春休みに浮かれる学園都市を、俺は必死に駆け抜けていた。学園長との通話を切った後、席に戻った俺を待っていたのは、余りに変わり果てた、カフェの惨状だったのだから。俺たちが座っていた席に、既に霧狐の姿はなく。恐らく縮地无疆を使用したと思しき破砕痕と、俺の竹刀袋、そして彼女の荷物だけが残されていた。衝撃の余波で、周囲のテーブルや椅子もぐちゃぐちゃに飛ばされていたが、幸いにもランチタイムを過ぎていたおかげか、怪我人は出ていなかった。あの場にいた人間で、あんな惨状を起こせる人間は一人しかいない。俺は目下、彼女の匂いを追っていた。しかし……。「どんだけ、スピード速いねんっ……!?」俺の足でも、まるで追い付ける気がしなかった。しかも最悪なのは、影斬丸が持ち逃げされてしまっていること。刀の力に頼り切っているつもりはないが、それでも、あの刀が俺の大きな戦力になっているのは疑いようのない事実だ。最近では、魔力の発散という意味合いも込めて、影斬丸に待機させている魔力量は、通常時から狗音影装4体分相当。ノータイムで狗音斬響系の技が使えるようにしていたのだが……今回はそれが災いした。恐らく刀を抜いた霧狐は、自分にフィードバックされた影斬丸の魔力によって暴走状態に陥っている。少し話しただけだが、彼女の性格からすると、俺の言いつけを破ってまで、影斬丸を抜くとは考え難い。つまり何者かが、彼女を言葉巧みにそそのかしたということ……。そして今回の件で、そんなことをする性根が腐った野郎に、俺は1つ心当たりがある。「……あのクソ兄貴、ホンマに碌なことせぇへんなっ!!」こう言う姑息な真似を思いつくのは、あいつくらいしかいない。しかも、毎度毎度人の命が掛かってる非常事態を引き起こしやがって!!しかしながら、おかげで今回霧狐が学園に侵入出来た訳と、九尾の狐に関して、少しだけ見えて来た。まず霧狐が学園に侵入出来たのは、学園長の推察通り兄貴の手引きがあったから。そして、九尾の狐のこと。恐らく、兄貴はまだ九尾を復活させることが出来ていない。いや、復活そのものは出来ているが、戦闘に耐え得る強度がないのかもしれない。その根拠が、兄貴の霧狐に対する執着だ。いつものあいつなら、人の裏を書いても、その後の攻撃手段は、直接的かつ致命的なものが多い。その奴が、わざわざ霧狐をけしかけて来たのには、間違いなく理由がある。恐らくは、九尾を復活させる依代に、霧狐を使おうとしてるのだろう。……ふざけやがって、人の命を、心を何だと思ってやがる!?いつだってそうだが、今回はそれに輪を掛けて、あいつの思い通りにしてやる訳にはいかない。ようやく出会えた俺の家族を、二度もあいつに奪われてたまるか!!走る脚に更に力を込めようとした、その瞬間だった。―――――グゥォォォオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!!!!「っっ!? この雄叫びは……!?」聞き覚えのある、しかし二度とは聞きたくなかった咆哮を轟かせ、その大鬼は、砂埃を舞い上げながら俺の目の前に降り立った。土煙の中心で、相変わらずの巨体を誇るその鬼神は、紛れもなく半年前に相見えた伝説の妖怪、酒呑童子に相違なかった。兄貴の奴、こんなものの予備まで用意してやがったか……。魔力は前回のものに比べて6割程度と、全体的な防御力、攻撃力は共に低下してるだろう。しかしながら、それを補って余りある巨躯と出力は如何ともしがたい。影斬丸無しで相手をするには、少々手に余る相手だ。……こんな台詞実際に言う日が来るとは思ってなかったけど。「……万事休すか?」