「なぜアイツが見逃したのか、だと?」
オボロは頭を掻きむしってイライラと吠えた。
「そんなモン知るか! おおかた余裕こいて俺たちをナメてるのさ。そんなことより兄者、今は一刻も早く――」
「静かにしろオボロ。時間が大切なのは分かっている。だが」
「……なるほどなァ」
野太い言葉で理解のつぶやきを漏らしたのはテオロだった。
「父さん?」
「わかったぜアオ坊、お前ェがさっきからおかしいって言ってることがよ」
「な゛っ……」
意外な人物の意外な言葉に絶句したのはオボロだった。
幸いテオロの耳には届かなかったらしく、テオロは腕組みしながら続けた。
「そのベナウィとかいうお偉い大将が、今はタトコリにいて、そいつが守りを固めてるってワケだ。そいでそのせいでいつもならカンタンに峠を抜けられるこのフマロが見つかって追い回された。その挙げ句、大将が直々に捕まえた。
大将はなんとしても峠を守って、俺たちを中央の連中と手を組ませないためにいるはずだわな。しかしそんなら……せっかく捕まえたヤツをわざわざ見逃すのはおかしいわなァ」
「そう、そうなんです父さん!」
アオロは嬉しさと驚きの入り交じった表情で大きく頷いた。
ハクオロも内心驚いていた。否、フマロを除きこの場に集う皆が一様に、常々「俺ァ考えるのは苦手でよ」を口癖にしている人物の見せた意外な知性の輝きに、驚きの念に打たれていた。
「そのベナウィという武人は、きっととても優秀な方なのでしょう。叛乱勢力の集合を妨げるのにタトコリを押さえるのが有効であることを察して守りに来た、そしてわずかの間に森の民も通さぬほどの警備体制を敷いた。そのいずれの行動も、他のインカラ兵とは異なり、私たちへの侮りや慢心は感じられません。しかしそれなら……フマロさんを見逃す理由は無いはずです」
「フマロ、お前を捕らえ、そして見逃すときの武人たちの様子はどうだった」
「えっ……は、はいっ」
キョロキョロしていた青年は、ハクオロの急な問いかけに床に手をついて答えた。
「そう堅くならなくていい……それで、どうだった。どのようにお前は捕まったのか。見逃す時何かたくらんでいる風だったか。表情や言葉遣い、なんでもいい。教えてくれないか」
「はい……関の兵たちに追い回されたわたしは、それでも細い抜け道を通ってなんとか追っ手を撒くことができ、あと少しで峠を抜けられると思いました。しかし、峠の終わりに一カ所だけ、表の道に出なければ通れない場所があるのです。もちろん、道に出る前に兵がいないかは確認しましたが……いないと思って走り出して、一瞬目を後ろにやって戻した時には、まるで幻術みたいに白い騎兵が目の前にいました」
恐ろしい記憶を呼び起こしているせいか、青年の顔は強張り、言葉は途切れがちだった。
そしてハクオロは、そんな青年の語る様子をじっと見ていた。
「あっと思って足を止め、後ろに逃げようと振り向いたらそこにはもうゴツい体格の別の騎兵がいて……」
「では、お前を捕らえたのはその二人の騎兵だけなのか」
「はい。他の兵はいませんでした」
その答えに、アオロが唇を噛んでまた何か考え始めるのをハクオロは目の端で捕らえたが、話を続けさせた。
「――続けてくれ」
「はい……前の人も、後ろの人も、すごく怖い顔でわたしをじっと見つめていました。だからわたしはてっきり殺されるんだと思って……手足が震えて、座り込みそうになったときに、前の――白いウォプタルに乗ったほうの人が言ったんです。行きなさい、と。一瞬何を言われたのか分からなくて驚きましたが……あ、そう言えば……」
「どうした、何か思い出したか」
「は、はい。気のせいかも知れませんけど、私の後ろにいた人も、その言葉には驚いていたみたいでした。後ろから『えっ』とかいう声が聞こえたような気がします」
それを聞いて、ハクオロの中である予想がほぼ確信に変わる。ちらりとみたアオロも唇を噛んだまま小さく頷いている所を見ると、今の情報には何かしら得るところがあったのだろう。
そう考えて、ハクオロはふとおかしくなった。
ついさっきまで、背伸びをして差し出口をしてくる子供として見ていたアオロを、自分はいつの間にか知的に対等な存在として見ている――。
「それからどうなった」
「は、はい。何がなにやらわからなくてわたしが呆然としていると、後ろにいた人が苛立ったみたいな感じで乱暴に『ああっ! さっさと行けって言ってんだこのやろう』とかなんとか……行かなくちゃ殺されると思って、わたしは走り出しました。追っ手がかかってくる様子はありませんでした。そこから先は、誰にも見つかってないと思います」
「そうか……よく話してくれた」
「い、いえ」
「フマロさん、どうぞ」
