なんだかんだで三人揃ってテンション高くなって次から次に呑みに呑んだが、とりあえずここまでは良いだろう。
あの一触即発の状態からこんなにも平和的に有耶無耶に出来たのは素晴らしい功績だ、俺が黒円卓に入ってから初にして最大級の快挙の筈。
「うえっ、全くどれだけ呑ますんですか。こんなか弱い女の子泥酔させるとか重罪ですよ、逮捕しちゃいますよ」
「ハッ、化け物がお巡りの狗っころ如きに怯えるとかどんな笑い話だ、喜劇にもなりゃしねえ。大体あんな安酒で泥酔たぁ可愛いもんだなぁ? ヴァルキュリア、なんなら"優しく"介抱してやろうか?」
「まだやる気ですか貴方、本当に切り落としますよッ!? ……うう、吐きそう」
「ざまあねえなぁヴァルキュリア、呑み過ぎぐらいでグロッキーやってる魔人なんざ味噌ッ粕のテメエぐれえのもんだ、なぁジークフリート?」
「俺に振るなよ、と言うか君たちもう少し遠慮しようね、他人ん家なんだからさ」
だがまさかそれが原因で三人揃って持ち合わせを全額呑み尽くして、このクソ狭いアパートにコイツら泊める羽目になろうとは。
それもこれも諏訪原からここまで往復ギリギリしか持って来なかった癖して、この店で一番高いやつ持って来いとか抜かしたどっかの女のせいだ。
いくら安そうな店だからって一番高い奴がビールと同額な訳ないだろ、バカ。
あと明日から居辛くなるから頼むから静かにして欲しい。そんな高いアパートじゃないんだよ、壁薄いんだよ。
「あとベアトリス、泥酔してるんじゃなくて胃容量超えてるだけだろ、吐くんなら然るべきところでやれよ」
俺とエーレンブルグがほろ酔いで良い気分になっているのを傍目に、貴方たち器用な真似しますね、などと言いながら素面だったのを知っている。
「ちゃんと酔ってますっ!! ほら顔紅いでしょ!?」
ずい、と俺の方に顔を突き出して紅潮した顔を見せつけて来るベアトリス。
だが俺とエーレンブルグが如何にも慣れてますと言った感じにほろ酔い気分で楽しんでいるのを傍目に、ウンウン唸りながら自分もアルコール耐性を落とそうとして中々出来なかったのを知っている。
負けず嫌いなのでそう言っているだけなのは間違いない。
それで退くに退けず呑み過ぎた、と実にこの女らしい顛末であった。
もしかしたら少しくらいはアルコールが効いたのかも知れないが、少なくともその程度で吐くだの泥酔だのと言い始める様な軟弱な女でも無いだろう。
そのうち機会を見て、その自爆癖は治した方が良いと忠告しておこう、どうやら次世代に感染する類いのものらしいし。
「そりゃこのクソ暑いのにたらふく腹に詰め込んで、吐きそうとかほざいてりゃ顔も紅くなるわなァ」
「うるッさいですね、と言うかそんなに詰め込んでません。お酒とチーズだけじゃないですか!」
十分だと思うんだが。
再び言い争いを始めた二人を尻目に少し煙草を吸ってくる、とだけ言ってその場を辞した。
アパートのすぐ近くにある小さな公園のベンチ、ここならばあいつらの騒ぐ声も聞こえないだろう場所でズボンのポケットから煙草を出す。
今日のは新しい湿気ていない煙草だ。
最近はヘビースモーカーと言うほどでも無いが日に数本は消費しているため、比較的新しいものが常に手元にあった。
やはりかさっと音のする様な乾いた葉っぱを定期的に消費していると以前の様な古くなったものはとてもでは無いが吸えない。
以前ヴィッテンブルグ少佐に、良くそんなものが口に入れられると詰られた事が有るが、今ならばその通りで御座いますと答えられるだろう。
正直、味に関して語れるほど詳しい訳でも無いのが残念なところだ。
手持ち無沙汰を無為な一服と言う形で使い潰す手段の一つとしてたまに煙草を選ぶことがある、と言った程度であったつもりだが、こうもその機会が増えると少し考え直す必要があるだろうか。
もう少し建設的な何か趣味にでも目覚めた方が良いのかも知れない。
「またそんな美味しくなさそうな顔ですぱすぱと」
紫煙が立ち昇り始めて十分もしない内に、呆れ顔のベアトリスに話し掛けられる。
