老齢、と言うにはまだ若い、壮年の紳士が幾人かの男達を世にもつまらないものを見るかの様に睥睨している。
上等な──絹だろう、燕尾服を麻で作るものは居ない──衣装に身を包んだ男の、その視線は、いかにも生来の乱暴な気性ゆえに食い詰めて、生来の乱暴な気性を活かした職種に就く男達にはとても容認し得るものでは無かった。
彼の、そして彼らの目の前に紙切れが山と積まれて居なければ、だが。
「これで足りるだろうか。なに、紙幣が信用出来ぬならば金などの現物で支払っても構わん」
正気か、と、燕尾服の男の言葉に、目の前の金に目をギラつかせた男たちも一瞬、耳を疑った。
男たちは賞金稼ぎだ。
傭兵、と言えば聞こえが良い。何でも屋と言えばそうだろう。
要するに金の為ならば殺しでも厭わぬ人種。
明日には人目の少ない、薄汚い路地の裏で生ゴミに変わり果て、荼毘に伏すだけの燃料すら惜しまれ、荒野に捨てられてもおかしく無い身。
それに対して即金で、あるいは現物で、莫大な報酬を掲示するのは、誠意だとか仁義だとか、そんな麗しいものでは無く、ただの間抜けだと言って過言では無い。
相手を見誤れば持ち逃げされるに決まっているのだから。
故に、
「あんた正気か?」
そう簡単には信用出来ない。
だからと言って、山と積まれた金を強奪する事も叶わない。
燕尾服の男は丸腰同前。
サーベルらしき刀剣を差して居るし、どうやらそれが飾りで無い事は、男が剣士と呼ばれるに相応しい腕前であるらしい事は、武道の武の字も知らずただ暴力のみに身を任せて来た男たちにも分かる。
だがそんな事は男たちには、注して目を向けるに値するべき情報では無い。
男たちの手元には十二分な"火力"があったからだ。拳銃でも自動小銃でも、小機関銃や対戦車砲まである。
あくまで幻想では無い現実に生きる男たちは、歌劇やお伽話の如く頼りないほどに細い剣の一本で、銃器で武装した人間をばったばったと切り倒す、などとは信じられないからでもある。
今、この交渉の場にはほんの五人ほどしか居ないが、呼べば聞こえる様な距離で彼らの仲間たちがまだ十名ほど控えているのだ。
男たちがその気になればすぐにでも燕尾服の男は身体中に空いた新しい廃液口から煙と赤い液体を噴き出す事になる、それだけの自負とさえ言っても良いほどの自信があった。
であるならば男たちの警戒の理由、その主眼は燕尾服の男の正気、である。
もし狂気に浸っているのならば、彼が持ち掛けた儲け話ごとお帰り頂く事になる。
もちろんあの世に、だが。
それだけ男たちが狂人の持ち掛ける話に、文字通り、ある種の狂的な危険を見ていると言う事だ。
狂人の言う作戦が常人に実現出来る由も無いと言う事でもあるし、血と、硝煙と、狂気の渦巻く世界にあって頭のイカレた人間には関わるな、と言う不文律に従っていると言う事でもある。
逆を言えば、燕尾服の男が未だ正気を保っているならば、それだけ旨味のある話でもあると男たちは考える。
それが正気の沙汰ならば、それはまだ男たちの領域だ。
燕尾服の男の持ち掛ける"作戦"が多少無茶であろうと、自分たちで何とかしてやれば良いのだから。
「正気だと思うがね、なに、たかが男一人、罠に嵌めて殺すだけだ。油断の出来ない相手であるとは言え、いつもの君らであればお安い御用では無いかね?」
それも臆病風に吹かれて居なければだが、と付け加えて燕尾服の男はくつくつと薄く笑った。
その様子からして、決して男たちを信用していると言う訳では無いのだろう。
となれば莫大な報酬の訳は、燕尾服の男が、彼の男を殺す事にそれだけの価値を感じている、と言う事だろうか。
直観的に、男たちはこれが私怨の類いである、と理解した。
そして燕尾服の男が、明日はどうなっているか甚だ怪しいとは言え、今日の所は未だ正気でいるらしい、と言う事も。
この時点で男たちは自分達が騙されている可能性を捨てている。
