「そんじゃあ、ちっと行ってくるぜ」
慣れた手つきで脚絆を締め直し、父さんはまるで森に狩りに行ってくるとでもいうような調子で俺と母さんにそう言った。
母さんはホロの葉で包んだ弁当――モロロ餅に肉を詰めて軽く炙ったもの――を手渡しながら、その言葉に頷き返した。
「アンタ、負けるんじゃないよ」
「おう、任せとけ」
湿っぽいのを嫌う二人らしい出陣前のやりとり。だけど、見つめ合うそのまなざしには言葉に尽くせない互いへの想いが込められているのが、傍らでそんな二人を見ている俺にも痛いほど伝わってくる。
いい夫婦だな、と素直に思った。普段は仲良く喧嘩してるけど、本当は心の底からお互いを愛し合ってる。
せっかく見送りに付いてきたけど、これは割り込めないな……そんなことを思った時、父さんと母さんが同時に俺の方を見た。
「ほら、アオロ。あんたも父ちゃんになんか言っておやり」
「アオ坊。行ってる間、カアちゃんを頼むぜ」
「……うん。任せて」
戦場へ向かう家族を送り出すのは、俺にとって初めての経験だ。
ついさっきまでハクオロさんの部屋ではぺらぺらと良く動いてくれた口と舌も、今はなぜか気の利いた言葉の一つも出てこなかった。
寄りかかった杖を握りしめてどうにか気丈な微笑みに似た表情を作れた俺の頭を、父さんはそのでかい掌でぐりぐりと撫でてくれた。
「ユタフ、ワッカイの隊は門外左手、白い旗の下に集まれーっ!」
「コロトプの馬車隊は先行する! 道を空けろーっ!」
「親父、出発の時間だニ」
兵を集めるふれ係の声があちこちで響いている。城門そばで盛大に焚かれている篝火の近くで父さんを見送っていた俺達に、歩み寄りながら声を掛けてくる人がいた。
ヤァプさんだ。みんなは呼び捨てで呼んだり、ヤーとあだ名で呼んだりしているけど、俺は「ヤァプさん」と呼ぶことにしてる。
年長者だし呼び捨てが論外なのは当たり前だけど、「ヤーさん」と呼ぶのも、現代日本人の知識を持つ俺にはどうにもためらわれた……。
「お。お前ェたちも準備できたみてェだな」
「親父が、一番遅い」
「あはは、しょうがないよ。ハクオロさんのとこでずっと話してたんだもんね」
朴訥なウゥハムタムさん――以下ウーさんが腰に手を当てながらそう言うと、ター兄さんが明るい笑顔で笑う。
湿っぽいのが嫌いなのは父さんたちだけじゃない、ヤマユラのみんなもそうだった。辺境の民はみんな楽天的で、陽気で、前向きだ。
「あれ、あんたその杖どうしたのさ」
ター兄さんの笑顔につられて俺も微笑んでいると、その後ろからノノイがひょいと現れて俺の手元を見つめ話しかけてきた。
「ああ、これ? さっきハクオロさんが作ってくれたんだ。そこへんにあった古い槍の柄を途中で切っただけなんだけどね。お陰で歩きやすく
なったよ」
「へぇ……。ん? ってことは何さ、あんたもテオロさんと一緒にハクオロさんとこに行ってたのかい?」
やべ、と思った時には父さんが豪快に笑いながらしゃべっていた。
「だぁっはっは! それが聞いて驚け、なんと今回の作戦はこのア――」
「あーーーっと! 父さん! もう出発みたいだよ! ハクオロ様が門の外に!」
「何そんなに慌ててんのさ、あんた」
「おゥ、アンちゃんが出たなら俺達も出番だわなぁ……よっしゃ行くぜ!」
「「おおおーーっ!」」
三人組と気勢を上げて、門の外へ歩み去っていく父さん。
外に出る前に一瞬だけ振り返って、ニカッと笑ってくれた。
「――兄さん!」
「すぐ戻るよ~」
「行ってくる」
「ターのことは任せるダニ」
見送るノノイに、ウーヤーターの三人も振り向いて手を振っている。
振りながら遠ざかり、やがて人混みに隠れていく。
残されたのは、俺と、母さんと、ノノイ。