―――――グゥォォォオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!!!!吐き捨てるような俺の呟きに、呼応するかのように大鬼が再び咆哮した。SIDE Setsuna......―――――ガキィンッ……「くっ……!?」迫り来る斬撃を、夕凪の鎬を持って、ぎりぎりのところでいなす。しかし霧孤さんは身を翻し、すぐさま次の斬撃へと転身した。「はぁあっ!!!!」―――――ガキィンッ……再び互いの得物が交叉し、赤い火花が飛び散る。3合目を避けるために、私は大きく飛び退いていた。「っっ、止めて下さい霧狐さん!! 私には、あなたと争う理由がありません!!!!」心の底から、そう叫ぶ。どうしてこうなってしまったのか、霧孤さんからは、先ほどまでの怯えは、無邪気さは微塵も感じられない。交叉させた得物から伝わってくるのは、ただただ禍々しい灼熱の殺意ばかりだった。私の言葉に、霧孤さんは先ほど同様、およそ彼女には似つかわしくない笑みを浮かべて構えを解いた。「そんなこと言ってると、本当にすぐ終わっちゃうよ? それじゃキリもつまんない……キリは、本気の刹那と闘いたいだけなんだから」彼女を覆う、紅蓮の炎が、その密度を増した。同時に膨れ上がる魔力。これは……先ほどの斬撃とは桁が違うっ!?下手をすると、お嬢様までも巻き込んでしまう。咄嗟に、私はお嬢様の下へと駆け出していた。「これは本気で受けないと、さすがに怪我じゃ済まないよ? ……影斬丸で使うのは初めてだけど、お兄ちゃんの刀だもん」失敗するわけがないよね、と自答して、彼女は太刀を大上段に構える。その切っ先に彼女を覆っていた炎が収束していった。瞬間、彼女は恐ろしい速度で私に肉薄した。……迅いっ!? これでは、結界は間に合わないっ!!寸でのところで避けた霧孤さんの剣先から、灼熱の焔が迸った。「―――――我流炎術、曼珠沙華!!」痛烈な閃光とが網膜を焼き、響き渡る爆音が鼓膜を貫く。紅にそまる視界の中、私は必死にお嬢様の体を抱き寄せていた。SIDE Setsuna OUT......SIDE Kiriko......石と土が焼ける匂いが立ち上る。ちょっとやり過ぎちゃったかな?やっぱりまだ加減が難しいなぁ……こんな簡単に終わらせるつもりはなかったんだけど。本当なら、影斬丸の刀身で、きちんと刹那を斬るつもりだったのに……刹那ってば、全然本気を出してくれないんだもん。しょうがないなぁ……これだけ騒いでたら、きっと誰かが来るだろうし、もういっそ、試し斬りはその人たち相手でも……。そう思った瞬間だった。「あれ? ……ふぅん、やっと本気になってくれたみたいだね?」爆発で舞いあがった砂埃の中から感じるのは、ぴりぴりと肌を焼くような、熱い闘気。あの爆発の中で無事だったなんて、さすがお兄ちゃんの幼馴染。嬉しくって、キリは思わず笑みを浮かべてた。晴れていく砂埃の真ん中には、自分と木乃香を覆うように、真っ白な羽を広げた刹那の姿があった。「……お怪我は有りませんか? お嬢様」「……う、うん。せっちゃんこそ、怪我してへん?」刹那は翼の中で、木乃香にそんな風な声を掛けてる。まだ人の心配する余裕があるなんて……許せないなぁ。今は、キリのことだけ見てくれなきゃ。そう思って、もう一度影斬丸に魔力を集中させようとしたら、急に刹那が、木乃香を庇うようにして、キリの方に向き直った。「……霧狐さん、私は先程、あなたと闘う理由はないと言いましたが、撤回します」きっ、て目を細めて、刹那が握ってた大きな刀を、初めてキリに向かって構えた。ぱんぱんに膨れ上がってた闘気が、全部キリに向かってきて、思わずぞくぞくしちゃった。