仮に騙すつもりなら魔窟にも等しい男たちの寝ぐらに単身乗り込んで現金を大量に積む等と言う、狼に山羊を狩らせるために羊の肉をくれてやる様な事はしないだろう、と言う判断。
そんな事をする人間が居れば間違い無く狂人だろう、と。
もし狂人なのであれば先の直観と矛盾している、男たちはこれまで自分達を生存せしめて来た直観の方を信じた。
男たちが黙考を始めると、それを敏感に察してか燕尾服の男も表情を抑え、押し黙る。
先ほどから男たちを代表して交渉に望んでいる一人が、燕尾服の男から受け取った薄茶けた写真を見た。
正面からでは無く、どうやら離れたところから隠れて撮影されたらしき写真は、どう見ても被写体本人の了承を得てのものでは無いだろう。
男たちにはあまり見慣れぬ、しかしこの辺りであればどこにでもある様な荒廃した街並みを歩く男の姿がそこに写されていた。
短く切られているにも関わらず跳ね上がった黄金の髪と、薄暗い赤に染まった瞳が目立つ長身の男だ。
写真は遠くから望遠で撮られたのだろう、男は写真に対して明後日の方を向いているし、撮られた範囲に対して男の割合が小さかった。
燕尾服の男からはその名も聞かされている。
男たちの間でも良く知られた、飛び切りの賞金首の名だった。
「この時代遅れの金髪ナチ公を、奴ら言う所のヴァルハラ送りにしてやれ、と、ただそれだけで良いんだな?」
字面こそ修辞と皮肉に満ちているがいずれにせよ殺せば良い、と言う事で、それは男たちにとっては、まさしく朝飯前の簡単な仕事だ。
彼らが受けた注文は、殊に念入りに、肉片さえ残すな、と言う事だったが、それも目の前にある莫大な報酬の前では大した違いは無い。
豚の屠殺業者が莫大な金と引き換えに牛の屠殺を依頼される、その程度の差だ。牛刀など買えば良い。
「ヴァルハラ送りでは困るのだがな。可能ならば魂さえも遺すな、と言う事だよ」
そう言うと燕尾服の男は、今度はクッと軽く鼻で笑った。
男たちにはそれが何なのか知る由も無かったが、どうやら何か皮肉でも利かせた様であった。
男たちは無言でお互いの顔を見合わせる。
顔色だけで全員の意思の確認は終わる、そも、その場で乗り気で無い者など居なかった。
「まぁ確かに、お安い御用だよ。……その話、乗るぜ、フォーゲルヴァイデさんよ」
燕尾服の男が藪を突いて蛇を出さねば良いがな、などと呟いたが、美味しい儲けばなしに沸く男たちの耳に届く事は無かった。
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陽の昇り始めた東の空を眠気で腫れぼったい目蓋を指先で揉み解しながら朝の支度を始める。
ヒビの入った今にも割れそうな鏡を見ると良い加減見慣れた顔がそこに合った。
煌めく金色の髪は酷い癖っ毛で寝起きなどは特に逆立って居る事が多い、今朝も例に漏れず逆立ち獅子の如き様相を呈していた。貴重な水を使って念入りに梳かし付ける。
自慢では無いが整っていると言って良いだろう顔は、ライヒハートなんかと並ぶとそうそう映えるものでは無かったが、それでも十分に女子の目を惹いていたと思う。
あまり持て囃された覚えは無いのが不思議だ。目付きが悪いのだろうか。
身長はおよそ180cmほど、詳しくは覚えていない。三代遡ってもアーリア人を標榜していたSS隊員達の中にあっても、突出はしていないもののそう引けを取る事は無かったのだから十分に背の高い方だろうか。
そんな見慣れた自分の姿の中で一つだけ見慣れないものが、この赤黒く染まった赤銅の瞳だ。
渇望に近付き本質に近付いたためか、前世の黒と今世の青がよく分からない具合に混ざったか、それとも獣に迫らんとする執念のためなのか。
赤眼と言うものは一般的にもあまり気持ちの良いものだとは思われていない様だが、実際に自分の目が赤く染まってしまうと何とも苦々しい思いが抑えられない。