大方エーレンブルグと二人で顔を突っつき合わせているのに耐えられなくなったのだろう、そこで殺し合いに発展しない分こいつは冷静なのか、俺が喧嘩っ早いだけなのか。
美味くなさそうな顔で吸っている、と言われても実際にあまり美味いと思っているわけでは無いのだが。
ぼんやり、ゆらゆらと上がる煙を見ていると、美味く無いのなら何故吸っているのだ愚か者が、と俺を叱咤する声が聞こえた気がした。
「それは少佐も余り変わらないだろ」
むしろあの人が『ムムム、この葉は香ばしいようで居て若々しい、苦いようで天上の甘露、まさにこれは現代に生まれし幻の銘葉ッ!!』とか百面相しながら言ってたら、子どもはもちろん大の男も泣きながら裸足で逃げ出すぞ。
仏頂面で吸ってるんだか咥えてるだけなんだか良く分からない姿がヤバイくらいサマになっているので、それはそれで良いと思うが。
だからと言って傍から少佐は良くて、お前は似合わないからダメだと言われてもすんなりとは納得出来ない。
「いえ、あの人はあれで美味しいと思ってる顔をしているつもり……なんだと思いますよ?」
「お前ですらそう答えるような恐ろしい顔をしながら煙を燻らせる御仁に、吸うならもっと美味そうな顔をしろ、なんて言われたら流石に困るだろ?」
ブレンナーの次にヴィッテンブルグ少佐を理解していると言って良いだろうベアトリスですら自信が無くなるほどなのだ、第三者が見ても間違いなく美味いと思っている、などとは判断出来ないだろう。
そんな顔でもっと美味そうな顔をしろって、納得が行かないだろう。
そしてこいつはそんな少佐を見逃しているのだ、そんなヘタレに唯々諾々とは従ってやれんなぁ。
「でも言われたら、はいそうします、って答えるんでしょう?」
「そりゃな、だって怖いし」
だって他になんて言えば良いのだ、では小生、未熟故にその御尊顔を参考にさせて頂きます。とでも言おうものなら確実に黒円卓のツェンタウア(半人半魔)が一人増えるぞ。
ヴィッテンブルグ少佐に口答えする時はすなわち半ばにせよ死を覚悟した時だけなのだ、腹決めてないのに立ち向かって行ったって後々一生分の後悔を一度にすることになるのだから。
すぱー、とわざとらしく音を立てて煙を吐く。
もう数十年吸い続けてサマにならないのは重々承知しているので、そろそろ開き直る時期だろうか。
俺もヴィッテンブルグ少佐みたいに格好良くふかしたかった。
沈黙。
特に話したい事があって来た訳では無いのだろう。
エーレンブルグから逃げて来ただけであろうからして、それも当然ではあるが色々と痛い静寂だ。
そもそもに以前の別れ際からこの再会は辛過ぎる、実にいたたまれない。
「そういやぁ、お前の元カレにあったぜ」
だから真面目な話題に逃げるのは俺の悪い所だろうか、それでも茶化さずにはいられないのが俺の悪い所なのだろうか。
あれが元カレなのかは知らないが、あれも良くもまぁ五十年以上もストーキングする気になったものだ。
俺が言うのもなんだが、他人の金で高い酒を笊の様に呑んだ挙句に胃容量の限界に達して吐きそうなダメ女だぞ。
「はぁ? なんですか突然」
あからさまに首を傾げるベアトリス。
やはり元カレって訳でも無いのか、哀れなり。
まぁ十六歳かそこいらでユーゲントを卒業して、ヴィッテンブルグ少佐の元に配属してそう間も無く黎明に至るわけだ。
ユーゲント時代がどれだけなのかは知らないが、生まれてからそこに所属するまでの期間は多くとも十数年、愛だの恋だの語るには少々幼い。
もしかしたらフォーゲルヴァイデ坊やの初恋だったのだろうか、うわぁ……。
「いや、俺の女に手を出すな、とか言ってデッカイ釘刺された。死ぬとこだった」
ちょっと五寸釘どころか三尺はあろうかと言う代物だったが。
「あの、ぜんぜん話が見えないんですけど」
そりゃあ見えないだろう、俺も生物学的には疑いようもない真人間にしてやられたなんて恥ずかしくて公言出来ない。
言うけど。
「あのヒゲにハンカチ噛み千切らせたいから付き合おう、愛してるベアトリス」
冷静になって考えてみれば俺もフォーゲルヴァイデの事をとやかく言える立場じゃないな。
