ベナウィに、投降を呼びかけよ――
アオロが提案した思いがけない策に、座の空気が揺れる。
一番強く反応したのは再戦の意欲に燃えるオボロで、表情がこれまでになく剣呑なものになったものの、これまでのように反射的に口を挟むようなことはせず、浮きかけた腰をすぐに落とした。
ハクオロは敵と対峙しているかのような真剣な表情でアオロを見つめ、しばしの考慮の後に問いを発した。
「……ベナウィが――堅物で知られるあの男が、それに応じると思うか?」
するとアオロは答えた。
「今回の戦いのことだけを考えれば、ベナウィ大将が投降に応じなくとも、降伏勧告をする価値は十分にあります」
そもそも、とアオロは言葉を継いで続けた。
「ベナウィ大将がこちらの襲撃を予想し待ちかまえている可能性が極めて高い以上、奇襲で相手の不意を突く当初の作戦は効果が薄いでしょう。であれば、最初から関を取り囲み降伏を呼びかけた方が、その後たとえ戦いになったとしても有利になると考えます。理由は二つ、まず一つは圧倒的な不利を知らせることによって戦意を喪失させること。そしてもうひとつは」
なぜかアオロは言い辛そうな表情になった。
「ベナウィ大将と兵の間に、不信の種を撒くこともできるからです」
「――離間の計というわけか」
「はい。現在の大将の立場を考えれば、有効かと考えます」
「おいアオロ、ちょっと待て。アイツの立場がどうしたと言うんだ」
オボロの問いに、アオロはちらりとハクオロのほうを見やった。
ハクオロが目だけで頷き返すと、アオロは意を決したように語り出した。
「おそらくではありますが、ベナウィ大将は現在、侍大将ではないものと思われます」
「何だとっ! なぜそんなことが分かる!」
幾度も自分を未熟者扱いしたあの男が凋落したというアオロの言葉に、オボロは憤った。
あの男と再び剣を交えることを――そして自分の手で打倒することをオボロは望んでいるのだ。
オボロのその憤激に、しかしアオロは怯えることなく、やや申し訳なさそうな口調で続けた。
「その理由は……オボロ様が教えて下さいました」
「――あっ」
「チャヌマウ村での敗戦……かねてからうるさい事を言う煙たい存在であった将軍の失敗に、インカラはこれ幸いとその責を負わせ、左遷したのでしょう。左遷先がたまたまタトコリであったのか、それとも自らタトコリの関守に降りたのかはわかりませんが……おそらくは後者でしょう。要職を解かれ、理不尽な扱いを受けながらも國を守るために叛乱勢力分断の要所であるタトコリに向かった――このようなところではないでしょうか」
アオロの説明に、ハクオロは頷いていた。
アオロは語らなかったが、その予想を支持する状況証拠があることにもハクオロは気づいていた。
それは、森の警備の話。
ベナウィが侍大将として正式に関を固守するために向かったのであればそれなりの軍勢を率いて関に入ったはずであり、そのことにフマロら森の民が気が付かぬはずがない。
しかし、そのような報告は無かった。それどころかフマロたちですら、警備体制がいつの間に変わったのか気が付いていない有様だったのだ。
動員可能な兵力数においていまだ優勢な國軍側のベナウィが、あえて少数での拠点防御を選択する合理的理由がみあたらない以上、事態をもっとも自然に説明するのはこの左遷説である。
「この國の武人の頂点にいた侍大将である彼が、皇の不興を買いこんなところに落とされた……いずれは兵達の心も掴んでまとめあげるでしょうが、いまだ日にち浅く、それほどの堅い信頼関係が作り上げられているとは思えません。兵たちの間には、ベナウィ大将はインカラ皇を恨んでいるのではないかという疑念があるかと思われます」
「そこで、フマロを見逃したという事実を明かすのか」
「そのときには、取り囲まれているという現実が、死の恐怖と共に説得力を後押しすることでしょう」
なんという子供だ、とハクオロは思った。
