あれから数年後、なにもすることが無いので酒浸りになっていると、何故かエーレンブルグと出くわした。
よお、待ってたぜ。などと言って店の一番目立つ安っぽい合成皮革のソファー席に横柄に腰掛けて、記憶にある通り綺麗どころを両手に抱える様は流石エーレンブルグと言ったところ。
テーブルの上に乗る空の酒瓶が一つも無いので、恐らく待っていたとは言っても一時間も経っていないだろう。
あえて照明を弱くして薄暗くされた酒場にはそぐわない音楽が流されている。
上流社会のものが見れば軽く眉を顰めるような、薄汚れたテーブルや所々タバコの灰が落ちて焼け縮れている古椅子がまた脱力を誘う。
これくらい陰気なのが丁度良いのだ、と言い訳をしているが実は何よりも懐が心許ない。
エーレンブルグが掛ける席の、テーブルを挟んで向かいの椅子に座ると丈夫そうには見えない木製のそれがギシギシと悲鳴を上げた。
そろそろ壊れるんじゃないか。殴打用の凶器に使われたり、体重計が先にギブアップしそうな巨漢に急造の柱として使われたりと散々な歴史を辿って居る哀れな椅子だ。いつその役目を終えても可笑しくない。
「相変らず元気そうでクソったれな限りだなぁオイ、ジークフリートォ?」
こっちのセリフだとは声に出さず胸の内だけで呟く。
僅かな期待と共に暗い中、僅かな照明でもはっきり見える白皙の顔をじっくり見れば残念な事にやはり元気どころか体力が有り余っていて堪らない、と言わんばかりの表情である。
戦中はもう少し擦れた顔をしていた様な……いや、いつでもこんな顔をしていた気がする。
「元気そうに見えるか?」
呆れた、とかげんなりした、とかよりは目の前の眩しい生き物に当てられて体力を奪われた様な嫌な気分になりながら尋ねる。
少なくとも前に鏡を見た時は、とてもでは無いが元気そうな顔はしていなかった筈だ。
「見えるね」
にも関わらず、金属製のコップに酒──赤ワインだろうか、吸血鬼的な思考から言って──を煽ると、元気に見えると断言するエーレンブルグはどう言うわけか順調にご機嫌が上向きになっている様だ。
何か良い事でもあったのだろうか。
「目が腐ったんなら取り替えて来るのをオススメするぞ、シュライバーならどうすりゃ良いか教えてくれるだろ」
いずれにせよ仲間内からさえもケダモノ呼ばわりを受ける野生のもののご機嫌伺いなどお断りだ。
見るからにぞんざいに応対してやると、ビールを注文する。
「んだぁ? 辛気臭えなクソが、なんかあったか?」
流石にシュライバーを引き合いに出されては上機嫌で居られなかったか、エーレンブルグは漸くこの数年間何があったか聞こうとし始めた。
気を使うのが遅過ぎる、わざとなのだろうが。
「さあ」
ゴト、と重い音を立てて栓の開けられただけのビール瓶が目の前のテーブルに置かれた。
軽く乾いた喉と口腔を潤すと、小さくは無い溜息が一つ漏れ出る。
「まず俺がここに居ると分かった事に驚いたんだが、シュピーネか? いつもの勘か?」
「勘だ、と言いてえところだが、今回は両方だな。この辺に居るんじゃねえかっつったらシュピーネの野郎が見つけて来た」
まぁ半年も一所に居れば、あのシュピーネならば容易に見つけられるか。
諜報、隠身、その圧倒的な技術によって背後に忍び寄られる恐怖は今をもってなお記憶に新しい。
あの男は敵の後背を突いてさえ居れば生涯不敗を貫けるだろう。もちろん防御を抜けるか否か、と言う問題はあるが。
「……そう言えば、そのシュピーネに偽造戸籍を用意するように頼みたいんだが」
「そりゃてめえのか?」
「株式投資すりゃ簡単に儲かると気付いた」
身分証明と銀行口座だけでも構わないかも知れないが、小回りが利きそうにない。
どうせなら根本で一つ作っておいた方が良いだろう。
「金なんざオデッサだかその辺の連中しめ上げりゃ出てくるだろ、……多分だがよお」
そんなに甘いものなのか?
