女ほど争いを嫌う人はいなかった。命を尊び、人を愛し、恵みに感謝していた。
國の名にその名を貰い受けたのは、彼女のその精神を新しい國の基本として伝えるためだ」
「……そうですか」
ベナウィの表情が一瞬、痛みをこらえるようなものになったのをハクオロは見た。
「――ではその覚悟のほど、試させていただきましょう」
しかし、それも刹那。
刃鳴りを起こすほどに強く槍の柄を引き絞ると、ベナウィは静かに、しかし猛然たる気迫と共に告げた。
「参ります」
「――ッ!」
言うと同時にベナウィは十歩の距離を一瞬で詰めた。
姿がブレて見えるほどの突進に乗せて、その矛先はまっすぐにハクオロの首を突いてくる。
ハクオロは反射的に鉄扇をその刺突に合わせようとし――直感に従い後方へ身を投げるように飛び退る。
ヂッ――
布が千切れる小さな音は、いよいよ始まった一騎打ちに騒ぐ敵味方の怒号に紛れたが、ハクオロの耳には確かに届いた。
突きを放ったはずが、何故か斧槍を掴んだ両腕を左へ大きく流しているベナウィも、その音を聞いただろう。
ハクオロはもう一度飛んで距離を取り、長衣の襟へちらりと目を落とした。それはやはり、腹のあたりで刃物でそうされたかのようにスパリと切れていた。
ベナウィの斧槍の先端は刃ではない。磨き上げられた円錐形の槍頭は鉄鎧さえも貫く鋭さを持っているが、本来切り裂く類の獲物ではない。
(突きに見せかけた胴の薙ぎ払い……いや、見せかけなどと言う程度ではない。錐で首を突き、同時に胴を斧で薙ぐ……か)
あのまま突きを受けていたら、今ごろ目の前の地面には両断されたハクオロの亡骸が血にまみれて転がっていただろう。
ハクオロの長衣を裂いたのは錐の先端。鋭いとはいえ刃ではないそれで、分厚い木綿の衣の、それも重ね縫いされた襟を斬り裂くとは恐るべき迅さであった。
「どうしました」
ゆるりと槍を振り、見惚れるほどに美しい柄捌きで再び槍頭を低く沈める構えをとったベナウィがハクオロに声を掛ける。
「貴方の皇としての覚悟はその程度なのですか」
ザッ。
踏み出した一歩で、足下に小さな土煙が上がる。低く吹いた風がそれを流しまた散らしていく。
「旧弊を咎むるは易く、革新を成すは難し。――訓経を引くまでもない事ですが」
「……」
「理念は腹を満たせず、言葉は民を護らぬのです。ハクオロ。貴方の新しい國は、力なき虚ろな國なのですか」
「違う!」
「ならばこの私を打ち倒し、それを証明しなさい。貴方が負ければ――偽皇を担いだ罪は、貴方の一族、そして従った民全ての血で贖うことになるでしょう」
すっと目を細め、ベナウィは言った。
「――貴方を父と呼んだ、あの幼い娘さえも」
「ベナウィ!」
「それが法です。それが誤りだというのならば……皇として民を、家族を護ると言うのならば!」
飛び散った火花にベナウィの言葉は中断する。
ギィン! ガィン!! ――それまでの静けさを打ち破るように積み上げられてゆく得物の衝突に、取り囲む兵たちは割れんばかりの歓声を上げる。
一瞬の隙をついて懐に飛び込んで来たハクオロに、長物を振り回すベナウィは一転して守勢に回っている。
どこで身につけたのか鉄扇などという取り回しの難しい得物を縦横に繰り出し、的確に急所を狙い、かと思えば小手や脚も隙あらば狙ってくる。
至近距離は不利とベナウィが退けば、それに合わせて巧みに詰めてくるハクオロ。既に数十合を越えた打ち合いに周囲の熱狂はいよいよ高まり……
(貴方もそこまでなのですか、ハクオロ)
裏腹に、ベナウィは冷めていく自分を自覚していた。
次々と繰り出されるハクオロの攻撃を、ベナウィはその実余裕を持ってさばいていた。そもそも侍大将ともあろう武人に、長物は懐勝負などという陳腐な
定石が通じるはずもない。さらに言えば、ハクオロが飛び込んできた一瞬の隙でさえもベナウィがハクオロを誘うためにわざと見せたものだった。
(娘のことを出した途端に――こんな安い挑発に我を見失うような、その程度の器なのですか。貴方は……)
これを失望というのだろう。
ベナウィは哀しいと思った。そしてそう思った自分に驚いた。
自分はいつの間にか、それほどまで大きな期待をこの男へ寄せていたのだ。はじめから敵で、今も命を賭けて戦っている目の前のこの不思議な男に、ベナ
ウィは裏切られたような気さえしているのだ。
理不尽と言えば理不尽だろう。ベナウィの立場からすればハクオロは叛乱の首魁であり、國に混乱をもたらす相容れぬ敵である。その男の正体を暴き、打ち
倒すのが彼の役目であり、そのためにベナウィはタトコリまできたのだ。その目的は、もうすぐにでも果たされるのだ。
……だのに、ベナウィの心は喜びからはほど遠かった。
(ウィツァルネミテアよ――)
神の名を唱え、ベナウィは迷う心を捨てた。
この男が偽物であるのなら、どれほどに惹かれていようとも、この國と民を任せることはできない。
また多くの血が流れよう。さらに多くの村が焼かれるだろう。しかし飽きっぽいインカラのこと、それもやがて止むだろう。
腐りきってはいても、ケナシコウルペという國の歴史と名前には未だ力が残されている。寄生虫であると知りつつも、自分はそれを護らねばならない……
ギンッ!!
ハクオロの猛攻を右に左に受け流していた槍運びをベナウィは急に変える。
踏み込んで打ち込まれた鉄扇の一撃に斧槍を添わせて、くるりと石突に円を描かせるように跳ね上げた。
「っぐ! むう……」
一瞬、ただそれだけの動作で、ハクオロの手からは鉄扇がはじき飛ばされ、重心を崩されたハクオロの体は地に倒れた。
飛ばした鉄扇が背後に落ちる重たげな音にも目を向けず、ベナウィはハクオロのすぐ側に歩み寄って槍を構えた。
これで、終わる。
周囲の誰もが叫んでいるが、ベナウィの耳には全てが遠かった。
……短い夢を、見た。
「――終わりです。最後の言葉があるなら聞きましょう」
「………」
半身を起こした姿のまま、ハクオロはベナウィを睨み付けている。
その拳が無念を物語るようにぎゅっと握りしめられ、しかし、ハクオロは無言であった。
「そうですか。それでは――」
兄者ーーーっ! 遠くであの者が叫んでいる。
クロウも、農民たちも、関の兵たちも、皆が雄叫びを上げている。
決着。
こんな形で――
「――覚悟!」
感慨を振り切りベナウィが高く槍を振り上げたその瞬間――
ハクオロは握りしめた拳を体の前に突きだして叫んだ。
「ヒムカミよ――!!」
「なっ……!」
驚きに目を見張った表情のまま、ベナウィの姿は紅蓮の炎に包まれたのであった。
2011/01/12 誤字、重複表現を修正