否――これは何者だ。なりは幼いが、魂は断じて少年のそれではない。
以前の記憶を失っているというが、一体どのような過去があるというのか……
そこまで考えて、ハクオロは愕然とした。
――同じ事は、ハクオロ自身にも言えるのだ。
「……いかに優秀な将でも、兵が乱れれば戦えないでしょう。むしろ優秀であればなおさら、兵が乱れた時には戦いを避け退くのではないでしょうか。兵の投降も見込めますし、関を放棄して去れば追わぬと約束すれば戦わずして関を開くことも叶うでしょう。
――しかし!」
これまでどこか淡々と語っていたアオロの口調が、そのとき急に熱を帯びた。
それぞれの物思いに沈み始めていたハクオロたちは、その声の強さに打たれたように一斉にアオロを見る。
その視線の中、アオロはその勢いをいよいよ増しながら続けた。
「これは下策です! 目先の戦いには勝つでしょう、関も落とせるでしょう。しかし、それだけです。そして一番手に入れるべきものを手に入れる機会を、おそらくは永遠に喪うでしょう」
「……手に入れるべきものとはなんだ、アオロ」
「ベナウィ大将です、ハクオロ様」
そのとき、ごう――と強い風が窓から吹いた。
蔀がかたかたと揺れ、なにかとてつもなく大きなものが遠くでうねり、動き、全てを押し流そうとしている気配が満ちた。
アオロとハクオロは、まるでにらみ合うかのように強い視線をぶつけ合い、さながらここが戦場であるかのように向き合っている。
「この戦いでもっとも手に入れるべきは、兵でも関でもないと私は考えます。なによりもまず、ベナウィ大将をお味方にお付けください。確かに先ほどハクオロ様がおっしゃったように、堅物で知られる大将のこと。容易く応じるとは思いませんが……」
ぐ、と何かを噛みしめるような表情でアオロはハクオロに訴える。
「私はそのベナウィ大将のことを直接存じませんが、ここで皆様からお聞きした話などからある程度はそのお人柄を察することができます。義に厚く、忠義に堅く、私たち民草の暮らしのことを本当に考えておられるお人だと、そう思うのです。そうでなければ、なぜわざわざタトコリに彼はいるのでしょうか。そして、そうであればこそ、フマロ様を見逃したのではないでしょうか。
……大将はいま苦悩しておられるのだと私は思います。民を殺し村を焼くインカラの無道に、もっとも絶望しているのもベナウィ大将なのではないでしょうか」
チャヌマウの孤児は、左頬にまでおよぶ火傷の痕を紅潮させて大人たちに迫った。
「民を思い、インカラに絶望する――そんなお人とハクオロ様が、なぜ戦い、殺し合わねばならないのですか! 望むもの、目指す未来が同じであれば、力を合わせるのが道理ではありませんか!」
だん、とアオロは床を打った。
「ハクオロ様、わたしははじめ、これは罠だと申し上げにまいりました。そして確かにそれは今でもその通りでしょう。敵はこちらの襲撃を予想し、待ちかまえているでしょう。しかし、ベナウィ将軍はいま文字通りの意味でも、ハクオロ様――貴方を待っていると思うのです」
「私を――?」
「はい。インカラが民を蔑ろにしているのは前からのこと、なのになぜ今頃になってベナウィ大将は揺れているのでしょうか。その答えは
――ハクオロ様、貴方という存在に出会ったからではないでしょうか」
たった一度。
焼け落ちた村の残煙漂う中で刃を交え、言葉を交わしただけの二人。
しかしハクオロはアオロの言葉を否定することはできなかった。
なぜならハクオロ自身、ベナウィのことを強烈に覚えているからだ。
「大将が、愚かと知りつつインカラに仕えているのは、インカラが皇だからです。國をまとめるには皇が必要であり、國がまとまっていなければ民を養うことも守ることもできない。だから大将は皇に仕えているのでしょう。インカラに仕えているのではない、”この國の皇”に彼は仕えている――そこにハクオロ様、貴方が現れた。そして乱を起こし今や國の半分を治めようとしておられる。だからこそ堅物で知られる大将も迷い、揺れているのだと思われませんか」
