間違い無くベルリンの人間で一番にライヒハートの訃報を知った人間の一人になったであろう俺が、まず最初に向かったのはやはりアンナの所だった。
「まぁ遅かれ早かれ誰だって死ぬんだし? あいつは早かった、私たちはあいつより遅かった、それだけの事じゃない?」
そう言ってこいつらしくも無くあっさりとした死生観を語り、ドライに片付けようとするアンナの表情はいまいち読み切れない。
だがそうそう素直な哀悼の意は読み取れず、まるで何とも思っていないかの様に見て取れた。
何とも思わない筈は無い、と思っていたのだが今はそんなものなのか或いは読み切らせないのか、やはり齢200はそうそう浅いものでも無いらしい。
「……ところで、貴方こそ大丈夫なの? 大っぴらじゃ無いにせよ、随分と危ない橋渡ってるみたいじゃない。色々と不思議なんだけど、貴方そんな事する人だっけ?」
色々と不思議、などとよく分からない事を言う魔女の瞳はこちらを測って居る様な油断無い動きを見せている。
1940年辺りから随分と警戒されている様でこう言った視線を良く向けられていた。
どうせ測られて困る様な何かを持っている訳では無いので彼女の前では基本的に本音でしか話して居ないのだが。
「ん、何の事だろう。ちょっと多過ぎて分からないな」
個人的な意見から言わせて貰えばこうしてルサルカと会っている事すらも危ない橋なのだが。
吸血鬼とか白い少女とか半人半魔とかに目を付けられたら一大事だ。
「偽造身分証、劣等を次から次へと逃がして回っているみたいじゃ無い? 私はわざわざ全滅させるのも面倒臭いから別に構わないけど、ゲシュタポはそうは思わないでしょう?」
その事か。
「いや、何と言うかね、決まり事の様な気がして……要するに、俺は前はこんな事をしていたんじゃなかったっけ? そんな既知感に従ってるだけだよ」
空気が凍り付いた様な気がする。
石と木で出来た建物の中はもとより寒々としたものだがそれに輪を掛けて、いや、そんな物では無い圧倒的な違和感を引き連れた寒気。
本能が逃げろと叫び出す様な目に見えぬ恐慌を齎すナニカ、これが食人影か。
「なんで、あんたまでそんな事を言い出すの? ジーク、私分っかんないの。あんたまで感じる様な既知感ってなに」
ぞわぞわと自分の影が蠢動する様な不快感は、周囲の全ての影の蠢動に感染したためか、あるいは既に自分が抑え込まれているために起こるものか。
ちらと余所見をするとそこにあった影にずらりと並んだ牙を幻視した。
全く、無辜の民草にこんな剣呑な魔道とは随分と警戒されたもんだ。
「さて、俺にとっちゃ産まれる前から慣れ親しんだものだから。他の人はなんて言ってたんだ?」
なんでこんなに恐がられ無ければならないのかが納得行かない。
忙しかった中、ライヒハートの訃報を受け取ってすぐに飛ぶ様にして彼女に会いに来たため、もしかすると余り長くもして居ない金髪が跳ね上がり獅子の鬣の様になっているかも知れないがその辺りだろうか。
彼女に獅子は今は辞めて置いた方が良かったかも知れない。
「知らないわよ、あんた達の言ってる事なんて分かんないわ。既知って何よ、バカにして、どうせ私には分かんないわよ」
アンナはすっかり拗ねている様に見える、ぎちぎちと周囲の影の牙が打ち鳴らされている様な状況では拗ねられても困ると言うか怖いので勘弁して頂きたいのだが。
だが、実際問題として彼女に教えても意味があるとは思えないしそれで歴史が変わられても困ると言う実際的な問題がある。やはり誤魔化すしかないだろう。
「その達ってのがどう言う面々かは聞かないが、そいつらは良く分かって無いんじゃないかな。だってこう、ぼうっとして何も考えてない時に無感情な気分になるのに理由ってあるか? そんなもんだろ」
嘘を吐かない、と言うのは苦労するものだ。高々この程度で苦労するのだから俺は人形繰りには向いていないのだろう。
「そう、そうかも知れないわね。あーあっ、馬鹿らし、聞いたって教えてくれないんだもん」