なにせ「前世からだよ、ボケ」だからして、ああ本当に何であんな事言ったんだろうな俺は。
「そそそ、そんな勢い丸出しで突然プロポーズされてもお断りしますっ!!」
「……うん、まぁ分かってたけどね。うん……」
やっぱり昔のアレはあまり真面目には受け取られてなかったようだ。
まぁ真面目に考えられても少し困るが。
しかし困ります、では無くお断りしますと返って来たのが寂寥感を誘う。
なんだよ、迷う素振りも無しかよ。
ぽつりと、ともすれば聞き逃してしまいかねない小さな音を立てて煙草の灰が地面に落ちると、末期の輝きとばかりに赤銅に輝いて儚く燃え尽きた。
……虚しい。
「まぁね、ちょっとお前の元カレのヒゲに背中刺されて死に掛けたんだよ。剣上手いのは知ってたけど斬鉄剣って技術として実在したんだな」
物理的に、とか幻想の領域では存在するのは分かっていた。この女の聖剣などまさしく斬鉄剣だろう、鉄どころか魂まで斬るが。
一方で鋼で出来た剣が対戦車砲の直撃にも耐え得る様な物体の塊を貫き通す様な技術、となると実在はしないだろう、と思っていた。
やはりあれも幻想の領域なのだろうか、ルサルカの例もあるしあの団体、実は魔法など使えても可笑しくない。魔法のような剣技であったのか、魔法による補助があったのかは定かでは無いが。
「……もしかして、ハインツ君?」
ようやく頭に引っ掛かるものでもあったかベアトリスは眉を顰めて怪訝な顔を隠しもせずに俺の顔を覗き込んだ。
そろそろフィルターにまで火が達しそうな煙草を、カッコ付けて目の前に持って来ると掌から炎を発する。
あの時の様な恒星の表面に伍する熱量には少し足りないが、ちんけな葉っぱを焼き尽くすには十二分の熱。
じゅ、と水の蒸発するような音とともに燃え尽きた吸殻が、僅かな煙を引き連れて空気の揺らぎに消えて行った。
「いかにも、アルフレート・デア・フォーゲルヴァイデと申す。だってさ。悪いけど次に戦場であった時は問答無用で焼き潰すからそのつもりで」
「アルフレート、ですか。元気でしたか?」
知らなかった、と言う事は無いだろうと思う。
それが事実であるとは思いたくなかったのだろうか、それとも改めて事実であると確認してしまうと衝撃を隠せないと言う事だろうか。
ほんの数分ほど、あまり短くは無いが長くも無い間、ベアトリスは瞑目して何か物思いに耽っていたようであったが、ふと目を開けるとまるで世間話をするかの様に尋ねてきた。
元気でしたか、と聞かれても困るのだが。
元気で無い人間がわざわざ他人を刺しに砂漠地帯の戦地まで来るだろうか、家で寝てろって話だろ。
「俺はあんまり」
「あ・な・た・の事は聞いてませんっ!!」
そうだね、随分久しぶりになるのにちっとも聞いて来ないし。
君はもう少し俺の事を気に掛けてくれても良いと思う。
「はぁ、まぁ良いです。元気で無い人間が黒円卓に喧嘩売って生き延びる筈ありませんし。まだ生きてるんでしょう? なんで見逃したのかは分かりませんけど」
小首を傾げて幾つかの疑問を口にするベアトリスだが、その碧い瞳に詮索の色は見て取れ無かった。
これがシュピーネや神父ならば険悪にならない程度には根掘り葉掘り聞いてくるし、ルサルカやエーレンブルグならば殺し合いになっても構わないくらいの積もりで詮索するところだが。
こいつにも言いたくない事があるのだろう、程度の考えでこんなに怪しい事を聞かないでおこうと思える気持ちの良い人格はそれはありがたいものだ。
だからこそこうして世間話程度に話せるのだが、そう言った預けた背中を顧みないところが命取りである以上は何とも手放しでは有難がれない複雑な気持ちになる。
「いや、適当に吹き飛ばしたから分からんぞ。俺の勘では生きているが」
何しろ逃げ切ったかどうか確認する前に爆撃を開始したのだ。
最初の数発から後の数十発まで若干の時間差があったが、それでも最終的には直径3kmが焼け野原だ。
最悪でもギリギリ生身である筈のあの男が果たして生き延びたか、など俺に知れる筈も無い。
