SIDE Kiriko......木乃香と刹那に連れて来てもらったお風呂は、見たことないくらいに広くて、キリは思わず言葉を失っちゃった。すごい……人がいる街には、こんなのもあるんだ……。やっぱり、お兄ちゃんに会いに来て良かったなぁ。ママは大好きだけど、あのまま二人で山奥にずっといたら、こんなのも見れなかっただろうし。それに……人間って、怖い人ばかりじゃないってことも分かった。『……妖怪なんぞと契るから、こんなことに……』……木乃香も刹那も、昔いた村の人たちと全然違う。キリに優しくしてくれるし、半妖だからって、キリのこと怖がったりしない。ちゃんと、キリのことを見てくれる。木乃香にぎゅっ、てされて、少し驚いたけど……不思議、全然嫌じゃなかった。温かくて、ほわっとして……すごく、安心した。人間って、怖い人ばっかりじゃなくて、優しい人もいたんだね……。「ほなキリちゃん、早いとこ身体洗ってまおか?」木乃香が、何だろう、ほにゃっとしてて、安心する笑顔でキリの手を引っ張った。ママ以外の人とお風呂に入るのは初めてだし、少し恥ずかしかったけど……やっぱり、嫌じゃない。「ほら、早くしないと、小太郎さんと話す時間がなくなってしまいますよ?」ぽんっ、て後ろから刹那が、キリの背中を押してくれた。びっくりしたけど、それもすごく優しくだったから、やっぱりキリは、全然嫌じゃなかった。それどころか、すごく、何だろう……胸がほわってする……。だからキリは、少しだけ笑って、二人に頷いた。「……うん」……変なの、悲しくないのに、何だか目がぼんやりするよ。「うわー……キリちゃんのお肌すべすべやぁ……」キリの背中を洗ってくれてた木乃香が、嬉しそうにそう言ってくれた。「そ、そうなのかな? ……ママ以外の人と、お風呂入ったことないから、良く分からない……」「そうなんや? ホンマに綺麗やえ? 羨ましいなぁ……」「ふふっ、お嬢様も十分に綺麗な肌をされてると思いますよ?」「いやいや、それを言うたら、せっちゃんかて……ほぉれ、ぷにぷにー♪」「ちょっ!!!?お、お嬢様っ!!!?」キリの隣で髪の毛を洗ってた刹那の背中を、木乃香がぷにぷにと突いてる。刹那はびっくりして飛び上がってたけど、やっぱり嫌そうじゃなかった。……変なの、嫌じゃないのに、どうして慌ててるんだろ?木乃香は、刹那が息をはぁはぁと切らすまで、背中を突くと、キリの方に振り返った。「あはは、お待たせキリちゃん。そろそろ石鹸流さんとな」「うんっ」木乃香が優しく笑ってくれたから、今度はキリもちゃんと笑って頷いた。ママやお兄ちゃん以外の人に、こんな風に笑えるなんて、今まで全然思ってなかった。ドキドキしながら待ってると、木乃香はゆっくりと、キリの身体についた泡を、シャワーで洗い流してくれた。お湯は温かかったけど、何でかな? さっき木乃香にぎゅってされたときの方が、もっと温かった気がした。お風呂から上がったら、木乃香がにこにこしながら、服を持って来てくれた。キリが着てた服は泥だらけだったから、木乃香が洗濯してくれるって言ってた。お兄ちゃんと話して、ここに帰って来る頃には乾いてるって。ここに帰って来るつもりはなかったから、不思議だなって思ってたんだけど、お兄ちゃんの住んでる所は、本当は女の子が入っちゃダメなんだって、刹那が教えてくれた。だから今日は、刹那がキリのことを泊まらせてくれるんだって。誰かのお家にお泊まりしたことなんてなかったから、すごくドキドキする。刹那のお家には、もう一人刹那のお友達が一緒に住んでるんだって。知らない人は、やっぱりちょっと怖かったけど、刹那と一緒なら平気な気がした。「はい、キリちゃん。ウチのおさがりやから、多分サイズは合うとるはずやえ」キリは木乃香が持って来てくれた服を受け取って、着替えることにした。白いロングTシャツに、ジーンズ生地のスカート。どっちも乾燥剤の匂いと一緒に、少しだけ木乃香の匂いがした。……やっぱり、少しほわってする。サイズは少しだけ大きかったけど、そんなに気にならなかった。「良かったですね。良く似合ってますよ、霧狐さん」刹那が木乃香とは少し違うけど、優しい笑顔でそう言ってくれる。何だか嬉しくなって、キリは精一杯の笑顔で頷いた。