「それにしても、解せんな。君は他の者と違って少々諦観的な面がある故に、未知に興味を持つとは思って居なかったのだが」
1944年11月20日明朝、某所。
「自らを死んだと言う事にしてまでそれを求めるからには、それなりの理由と言う物があるのではないだろうか。それを知りたい、と言うのは一種人情であるとも言えるだろう」
思い返してみれば充実した人生だったと思う。
「何故、それを知っているのか。聞いても良いかな」
だから、ここいらで諦めも付くと言う物だ。
「神ならざる、とはこの場においては嫌味に過ぎないかも知れないが、それでも神ならざるこの身には知らぬ事もあるのだよ。で、あってもそれが既知で無いと言う事にはならぬのだが」
良い加減に覚悟を決めて歯を食い縛って向き合おう、この幻想と。
「……そんな事もあるか。これは久しく忘れていた、あぁこれが予想外と言うのか。既知には違いない、違いないが今のこの心情、ゆめゆめ忘れぬよう心掛けよう。お見事、非凡ならざる常人の身で私にこの様な感動を齎したものはそうは居ない。喜びたまえ、君の望みを叶えよう。
悲劇の助演者、報われぬ原光ウルリヒト・ブランゲーネ。
君が"到達する事は決して無い"だろう」
自分が死んだ翌朝、こうして悪魔との契約を結んだ。
2010年某日、日本。
私はここ数年の例にも漏れず、学ばず、腐っていた。
社会に出る事も出来ず、志した学問の道には至らず、だからと言ってニートを気取れるほど開き直っても居ない。
才能が足りない、実力が足りない、努力が足りない。
言い訳にもなっていない自責や自嘲は長じてからの習慣であり、幼少期は出来の良い兄同様、恐れを知らぬ傍若無人とも天衣無縫とも言える性向をしていた事から、もしかすると十分な才能も有って未来に希望も有ったのかも知れないが、零落著しい今になっては矢張り言い訳にもならないだろう。
二月の空気は未だ冷たく、コートも纏わない寒々しい格好はまだまだ軽挙で有ったかも知れない。乾いた風が妙に突き刺さり、薄いのか厚いのかよく分からない面の皮に痛痒すら感じる。
近所、と言うには少々遠いコンビニは真夜中の暗い道中もあって不安を煽り、自分の道行きすら暗示している様にさえ思われる。ネガティブな思考は矢張り自嘲と違わず重大な悪癖である自覚は有るが、自覚があるからこそ改善され得ぬ悪癖足るのでは無いか。
やはり下らない自虐、反省。
それにしても、この詰まらない内省も、この暗澹たる道も、このところずっと
全てが既知感に満たされているのはどう言ったわけか。
影響されやすい性格なのは否定しない。
先頃クリアしたゲームは既知感が一つのテーマだったのだから、それに影響されたのは十分に考慮されうるだろう。
コンビニに入って漫画を軽く立ち読みするが、ただの一つも例外無く以前に見た様な、既に知っている内容で有ったため、流し読みもそこそこに熱いコーヒーだけ買って帰る事にする。
財布を見ると顔を除かせる一枚の福沢諭吉、小銭の一枚も無くコンビニに来るのに小銭を足して来るのも忘れるかと思わず自嘲。
「すみません、大きいのしか無くて」
とわざとらしく済まなさそうな顔をして見せて一万円札を出すが、内心ではそれを崩す事が少々悲しい。
さようなら一万円札、缶コーヒーは俺が飲み干す。
「あぁ、済みません、五千円無くて小さくなってしまいますけど良いですか」
とこちらもまた先の私と同じ様に済まなさそうな顔をして千円を数える店員の男性、「全然良いですよ」と軽く答えながら、と言う事はコイツも今内心では一万円なんかコンビニで出しやがってメンドくせえ、なんて考えてるのかなと邪推してしまった。
なんて嫌な奴だよ自分。
「ではこちら大きい方、一、二、三、四、五、六、七、八、九千円と、880円になり……あぁっとゴメンなさい」
そう言いながら店員は、私が札を直しながら小銭を貰うのにもたついたためか一枚の百円を取り落としてしまった。明らかに落としたのは私であるのに謝るのはどう言う事だろうか。どこでもそうなんだが、徹底された無個性なマニュアルに感心すら覚えながら百円を拾う。
「大丈夫ですか」
「あぁ、大-ー
既知感
--大丈夫です、失礼。……ああ、失礼ついでに一つ、貴方とは前にも一度こうした事がありませんでしたか?」
もちろん、彼には怪訝な表情と間の抜けた音を返されたのみであった。
この既知感は一体どう言う事なのか。
あまりにも非現実的な程に強く、だからこそ、実はこの世界は彼の世界で自分の知らないところで何者かが永劫と戦っているのでは無いか、等とあり得ない事すら考えてしまう。