「……やっぱり、あの爆発事故はハインツ君だったんですね」
やっぱり、と不穏当な冠詞を添えた上で溜息を吐かれた。
溜息を吐かれるような事だろうか、これでエーレンブルグがまた一人でヒートアップするだろうとなれば、その気持ちは嫌と言うほど理解出来るが。
神父も盛り上がりそうだ、と気付いて更に嫌な気分になった。向こう何十年か会う予定が無いにも関わらず、自分の事であれが喜びそうと思うだけでこの不快感。
流石は変態神父、ついうっかり殺してしまいそうなほど頼もしい。
「それ、そっちじゃ定説になってるのか?」
なんともはや、年末に気合いを入れて大掃除をした直後のピカピカの台所で、件の黒い悪魔を発見してしまった様な堪らない気分で尋ねる。
誰だこんな事を言い触らしたやつは。
場合によってはそれなりの対応をしてやらんと。
「貴方いつもふらふらとしてるから、あれだこれだと手広くやってるシュピーネじゃ流石に現在地は追い切れないそうですけど、少なくとも足取りくらいは簡単に掴めるみたいですよ?」
隠しているわけでは無いので当然だろう。
それでも一人で、それも片手間で調べを付けるのは至難なのは間違いないが。
と言うかシュピーネは何をやっているんだろう、そもそも何をやっているのか掴ませないのが奴の最大の仕事と言って良いと思うが。
不気味だ、油断するとさっくり後ろから不意打ちで寝首を掻かれ兼ねない恐怖がある。
「あの事故があった時にハインツ君がその辺りに居たのは間違いない、まるで戦略兵器で爆撃された様な有様なのに、周辺の国家は動いた形跡が無い。とあればそれを為したのは我々の同胞であると考えるのがもっとも自然。だそうです、アレも大したものですね」
あ、あぁ、シュピーネが言って回ったの。そうか、なら仕方無いね。
うん、俺あれと殺り合うの嫌だし。
「……まぁ良かったです」
「はぁ!?」
うんうん、と独りごちた上で目からナニかが零れ落ちない様に夜空を見上げて和んでいると、予想だにしないセリフが耳に飛び込んで来て思わず飛び上がった。
何こいつ、まさか心配してたとか言わないだろうな。
「元気そうで。ハインツ君がこんなところで死んじゃったら私肩身狭いですし」
……やはりそんな美しい情動があったわけでは無いか。俺も心配しちゃいなかった以上、当然相互してこいつも俺を心配するわけが無いとは思っていたが。
「『私、黒円卓唯一の常識人ですから』とか言ったらぶっ飛ばす」
俺ですら身についた常識を失って久しいのにこいつが常識人なわけが無い。
と言うか常識人が戦場の光になりたいと言ってマッハ440でぶっ飛ばすぜーって発想になるだろうか、普通。
「えっ?」
「いや、えっ、もへったくれもねーって。マジで言ってるのかお前は」
なにカマトトぶってんだ。
似合わないとは言わんが歳考えて欲しい、君もそろそろオバサンと呼ばれる年頃なんだから。
……流石に言わないでおこうか。
「いや、うん……お前も元気そうでなにより。お前はなにかと先走りそうで、たまに心配で堪らなくなる」
本心からそう言うとベアトリスは物凄く微妙な顔をした。
なんだろう、お前が言うなとでも言いたいのか。これで俺は"あれ"の暗殺を三度は思い留まったと言う素晴らしい功績を持つ我慢の人なんだぞ。
「だったら見ていてくれたら良いじゃないですか、私も引っ込んでるのはもう退屈で退屈で」
退屈なら日記くらい続けろ、とか料理くらい手伝ってやれよ生活無能力者とか言いたい事は幾らでもあるのだが。
「それはつまり俺に毎日あの神父やブレンナーと顔突っつき合わせろと、そう言う事か? いやー、ほんとベアトリスさんは鬼畜だなー」
「きち……!? 嫁入り前の女の子に言うセリフですか、それ?」
女の子……ねえ。
「そのオンナノコサマがこの色気のあるシーンで爆破事件の犯人はお前だ、とか恐怖の幽霊蜘蛛の話してるようでは」
特に幽霊蜘蛛の話はやめておくべきだ。爆破事件の話も萎えるし。
それにしても本当にこいつとはそう言う空気にならない。
まぁこれはこれで楽しいし別に気にしちゃ居ないが。