いつも元気なノノイだけど、兄を見送るその表情にはやはり不安の色が隠せていない。
「……ノノイ」
篝火の揺れる炎に照らされてひどく心細げな陰影を地に落とす彼女に、後ろから近づいてそっと肩を抱いたのは、残念ながら俺ではなく母さんだった。
「――ソポクさん」
「そんなに気を揉むんじゃないよ。そんな調子じゃあ戦が終わる前にアンタが倒れちまうよ」
母さんの言葉の最後に、門を閉じる合図のかけ声と大きな蝶番の軋む音が重なった。
ハクオロさんが、あの良く通る低い声で兵達に何事かを短く語りかけている。
「大丈夫。あのハクオロが付いてるんだから、無事に勝って帰ってくるさ」
「……はい」
ノノイはこくりと頷いて、でもその場を立ち去ろうとはしない。閉じられた門扉のその向こうを見つめたまま、張り詰めた表情をして立ち尽くしている。
やがて門の外で、おおおーっと鬨の声があがった。
そして兵達が進む足音が響きはじめ……
「――ありがとうございます、ソポクさん」
足音が遠くなった頃になってようやく、ノノイは肩の力を抜いた。
肩に乗せられた母さんの手に自分の手を重ね、軽く握りながらノノイは礼を言う。いいんだよ、と言うように母さんは微笑みながら首を振り、それから明るい調子の声をあげて手を打った。
「そうだノノイ。アンタ今夜はあたしらのとこにおいでよ。また朝の当番に寝坊しないように、あたしが起こしてやるよ」
「ちょっ、ソポクさん! またって……あたし一回しか寝坊したことないじゃないですか!」
「あたしと同じ組になってからは、確かに一回だねぇ」
「う……」
「へー。ノノイって意外とねぼすけな――ってアーッ!」
足の甲を思い切り踏まれました。
杖にすがりついてしゃがみ込み悶絶する俺に、フンッといつもの強気な一瞥をくれると、ノノイはまるで別人のようなしおらしさで母さんに振り向いた。
「じゃ、じゃあ……本当にいいんですか?」
「いいともさ。布団だけ持っておいで」
「はい! じゃあソポクさん、また後で!」
ぺこりと一礼して、ノノイは屋敷の方へ駆けだして行った。ついでに俺の方を見て、一瞬顔をしかめて「べー」と舌を出して行くことも忘れない。憎たらしいことこの上なかった。
「くっ……そおおおお! あんにゃろ本気で力一杯……あーててて……」
「どれ、しょうがない子だねアンタも」
苦笑しながら母さんは俺に手を貸して立ち上がるのを助けてくれた。
そして、篝火の光の輪からだんだんと遠ざかって闇に隠れていくノノイの背中を見やりながら、母さんは言った。
「まあ許しておやり。不安なのさ、あの子は」
「そりゃそうだろうけど」
俺のぼやくようなつぶやきに母さんは違う、というように首をかすかに振り、そしてつぶやくように言った。
「……ノノイとターの父親はね、傭兵(アンクアム)だったのさ」
「え……」
「アァカクルさんと言ってね、ハクオロ……エルルゥたちの父親と一緒にあたしたちみんなの兄貴分みたいな人だったよ。とにかく体がでかくて喧嘩も強くてね、ウチの宿六なんか子供の頃なんべん泣かされたことか」
ゆっくり、ゆっくり――俺の歩みにあわせて歩きながら母さんは昔話を続ける。
「でも、ヤマユラと森を誰よりも愛していてね。陽気で優しくて、決して好んで戦に出るような人じゃなかった。だけど……あれからもう十年は経ったのかねぇ。流行病が起きて――たくさんの人が死んじまった。エルルゥたちの父親のハクオロも、ヤーの奥さんも娘のイウリも……」
初めて聞く話ばかりだった。
思わず足を止めて顔を向けると、母さんはちらりとこちらを見てふっと微笑んだ。そして俺の背中に手を当てて再び歩き出す。