「ありがとう、木乃香、刹那……」また少しだけ、目の奥がぼんやりした。SIDE Kiriko OUT......霧狐を女子寮の前で待ちながら、俺は学園長と電話をしていた。もちろん、彼女の出自について確認がとれたかどうかを尋ねるために。学園長の話によると、霧狐はちゃんと13年前に出生届が提出されているらしい。ということは、俺より1つ下になるのか。「ほんなら、霧狐の経歴は白やったんやな?」『いや一概にそう言い切ることは難しいのう。何せ6年前からの経歴は、母子ともに行方不明となっておるのじゃ』「行方不明?」人里離れた場所に住んでいないにしても、行方不明扱いというのはどういうことだろうか。『まるで何かから逃げるように、6年前からの経歴はまったく追えなくなっておる。これから彼女に聞いた住所へ、人を派遣してみるつもりじゃ』「逃げるみたいに、ね……とりあえず了解や」6年前、か……さっき霧狐自身も6年前に村を出たと言っていたし、証言は一致している。しかし、逃げるようにってのは、気に掛かるな。それも含めて、彼女に後で聞いてみる必要があるだろう。……その空白の6年の間に、兄貴との接点がないとも限らない。正直な話し、俺に無邪気な笑顔を向け、他者に怯える様子さえ見せる彼女が、あのクソ兄貴の刺客だとは思いたくはないが。それに、彼女は仮にも俺の妹だと名乗り、俺を心から慕ってくれているのが分かる。そんな彼女を疑うなんて真似は、少なからず俺の胸を締め付けていた。『……気持ちは分かるが、努々油断するでないぞ?』「……わぁってるわ。相手はあの兄貴や、何があっても不思議やない」心配そうな様子で言った学園長に、俺はいつになく真面目な口調で、そう返していた。そう、いくら用心を重ねても、用心し過ぎるということはないのだ。例えそれが、血を分けた肉親を疑っているとしても。あの兄貴なら、人の心さえ、良いように操れる可能性があるのだから。『……うむ。出来るだけ早く、彼女の母親と接触できるよう計らおう。それまでは、スマンが辛抱してくれ』「別にあんたが謝ることとちゃうやろ? ……よろしく頼むわ」学園長が了承の言葉を告げるのと同時に、俺は終話ボタンを押した。もし霧狐が、こんなときに来ていなければ、もっと素直に、肉親に会えたことを喜べただろうに。柄にもなく、センチメンタルな気持ちになりながら、俺は桜の花が舞う空を仰いだ。「コタくーんっ!!」「お兄ちゃーんっ!!」「お?」女子寮の方から呼びかけられたことで、俺は一端思考を中止した。振り返ると、さっきとは違う服に身を包んだ霧狐の手を引いて、木乃香がこちらへと駆け寄って来ていた。その少し後ろを、慌てた様子で刹那が付いて来ている。木乃香に手を惹かれた霧狐は、先程までの怯えようが嘘のように、楽しげな笑みを浮かべていた。釣られて、俺も笑みを浮かべる。先程の学園長との会話で感じた暗い気持ちが、少しだけ払拭された気がした。俺の下まで辿り着くと、霧狐は嬉しそうにはにかんだ。「お兄ちゃん、木乃香がお洋服貸してくれたんだよ」似合うかな? と霧狐はその場で両手を広げて見せた。俺は笑顔でそれに頷いて、改めて、木乃香と刹那に礼を言った。「ああ、良く似合うてる。木乃香、刹那、ホンマおおきにな」俺の言葉に、木乃香ははんなりと笑って首を振り、刹那はそれを見て、楽しそうに笑みを浮かべた。「別に構へんよ。こんな時間にお風呂に入るん、新鮮でおもろかったしな」「ええ、屋敷にいたころの水浴びを思い出しました」「そう言ってもらえると助かるわ」二人と談笑していると、ぎゅっ、と霧狐が俺の手を握った。「刹那も木乃香も、すっごく優しいね。キリにお姉ちゃんがいたら、あんな風なのかな?」「あはは、何やったら、今度からウチのことは『お義姉ちゃん』て呼んでくれても……」「きっ、霧狐腹減ってへんか!?」木乃香が馬を射ようとしたため、俺は慌てて彼女の言葉を遮った。た、頼むからこんな無垢な子を、そういうのに巻き込むのは勘弁してくれ。木乃香はおもしろくなさそうに俺をジト目で見ていたが、もうそれはこの際スルーの方向で。―――――きゅるきゅる……俺の言葉に反応したのか、霧狐の腹が、可愛らしい声を上げた。