―――――これは、ボクが麻帆良へ出発する2週間前の出来事。「…………はぁ」魔法学校を卒業したボクは、ウェールズの家に帰って来ていた。溜息を吐きながら、ベッドに倒れ込む。久しく忘れていた故郷の匂いに、少しだけ心が軽くなった気がした。「…………はぁ」けれど、次の瞬間には再び、あれからずっと感じている重苦しい気持ちが戻って来る。ボクを悩ませているのは他でもない、魔法学校の卒業証書に現れた、偉大なる魔法使いになるための修行内容だった。証書に現れた課題は、たった4語の簡潔な文。"A Student in Japan."つまり、日本の学校で学生をしろということ。普通だったら、そんなに思い悩むことのない、ありふれた修行の内容。だけどボクは、そんな"普通"とはかけ離れた人生を送っていた。女の子として生まれたボクは、物心ついた頃から"男"として生活することを余儀なくされた。大人たちは詳しい理由を教えてはくれないけど、どうもそうしないと、ボクの命が危ないらしい。もちろん、最初の内は嫌々男の子としての生活を送っていた。けれどそれは、6年前のとある冬の日、本当にボクの身を護るために必要なことだったと思い知らされる。だからボクはこれからも、それこそ『偉大なる魔法使い』になるまでは、男として生きて行かなくてはいけない。そしてそれこそが、今ボクを悩ませている最大の要因だった。「…………知らない土地で、男の子ばかりの環境で暮らすなんて…………」ボクの修行先に選ばれたのは、日本の麻帆良という学園都市。何でもお祖父ちゃん…………メルディアナ魔法学校校長の知り合いが経営している大型の教育機関らしい。基本的に全寮制のシステムを採用しているため、ボクはそこに編入することになれば、寮生活を余儀なくされる。そしてボクは、男性ということになっているので、麻帆良に行けば、必然的に男の子ばかりの環境、即ち男子校に編入させられることになってしまうだろう。これまで曲がりなりにも、ボクが男性として生きて来られたのは、知り合いが多く居る環境で、お姉ちゃんや幼馴染のアーニャがいろいろとフォローしてくれていたからだ。それが突然、そういった知り合いのいない環境で、そして誰も頼れない環境で男として暮らしていく自信が、ボクにはどうしても持てなかった。「だけど、修行を放棄すると、偉大なる魔法使いにはなれないもんなぁ…………」そうでなければ、ボクはこんなに悩まず、あっさりと麻帆良行きを断念していただろう。けれどボクには、どうしても偉大なる魔法使いにならなきゃいけない理由があった。「父さん…………」10年前に行方不明となった父。殆ど顔も覚えていない父さんだが、それでも周囲から、その名声は何度も聞かされてきた。曰く、無敵の魔法使い。曰く、赤毛の悪魔。曰く、千の呪文の男。聞けば聞くほど募って行く父への憧憬。そして、きっとボクが一人前になれば、そんな父にもいつか会えるような気がしているのだ。だからボクは、どうしても偉大なる魔法使いにならなきゃいけない…………。けれどそのためには、男子校に編入して、しかも1人で無事に卒業するまで頑張らないといけない。ボクにそんなことが出来るだろうか?そう考える度に、胸の奥で不安ばかりが募っていく。アーニャもお姉ちゃんも、ボクにそんなたいへんな修行は無理だと思ってるみたいだし…………。正直、今回ばかりはどうにも挫けてしまいそうだった。こんなところで、足踏みしてる場合じゃないんだけどなぁ…………。――――コンコンッ…………『ネギー? 入るわよー?」「お姉ちゃん? どうぞ?」控えめなノックの後、ドアの向こうから聞こえて来た声に、ボクはそう返事をする。ゆっくりとドアを開いて入って来たのは、声の通りネカネお姉ちゃんだった。良く見ると、お姉ちゃんの右手には1通のエアメールが握られている。「はいこれ。タカミチさんから、あなた宛てに手紙が届いていたわよ」持っていたエアメールを差し出して言うお姉ちゃん。それを受け取って裏面に視線を走らせると、そこには達筆な文字で『Takamichi.T.Takahata』と差出人の名前が刻まれていた。「タカミチから手紙なんて久しぶりだなぁ。どうしたんだろ?」最後に会ったのはいつだったっけ?そんなことを思いながら、便箋を開こうとするボク。すると突然、お姉ちゃんがこんなことを言い出した。