「アーさんの奥さん……つまりノノイとターの母ちゃんも、その時病に罹っちまった。幸い命は助かったけど、弱ったところに今度は別の病をもらっちまってね。そいつを治すには目玉が飛び出るほど高い薬が必要で、それでアーさんはトゥスクルさまが止めるのも聞かずに村を飛び出して傭兵になったのさ」
「それで……戦死しちゃったの?」
「並の男ならそうだったろうね。でもさすがはアーさんさ。出る戦出る戦すべて連戦連勝。あっという間に大金を稼いで目的の薬を買って、おまけに山ほどのお土産を車に牽いて村に帰ってきた。そりゃもうみんな大喜びさ。奥さんもそれで病気も良くなってね。余った薬とお金は『村のために使ってほしい』とトゥスクルさんに全部気前よく渡してしまう……そんなお人だったよ」
”だった”。
途中までは村に伝わる痛快な英雄伝説のような内容の話だったけれど、最後、過去形で締めくくられているのが気になった。
俺の表情がはっとしたものになるのに気がついたのか、母さんの表情も痛みを含んだものになる。
「ヤマユラに帰ってきたアーさんは、でも、どこか傭兵になっちまう前のアーさんとは変わっちまってた。別段乱暴になったとか金遣いが荒くなったとかじゃなかったけど……陽気でおしゃべりだったのが妙に口数が少なくなって、笑ったときの顔もなんだか前みたいな心からの笑いじゃない感じでね。そしてなにより変だったのは、時折急に姿が見えなくなるようになって、そういうときは決まって村の入り口の見張り小屋んとこでじっと村の外をみつめてたのさ」
戦は人を変える。
それもまた、俺には知識でしかない言葉だが、肩を貸してくれている母さんが一緒に歩きながら話してくれるその実話には、事実ならではの重さと、そしてなんだか不安な気持ちにさせられる怖さがあった。
「そして……しばらくして、あいつらが来た」
「あいつら?」
「傭兵団の連中さ。アーさんはちゃんと約束の日にちを傭兵として勤め上げてヤマユラに帰ってきたんだけど、あいつらはまだ終わってないって言いだしたのさ。これから東の方で大きな戦があるから一緒に来い、こないならこれまでの報酬を返してもらう……ってね」
俺は目を剥いた。
「そんな無茶な! 言いがかりにしたってひどい」
「そうさ。あいつらはアーさんがあんまり強かったんで、引退させるのが惜しくなったのさ。アーさんを迎えにきた連中は、はじめはおとなしかったけど、そのうちだんだん焦れてきたのか、穏やかじゃない様子で村んなかを歩き回りはじめたのさ」
まるきりやくざ者の振る舞いだが、考えてみれば傭兵団なんてのは一皮剥けばそういう輩と大差ないものなのだろう。
はじめから脅しをかけず、交渉から入った分、むしろまともな部類に属するのかもしれなかった。
「アーさん自身も悩んでた。アーさんが何を考えて悩んでいたのかは分からないけど、悩んでるのはあたしらにもわかった。そして帰ってきてからこっち、アーさんがふらっといなくなっては村の外を見つめていたのは、こいつらが遠からず自分を迎えにくることを知っていたからなんだと分かったのさ。――村のみんながアーさんを止めた。トゥスクルさまも、金なら返せばええ、でもタァナクンとノノイの父親はお前しかおらんと、そりゃあ言葉を尽くして引き留めた。でも」
母さんはそこで急に言葉を切り、ノノイが去っていった方の闇を見つめて歩みを止めた。
俺はその横顔を見て、そしてそれから俺も同じ闇へ目を向けた。
ただしくは、その向こうにいるはずのノノイの姿へ。
「――ノノイは父ちゃんっ子でね。アーさんも自分に似ておてんばなノノイをことのほか可愛がってた。車で牽いて持ち帰ってきたお土産の半分はノノイのためのオモチャやお菓子なんかで、中にはあの子が大人になったときのためにって綺麗な服やら布地やら髪飾りなんかもあったね。気の早いことだってみんなで笑ったもんさ。ノノイの方もそんな父ちゃんが大好きで、いっつもくっついてたもんさ。……だから、ノノイのためにも、きっとアーさんは傭兵には戻らないってみんな思ってたんだけど……」