……やっぱり、闘いはこうじゃなきゃ!!「お嬢様を傷つけると言うのなら、誰であろうと、この私が許しませんっ!!」刹那の白い羽が、大きく広がった。まるで、キリから木乃香を隠すみたいに。「―――――神鳴流剣士、桜咲 刹那……推して参る!!」それに答えるみたいに、もう一度、狐火を刀に集めて、キリは叫んでた。「おいで刹那……今度こそ、全力でっ!!」どちらともなく、キリたちは、お互いに向かって、刀を振り抜いた。SIDE Kiriko OUT―――――グゥォォォオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!!!!相変わらず巨体に似合わねぇスピードだなオイッ!?振り抜かれる酒呑童子の金棒を、ギリギリのところで回避する。武器がデカい分、一発撃った後の隙もデカい。俺は両手に、狗神を集中させた。「狗音っ……爆砕拳!!」衝撃に酒呑童子がたたらを踏んだが、まるで堪えている様子はなかった。ちっ……やっぱり、狗音影装級の魔力じゃないきゃびくともしないか。とはいえ、こいつが出て来たってことは、今回も兄貴が後ろで糸を引いてるのは間違いない。今日使える狗音影装は残り8回。出来ることなら、魔力の消費は最小限に抑えたかったのだが、已むを得ない。それに先程から、女子校エリア側で、二つの魔力が激しく衝突を開始している。片方は間違いなく影斬丸……否、霧狐の魔力で間違いない。となれば、迎え撃っているのは、恐らく……。俺にとってはここで悪戯に時間を消費して、最悪の事態を招く方がよっぽど恐ろしかった。『……ありがとう、お兄ちゃんっ……ありがとうっ……』あの笑顔を、俺を慕ってくれた可愛い妹を、こんなところで喪ってたまるものかっ!!狗音影装を纏おうと、俺は狗神を収束させようとした。その瞬間だった。「ガァァァアアアアアアッ!!!!」―――――ドカァッ……―――――グゥォォォオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!!!!「何やっ!?」体勢を立て直した酒呑童子が、何者かに体当たりされてごろごろと転がっていく。今の鳴き声は、まさか……。酒呑童子を吹き飛ばした影は、その巨躯に似合わぬ軽やかさで、俺の隣へと着地した。「ばうっ!!」「チビっ!? 自分、良ぉ俺のピンチに気付いたな!?」当然だ、とばかりに、チビはふんっ、と鼻息を鳴らした。……こいつめ、普段からバカみたいに魔力を持っていくだけのことはあるじゃないか。大方、俺と繋がってるレイラインのおかげで、俺が戦闘中だと言うことに気が付いたのだろう。大した忠犬ぶりに、思わず泣いてしまいそうだ。しかし助かった。チビがいるなら、幾分魔力の消費は抑えられる。いつでも飛びかかれるよう、体勢低くするチビとともに、俺は怒りを露わにする酒呑童子に向き直った。金棒を杖代わりに、ゆっくりと立ち上がろうとする酒呑童子。しかし、もう一度奴は立ち上がることを阻まれる。何故なら……。―――――ここに、この麻帆良で最強に類される男が光臨したのだから。「―――――七条大槍無音拳」―――――ドゴォォォンンッッ……「うぉわっ!?」直上から降り注いだ破格の衝撃に、離れた場所にいた俺までも吹き飛ばされそうになる。それを為した本人は、いたっていつも通り、何事もなかったかのように、アスファルトにめり込む酒呑童子の傍らに降り立った。「やれやれ……麻帆良の中で、こんな無茶な技を使うことになるとはね」「タカミチっ!?」いつも通りの穏やかな笑みを浮かべてそう言ったのは、間違いなくタカミチだった。