今、聖槍十三騎士団の回転資金がどれほど掛かっているかは知らないが。
世界をまたにかけて飛び回る奴がルサルカ、エーレンブルグ、シュピーネの三人。
ぷーの金髪女が一人、最低限以上儲けられるはずも無い修道女(?)と似非神父。
シュピーネは兎も角として金を食うだけの生き物が五人も居て、大っぴらに活動出来ない地下組織が金を出すだろうか。
「財布預かってんのブレンナーじゃないのか? そのうち泣くぞ」
泣かしとけあんなアマァ、と言ってラッパ飲みに酒をかっ喰らうエーレンブルグを目を細めて見る。
可哀想に、ブレンナーはまちがいなく未だに出来損なった常識人をやって居るので、いかにも中間管理職的な苦しみを味わっているに違いない。
もっともその苦しみは殆んどがクソ神父に転嫁されるので、俺としてもあまり気にするつもりは無いのだが。
「まぁ連中の方からは元手を頂く」
頂けるなら。
泣かれたら……諦めよう。
「シュピーネにゃ言っとくくらい言っといてやるがよ、二週間もすりゃ新国民が誕生してんじゃねえか?」
「そいつは重畳」
そう言って再びビールを胃に送り込んだ。
大きく息を吐く。ビールを飲むとため息が出るのは本能なのだろうか。
気分が鬱々としていようと、逆に機嫌が上がり切っていようと一定のテンションで半強制的に発動されるので便利ではあるのだが。
「で、何の用なんだ?」
そろそろ本題に移りたい。
ただでさえこいつとはピーチクパーチクと下らない会話で盛り上がる事も、またお互い話したい事も無いので出来るならば早急に嫌な事は済ませてしまって気持ち良く別れたい。
「用らしい用って訳でも無えんだがよ。……あれからちったぁ強くなったかよ、子犬ちゃん」
と言う事は神父の言いつけに従って、などと言う訳では無いらしい。
もちろんあのクソ神父がどこまで俺の反応を読んでどう言った言伝をエーレンブルグに託しているか、など想像もしたくないため、残念ながら真偽の程を確かめる術は無いのだが。
「さあ、自分で判断する自分の強弱なんざアテにならんと思わないか」
真っ正直に答える気も無いため、惚けた振りをしてはぐらかす。
「ハッ!! そりゃそうだろうがよ、俺らに限っちゃ何かあんだろ? 数字にも出来るし、段階にも出来る」
「まぁそうか」
不本意ながら三十程に増えた事に加え、0.5段階成長しているがそれを聞きたいのだろうか。
ここまでの会話からは、終戦から今まで怠慢せずに精進して切磋琢磨に励んでいたかを確認する様な意図しか読み取れない。
お前はいつ俺の武道の師匠になったのか。
「何年か前によォ、爆発事故があったの知ってるか? ツングースカの再来だのなんだのって、喧しかったんだがよ」
パッとしない顔をしていたのだろう。エーレンブルグは少し話を変えた。
本題の続き、なのだろう。
話の方向性がストレートに今現在の俺の強さに向いて来ている。
「ああ、そう言う事もあったな」
恐らくあの時に腹いせで爆撃した事だろう。
後から聞くと辺りやはり3kmほどは不毛の焼け野原になっていたらしい。一撃の範囲はおよそ数百m巻き込むか否かの筈であるため、最低でも2〜30発は爆撃した事になる。
ツングースカ爆発事故はたった一発で周辺60kmを薙ぎ倒したのに対し、俺の時は周辺3kmを50発近くで焼き払ったに過ぎない以上、過剰評価に過ぎるのだが。
「ありゃお前だ」
断言した。
全くもって驚くべき勘だ、嗅覚が優れているとかそう言う次元では無い気がする。
「少なくとも俺の聖遺物じゃ、とてもじゃ無いがあれは無理だな」
例えば周囲3kmを火の海にするのは難しくは無いが、周囲3kmに"吹き飛ばされた"と言われるほどの破壊を起こすのは智泉の号砲では不可能だ。
