かつて、甲賀の里にその人有りと謳われた、2人の忍びが居た。1人は代々里の頭を務める長瀬家の直当主。もう1人は、その長瀬の跡継ぎとは数年来の友人であり、代々頭の片腕を務めてきた弥刀家の跡取りだった。強者ぞろいの忍軍において、なお2人の腕は群を抜いていた。時が流れ、2人は互いに家庭を持ち、そして同じ時期に娘を授かった。公私ともに、常に互いを支え合ってきた親友同士であった2人の忍びは、自分たちの娘もそのように支え合える日が来ることを願った。長瀬の娘は楓と名付けられ、弥刀の娘は楓の異称である紅葉と名付けられた。そして父たちの願い通り、2人の娘は実の姉妹のように互いを思いやり、支え合いながら修練に励むようになっていった。2人の中睦まじい様子を喜んだ父たちは、娘たちの八つの誕生日にそれぞれ同じ意匠を施した苦無を送った。その苦無の柄には、深紅に染め抜かれた楓の葉が彫刻されており、父たちは2人に対してそれを武器ではなく護符の意味を込めて贈ったのだ。それを受け取った娘たちは、その苦無に自らの髪を一房括りつけると、互いの物と交換して、こんなことを誓った。―――――例えこの身が傍に無くとも、この志は常に共に。それは少女たちの父が任務に赴く際、2人の間でのみ交わされる合言葉だった。少女たちはいつか自分たちが父の後を継ぎ、互いを護り支え合いながら戦場を駆ける日が来ると信じて疑わなかったのだ。―――――されど、その2年後、少女たちの願いは誰よりもそれを願っていた父たちによって崩れ去ることとなる。時代が変わり、忍者という存在が忘れ去られていく中、甲賀の里は徐々に困窮していた。そんな背景もあり、仕事を選り好み出来なくなった当時の頭は、生きるために少々汚れた仕事にも手を出すようになる。多くの大人たちはそれを、里の存続のためと割り切っていたが、ただ1人、その方針に異を唱えた者がいた。弥刀の跡継ぎ、紅葉の父親である。今、自分たちのしている所業は、忍びの誇りを汚し、決して後世の者たちに誇れるものではない。彼が叫んだその主張は、確かに正しいものであったが、困窮した里にとって、依頼される仕事はまさしく命綱。おいそれとそれを断ることは出来なかった。里の出した解答に絶望した彼はある決意をする。それは、娘と妻を連れ、里を抜けるというものだった。掟により、抜け忍となったものは、問答無用で殺すことが定められていた。彼の決意を事前に知った楓の父は、無論それを止めたが、彼は聞く耳を持たなかった。そして紅葉の父が里を抜けた日。里から逃げ出した3人の前に立ちはだかったのは、予想された忍びの軍勢ではなく、たった2人の忍び。楓の父と、まだ幼かった楓自身だった。それを目にした紅葉の父は、彼女に手出し無用との断りを、楓の父も同じように娘に告げ、かつて親友同士だった2人の忍びは一昼夜に渡り激闘を繰り広げた。激闘の果て、先に力尽きたのは弥刀の跡継ぎ、紅葉の父だった。されど決着が着いたときには、楓の父も既に死に体であり、紅葉とその母を追う余力は残されていなかった。もっとも、忍術の修行を受けていない女と、見習いの子ども一人。取り逃がしたところで、里は大きな問題になるとは見なさなかった。こうして、将来共に闘うと誓った友を、楓は失ったのである。「…………後で父上に聞かされた話でござるが、どうやら紅葉の父上は最初から死を覚悟していたようでござる」話の途中で取り出したくだんの苦無を見つめながら、神妙な面持ちでそう告げる楓。恐らく弥刀の父は、里の中核である自らが抜け忍となることで、今後そうした者が増加する可能性を示唆すると同時に、自らの死を以って、自らが愛した里が目を覚ましてくれることを願っていたのだろう。…………皮肉な話だ。誰よりも里の将来を憂いた人間が、里の意志によって殺されるなんて。「そのすぐ後で拙者の父は里の頭領となり、それからは紅葉の父上が願った通り、里は汚ない仕事を請け負うことはなくなったでござるよ」楓の父親の片腕だった弥刀の父は、その命を駆けてなお、その責務を全うしたと言う訳か。だが、そんな彼らにもたった1つの誤算があった…………。「取り逃がした弥刀の娘。そいつが貴様の命を狙ったということは…………」「恐らく目的は、父親の仇討ちでござろうな。紅葉は自らの師であるお父上を、誰よりも敬愛していたでござるから」それで父親の仇討ちか…………。