ふう、と溜息を吐くと、俺は即座に額の汗を拭いた。
予想通り、横たわっていたリクライニングシートは汗で大変なことになっていた。
のんびりしている場合じゃないが、風邪を引くのは御免だ。
タンスからありったけのバスタオルとタオルを出し、それをリクライニングの上に敷くと、俺は急いで服を着替えた。
思った以上に汗をかいていたらしく、完全に――それこそパンツの果てまで汗だくだ。西日が当たる部屋だったこともあったかもしれないが、それだけ俺がゲームに必死になっていたことがわかる。
――だが、たかがゲームとは言わない。
俺的には久しく出会ったことのない、面白いゲームだ。
本当は、着替える時間さえ惜しい。まだまだ遊び足りない。
だがゲームでリアルを疎かにするやつは馬鹿だ。
こんなことで風邪を引きたくはない、という程度には分別は付く。
廃人になる気はないが、俺はこのゲームにしばらくハマるだろう、と言う予想だけはしていた。
急いでバスタオルを敷き終わると、俺は猛ダッシュでトイレへと駆け込んだ。
戻ると、フィリスが少し暗い顔をしていた。
「何かあったのか?」
周囲を見回すが、これと言って変わったところはないように見えた。
「ん、――あぁいや……」
珍しく、フィリスが言葉を濁す。
その様子に溜息を吐きつつ、リアが代わりにと割り込んだ。
「フィリスの友人が、ライラガルドとラグフィートにいるらしいのだけれど」
そして、ちらりとフィリスの方を見る。
ぽりぽりと頬を掻くフィリス。
リアはもう一度、溜息を吐いた。
「ラグフィートのフィリスの友人が、――ついさっき消息を絶った」
絶句するしかない。
しかも、続けてリアの言葉が告げる。
場所は城内。――最後のパーティーメンバーの、唯一の回復役。
つまり。
「ラグフィートは、――陥落ね」
どの道助けに行けるわけではない。
ないが、……確かに意気消沈もするだろうな。
「大陸上の七大国で、……まだ残っているのは、」
カルラが続けて言う。
「……ライラガルドと、……ルディスだけ」
ちなみにルディスとはここ、つまりフェイルスを首都とする、俺たちの今いるこの国のことだ。
思った以上に……壮絶なイベントだ。
作戦開始だ。
「――ウィスパー、アズレト=バツィン」
呟いたのは、アズレト本人だ。
ドッペルとつながるかどうか、まずそこが問題だが。
無言のまま、アズレトが親指を立てた。
――繋がった!
まずはドッペル本人の会話から、居場所を探る。
アズレトは、紙を手に、慎重に会話を聞き続ける。
その間、俺達は周囲の警戒だ。
だが幸いモンスターは出ない。
警戒すべきはモンスターだけではない。他のプレイヤーもだ。
――と、アズレトが不意に紙に文字を書く。
このゲームでは文字は通用するのだろうか、という疑問はすでに、アズレトが紙に文字を書くことで解決している。
文字は一瞬俺の知らない文字として書かれるが、一定の間を置いて、日本語に変換されて行く。
わずかなタイムラグがあるが、声に出してドッペルに気付かれるよりは数倍マシだ。
『最悪だ』
アズレトの言葉は簡潔だった。
「何がどう最悪なんだ?」
フィリスが聞くと、アズレトはすぐにその答えを紙に書いた。
『現在地はゲームマスターの所らしい』
……こりゃダメだ。
作戦もへったくれもない。
凶悪な敵二人が同じ位置にいるとは、予想以上にエクトルは意地汚い。
「……中止するにも、今ウィスパー解除するわけにもいかないしな」
フィリスが苦笑した。
ウィスパーを解除するためには、「アウト」と言葉に出す必要がある。
――相手にも、それが聞こえてしまうのだ。
もっとも、今アズレトが息を乱せば、それだけでウィスパーを受けているのがドッペルから丸わかりになってしまうわけだが。
『だが、面白いことがわかった』
アズレトが、再び紙に文字を書いた。
全員が紙に注目する。
『ドッペルゲンガーは、変身能力を持ったアルバイト・プレイヤーだ』
アルバイトか。
なるほどねー、とフィリスが納得したように呟いた。
要するに、ゲームマスターや俺たちプレイヤー同様、中身が存在する、ということだ。
プレイヤーの記録を見た上で、真似をしているということだろう。
いや、もしかしたら口調その他は俺たちの勝手なイメージから、プログラムがそのイメージに合わせて俺たちに表現したものなのかもしれない。だとしたらあそこまで成り切れることも納得が行く。
例えば、見た目が男キャラなら中身が女であっても男の声で聞こえる……というように、だ。
そして、アズレトが紙に図を描き始めた。
――地図だ。
まず描いたのは中央の噴水。――俺たちがリアと合流するために待ち合わせをした場所だ。
そして、その地図は大きく十字で区切られる。
なるほど、と納得した。
中央噴水から、アズレト目線で下が南、ということだろう。
今アズレトが南側に背を向けて座っているはずだから、このまま現在地だと思えばいい。
中央噴水からやや東北、つまり城のある位置だ。
落城はされていないだろう。――イベントが終了していないことからの推測だが。
「厄介ね。――ゲームオーバー目前というところかしら」
リアが俺の考えと同じ感想を漏らす。
食い止められているのかどうか。
その答えは、アズレトが教えてくれた。
『現在戦闘中』
そして、その位置を示すバツ印から、城の位置に向けて矢印が引かれる。
ゲームマスターであるエクトルも、その能力でモンスターを撒き散らしつつ城に向かっているのだろう。
道理でこっちに新しいモンスターがほとんど出現しないわけだ。
「アズレト、もういいぜ。――場所はわかった。戦闘中ならそうそう動かないだろ」
フィリスの言葉に、アズレトが一言「アウト」と呟いて指を立て、溜息をついた。
「ちょっ――!」
不意にフィリスが、慌てたように叫んだ。
一瞬緊張が走り、全員がフィリスに注目するが、フィリスは慌てたように耳に手を当てる。
すぐに気付く。ウィスパーだ。
「――おい、……嘘」
フィリスの呆然とした声と表情。
それがどんな情報だったのか、――もう聞かなくてもわかっていた。
だが、それを信じたくはない。
――それは皆も同じようで、次のフィリスの言葉を待つ。
だが、呆然とするフィリスは何も言おうとしない。
「――フィリス」
リアが、口を開く。
「――堕ちたのね?……ライラガルドが」
フィリスのライラガルドの友人。
その王城を1年以上に渡り支配し続け、守り続けた巨大ギルドの王。
『――済まない。――お前は勝てよ、フィリス』
それが、フィリスに宛てた最後のウィスパーだった。