ハクオロの礼に恐縮するフマロに、エルルゥが薄緑色のハルニレ茶をそっとふるまった。
心を静めるこのお茶は、恐怖の記憶を吐き出した青年の乱れた精神に穏やかさを取り戻させるだろう。こういう気遣いが自然にできるのが、エルルゥという少女だった。
ハクオロは自分にも一杯くれないかとエルルゥに頼み、それから意識を目の前の問題に再び向かわせた。
正しくは、目の前に座る、一人の少年に。
「――それで、アオロ。今のフマロの話から何か分かったことがあるか」
「はい……しかし、私ごときが分かるようなことは、すでにハクオロ様もお気付きのはずです」
「そうかもしれない。しかし、そうじゃないかも知れない。自分の理解を確かめる為にも、お前の意見を聞きたいんだ」
ハクオロのその言葉は、実質アオロを認めたことと同義だった。
しかしすでにそれに異議を唱えるものはこの部屋にはいない。オボロでさえもはや膝に手を立て睨むような目でアオロを見つめ、その言葉を待っている。
アオロはそんな重圧のなか、一呼吸分だけ目を閉じて、それからおもむろに口を開いた。
「その前に、一つお聞きしたい事があるのですが、よろしいでしょうか」
「何だ」
「そのベナウィという方は、このケナシコウルペ國の侍大将なのですよね」
「そうだ。そして一緒にいたというもう一人の体格の良い男というのは、副官のクロウだろう。それがどうした」
「……その方は、インカラの寵を得てその座にいるのでしょうか。それとも、実力ゆえでしょうか」
「実力だ。調べによると、ベナウィは家柄も良いが、それ以上に文武に秀で、また堅物としても有名らしい。度々皇に直諫する為インカラには煙たがられているようだ」
チャヌマウの事件の後、ベナウィについて調べさせた結果ハクオロは多くの事を知っていた。今だ二十代半ばの若さにして既に國一番としての武芸者として勇名を馳せる一方、自ら兵法書や詩文を書き著すなど、文人としても高い評価を得ている。
説明しつつ、ハクオロはチャヌマウで出会った男の怜悧な眼差しを思い出した。
『貴方は自分のしていることが正しいと信じていますか』という問いかけを思い出した。
あれはハクオロへの問いであると同時に、自らへの問いでもあったのだろう。地獄(ディネボクシリ)があるなら自分はそこへ落ちるだろうというハクオロの返答に、無言ながらも微かな共感の影がその眼差しに宿ったのは、気のせいではないはずだ。
「その、優秀で堅物でインカラにとっては煙たいベナウィ様は――」
「アイツに様を付ける必要はない!」
「――失礼しましたオボロ様。で、その敵将ベナウィは最近なにか失敗をしたでしょうか。戦に負けたとか……」
「あるぞ」
ハクオロが言葉を返す間もなく、オボロが口を開いた。
「あいつらはチャヌマウで、アルルゥとムティカパの登場にビビッて逃げ帰っ――ア痛っ!?」
いきなり鉄扇で脳天を打たれて、オボロはハクオロの方を振り向いた。
「あ、兄者!?」
「オボロ! この大馬鹿者が!」
「な、何を――て、あ……」
馬鹿者呼ばわりに激昂しかけたオボロは、テオロとエルルゥからも非難の視線が寄せられていることに気が付き、そしてやっと自分の失言に気が付いた。
「――す、すまん、アオロ」
「……いえ、オボロ様。お気になさらず」
チャヌマウの遺児は、そう言って微笑んだ。
「質問をしたのは私ですし、オボロ様はそれに正確にお答え下さっただけです」
「だが……」
「それに私には、悲しむべき記憶がありませんし――」
その微笑みが哀しみを湛えているように見えたのは、見る者の感傷のせいだったろうか。
少年は背後に座るテオロにちらりと顔を向け、目を合わせながら言った。
「なにより、今は素晴らしい父と母に囲まれて暮らしております。それもこれも、オボロ様がわたしを見つけて下さったおかげ。こちらが感謝こそすれ、オボロ様が謝られることは何もございません」
「アオロ……」
「アオロくん……」
「アオ坊……」
オボロ、エルルゥ、テオロがアオロの言葉にしんみりしてしまう中、ハクオロは咳払いをして場の緊張感を取り戻す。
「それにしても不用意な発言ではあった。私からも詫びを言う。――しかし、今は話を先に進めよう。ベナウィの失敗を聞いてアオロはどうしようと思ったんだい」
話を元に戻しながら、ハクオロはすでにアオロの出すであろう結論を予想していた。
――しかし、そのいずれとも違う言葉をアオロは語り出す。
「はい、これで大体わかりました。ベナウィの言動が一貫していない理由、彼がタトコリにいる理由……」
わずかな沈黙の後、居住まいを正したアオロの口から続いて発せられた言葉は、このケナシコウルペ國内乱の行く末を決める転換点となる献策であった。
「ハクオロ様、その敵将ベナウィに
――投降を呼びかけましょう」