しかし、ならば実行犯である楓の父親ではなく楓を?そんな疑問が一瞬頭を過ぎったが、とある男を思い出し、すぐにその疑問は氷解した。『―――――せやな、最終的には、自分のお父んを殺すつもりやで』初めて麻帆良であのクソ兄貴と対峙したとき、あいつは確かにそう言っていた。詳しい事情は分からないが、あいつの目的も復讐のはず。なら、その仇自身でなくその縁者を狙う理由はただ一つ。自分が味わった奪われる苦しみを、相手にも与えるため。言っていることは分かるが、俺には到底理解できない、反吐が出そうな理屈だった。しかしここで、もう一つ疑問が浮上する。「なぁ? 何で弥刀は自分が麻帆良におるて分かったんや?」話を聞く限り、甲賀の里の情報はかなりのレベルで隠匿されている様子だ。そんな状況下で楓の足取りを追うのは、かなり困難を極めるはず。だというのに、弥刀はどうやって楓の居場所を突き止めたのか、それだけが腑に落ちなかった。「ああ、そのことでござるか。実を言うと1年以上前から紅葉はこの麻帆良に住んでいたでござるよ」「「は?」」あっけらかんと言ってのけた楓に、俺とエヴァは開いた口が塞がらなくなった。「ど、どういうことや? 何でそんなに前から気付いとったんに、襲撃されるまで気付けへんかったんや?」「うむ。それを言われると耳が痛いのでござるが、つい最近まで、紅葉は拙者に気付いてないと思っていたでござるよ」「???」なおさら訳が分からんのだが…………?恐らく俺の顔には無数の疑問符が浮かんでいたことだろう。しかし、楓が次の言葉を口にした瞬間、それは再び感嘆符へと姿を変えた。「紅葉は拙者たちと同じ、麻帆良本校女子中等部の生徒として、この麻帆良に住んでいたのでござる」「!?」弥刀が…………麻帆良の生徒だった!?驚愕に言葉を失った俺とは対照的に、エヴァは顎に手を当て納得顔でもっともらしく頷いて見せた。「なるほどな。あのジジィならやりそうなことだ」「え、えーと、エヴァさん? 話が全然見えてこないんですけど…………?」「…………やれやれ、頭の回転は速いと思っていたのだが、かいかぶりだったか?」溜息交じりにそう言うと、エヴァはぴっと右の人差し指を立てて説明を開始してくれた。「いいか? 話を聞く限りでは、その弥刀 紅葉という女、決して万人に対する悪というわけではない」「まぁ、それはそうやろ。お父んが殺されて復讐したるって思うんは、別におかしな話やない」俺だって、兄貴に対して同じ感情を抱いてるくらいだ。「加えて、里を抜けだしたその親子は頼るところなど無かったのだろう。大方風の噂に麻帆良のことを聞いて、転がりこんだというところではないか? あのジジィは腹黒だがお人好しだ。身寄りがない者を放ってはおけん。貴様の妹、九条 霧狐とその母親がそうだったようにな」「なるほど…………」それなら確かに得心が行く。けれど、楓が言ってた『紅葉が楓に気付いていない』ってのはどういう意味だろう?「1年のときから同じ校舎にいたにも関わらず、紅葉は拙者とすれ違っても何の反応も示さなかったのでござるよ。なので拙者はてっきり、紅葉は成長した拙者に気付いていないのでは…………そう思い始めていたでござる。だが…………」「気付いていないどころか、しっかりと復讐の牙を研いでいたと言う訳か」「1年間も復讐相手に素知らぬ顔をしながら、か…………」それは何ともまぁ、凄まじい執念である。惜しむらくは、恐らくは彼女が父の真意を知らないであろうこと。きっと彼女は、父が自らの親友に裏切られ、失意の内に死んでいったと、そう思っているに違いない。もっとも、父の真意を知ったところで、彼女の復讐心が消えるとは限らないか…………。「何にせよ事情は分かったわ。とりあえず、自分の傷が癒えるまでは何とかして護ったる」とは言え、今の俺に出来るのはせいぜいが時間稼ぎくらいだろうが。「かたじけない。本来は里の事情に他人を巻き込むのはご法度でござるが、今回はそうも言っておれぬ故」苦々しい表情で言う楓。他人を巻き込みたくないって気持ちは俺も良く分かる。だから俺はそれに笑顔で答えた。「おう。大船に乗ったつもりでおりぃや。それと俺のことは小太郎で良えで?」「すまないでござる、小太郎殿。それから、もう一つ伝えておくことが」「何や?」再び沈痛な面持ちに戻った楓に、こちらも気を引き締めて問い掛ける。