火力よりは攻撃範囲に偏重していて、限られた空間のみに大火力を生み出すことに関してヴィッテンブルグ少佐に遥か遠く及ばない。
この聖遺物に関して火力不足だとは思わないのだが、贅沢を言うならば範囲より防御が欲しかった。
「だから創造だ、てめえ使えるようになったんだろ? そうとしか考えられねえ。だとしたら、クリストフの野郎じゃねえが自分の仲間が何出来るのか位は知っとかねえとなぁ?」
「仲間じゃ無いだろう、利害の一致した同類」
「同類……ね。ま、てめえがそう言うのは分かってたこった」
ワインの瓶を引っ掴んだエーレンブルグは喇叭呑みに安酒を飲み干すと、薄い木板のテーブルに重厚な音を立ててガラス瓶の底を叩き付けた。
「……だったら此処で殺りあって無理矢理使わせるってのもあるんだぜ」
血の気の多い事だ。
動きの不穏な同志の戦力調査を名目に、温い戦場に対するフラストレーションを解消しに来たのが真相だろう。
瓶が割れていない辺りまだ頭は冷えているらしいが。
ここで割ったらあんまり格好付かないからな。
すっかり蚊帳の外に出されてしまっているエーレンブルグに侍る女二人は少し怯えた様子で不安げにこっちを見ている。なに怒らせてんだ、と言う詰問の色が無ければ、少しは守ってやろうと言う気にもなったのだが。
もっともここでどんな気分になろうとも、今は殺し合いをするつもりは無いし、 可能な限りそれを避けたいとも思っているのだが。
ベルリン市街戦の際は複数の要素が幸いして形成のみでも優位に死合を運べたが、ここで殺り合えばエーレンブルグとて出し惜しみをするとは思えない。
もしかしたら戦闘開始即詠唱なんて汚い事もやるかも知れない、疑うまでも無い事だがこいつならやる。
ならば必然、幾ら俺が上手くやろうとも使わざるを得なくなり、否が応でもあの出来損ないの渇望と向き合わなくては成らなくなるのだ。
弱音になるが未だに立ち直って居ないので、今度もまた自己嫌悪とかそう言った益体無い感情に囚われて数年酒浸りになる事を考えると、出来ればあの創造は使いたくなかった。
「見れば死ぬ渇望かも知れないぞ、瞬間的に発動、周囲を焼き尽くすのみの覇道。ありそうだろう?」
そんな愉快な渇望にこの先お目に掛かる事は恐らく無いに違いないが、通常数分に渡って展開する創造を、ただ一瞬のみに燃やし尽くせばどれほどの出力になるだろう。
たかが最大二千ポンド級までの質量の、燃やし尽くされる一瞬を任意に連続的に作り出すだけのこの渇望よりは頭を使う余地が大いにありそうだ。
「あぁかもな。だが違え。てめえ、パーっと一花咲かせてそれで満足出来るタマかよ。てめえのはもっと救い様がねえ、あの世見て来たみてえな渇望だ」
徹頭徹尾、首尾一貫、微塵にも褒めているようには聞こえないが。
「……褒めてるつもりか?」
白粉を塗ったように白い不健康にも見える表情には、俺がここに来てこいつの顔を眺めている間はずっと、口角を吊り上げた笑いを浮かべている。
殆んど表情がそれで固定されていて、大袈裟な素振りでつまらないと伝えたり嬉しいと伝えたり、ぺらぺらと良く回る口ほどに雄弁で結構なことだが。
救い様がねえ、などと言いながらも何が嬉しいのか、にやにやにやにやと常に凶笑とでも言うべき無言の笑みを浮かべる様は、こいつにとっての"獲物の抵抗"を楽しむ姿にそっくりだ。
これがもう少し気持ちの良い男ならば、好敵手の成長を喜ぶ姿になるのだろうが、こいつの場合はそうとしか言いようが無い。
キモイ。だから顔でしかもてないのだ、哀れなやつ。