……そうか、いつも出張でいないもんだから、今回もてっきりいないものと思ってたぜ。しかし、彼がいるなら、これほど心強いものはない。俺は彼に、ここを頼もうとしたが、先に彼の方からこう言われてしまった。「さぁ小太郎君、ここは僕に任せて、君は妹さんのところへ行きなさい」「お!? お、おう……な、何や、てっきりこっちの方を任せられるかと思ってたんに……」驚いて目を白黒させる俺に、タカミチはにっと歯を覗かせて笑い掛けた。「学園長から話は聞いていたからね。それに、人探しは君の領分だ……必ず妹さんを助けてあげるんだよ?」「はっ!! 言われるまでもないわ!!」俺は力強い笑みを浮かべて、踵を返した。向かうのは女子校エリア。先程から、魔力が衝突している共有グラウンド周辺だ。両足に魔力を込めて、俺は大きく跳躍した。SIDE Takamichi......女子校エリアへと跳んでいった小太郎君を見送って、僕は傍らに寄って来たチビ君に視線を移した。「小太郎君について行かなくて良かったのかい?」「ばうっ」僕の問い掛けに、チビ君は彼なら大丈夫だ、とばかりに短く吠えた。ふふっ、中々の忠犬っぷりだね……。……しかし、小太郎君、しくじるなよ?かつての僕のように、君がこれ以上の痛みを背負う必要などない。否が応にでも、妹さんを救って見せるんだ……なんて願うのは、少し過剰な期待だろうか?……さて、人の心配ばかりしてる場合じゃないだろうね。「……あれを喰らって、なお立ち上がれるなんて……」さすがは、伝説上最強とされる鬼。その伝承に違わぬ屈強さだ。残り2体の討伐に向かった神多羅木君や刀子君も、これは手こずっているだろうね。……となると、早い所片づけて、合流した方がいいかな?既に戦闘態勢で、牙を剥き、低く唸り声を上げるチビ君に習って、僕も最初から全力で相手をするとしよう。これまで幾度となくそうしてきたように、僕は自身を空にして、その両手を虚空へと広げた。「―――――左手に魔力、右手に気を」そして伽藍堂になった自身へと、その二つの力の奔流を流し込む。反発する力を融合させ、巨大な力へと昇華させるために。「―――――融合!!」そしてその瞬間、僕は自身の持てる全ての力を引き出した。かつて師に教えを請い、数年を費やした、血の滲むような研鑽の末に得たこの力を。……今度こそ、大切な人たちを傷つけまいと得た力。そしてその願いの通り、僕は今度こそ、大切な友たちを、生徒を護り抜いて見せる。「さぁ、余り時間も無い……最初から全力だよ」「ばうっ!!」そう呟いて、僕とチビ君は、仁王立ちする大鬼へと肉薄した。SIDE Takamichi OUT......SIDE Setsuna......数合の剣戟を交えながら、私は霧狐さんをお嬢様から離れたグラウンドまで誘導していた。そしてそれに気付く様子もなく、霧狐さんは凄惨な笑みを湛えたまま、私を追撃した。やはり狙いはお嬢様ではないのか……しかし、彼女の豹変ぶりは一体……。彼女は浮遊術が使えないらしく、それを逆手に取って、私は高高度でそんなことを考えていた。しかし、そんな私の思惑を嘲笑うように、彼女はこんな言葉を私に投げかけた。「これだけ離れたら、安心して闘えるよね?」「なっ!? ……私の狙いに、気付いていたのですか!?」ならば、どうして安易に誘いへと乗ったのだろうか?そう尋ねる前に、彼女は笑みを浮かべたまま、こう言った。「言ったでしょ? キリはただ、全力の刹那と闘ってみたいだけなんだって」「…………」迷いなく言い放った霧狐さんに、思わずっ言葉を失う私。しかしなるほど、これで彼女の豹変に得心がいった。