「ネギ…………魔法学校では、お姉ちゃん取り乱しちゃったけど、お姉ちゃんはネギが決めたことなら、どんなことでも応援するからね?」「お姉ちゃん…………」優しく微笑んでくれたお姉ちゃんの様子に、ボクは思わず目頭が熱くなった。そんな笑顔を残して、お姉ちゃんは入って来た時と同じようにゆっくりドアを締めて、ボクの部屋を後にする。お姉ちゃんの後姿を見送って、ボクは改めて、タカミチからのエアメールを開くことにした。便箋から手紙を取り出すと、そこには前に会った時と殆ど変わらない姿のタカミチが映し出される。『やぁ、ネギ君。久しぶりだね? 元気にしてるだろうか?』「タカミチってば…………」…………今の状況は元気とは言えないかな?とはいえ、友人から海を越えて届いた手紙に、少しだけボクの心は楽になっていた。『今回手紙を送ったのは、例の修行の件でね。きっと随分思い悩んでるじゃないかと思って…………』さすがは中学校の先生をしているだけあって、タカミチは人の気持ちの機微に敏感みたいだ。久しく会っていないボクの心情を、こうも慮ってくれるなんて…………。『簡単に決められることじゃないと思うし、十分に悩んでくれて構わない。けれど1つ覚えていて欲しいことは、君は決して1人じゃないということなんだ』「…………1人じゃ、ない…………?」タカミチの言葉に、思わず首を傾げる。そんなボクの様子さえ彼は予見していたのか、優しい笑みを浮かべて、タカミチはこう言葉を続けた。『何かあればボクや学園長が出来る限り協力する。正直、今君が置かれている境遇は、僕らのエゴが作り出したようなものだからね…………』「タカミチ…………」申し訳なそうにするタカミチの映像に、ボクは再び涙が溢れそうになった。出来ることなら、今すぐに電話してでも、彼に教えてあげたい。ボクはタカミチや他の大人たちが、ボクを男として生活させてきたことに、感謝こそすれ、恨んでなんかいないということを。タカミチたちが決してエゴなんかじゃなくて、ボクを思いやってこの境遇を作ってくれたことを、ボクは知っていると。そんなことを思いながら、ボクはなおも続くタカミチのメッセージに耳を傾けた。『とはいえ、ボクや学園長だけじゃ行き届かない点も多いと思う。そこで、君が安心して学生生活を送れるよう、もう1人協力者を用意することにしたんだ」「協力者?」『同封した写真の生徒なんだけど、ちゃんと届いてるかな?』タカミチに言われて、ボクは便箋の中に、1枚の写真が同封されていたことに気が付く。慌てて写真を取り出すと、そこには黒いカタナを右手で肩に担ぎ、楽しそうに笑う学ラン姿の男の子が写っていた。『彼は犬上 小太郎君と言ってね。君が通うことになる麻帆良本校男子中等部の学生で、君とは同級生なんだ』「ボクと同級生なんだ…………もっと大人っぽく見えるけど…………」『君が修行を受けると決意した場合、男子寮では彼と同室になってもらう予定だ』「へぇ、この人と相部屋に…………って、えぇぇっ!!!?」思わず叫んでしまったボク。だ、だって、こんな見ず知らずの男の人と相部屋だなんて…………。しかも何か、この人メチャクチャ強そうだし…………。とゆーか、どうしてカタナなんて持ってるのか分からないし、しかも若干目つきも悪いような気が…………。その人が相部屋だと聞いて、余計にボクの麻帆良行きに対する意欲が弱まったのは言うまでもない。『まぁ、写真を見ただけだと、余計に麻帆良行きが憂鬱になっちゃいそうだけどね』「…………すごいねタカミチ。本当にその通りだよ…………」そしてそう思ったんなら、どうしてわざわざ写真を送ったりしたんだろうね?けれどタカミチが続けた言葉は、さらにボクの予想を上回るものだった。『けど心配には及ばない。ボクは麻帆良の生徒で、彼ほど真っ直ぐで誠実な少年を他に知らないからね』そう言って笑みを浮かべるタカミチの様子は、本当にこの写真の人を心から信頼してる素振りだった。『きっと彼なら、君の良き理解者になってくれると思う。そもそも、普通に同じ学校に通った場合、彼に対して君の性別を誤魔化し続けるのは不可能だろうし』「? どういうことだろ?」再び首を傾げるボク。タカミチはそれも分かってたみたいに、すぐにその理由を説明してくれた。『彼は狗族…………西洋で言うところの狼男(ヴェアヴォルフ)と人間の間に生まれたハーフでね。