「褒めてんだ、素直に喜べや」
ラインハルトには美しくないだのと語られていたエーレンブルグの渇望だが、エーレンブルグ自身は自らの渇望に通常以上に強いプライドを持っている筈だ。
でなければ吸精月光に加えて自らの吸血鬼化まで引き起こす筈が無い。
「……創造にはまだ至っていない」
つまりはこいつが他人の渇望を、たとえ揶揄し尽くした上でとは言え褒めると言う事はそう軽いものでは無いだろう。
そこまで言うなら仕方がないから、これくらいは答えてやろうと言う気持ちになった。
とは言え詳細になにがあったかを語って嘲笑われては耐えられそうにない、間髪入れず殺し合いに発展する自信がある。
小出しに本質には触れられぬように、となるのだが。
「あぁ?」
「あれは所謂、創造と形成の間の余技、ってやつだ。求道と覇道の間でも構わんが」
ヴィッテンブルグ少佐はどうやって無限に広がる爆心を実現せしめたのだろう。
傍目に見ても自己のコントロールに長けた人であるので、渇望をズラしたり全開の創造に対して渇望を小出しにする、くらいは至極あっさりとやってのけそうだが。
「てめえ、またどっちか分かんねえのか。聖遺物もどっちか分かんねえ、渇望もどっちか分かんねえ。メンドくせえ野郎だなぁオイ?」
そう言えば、形成に至った際は事象展開か人器融合かでギリギリまで引っ掻き回したのだったか。
あんな博打まぎれの奇術もどきなど再び仕掛けようものなら瞬く間にミイラに変えられるだろうが。
「全くだ」
俺だって出来れば武装具現の覇道が良かった。
ノートゥング辺りは無いのかと腐れ水銀に尋ねた時
『そんなものは無い。仮にあったとして君には合わんよ、やめておきたまえ』
などと言われた時はどれほど惨たらしく殺してやろうかと考えたほどだ。
この智泉の号砲がまたこの上なく自分の思うままに動いてくれるのがまた腹立たしい。
「……で、なんなんだよ」
そしてこいつはこいつで他人の渇望が気になって仕方無いらしい。
「マジでめんどくせえな、てめえ」
ハエの様にうるさい奴だ、潰したくなる。
話せば話すほどに鬱憤が溜まると言うのに話したところで分かり合える事はないかも知れない、少なくとも今のところ説得出来そうな気配は無い。
骨折り損の草臥れ儲けとはこの事だ。
現時点で殺し合ったとて勝算に欠けるが、少しくらい積もる破壊衝動を満たしてやっても構わないのでは無いか。
決して人口密度の低くないこの町で、俺の渇望がどれほどの悲劇を巻き起こすか予想に難くないが。
「いや、俺は良いんだぜ? ここでドンパチやらかしてよお、無理矢理にでもてめえの殺る気を引き摺り出してやる方が好みだ。保有戦力の把握だとか言ってよお、馴れ合うのはつまんねえからなぁ?」
やはりエーレンブルグの望むところであるのが最大のネックか。
少々痛い思いをさせてやったところで本質のところでマゾっぽいこいつでは喜ばせる結果にしかならないかも知れない。
なんだろう、黒円卓にはこんなのしか居ないのだろうか。どいつもこいつも罵っても喜ぶわ、殴って焼いて吹き飛ばして潰しても喜ぶわで手に負えないのが堪らなくフラストレーションだ、イライラする。
それもこれも全部あの蛇野郎のせいだ。
「……教えてやる義理は無いし、また逃げれば良いだけだ。お前は俺を追い切れない」
形成の間は、だが。
流石に創造を使われて、目の前に針の山を生み出されては追い縋るエーレンブルグを牽制しながら逃げ切るのは不可能だ。
覇道が羨ましい、永続効果に加えてその領域の中であればどこにでも杭を生み出せるなど喉から手が出るほど欲しい能力だ。
自分の形成は棚に上げているが。