「……まぁ良いです。……とにかく心配だったとか空々しいこと言うくらいなら、ふらふらと放浪するのは辞めてシャンバラで待機なさい」
シャンバラ待機が黒円卓の騎士として正しいのか、代行とやらがおよそそうしている以上それが正しいのか。
あれがどれほどの期間、諏訪原に座していてどれほどの期間、外地に飛んでいたのかは不明だが。
エーレンブルグとルサルカはそんなもの守る気配も無さそうだし、シュピーネもたまに帰投する程度だろうに、なぜ俺はこいつに指図されるのだろう。
俺は俺なりに唐突に振って湧いた第二の人生の自由な世界を謳歌しているのだが。
ベアトリスはベアトリスなりに中間管理職的な苦しみを味わっているのだろうか。
「まぁ、……五十年経ったらね」
その日になれば、守ってやらねばなるまいと思う。
こいつが死のうがまだ見ぬ三代目トバルカインが死のうが、あるいは生き延びようが、大筋にはなんの影響も無いのだが。
計算を狂わせる位にはなるだろう、予想を狂わせる位にはなるだろう。
まして既知の破壊が出来るとあれば、それを躊躇う理由など無い。
「またそれですか……」
前座とは言え、観衆に徹するつもりなどは微塵も無いことだし、リハーサルにはなるだろう。
深夜ももう過ぎ去って、まさしく草木も眠る丑三つ時に俺たちは何をするでも無く南の空に輝く月を見ていた。
あぁ全くもってこの女には月は似合わないのだが、それでも話す事は取り留めも無い世間話がようやっと。
口下手なつもりは無いが自分から話す方でも無く、だからこそ何がどうと言うほどでも無い沈黙がしばしば続く。
なぜだか知らないがその沈黙がいたたまれなくなって口を開いても長続きはしない。
お見合いかクソったれ、と悪態を吐くがどうやら取り乱しているのは俺だけらしい。
流石にいつまでも立っていると気疲れするのか、ベアトリスは俺の座っていたベンチの右半分を占領していた。
先ほどから何も気にならないと言わんばかりの泰然自若とした態度で膝に手を乗せて月と、時折上がる紫煙を眺めている。
「なぁおい」
もう随分な回数になる静寂とそれによる緊張感への敗北を喫し、罰ゲームを科せられた様な心持ちで声を掛ける。
「はい、なんでしょう」
相変わらず返事が軽い。
「帰んないの?」
「私にベイと同じ部屋で居ろ、と? いやですよ襲われそうです」
まぁそりゃ確かに。
こいつだって流石にあれの横で惰眠を貪るような愚かで無防備な女の子してる訳もなし、襲われたところでどうなると言う事も無いのだろうが、逆に言えば襲われたら襲われたなりに撃退するだろう。
ともすれば、また一触即発の危機だ。現存する騎士団の中では一、二を争うベアトリスとエーレンブルグが例え戯れ合いの様なものでも戦闘を始めれば本当に街が一つ地図から消え兼ねない。
その危険を犯す愚を思えば、少しばかり肌寒い夜風に晒されて月下美人気取っているほうがマシだと言う事だろうか。
「俺だって襲わないと言う保障は無いんだが」
少なくとも、こうして隣に座っている肉体的にはまだ若いと言える大の男が、どこぞの野獣とは違ってお前は安全牌だと扱われるのは納得が行かない。
街中とは言え夜の公園だし、シチュエーション的には如何にも色々と持て余して血迷った輩が一夜の凶行に身を滅ぼす、典型的な情景だろう。
いかに自制心に定評のある俺と言えども突如として被った羊の皮を脱ぎ捨てて、ぎゃおーと襲い掛かったとして何の不思議も無い。
「ふぅん? そうですか?」
が、事実上の襲撃発言にもこの余裕。
男として見切られて居るのだろうか、お前はヘタレの甲斐性なしだと言われている様で……なんだろう、不思議と申し訳無くなる。
加えて仮にそこに一人の男の安っぽいプライドとでも言うべきものを蔑ろにする意図があったとしても、信用だか信頼だかに根差していると思しき安堵感を示されては大人しく引き下がるを得ない。
そして悲しいかな、野獣でも悪魔でも水銀でも無い心優しい俺にその信頼を裏切る事は出来ないのだ。
ああ、なんて心優しいんだろう俺。
「チッ」
結局、洒落だろうが冗談だろうが大人しくしているしか無くなった。