あるいは-----------------------------------。
やはりあり得ない、思わず誰も居ないのに大袈裟に苦笑いを漏らしてしまった。
しかし、目の前に濃厚な死の気配を纏った車、案の定トラックが迫って来ている事すら、既知で有るのは異常に過ぎる。
自らの死が揺るぎないと言う事さえ、既に知っていた、のも。
もっとも、今死ぬと言うのであるなら、それはそう言う事なのだろう、と。死に特別な恐怖は無かったためか、心残りが無い訳では無いものの受け容れ難い訳では無かった。
死の前兆であったと思えばこの既知感も悪くない。
そうして甘受した死の先が、1905年のドイツで有ったのはどう言う皮肉だろうか。恐らく居るで有ろう神に、やってくれるじゃ無いか、と悪態を付いても私は悪く無いだろう。
彼の教えはどうにも肌に合わなかったが。
彼の日までの道程に関して細に入り思い返そうとは思わない。思えないが正しいか、前世より遥かに出来る兄を持った私はまた腐るところだったのだが幸か不幸か、今生はおよそ既知の範疇で有ったために人生の道行きで努力する事は無かった。
どうやら前世よりも遥かに頭が良い気がするし、背丈は高く、見事な金髪と深い青の瞳は、このドイツにあっても偉く人気を博すと思いたい。
苦労は前世の比では無かったが、予め答えを知っている問題など大した問題でも無いだろう。
予定通りに小さな出版社を立ち上げ、予定通りに見るべきところの無い雑誌を刊行し、予定通りに余暇をこの輝かしき第二の生に使い込んだ。
彼の日、アーネンエルベに向かったのは如何にも予定調和的だったと言えるかも知れない。
民俗学、人類学に興味が有ったし、悪名高いナチスドイツが聖槍を有しシャンバラや不死の妙薬を血眼になって探していたと言うゴシップが真実で有るかなど興味は尽きなかった。
実地検証が出来るなんて俺は世界でもっとも恵まれて居るのかも知れない。
「取材目的の見学ぅ? この御時世にお気楽な事ね、新聞屋さん?」
赤い髪が特徴的な思わず惹き込まれそうな美人さんが胡散臭い者を見る様な目で俺を見た。確かにあまり好ましい行為では無かったか、かと言って直接戦果に貢献出来るか甚だ疑問なアーネンエルベの人間に言われたくも無かったが。
余りと言えば余りな態度で有るが本職の受付嬢では無く、たまたま受付の近くに居たと言うだけで代役を引き受けてくれているらしいのだから仕方無い、のかも知れない。
「まだ戦争は始まっていないじゃ無いか、暇な内は何してても良い様な仕事でね。少しくらい良いだろう?」
「はぁ、まぁ良いけどね。見られて困る様なモンもそうそう有る訳でも無いし。でも監視は付けさせて貰うわよ? ハイエナを野放しにしておく程、気楽にはなれないのよ、どこかの誰かさんと違って」
「ははは、キッツイなお姉さん。そう言うのも嫌いじゃ無いけど。ところで貴女とは以前どこかで会った事が無いかな?」
さも面倒事である、と言う表情を隠しもせず許可証を発行する彼女に俺なりのスマイルと誘いを掛けて見たが、返答はひたすらに冷たい視線だったので黙る。
古今東西、女性は恐ろしい者で有るらしい。そろそろ六十年近くに渡る人生でまた一つ大事な事を学んだ私は許可証を受け取り、彼女の指示に従って監視役サマに会いに行く。
暇そうな奴が居るから、とまたずいぶん適当な案内でそこまで勝手に行け、とはそれで良いのかアーネンエルベ。
あの女性が極端なだけであると思い直し、確かにだらしなく背もたれに寄りかかり文庫本片手に惚けている様に見える、いかにも暇そうな奴を見かけたので話し掛けた。
彼がゆっくりと振り向く。
「取材の申し込み? その監視? なんだって俺がそんな事」
見間違える訳も無い。
「アンナの奴、面倒な事は他人に押し付けやがって」
あれと同じ顔、同じ声。
「あんた、どうしたんだ? 顔色が悪いみたいだけど」
そもそも、俺をこの世界に読んだのは"あれ"に違いないんだから。
「あぁ……失礼。名前を、聞いても良いかな?」
この邂逅もあるいは必然、既知であると。
「ライヒハート……ロートス・ライヒハートだ。あんたは?」
あぁ、これは来世じゃ無い、転生でも無い。正確を期するならばここはパラレルワールド。
何もかも既知であるのも当然の事。
ここは既知世界なんだから。
それから少しして宣伝省にカール・クラフトなる怪人物が就いた、と言う噂を聞いた。
後の1944年11月19日。