ようやく諦めてくれたのか、アンナは疲れた様な溜息を一つ吐いて天を仰いだ。
それで彼女から漂っていた嫌な空気は掻き消えた。
彼女がこちらに視線を戻した時には既にいつもの彼女の顔に戻っていたと言って良いだろう、その目以外は。
「でも、もう一つだけ聞いても良いかしら」
魔女の瞳がきらりと輝いた。
「なんであんたはこの状況で平気で居られるの? なんであんたがそんな目してられるのよ。そんなんじゃまるで……」
ぎちぎち、ぎちぎちと周囲の影が牙を打ち鳴らして立ち上がり始めた。
泥水の海から盛り上がる様に溢れ出す人食いの影。
それにしても目、とはどう言う事かいまいち分からない。まるで、まるでなんだと言うのだろう、化物だとでも言うつもりか。
失礼な話だ、こんなにも人間辞めてないのに。
「だからさ、前にも言った事無かったか? 既に知っていればどうって事無い」
魔女の瞳は怪しく光り続け、周囲の影はまるで獲物に食い付いても良いと許可を待つ調教された猛獣の類いの様に、落ち着き無く蠢き続けている。
「Yetzirah-- 形成
だからね、私が教えて欲しいのはどうしてあんたがそんな事を知っているかって事なの」
車輪、鎖、針、鳥籠、親指締め、著名なものから無名のもの、どう言った用途に使うのか分からないものまで展示品の様に拷問具がずらりと姿を現し始める。
格別、目立って居る背後の異様な気配はおそらく鋼鉄の処女のものか。
返答次第では碌な事にならないだろう、第二の人生初のBAD ENDコース。
ここで彼女をこんなにも本気にさせてしまったのはあまり得策とは言えなかったかも知れない。
が、時期も迫っている、そろそろ渡りを付けるには良い時期だろうか。
「カール・クラフトにラブコールを伝えて欲しい。1944年11月20日、少々込み入った話がしたい、貴方のアポトーシスより。とな」
魔女はまたしも読み切れない様な表情をした。カール・クラフトを知っている事にか貴方のアポトーシスと言う言葉にか、どちらに反応しているかの判別は出来ないが聞きたい事は分かる。
あんなクソったれニートに会って何を話すつもりか、に他ならない。
拷問機が、影が今にも食い付かんとしてゆらゆらと揺れる中で俺は間違い無く薄く笑った。
「何、ちょっとお世話になったお礼をしたいだけだって。だから機嫌直してくれよ、アンナ」
「はぁー……あんたねぇ、機嫌直してくれ、なんて言い方してる時点で馬鹿にしてるわよね」
時間が止まったかと思われる程、たっぷり十分は睨み合った末にようやくアンナは形成を解いた、海に還って行くかの様に引いていく食人影が気色悪い。
良い加減シリアスな空気に嫌気が刺したか、俺が我慢出来なくなって「ぽっ、アンナたん可愛い」と言ったのが原因か。
「そうか? いや、悪かった。でも機嫌直してくれ」
言い方で馬鹿にしてるとはちょっと過敏に成り過ぎではなかろうか、面倒臭え。
美人だから何してもとりあえず許すけど。
「そう言うのは言葉だけじゃ無くて誠意を見せるもんじゃ無い?」
これはやはり俺が何を考えているか教えろと言う事なのか、あるいは既知とは一体何なのか教えろ、と言う事なのか。
前者か、彼女は既知に関して俺から聞く事を諦めている様に思える。
前者後者に関わらず話す内容が同じになってしまうので、どちらでも構わないんだが。
誤魔化すしか無いし。
「……デートでもしろってか。そんな、私まだ心の準備が」
それを聞いたアンナはあからさまに顔を顰めてざっと引いた。
ひでえ、少し傷付いた。
顔を赤らめるとかそんな事も無し、純粋に引いたらしい。
「うわっ、きもっ。……まぁあんたがデートしたいって言うならそれでも構わないわよ」
本当に酷くないだろうか。
美人にデートのお誘いしてOK出たと思えば打ち消して余りあるが、これが『うわっ、きもっ。鏡見てから出直して来いっつーの』とかだったら一、二ヶ月は引き篭もってしまっていただろう。
なんとも温情を掛けられただけの様な気がしないでも無いが、一先ずこれで良しとしようか。
どうせこいつと話す機会ならまだ有るんだし。