恐らく彼女は、自らに流れる妖の血に……。しかしながら、彼女の言い様を思い出して、私は思わず笑みを浮かべていた。そう、その言い様はまるで……。『―――――全力で来い、刹那……せやないと、勝つんは間違いなく、この俺やっ!!』彼女の兄、そのものではないか。……よりにもよって、そんなところで似なくても良いだろうに。しかし、彼女を正気に戻すには、それしかないだろう。八相の構えを取り、私は刀に纏う気を高めていった。「……良いでしょう。ならば我が全力の剣で、お相手致します!!」上空から、私は一直線に、霧狐さんへと滑空する。その勢いすらを味方に付けて、私は剣を振り抜いた。「神鳴流奥義―――――斬岩剣!!」「我流炎術―――――管丁字!!」―――――ガキィンッッ私の一閃を、霧狐さんは先程の爆発と同程度の魔力を、刀に集中させた斬撃を持って受け止めた。打ち合っただけで、大気すら焦がす灼熱の炎、その熱波が比喩ではなく肌を焼く。堪らず、私は刃を返して距離を再び広げた。「凄いね……さっきとは速さも威力も全然違う……やっぱり、こうじゃないと愉しくないよねっ!!」そう叫んで、霧狐さんは、再び私へと跳躍する。恐ろしく迅い彼女の瞬動は、気による脚力の強化のみならず、足元で小規模な爆発を起こすことでその速度を増していた。咄嗟に上空へと身を交わし、私はその斬撃を避けた。まさか、妖怪化した私と互角以上の速度だなんて……。「……本当にあなたたちは……兄妹揃って、私を驚かせてくれる!!」今度は私が、笑みとともにそう叫び、身を翻した遠心力のまま、夕凪を振り抜いた。―――――ガキィンッ「きゃっ!?」それを鎬で受け止めた霧狐さんは、衝撃を殺し切れず、数歩たたらを踏んだ。思っていた通り、力では私に分があった。そして、彼女を無力化する好機は、今を置いて他にはない!!私は夕凪の柄を返し、その頭を持って、彼女の腹部を打とうと羽ばたいた。……少し痛むかも知れませんが今は……御免っ!!!!そして、柄が彼女の腹を捉えようとしたその時。『―――――血の繋ごうてる家族に会えた訳やしな』「っっ!?」―――――ピタッ……脳裏に、嬉しそうにはにかんだ小太郎さんの姿がよぎり、私は思わずその手を止めていた。そして当然、霧狐さんがその機を逃す訳もなく……。「っっ!? ……えぇいっ!!!!」「しまったっ!?」―――――ガキィンッッ……ザッ……大きく弾かれた夕凪は、空で数転した後、私のはるか後方へと突き刺さっていた。喉元に、灼熱を帯びた霧狐さんの刀、彼女の言葉が真実なら、これは小太郎さんの影斬丸なのだろう、それが突き付けられる。状況は完全に投了していた。……くっ、未熟!!何故あそこで手を止めたのだ!?最初から、命を奪うつもりなどなかったのに……それでもなお、彼女を傷つけることを拒んだのはやはり……。彼女が、彼にとって大切な存在になり得る。その事実に気付いてしまったから。その彼女を傷つけることで、彼に嫌われたくないと願ってしまった……これは私の愚かさが招いた結果だ……。―――――チャキッ……霧狐さんが、刀を握り直す気配が、空気越しに伝わる。……くっ、無様な。申し訳ございません、小太郎さん、お嬢様。刹那は、ここまでのようです。僅かばかり引き戻された刀が、この喉を貫くのは一瞬だろう。私は自らの未熟と、もうお嬢様を護れないという自らの運命を呪いながら、ぎゅっと、両目を閉ざす。――――――――――ヒュッ……風を切る、小さな太刀音が、静かに大気を揺らした。SIDE Setsuna OUT......SIDE Kiriko......一瞬で刹那の喉を焼き切れたはずだった影斬丸を、キリは勢い良く下に振り抜いてた。