戻ったのだ。
ここまでくれば、この先の話の予想は俺にもすでについていた。
アァカクルさんは――ノノイの父さんは戦場へ戻った。その理由は……
「ある日アーさんはノノイにきいたのさ。『もっとお土産欲しいか?』ってね。まだ四つか五つの歳だったノノイはそれがどんな意味かも分からずに、にっこり笑って『うん、欲しい』と答え――次の朝には、アーさんの姿は傭兵団の連中と一緒に村から消えていたのさ」
……最悪だ。
俺は立ち止まってため息をついた。
もちろん、ノノイには何の責任もない。四つ五つの幼子の言葉に責任能力などあるはずもない。
お父さんが好きならなぜ止めなかった、などと言う奴がいたら、そういう奴に俺は言いたい。お前は子供の頃に「もっとおやつが欲しいか」と言われて「お菓子よりお父さんがいい」と答えたことがあるのかと。
ノノイは、父親の質問に「うん」と答えただけなのだ。
悪いのはノノイの父――アァカクルさんのほうだ。
アーさんが何を思って傭兵団に戻ったのか、俺には分からない。もしかすると、戻らないなら村を焼くなどと脅迫されていたのかもしれない。
だからそのことを俺は責めることはできない。
でも……戻るなら、黙って戻ればよかったのだ。どうして、ノノイにそんな質問をして去ったのか。残された家族が、幼いノノイが、どれほどのこころの傷を受けることになるか、想像しなかったのだろうか。
事実、ノノイはいまでも自分を責めている。お土産が欲しいといった自分を、そんな責任をノノイが感じる必要はないんだと誰に言われても、きっと彼女自身が許せずにいる。
さきほど城門のところで、出発する兄を不安げに見送るノノイの後ろ姿を思い出した。
いつもの強気さや元気さが嘘のように、頼りない、迷子の子供のような姿だった。
そしてそんなノノイに、ター兄さんは「すぐ戻るよ」と応えていたのではなかったか。
「……それでその後、アァカクルさんの行方は?」
歩き出しながらの俺の質問に、母さんはゆっくり首を振った。
「さっぱりさ。もちろんあたしらの村みたいなド田舎に詳しい話が伝わるはずもないけど、それでもやつらが言うような大きな戦があったんならどっちが勝ったとか負けたとか、そのくらいの話は入ってくるもんさ。街の市へ売り買いしに行くモンたちもできる限り噂を集めたり、トゥスクルさまも気に掛けてはくださってたんだけど……不気味なくらい、何も分からないのさ」
「ということは……生きてるかもしれないってことだね」
「ノノイたちの家族は、そう信じてる。もちろんあたしらもそう願ってるけど……もう10年も立つからねぇ」
戦に出かけたきり、失踪してしまった父。そのきっかけを作ったのは自分の一言。
ひどい話だが、むしろ遺品が届くなりなんなりして死んだことがはっきりしていれば、10年の時の流れの作用で悲しみも自責も少しは薄らいでいたのかもしれない。
でも、ノノイはいまでも父を待っている。
そしてそれと同じくらい、戦に出かけた家族が「帰らない」ことを恐れているのだ。
「……母さん」
「何さ」
「今夜は、ノノイが寂しくないようにしてあげようね」
母さんは少し驚いた顔をした後、大きく微笑んで俺の頭をがしがしと乱暴に撫でてくれた。
乱れた前髪に視界をふさがれて、俺はやめてよ母さんと言いながらも嬉しかった。二人で笑いながら屋敷へと入っていった。
「……ちっとは見込みがあるみたいだね、あの鈍ちんどもと違って」
――そのつぶやきの意味は、よく分からなかったけれども。