「紅葉は復讐を果たすため、外法に手を染めたようでござる。彼女の左胸には、まるで生き物のような不気味な符が張り付いていたでござるよ」「生き物みたいな符?」「うむ。魔術や陰陽道には明るくない故、詳しいことは分からぬが、今の紅葉の実力は少々異質でござる。対峙した際は、決して無理をしないで欲しい」楓の言葉に、俺は思わず首を傾げた。符を用いるということは、その外法というのは、陰陽術の類なのだろう。しかし、そんなけったいな術に、俺は心当たりが無かった。「ライカンスロープ、こっちでは神降ろしだか狐憑きだか言われている術だろう」「さすがエヴァ、今の話だけでそこまで当たりがつくやなんて」伊達に歳は喰ってないってか?「茶化すなクソガキ。辺りを付けたところで対処法を知ってるわけではない。それに神降ろしにしろ狐憑きにしろ、本来は符を用いるのではなく、霊媒体質の人間を触媒にして行うものだ」無すかしい顔でそう告げるエヴァ。確かに、降霊術に符を用いるってのはあまり聞かないな。「ほんじゃあ、弥刀が使うとるんはもっと他の術かも知れへんってことか?」「いや…………恐らくは狐憑きであっているだろう。大方、召喚した妖怪を符に封じ込めて、自らの肉体を代償に力を得るような契約を結んだ…………そんなところではないか?」「…………」それを聞いた俺の脳裏に過ぎったのは、またしてもあの兄貴の姿だった。九尾を復活させようとしていた兄貴も、自身の右手に九尾を撮り憑かせて莫大な力を引き出して見せた。弥刀はその兄貴と同じような術を使って、自らの力を高めていると言う訳だ。…………こりゃ、こんなところでじっとしてる場合じゃなさそうだな。「とりあえず楓の忠告は頭に入れとくわ。ほんなら、俺はちょっくらその辺の見回りにでも言って来るさかい、自分は大人しゅう寝とき」そう言い残して、俺は足早にログハウスの玄関へと向かった。エヴァの話が本当ならば、あまり時間があるとは思えなかったからだ。符に封じ込めた妖怪に、自らの身体と魂を食わせて力を得る外法。それは長時間力を使用し続ければ、いつか自身が飲み込まれてしまう危険をも孕んでいる。兄貴が九尾に右腕を喰われたのと同じように…………。手遅れになる前に、彼女とその符を引き離す必要がある。そう思って、俺はすぐさま外に飛び出そうとした。しかし…………。「止めておけ」後ろからエヴァにそう呼び止められ、足を止めざるを得なかった。思わず振り返る俺。腕を組み仁王立ちしながら俺を見上げるエヴァは、いつか見たのと同じ、年長者としての威厳を持った厳しい表情だった。「貴様のことだ、どうせその弥刀 紅葉とかいう女も救うつもりなのだろう?」…………やっぱエヴァにはお見通しか。先程、事情を話してくれた時の楓の表情。後悔の懐かしさの入り混じったあの顔は、恐らく未練の表情だった。きっと楓は、今でも幼い頃に弥刀と交わした約束を忘れていない。彼女の心はきっと、今もなお弥刀の傍にある。だから俺は、何とかして弥刀の復讐を止めようと、そう考えていた。「…………そこまで分かっとんのなら、俺が止めたって止まらへんってことも分かっとんのとちゃうか?」唇を釣りあげた俺を見て、エヴァは大仰に溜息を吐いてみせる。「…………今まで貴様が幾度となく窮地に瀕し、それでもなお生き残ってこれた最大の理由を教えてやろう」しかしすぐに先程の威厳溢れる顔つきに戻り、エヴァは俺にそんなことを言った。「それは貴様に迷いがなかったからだ。あの狗族にしろ貴様の兄にしろ、これまで貴様は確固たる闘う理由がある敵としか対峙してこなかった。しかし今回は勝手が違う。どちらが善でどちらが悪か、その境界などあやふやで、正しい答えなど決してない、そういう闘いになるだろう」「…………」「戦場では迷った者から死んでいく。敵に情けをかけた者から死んでいく。敵を救うだと? 笑わせてくれる。今の貴様にそんな力があると思うな」エヴァは嘲笑を浮かべ、厳しくもそう言い放った。確かに彼女の言う通り、魔力も封印され、刀も使えない今の俺にそんな大層な力はない。彼女の言う通り、俺は今自分の立ち位置すら決めかねている。しかし…………。「―――――それがどないした?」俺はもう一度、力強く笑みを浮かべてそう答えた。今までだって、俺は決して十分とは言えない力で闘ってきた。自分の護りたいものを護るため、己の信念を貫くために。