「アオロ、君は――」
ハクオロは、これから口にする言葉の重さに一瞬たじろいだように口ごもり――
「この私に……皇(オゥロ)になれと言っているのか」
うなるような声で、ついにその言葉を発した。
その言葉はまるで雷鳴のように聞くものの耳に轟き、オボロ、テオロ、エルルゥ、そしてフマロでさえも、雷で打たれたかのような衝撃が体を貫くのを感じた。
ただひとり、アオロだけはその言葉をありのままに受け止めて、そしてしっかりと頷いた。
「はい。そして皇となられるハクオロ様には、優秀な臣下が一人でも多く必要なのではありませんか。であればなおのこと、ベナウィ大将をお味方に招くのは理にかなっているとは思われませんか」
「しかし、私は――」
「気に入った!」
ハクオロが何か言いかけたその瞬間、馬鹿でかい叫び声がそれを遮った。
興奮で尾の毛を逆立てているオボロだった。
「アイツがどれほどのもんかは知らんが、兄者が皇になるという話は気に入った! そうなるべきだ! アオロ、よく言った!」
「は、はい。ありがとうございます、オボロ様」
「しかしなオボロ、お前はそう言うが――」
「兄者! いやハクオロ皇! 俺と俺の一族は、永遠の忠誠をここに誓う!」
完全に興奮しきっているオボロはハクオロの言葉も耳に入らぬ様子で、腰の刀を床にそろえて臣下の礼をする。
その勢いに流されたのかチクカパ村のフマロも同じ礼をしているが、意味がわかっているのかどうかは怪しいところであった。
ひれ伏す二人にどう声をかけていいか戸惑うハクオロに、別の声がかけられた。
テオロだった。
「アンちゃん……俺達ァ、トゥスクルさんを殺された怒りで乱を起こしたわな」
「親ッさん――そうですね」
「おばあちゃん……」
亡き祖母の名を聞いて、エルルゥは胸のあたりに手を当てる。
それをちらりと見て、テオロは一瞬神妙な表情になりながらも続ける。
「そんとき、押しかけた俺達にアンちゃんはこう言ったよな。『みんな、自分たちが何をしようとしているのか分かって言ってるのか』ってな。そいで俺達は『分かってる』って答えた」
「――!」
「確かにそんとき、みんなそこまで深く考えちゃいなかったかもしれねェが……あれには、アンちゃんが皇になるってことも入ってたんじゃねェかと俺は思うのよ」
「親ッさん……」
「俺達はアンちゃんに付いてく。そいつはこれからも変わらねェ。トゥスクルさんの跡を継いで村長(ムラオサ)になったアンちゃんだ、ついでにこの國の皇になったってヤマユラの連中は誰も文句は言わねェさ。後から入ってきた連中にも、文句は言わせねェ」
むき出しにした太い腕を胸の前で組んで、ふんっと力を込めるテオロ。
振り返ったアオロと目を合わせると、成り立ての父子はふっと微笑みあった。
ハクオロはエルルゥに目をやり、その瞳が未だ祖母を喪った悲しみの影に覆われているのを見つけた。
トゥスクルさん――ハクオロは心の中で、命の恩人である今は亡き老薬師に呼びかけた。
この場に貴女がいれば、わたしになんと言っただろうか。
自分達が今しようとしていることを、貴女は常世(コトゥアハムル)からどんな思いで見つめているのですか――。
手の中の鉄扇の重さが、いまさらにずしりと手に応えた。
それは、彼女から託されたものの重さであるのかもしれなかった。
ハクオロはしばし瞑目し考えた後、勢い良く立ち上がった。
「――出るぞ」
「兄者!」
「アンちゃん」
「ハクオロさん……」
呼びかけに順に目をやり、ハクオロは最後にアオロへと視線を戻した。
「ハクオロ様……」
「答えは、ベナウィに返す。しかしそれでも、戦わねばならぬ時は――」
アオロは頷き、床に手をついてハクオロの立ち姿に頭を下げた。
「ハクオロ様の勝利を、お祈り申し上げます」