「はぁ、やめやめ、馬鹿らしい」
毎朝の様にこんな事を考えていれば馬鹿らしくもなるだろう。
ここまでは半ば習慣と化した日々の通例であった、別にこれが無いと一日が始まった気がしない、と言うほどでも無いが。
今朝の朝食は極めて簡単なもので済ませる事にする、すなわち乾パンとコーヒーとザワークラウト。
ちゃっちゃと水を沸かしながらコーヒーメーカーをセットして淹れる、キャベツと乾パンは鞄の中だ。
巨大なクラックが上階から下階に向けて走る壁に持たれ掛かる様に置かれている棚、更にその上に置かれた鞄から餌を取り出して食卓、と言うのもおこがましいボロテーブルに並べる。
食べる、不味い。
慌てて淹れておいたコーヒーで流し込んで一息吐く。
先日この酢キャベツを買い溜めして置いたのは果たして正解だったのだろうか、酢味と合わないからか、あまり美味く無い。
俺がキャベツ嫌いなだけだろうか、誰だ人様に向かってキャベツ野郎などと言った奴は。ドイツ人みんながウサギのごとくキャベツ齧ってると思ったら大間違いだ。
やはり味噌にしておくべきだった。魂の半分は日本人で、日本人の魂は味噌だ。乾パンに付けたって多分美味い。
結局インスタントコーヒーメーカーだけが我が身に唯一残された心の友であった。
しかしそれに関しても、しばしば安っぽい苦味につい砂糖の甘みが欲しくなるのに、そんな気の利いたものは用意できないと言うジレンマを抱えている。
基本的には酒も呑めないクセに不味いものはしっかりと不味いと感じる、全くもって不便な体だ。
食える味さえしていれば多少汚れていようと、それこそ毒物でも問題無く食えるのが幸いなのか不幸なのか。
メルクリウスはこの辺りもなんとかするべきだったんじゃ無いだろうか、霞食ってりゃ生きていられるとか。
極端な期間で無ければ食わなくとも生きていけるのだから不味いものは食べられなくても構わないのに……、それならそれで諦めもつくと言う物だ。
闘争の場を探してか、それとも兵士向けの雑誌など書いていた時期の名残か。
近頃はあぶく銭を使い潰しては戦場に赴くというダメな生活が続いている。
仮に戦闘に巻き込まれても逃げれば悠々と逃げ切れられる様な状態で、戦闘など殆どしていないから、日々心の赴くままにカメラのシャッターを切り、適当なところでネガを売ったり、フィルム代にも成らないと涙を呑んだり、ほんの気紛れでボランティアに協力したり、お礼だと言って貰った、温かいが美味くも無いスープに涙を呑んだり。
やはり碌な生活はしていない、これが生きる死者の宿業か。
あまりにも充実からかけ離れた生活を振り返るとやはり、あの時別れたベアトリスに着いて行くべきだったかと後悔する事もある。
ブレンナーや、さりげなく多才なシュピーネを除けば、例外なく生活無能力なあの連中に日々の食い扶持が賄えるとは思えないので、多分オデッサだかなんだかに寄生してタダ飯をかっ食らっているに違い無いのだ。
悔しい。
日頃はこんな事はいちいち気にも留めないが、味覚的に飢えてきたためか、タダで他人が作った美味い食い物が食べたくてたまらない。
……当分、そんな機会は無さそうだが。
孤独な身空を嘆くも、自らの少々、他人好きしないらしい性格が災いして、今すぐ"温かな食卓"だの"賑やかな食卓"だのを得るのは不可能だろう。
情けない。
まだ眠気が覚め切らないのか、うっすらと涙の滲む目に手を当てて温めながら、カメラと鞄だけ持って今にも崩れそうな準戦闘区域の寝ぐらを出ると、まずは"聞き耳を立てて"今すぐにドンパチやらかす気配は無いと確認だけして歩き始めた。
やはり闘争の場を求めて居る訳では無いと思う。
強くならなければ、と言う危機感はあるがエイヴィヒカイトは努力すればどうこう、と言うよりは時が来たならばどうこう、と言う成長の仕方が大半だと思う。