兄が死に、ライヒハートが死に、民族浄化をそれと無く邪魔をしながら俺は決意をしていた。
そも生前、死の間際『あるいは彼の世界から本来交わる筈の無いこの観測世界に既知が流れ出したのでは無いか。』と考えたのでは無かったか。
まるでどこかから持って来たかの様に。
で、あるならば俺と言う存在が生まれた原因は自明の理。レゾンデートルに掛けてあれに付き合うのも良いだろう。
前世よりの渇望だってある、十四歳の少年の様に自分の渇望が創造されたらなんて考え、当時は下らないと卑下したそれもこの既知世界では現実化するだろう。
ヴァルハラに囚われた兄も放って置けない、友達の誼だ、ライヒハートだって助けてやりたい。
だから、その日俺は新聞の刊行ペースが落ちた理由を問いに来たSS隊員を"説得"し自分は死んだ事にした。焼けた無縁仏でもあればこの戦争の時代でバレる事は無い、なにより俺が今日死ぬ事は既知なんだから。
晴れて二度死んだ俺は彼のトリックスターと取引すべく一路ヴェヴェルスブルク城に向かった。ベルリンから実に400km以上の道程、仮にここに奴が居なければ大変面倒な思いをしなければならない。
「聖槍十三騎士団と言えばヴェヴェルスブルク城だよな……。居るんだろ? ヘルメス・トリスメギストス」
本音を言えばあれがどこに居るのかなんて俺は知らない。探しても見つかる類いのものでも無いだろう、だからそれらしい所に行けば待ってるんじゃ無いか、そう思ったのだ。
--入り給え、登城を許可しよう。
そんな声がした気がして俺は城の正門を潜った。
元から有った古城を改修して黒円卓の本拠地に仕立て上げられたヴェヴェルスブルクは今の主の権威を示してか、壁の一枚、建材のひと欠片さえ畏ろしく威圧感が有る。
そんな物に囲まれて、更に威圧感を齎す、恐怖さえ齎す黒円卓、その十三番目の席にそれは鎮座して居た。
「神の居城、と言うにはちと粗末なんじゃないか? ヘルメス・トリスメギストス」
そんな強がりを見せながらゆっくり反時計回りに近付いて行く。
「正直に言うと、驚いているのだよジークフリート君。君はご両親から頂いたその名に反して恐れと言うものを知る賢しい少年。君への評価はそんなものに過ぎなかった」
ゆっくり近付きながらその席に辿り着くと「見込み違いだな、俺は今も自分が怖いよ。なにやってんだ俺」と吐き捨て席に着いた。
「確かに、見込み違いは間違い無いようだ、恐れを知る者がその席に着く事は叶うまい。知っていて座れるならなおの事」
それを聞くと自分の座った椅子の背もたれを見てさも驚いたと言う顔をして見せて言った。
「おや、あんたらのボスの席じゃないか、ヒムラーだっけライニちゃんだっけ。座り心地は悪くないけど霰のルーンがブサイクだな、書き直して置くべきだ」
じゃ無いと俺みたいな奴が勘違いして座るかも知れないだろう。そう言って挑発した、ここまでは予定通り。
「ああ、書き直して置くとしよう。済まなかったね」
「さて、早々で誠に済まないがこの無骨な城では出す茶の一杯も無い。他の団員も今は席を外していてね。用件を伺おう」
俺と奴以外誰も居ない円卓を見回して奴はせっつく。自分で人払いしたんだろうに良く言うぜ、口に出す程でも無いが思わず毒づく。だがここからが正念場だろう、心なし居住まいを正して肝を据える。ここまで来たらどうせもう引き返せ無いんだから。
「エイヴィヒカイトがね、欲しい」
奴の顔を見ながら言った。あいも変わらず表情の読めない奴だが、やはりその表情が揺れる事は無い。第一の席に座った時もわざとらしく驚いたような顔をして見せた様に思われた、程度だ。
ライヒハートのそこそこ豊かな表情が懐かしい。無愛想で有ったがその実、そう言った表現を惜しむ人間では無かったと思う。そこいらは刹那を愛するアーネンエルベの人間らしいとも言えるのだろうか。
「はいそうですか、と言えるほど簡単なものでも無いのだがね。しかし君が真に欲しいと言うならば私としてもやぶさかでは無い、差し上げよう。だが」
「タダで、とは行かないか?」
「然り、君は私の古い名を知っているようだ。ならば古くからの原則に従い等価交換をすべきかと私は判断する」
茶番だ。奴は俺が既知感に塗れているのを既に知っている筈。こちらから言わせて貰えば相手の溜めに溜めた貸りを徴発して居るのだ。俺がどう言う者なのか、全てを知っている筈のお前が等価交換等と言い始めるならば、
「未知の結末を見せよう、座の主よ。あんたの自滅因子に従って」
それでもこいつは少し嬉しそうにして見せた気がするだけだった。