「ああ、そうかよ。だったら試してみるか? どっちが先にへばるか、鬼ごっこと行こうや」
余裕ぶって鬼ごっこ等と話している一方で、こいつは両隣の女の肩に腕を掛けたまま動く気配は無い。
一見、油断している様にも隙だらけにも見えるが、百戦錬磨にして動物的な直感を兼ね備えるエーレンブルグが向かい合っている相手に出し抜かれると言う事はありえない。
こちらの不意打ちが通じる状況では無く、そして俺が動いた瞬間に詠唱を始めるつもりだろう。
エーレンブルグの渇望がどれだけの範囲を飲み込むのかは不明だが、100mや200mと言う事は無い筈だ。ここで逃げ切れる、と踏んで逃げ出すには死相がハッキリし過ぎている。
「……」
動けない。
先に薔薇の夜を展開されては一気に不利になるだろう、創造状態のこいつに形成では流石に短期決戦は見込めない。
そして魂の絶対量が少ない以上、他のものに比べても俺は不利なのだ。
総数が少なくとも消耗も少ないため自ら消費する分にはなんら枷にはならないが、恐らく定量を吸い上げるであろう吸精月光では"少ない"事がそのまま危険になる。
下手に動いて奴に詠唱を始めさせたくは無い、だが、一方で自分は創造を使いたくない。
「……」
この駆け引きを楽しんでいるのか、俺の心変わりを待っている訳でも無い筈のエーレンブルグも同様に動かない。
「チッ」
このままではいつまでも埒が空かないだろう、こいつは獲物を得るためなら一週間でも何も食わないで伏せていられる奴だ。
太陽が出るまで待てば気が削がれて有耶無耶に出来るかも知れないが、こいつは別に太陽の下を歩けば灰になるだとか言う問題を抱えている訳では無い。
その気になれば太陽も薔薇の夜で覆い隠せる、日の出を待たずにこいつに詠唱を始められても不利になる。
こうなりゃヤケだ、何が起こったかも分からないくらい一瞬で叩きのめしてやる。
「Wie lieblich sind deine Wohnungen,Herr Zebaoth! "総軍の主よ! 貴方の座すところは如何に愛されているだろうか"」
「ハッ!!」
当然の帰結としてエーレンブルグも詠唱を始める。
例によって俺の情報を知らない分、エーレンブルグは不利なのだ。もしかしたら本当に創造即爆発の一撃型の渇望であれば流石のエーレンブルグもただでは済まない。
ここで座して見て瞬殺の憂き目に会う様な愚を犯す様な戦闘音痴が黒円卓の戦闘屋を名乗れる訳が無いのだ。
「Wo war ich schon einmal und war so selig "かつて何処かで そしてこれほど幸福だったことがあるだろうか"」
漏れ溢れ出す異様な気配にエーレンブルグに侍っていた女も、酒場の客達も言い知れぬ恐怖に駆られてか逃げ出すべきかと腰を浮かすが。
もう遅い、今からでは逃げ切れん。
「Yetzirah── "形成"」
刹那、視界によぎる放電混じりの青い斬線が深く自己に埋没し始めた意思を復帰させた。
斬、と爽快にさえ感じられる良い音を立てて薄くは無い木板のテーブルが足ごと真っ二つに叩き割られる。
恐慌寸前まで脅威に満ちて弾けそうなほど張り詰めていた酒場の空気が、さきほどまでとはまるで別種の空気によって静まり返った。
静かな事では殆んど変化が無いが、凍結にも似た緊張が場を支配する。
見事に、そして完全に気を散らされた。
「そこまで」
耳に懐かしい鈴を転がすような声とともに、俺のそれと同じく見事な金髪が、その腰の辺りで急な動きに翻弄されてふわりと棚引いたのが目に焼き付いた。
視線を上げて確認するまでも無い。