だから未だ騎士団最弱級である事にも、あまり焦りはなかった。
もちろん、魂の絶対量が絶対的な戦力差足り得るのは分かっている、既知にあるシュライバーを思えば疑いようも無いだろう。
潤沢に過ぎる魂を全て渇望の運用と損壊した肉体の再生のみに費やす常軌を逸した行為。
防御を捨てて再生に回すなんぞどんだけマゾなんだ。痛くないのだろうか。
伊達にあのドS愚兄のペットに自ら進んで志願したわけではないらしい。
幸か不幸か、俺の場合はこのエイヴィヒカイトを扱うにあたって、極端に燃費が良い魂を所持しているらしくその維持に悩んでいる訳では無い。
であるならばわざわざ戦場に赴き手を煩わしてまでそこいらの雑魂を蒐集する気にはなれない。
智泉の号砲特有の難点もある。
妙に霊的装甲が薄いのだ。
どうにも航空機の宿命なのかなんなのか、確かに二桁に乗ったばかりの極少数の魂では殆んど防御力が得られないのも頷ける話ではあるのだが。
恐らく、俺では例え創造位階、加えて十八万、それだけの数を揃えたとしてもヴィッテンブルグ少佐より遥かに劣る硬度しか得られないのでは無いか。
元より、偽槍を顔面で受けるなど冗談でも真似したくは無いが。
いずれにせよ弱装甲が定め付けられた以上、速度を向上させるしか無いと思えど、形成位階のこの身では幾ら血反吐をブチまけて粉骨砕身しようとも精々が音の倍速、三倍速が限度。
ならば道は一つしかないのだが──
唐突に吹いた砂混じりの乾いた風を浴びて、ふと我に帰ると大きく溜息を付く。
目下、数年来の悩み。
自分はこのまま自らの渇望に目覚めて良いのだろうか。
そんな感情の源泉がどこにあるのかも分からない不安感。
まるで行き先の分からぬ船にでも乗せられている様な気分だ。
なまじ船──エイヴィヒカイトの術理──が強固なために恐らくは必ず何処かに辿り着くであろう事が、また逆に不安感を煽る。
創造位階にはまだ、到達していない。
この到達は、メルクリウスの言った到達に値するのだろうか。
今日は何をしようかと考え歩く道すがら、奇妙な噂を聞いた。
付近の住民区がここ数日で突如としてゴーストタウン化したらしい、今そこに残っているのは何時から居たかも定かで無い荒くれどもだけだとか。
ここから歩いて何時間も掛からない、との事で話してくれたものは次はこの一帯かも知れない、と不安気であった。
妙に気になる。
ゴーストタウンそのものは別に珍しくもなんとも無い、が"突如として"と言われると多少気になるのが、元、が付くとは言え、人間の性と言うものでは無いだろうか。
幸い、興味本位で地雷原を嗅ぎ回ったとしてもちょっとやそっとの危険では危険足り得ぬ以上、そこに介在するキナ臭さは無視出来る。
いかにも胡散臭い、と言う感覚はあるが身近な危険に対して疎くなっているが故か、その先にあるのが甘い花蜜なのか、それとも醜悪なハエトリソウなのか判別が付かない。
運命の導きだ、などとでも言われれば信じてしまいそうだし、罠だ、と言われたその通りだろうと思う。
全くもって痒いところは痒いままの"魔人"様だ。こう言った詰まらない点では人間であった頃とさほど変わらないか、劣るかと言った事が多い。
吸血鬼同様、余計な燃料が増えている分、退化していると言っても良いのでは無いだろうか。
「……様子見に行くぐらい、構わないか」
考えた末に、呟いた。
危険、ではあるがどうもそれが致命的になるとは思えない。
ならば恐らくベイやシュピーネが手をこまねいて俺を待っている、と言う訳でも無いのだろう。
とすれば、そこに居るのは普通に人間のみ、と言う事である。
生身の人間に狙われる様な覚えは無いし、油断でもしない限りはまた無傷で帰って来れるだろう。
俺はその状況を舐め切った上で、問題無いと断じた。
いずれにせよ退屈な五十年を前にして、こうも面白そうな話を聞いて黙っていると言った選択肢など頭の片隅にも無かったのだが。