ブレンナーやルサルカ相手なら掛け合い如きで遅れを取ることは無い、と自負しているがどうしてコイツにはこんなに手玉に取られるのだろうか。
「はぁ、参った。とりあえずなんか話してくれよ、色々と折れそうだ」
今ここで心とかそう言う折れてはいけないものが、ポキリと静寂に響き渡るのを感じて果たして俺は俺のままで居られるだろうか。いや無理だ。
それにしてもヴィッテンブルグ少佐に似たのか切った貼ったと惚れた腫れたには極端に強い奴だ。ネタにされたり揶揄されるのには弱い癖に。
しかし「んー、そう……ですね」とわざわざ口に出して考え込んでいる素振りを見せるベアトリスには、慌てた様子は見られない。
最初から何か言いたい事があったのだろうか。こいつだけずっとシリアスだったのかも知れない。
もしかしてこの沈黙に堪え切れずギャグ時空を作り出そうと尽力していた俺の努力は全て空回りだったのか。
一息に脱力してしまった。
「なんでも良いよ、聞きたい事あるんなら大抵は答えてやるし」
こいつに聞かれて知りません存じませんとシラを切り通すつもりも余り無い。
無分別に情報をばら撒いてもどうせ俺にとって都合の良い側の陣営にしか付かないであろうこいつならば、後々に不都合となる事はあっても致命的にはなり辛いだろうし。
疑問、疑惑、疑念。そう言ったものがあるのならばここで払拭しておいた方がむしろ良い具合に回りそうだとも思う。
「……実はですね、聞いちゃいました」
散々悩んだ末に漸くそう言って切り出したベアトリスが、何か笑い話を聞いたと言おうとしているのでは無い事は明らかだった。
「何をだよ」
よりによってその話題か、とも思わなくも無いが、こいつらにとっては聞かずには居られない話題だろうか。
これがシュピーネならば本人の努力もあって誰も気にしない、と言う事もあるのだろうが俺ではそうも行かないかも知れない。
「……ベイともちょっと話したんですよ。そりゃ出し渋りたくも無くなるわな、ですって。私もハインツ君があの黄金にどう言う想いで居るのか分かってるから、詮索はしませんけど」
万に一つ、いや、億だとか兆に一つの可能性として、ベアトリスがエーレンブルグからそれとなく聞いて見てくれ、とでも言われた可能性を考慮してしまった。
ありえないな、怖気が走る。奴が誰かに気を使うなんて事があればそれは間違いなく天変地異の前触れだ。
『黄金に対してどう言う想い』だとかそう言うレベルでも触れられたく無い話題なのだが。
"Wie lieblich sind deine Wohnungen,Herr Zebaoth! "《総軍の主よ! 貴方の座すところは如何に愛されているだろうか》
やはり余人が聞けば思わず引いてしまう様な歌だろうか。
確かに俺の中に僅かに残された常識的な感性でも、少々醜いとさえ思えるほど、あの黄金に対する劣等感が詰まっているように聞こえるが。
逆に言えば、いかにも今の俺を表すのに相応しいと言う事だろう。
腐れて歪んで、なによりどうしようも無いほど錆び付いた英雄願望の死にたがりにはお似合いだ。
「それが本当の創造、じゃ無いなら、だったらハインツ君の本当って何なんですか?」
本当、とは要するに本当の創造と言う事なのだろう。
思ったよりエーレンブルグから詳細を聞き取っていたようだ。
エーレンブルグもエーレンブルグで、根掘り葉掘り聞いてきたのを上手くはぐらかし続けていたつもりだったが、要点がどこにあるのかはしかと見破られていた様だ。
本当の渇望など英雄化に決まっているし、それが引き起こす世界の変革──否、自らの変生か──も一つしかありえないが。
それを見る前から分かっていた、と言えるのは既知を持つ水銀と黄金と、場合によっては黒鉄の三人くらいのものか。
「……さぁな。でも俺がこの先、俺の本当とやらを見出す機会があればその時に分かるだろ」
果たしてそんな日が来るのか、来るとしてそれはいつなのか。それがどんなものなのかも、自分が何をすれば良いのかも、想像だに出来ないが。
「そんなもの、どこにあるのかね」