俺とエーレンブルグに割って入れる様な人間など黒円卓にしか居らず、そしていま黒円卓には一人しか剣士は居ない。
「ベアトリスか」
「ヴァルキュリア……」
戦乙女がいつの間にかそこに立っていた。
相変わらず驚異的な身のこなしの素早さだ、俺がその接近に気付くが速いか、既に戦雷の聖剣は形成されていた。
「今こんなところでやり合っても仕方無いでしょう。それとも貴方たち頭に血が昇りすぎてバカになっちゃってるんですか? 斬って吊るして無駄な血の気ヌいてあげましょうか?」
百年ぶりくらいに顔を見た気がすると言うのに互いの再会を喜び合うとか久闊とか叙する時間は、俺がエーレンブルグと交わしたそれより更に毒気があって素っ気無い。
案外お冠らしい。
血の気が多いのはお互い様だと思うのだが。
「ああ? 男二人侍らせて豪気なこって」
ピキリと、破滅的な音を立てて空気が凍り付いた気がした。
ベアトリスが凍り付いたためか、それともベアトリスは凍り付いた様に見えるだけで、その実内から凄まじい名状し難いものを流出させていて、それで周囲の空気が凍り付いたのか。
とりあえず嫁入り前の娘が額に井桁を浮かべるのは自重すべきだと忠言すべきだろうか。
エーレンブルグの蛮勇も過ぎる。
こいつならもしかしてヴィッテンブルグ少佐の前でも同じ事を言えるかも知れない。
吸血鬼だけに棺桶が恋しいのだろうか。
こいつはどうも自分で自分の棺桶を用意するのが好きなところがこいつにはある気がする。
しかも本人がそれと自覚していないために、周りからは幸せそうとか悩みとかなさそうとか酷評を受けているのだ。
自殺するのは結構だが出来れば一人でやって他人を巻き込まないで欲しい。
「……マニアック過ぎるだろ」
大体からしてそっちに繋がるのがおかしい。
斬って吊るしてってどう言う……、いやダメだ、こいつと同じ思考に立って堕落したく無い。
こいつと同レベルなのはシュライバーで十分だ。
「まぁやるんならこいつにしとけや、タマってんだ多分」
そう言いながらエーレンブルグは自分の両隣に居る、目まぐるしい事態の変遷にどう反応して良いか考えあぐねて未だ固まっている女たちを見て、そのあと俺を見た。
その余裕ぶった歪んだ笑みに優越感が見て取れる。
ちょっとカチンと来た、お前純血アーリア人以外は食えない癖になに調子乗ってるわけ?
「あのですね」
「あえて否定はしないがやめてくれないか、自分はモテるけどこいつはモテないからみたいな言い方」
確かにモテないがエーレンブルグとて他人に向かって胸を張れるほどでは無い筈だ。特に百のモブより一の本命が大事だとか考えている筈のこいつの場合は。
「まぁ良かったじゃねえか、ヴァルキュリアが抜いてくれるってよ」
それは魅力的だが今は良くない。
本当に斬られそうな状況で何故そんなにも悠々としているのだろう、既に勝てる勝てないの問題じゃ無くなってると思うのだが。
「……ちょっと、二人とも表へ出なさい」
「どうして俺まで!?」
不当判決だ、再審を請求する。
「外でたぁまた豪気な。ま、ジークフリートが嫌だっつーんなら俺が一人ででも……!?」
「War es so schmählich, "私が犯した罪は"」
「おいベアトリス、お前キレたら出て来た意味分かんねえだろ!!」
「ヒャハハハッ!! これで三人同時ってか? 悪くねえなァ!!」
「お前これが狙いでわざと怒らせたのかよ!? 殺すぞ!!」
「さっさと表出ろーッ!!」
戦雷の聖剣を振り回して暴れるベアトリスをなんとか宥めすかして、結局誰も勝ち得ないにも関わらず平和的に解決し得る呑み比べに落ち着けることに成功した俺は諸方面から讃えられても良いと思う。