魔力が封印されている、だからなんだと言うのだ?足りない分は気合で補う、それが俺の生き方だ。「ここで行けへんかったら、俺やない。護りたいもんが多いなんていつものこと。敵がどんだけ強大やろうと、俺はただ死ぬ気で自分の生き方を貫くだけや」今でも、そしてこれからも。俺はエヴァの目を真っ直ぐに見つめ言い放った。「…………」「…………」互いの目を見てしばし沈黙する俺たち。しかし意外にも、その沈黙を破ったのはエヴァだった。「…………ふっ」「ふ?」「…………はっはっはっはっ!!!!」「おおう!?」な、何だっ!? エヴァ様ご乱心っ!?急に高笑いを始めたエヴァに、俺は思わずのけぞっていた。「…………ふぅ、全くこれでも若いつもりだったんだが、貴様ら本物のガキには敵わんな」「? は、はぁ、そらどうも…………?」え、ええと…………もしかしてこの幼女、俺の覚悟を試した?…………そういや原作で刹那に似たようなことやってたけど、まさか自分までやられるなんて、ねぇ?何とも釈然としない気持ちになる俺だった。「迷い無く私の質問に答えて見せるとは…………恐らく貴様には最初から迷いなど無かったということか。やれやれ、私の洞察力も当てにならんな」そう言って肩を竦めると、エヴァはさっと踵を返した。「茶々丸」「はい、マスター」エヴァが呼びかけると、間髪入れずに現れた茶々丸。そして茶々丸は何故か、エヴァではなく俺の下まで来て、一振りの日本刀を手渡して来た。「これは…………?」「無銘だがそれなりの品だ。多少とは言え神鳴流が使える貴様なら、戦力の足しくらいにはなるだろう。持って行け」そっぽを向いたまま、無愛想な声でそう告げるエヴァ。…………これってもしかして照れてる?俺を心配してるのを気付かせたく無くて意地張ってんのか?全く素直じゃないというか…………まぁそこがエヴァの可愛いとこだと思うけどね?「おおきに、ありがたく借りてくわ。それと…………」俺は右手をすっと、伸ばし後ろからエヴァの頭にぽんっと手を置いた。「…………心配してくれておおきに」「き、気安く触れるなっ!! そ、それとっ、誰が貴様の心配なんぞっ…………!!」次の瞬間、案の定というべきか、俺の手を払いのけ、があっと捲くし立てるエヴァ。何というツンデレ…………ごちそうさまでつ。俺はもう一度、力強い笑みを浮かべて言った。「ほな言って来る。必ず帰って来るさかい、朝食の準備頼むで」「ふんっ…………本来なら貴様に食わせる飯などないところだが、まぁ無事に帰ってきたらそれくらいは食わせてやる。さっさっと片づけて来い」ぶっきらぼうなエヴァの台詞に苦笑いを浮かべて、俺は未だ降り続く豪雨の中へとその身を躍らせるのだった。SIED Evangerine......「…………フン、あのクソガキめ」久々にあいつを思い出して腹が立った。自分の護りたいもののためなら、敵に手を差し伸べることさえ厭わない、あの不愉快な赤毛の魔術師の姿を。実力は程遠いが、既に小太郎はあいつを英雄たらしめた、最も重要な要素を持っていると言っても過言ではないだろう。…………べ、別にだからといって目をかけている訳ではないがな。「マスター。小太郎さんが心配なのでしたら、私が追跡いたしましょうか?」私が奴の出て言った玄関を眺めていたからだろう。不意に茶々丸が、そんなことを言い出した。「いや必要無い。そもそも私がこの件に肩入れしてやる理由は無い。長瀬 楓の手当と、さっきの日本刀だけで十分手助けしてやったと言えるさ。それに、お前はまだ耐水加工を施されてないんじゃなかったか?」「あ、そうでした」…………そうでしたって、ロボが自分の規格を忘れるってどうなんだ?まぁ、こいつも最近はあのバカ犬に感化されているようだからな。もしかするとあいつの身を案じて、本当に飛び出していきたかったのかも知れん。全く、人のパートナーまで籠絡しおって…………。「…………必ず帰って来い」私に対する貴様の借り、全て清算せずに死ぬなど、許した覚えはないからな?奴が出て行ったドアに小さく笑みを浮かべて、私はさっと踵を返した。「ん? どうした茶々丸?」振り返ると、茶々丸が驚いたような顔で固まっていた。「今のお言葉…………もしやマスターは、小太郎さんに恋愛感情を…………?」「…………解体されたいか?」「滅相もありません」SIDE Evangerine OUT......