人並み外れた嗅覚を持ってるから、きっと匂いで君の正体にも気付いてしまうと思うんだ』「へ、へぇ…………ま、麻帆良って色んな人がいるんだなぁ…………」『そんな訳で、後からバレて騒ぎになるより、彼には最初から理由を説明して協力してもらった方が良いと思ってね』なるほど…………そういうことなら納得だ。だ、だけどそれって本当に大丈夫なのかな?狼男のハーフって、それってかなり忠実にオオカミさんだってことだよね?お、お姉ちゃんやアーニャも『男はいざとなったらオオカミだ!! ウルフだ!!』って騒いでたし…………。タカミチの説明を聞いて、余計に不安が増したボクだった。『まぁもちろんすぐには信用できないだろうね。だけど、これでも小太郎君は優秀な魔法使いなんだよ? 恐らく今の麻帆良にいる魔法生徒の中では、実力は最強と言って間違いない。きっとネギ君も、彼から学ぶことは多いと思うよ?』「が、学園最強!? …………い、イマイチどれくらい凄いのかがピンとこないけど、ともかく優秀なことは間違いないんだよ、ね?」人は見かけによらないって本当なんだ…………。タカミチが太鼓判を押すくらいだし、きっと犬上さんは本当に優秀な魔法使いなんだろう。それなら確かに、ボクもいろいろと学ぶところがあると思う。だけどやっぱり、良く知らない男の子と一つ屋根の下でっていうのは、そうそう踏ん切りのつく事じゃなかった。そう思ったボクだったけど、その後タカミチが告げた言葉に、大きく心を動かされることになる。『それに、僕の個人的な感情としても、君と小太郎君には是非友人になってもらいたいんだ』「個人的な感情? …………どういうことかな?」首を傾げるボクに、立体映像のタカミチが告げた言葉は、あまりに衝撃的なものだった。『…………小太郎君の雰囲気はどこかナギ…………君のお父さんに良く似ていてね』「っ!? と、父さんにっ!!!?」思わず大きな声を上げてしまって、反射的に口元を押さえる。だけどそれくらいに、タカミチが口にした言葉はボクにとって余りに重要なことだった。取り出した写真を再び見つめるボク。だけど父さんを殆ど知らないボクには、犬上さんのどこがどういう風に父さんに似ているのか、残念ながら良く分からないままだった。『もちろん、今の彼の実力は僕同様、あの人には遠く及ばない。だけどね、目まぐるしい成長を続けて来た彼なら、そう遠くない未来、きっと君のお父さんに追いついてみせる…………最近はそんな風にさえ思えてきたよ』「父さんに、追い付く…………」それは奇しくも、ボクが思い描いて止まない到達地点と、寸分違わぬ目標だった。『さて、彼のことはこれくらいにして、話を戻そうか? 結論を急げとは言わないよ。だけど、さっきも言ったように、君は決して1人じゃない。それだけは覚えておいてくれるかい?』―――――君が良い選択を出来るよう、心から祈っているよ。そんな言葉を締め括りに、タカミチからの手紙は幕を閉じた。ゆっくりと手紙を便箋へと戻して、ボクはもう一度、くだんの写真に視線を落とす。タカミチからの手紙を読んで、あれほど麻帆良行きに不安を募らせていたボクの心の中には、いつの間にか別の感情が生まれていた。それは、この写真の少年に対する純粋な興味。父さんと良く似た雰囲気を持ち、そしてボクと同じように父さんの背中を追いかけている彼…………。タカミチがこうも持ち上げるその犬上さんが、一体どんな人物なのか、ボクは気になって仕方がなくなっていた。「麻帆良学園に、犬上 小太郎さんかぁ…………」きっとそこでは、魔法学校での7年間より、ずっと困難な日々が待ち受けていることだろう。しかしそれと同時に、魔法学校ではとても学べないような、多くのことをボクはきっと麻帆良で教わることが出来るだろう。そう思った瞬間、ボクの心は決まっていた。慌しく自分の部屋を飛び出し、1回に居るお姉ちゃんの下へと駆ける。一刻も早く、この決意を誰かに伝えたかったから。―――――バタンッ!!「ネカネお姉ちゃん!!」「きゃ…………!? ね、ネギ? ど、どうしたの急に?」乱暴に扉を開けたボクの顔を心配そうに覗き込むお姉ちゃん。ボクは肩で息をしながら、それでも満面の笑みを浮かべて、その決意を告げた。「――――――――――ボク、行くよ。日本に…………麻帆良学園に!!」これから始まるであろう、波乱に満ちた道程に胸を高鳴らせて…………。