もちろん、そこに刹那の身体は無くて、影斬丸の刀身は、ただ空気を薙いだだけだった。「……何故、止めを刺さないのです?」ぎゅっと目を閉じてた刹那が、不思議そうにキリにそう聞いた。……キリが聞きたいくらいだよ。さっきまで、持て余すくらいに溢れてた、誰かを斬りたいって気持ちは、嘘みたいになくなってた。それに、それを言うなら刹那だって……。「先に攻撃を止めたのは刹那だよ……どうして? あのままなら、勝つのは絶対に刹那だったのに……」刹那が振り抜こうとしてた刀の柄は、間違いなくキリのお腹に当たるはずだったのに、刹那は当たる瞬間に、その手を止めてた。そんなことをすれば、自分がどうなるか、分かってたはずなのに。……何これ? ……嫌だ、もやもやする……まるで、キリがキリじゃなくなってくみたい。キリは、そのもやもやを誤魔化すみたいに、きっ、て刹那のことを睨みつけた。刹那はそんなキリの視線を真正面から受け止めて、困ったみたいに、目を細めた。「……私にもどうしてか……正直に言ってしまえば、嫌われたくなかったんです」「……嫌われる? 誰に?」言ってる意味が分からなくて、キリはもう一度刹那に聞いた。今度は真っ直ぐキリのことを見て、刹那は言った。「小太郎さんに……そして霧狐さん、あなたにも」「お兄ちゃんと、キリに……?」どうして?お兄ちゃんに嫌われる?だってお兄ちゃんは、刹那に勝てば褒めてくれるんじゃなかったの?それに、キリにもって……キリは刹那のこと殺すつもりだったんだよ?分かんない……分かんないよ……。頭の中でもやもやが、広がってく。それがどうしようもなく怖くて、キリは思わず、後ずさってた。「訳分かんないよっ!? キリは刹那のこと殺そうとしたのにっ!! 何で嫌われたくないなんて思うのっ!?」「それは、霧狐さんの本心ではないでしょう?」「っっ!?」……なん、で?キリは本気で、刹那のこと殺そうって、殺したいって思ってた。それが、キリの本心じゃない?そんなことないっ……キリは刹那を、もっとたくさんの人たちをっ……。「……もう、傷つけたくなんて、ない……」絞り出したみたいに出た言葉に、キリは自分で驚いた。そう、だ……キリは、もう誰も傷つけたくなくて、その方法を知りたくて、麻帆良に来たんだ。なのにどうして、こんなこと……?刹那を殺そうなんて、思っちゃったの?キリは、また……。―――――カシャンッ……気が付いた瞬間、キリは思わず、影斬丸を取り落としてた。ふらふらって、膝から地面に崩れ落ちる。それと一緒に、ぽろぽろって、涙が溢れて来てきた。「……ごめっ……なさっ……ごめんっ、なさいっ……」どうして良いのか分からなくて、キリは何回も、何回も、震える声で謝ってた。袖で涙を何回拭いても、次から次に涙は零れてく。謝って済むことじゃないのに、許されて良いことじゃないのに、キリには謝るくらいしか出来なかった。―――――ふわっ……「っっ!? ……せつ、な……?」急に、刹那が優しく、キリのことをぎゅってしてくれた。どうして? さっきまで、キリは刹那のこと、殺そうとしてたんだよ?刹那だけじゃない、刹那が護ってくれなかったら、きっと木乃香のことも、キリは殺しちゃってた。……だからキリには、刹那に優しくして貰う資格なんて、ない。そう思って、逃げ出そうとしたら、刹那はもっと強く、キリのことをぎゅってした。「……もう良いんです。霧狐さん、あなたのせいじゃない……」「ち、違うよっ!! キリが……お兄ちゃんの約束破ったから、だからっ!!」「一歩間違えば、私もあなたのようになる可能性がありました」「っっ!?」キリの耳元で、刹那は優しい声で、そう言った。そうだ、刹那も半妖だったんだ……だけど、刹那は妖怪の力を使ったって暴走してなかった。だからやっぱりこれは、キリのせい。キリが弱いから、妖怪の力に勝てないから、刹那と木乃香を危険な目に遭わせちゃった。やっぱり、キリには優しくして貰える権利なんてっ……。「かつての私も、今の霧狐さんのように、誰かに優しくして貰える権利なんてない……そう思っていました」「……う、そ? だって、刹那は……」「私の羽をご覧になったでしょう? 私は烏族、黒い翼を持つ妖怪……故に白い翼は、禍いを呼ぶと、忌み嫌われていました」「そ、それって……」キリと、おんなじだ……。人を傷つけるから、殺しちゃうかもしれないから、そうやって、村を追い出されちゃったキリと、凄く似てた。刹那はもう一度、キリの事を強くぎゅってして、優しい声で続けてくれた。「そんな私には、誰かに優しくされる資格なんてない。そう思っていた私に、小太郎さんと木乃香お嬢様……このちゃんは側にいて欲しいと言ってくれたんです」「お兄ちゃんと、木乃香が……?」顔は見えなかったけど、刹那が笑ってるのが、何となく伝わって来た。「……お二人に、私はとても救われました。……だから、今度は私が、あなたを救う番です」「刹那……」キリの肩をぎゅって掴んで、今度は顔が見えるように、刹那は少しだけ離れた。刹那の手から、すごくやさしい温もりが伝わって来て、それだけで、キリはまた涙が止まらなくなってた。「優しくされる権利なんて、必要ないんです。優しくされたなら、その分、その人たちに優しさで返せば良い」「優しさで、返す……?」うわ言みたいに繰り返したキリに、刹那は嬉しそうに笑って頷いてくれた。「あなたに妖怪の血を抑える強さがないのなら、あなたがその強さを手に入れるまで、私と小太郎さんが、その力をお貸しします」「……で、でもっ!! それじゃまた、キリは刹那たちの事をっ!!」「見くびらないでください。今回のように遅れをとることなんて、そう何度も有りません」「だけどっ!!」「小太郎さんだって、きっと同じことを言いますよ?」「っっ!? お兄ちゃんも……?」もう一度、刹那は頷いた。そして今度は、さっきよりもずっと優しく、キリのことをぎゅってしてくれる。ぽろぽろって、また涙が止まらなくなった。「……だからもう、自分を責めないでください。あなたの弱さは、あなた一人で背負わなくて良い……」「……ぐすっ……良い、のかな? ……キリは、誰かに、優しくして貰っても……刹那に、お兄ちゃんに頼っても……良いのかな……?」また、刹那の腕に少しだけ力がこもった。「……当然でしょう? あなたが小太郎さんの家族なら、私にとってももう、大切な仲間です」「っっ!? ……刹那っ!! 刹那ぁっ!!!!」キリは初めて、自分から刹那のことをぎゅってした。本当に? 本当にキリは、誰かに優しくして貰って良いの?刹那が言ったことが、まだ信じられなくて、そんなことをずっと考えてたけど、今はただ、ぎゅってしてくれる刹那の温もりに甘えたい。そう思って、キリは何度も何度も刹那の名前を呼んで、その身体を抱き締めてた。「……大丈夫です。私はここに居ますから」「……うん……うんっ!! ……ありがとうっ、刹那っ……」かすれた声でお礼を言ったキリの髪を、刹那は優しく撫でてくれた。いつもママがしてくれるみたいに、優しく、温かく。すごく安心する……そんな温もりに、ずっと身を委ねてたい。自分がやったことも忘れて、そんなことを思ってしまった罰だったのかな。その瞬間、苛立ったような雰囲気で、その声は響いた。「――――――――――茶番は、もうその辺で良えやろ?」