「あ、あう……そう言えば、昨日から何も食べてなかったよ……」恥ずかしそうに霧狐は頬を赤らめて苦笑いを浮かべた。まぁ、一晩中刀子先生達と追いかけっこをしてたんだ、食事してる余裕もなかっただろう。俺はにっと笑って、彼女に言った。「ほんなら、飯食いながらゆっくり話すか。俺に用事があってんやろ?」「うんっ!! お兄ちゃんに聞きたいことが、たくさん、たくさんあるんだよっ!!」霧狐は目一杯の笑顔で、そう頷いた。「ちゃんと門限までに送ってきたらなあかんえ?」いつの間にか、普段通りの笑顔に戻った木乃香が、俺にそんなことを注意する。俺は笑顔で頷いて、それに返事した。「わぁっとるよ。刹那、スマンけど、今晩はよろしゅうな」「はい、私も妹が出来たみたいで、少し楽しみにしてますから」俺の言葉に、刹那は優しい笑顔で頷いてくれた。そんな二人に笑顔で手を振って、俺は霧狐の手を引いて歩き始める。手を振り返す二人が見えなくなるまで、霧狐はずっと手を振り続けていた。「お兄ちゃん……」「ん?」二人の姿が見えなくなって、不意に霧狐が俺の名前を呼んだ。「人間って、怖い人ばっかりじゃないんだね……」霧狐はどこか切なそうに、愛おしそうに、そう呟いていた。だから俺は、彼女と繋いでいた右手と、反対の左手で、優しく彼女の頭を撫でて答えた。「……ああ、そうやで。俺の仲間はな、みんなそういうやつばっかりや」いつか霧狐にも紹介してやる、そう続けて微笑むと、今度は満面の笑みを浮かべて、霧狐は頷いた。「うんっ!! 楽しみにしてるね!!」女子寮を後にした俺は霧狐と二人で、世界樹の広場まで来ていた。霧狐はしきりに世界樹を見上げて、すごいすごいと声を上げていて、その様子がとても微笑ましかった。いつか高音と話したカフェテリアで、食事を済ませて、今は食後のティータイムを味わっているところだ。「ふぅ~~~……すごいね。人の街って、こんなにいろんなものがあったんだ……」注文したココアを一口啜って、霧狐はまたも関心の言葉を零していた。本当に、何も人里のことを知らずに育ったらしい。俺は苦笑いを浮かべながら、霧狐にこれまでの事を尋ねてみようと思った。しかし、俺が言葉を紡ぐよりも早く、霧狐がこんなことを呟いていた。「……キリが半妖じゃなかったら……ううん、ちゃんと力を使えれば、ママとこんな場所で暮せたのに……」悲しげな、悔しそうな表情で、本当にぽつりと、零すように霧狐は呟いた。力を使えない? どういうことだ?麻帆良に来たばかりの俺みたいに、魔族としての魔力が引き出せないということだろうか?いや、それにしては、霧狐の様子は、随分と思いつめているような様子だった。俺は改めて、霧狐にこれまでどうやって過ごして来たのかを尋ねてみようと思った。それが決して、穏やかな日常ではなかったことは、想像に難くない。しかし、それでもなお、そこに踏み込まなければ、俺は彼女と、本当の意味で『兄妹』になれないと、そう感じた。だから俺は、もしかすると霧狐にとっては、思い出すことさえ苦痛なのかもしれないその記憶を、彼女に求めた。「霧狐は、これまでどうやって暮らしてたんや? 何で、自分のお袋と二人だけで生きてきたんや?」その俺の問い掛けは、霧狐にとって想定の範囲だったのかもしれない。さほど驚いた様子はなく、しかし、霧狐は悲しげに目を伏せて、しばらく、どう答えたものか、迷っている様子だった。やがて、考えがまとまったのか、霧狐はゆっくりと顔を上げ、重々しくその可愛らしい唇を開いた。「霧狐はね、妖の血に負けたんだ……」その言葉を皮切りに、霧狐の口から、少しずつ、少しずつ、彼女が歩んできた物語が紡がれ始めた……。それは、今から十年以上の昔の出来事。とあるイタコの集落で生まれた、少女のとある失敗から、全ての物語は始まった。その少女は、優秀なイタコの家系に三女として生を受けた。優秀な両親の血を受け継いだ二人の姉と比べ、少女は魔力が少なく、使える術も一向に増えなかった。いつもいつも、優秀な姉と比べられ、少女は劣等感にさいなまれ続けていた。そんなある日、少女は家の書庫から、とある術が記された呪術書を持ちだした。その書物は、実体を持った妖怪、魔族を召喚する、特殊な召喚術を記したものだった。これに成功して、強大な妖怪を使い魔に出来れば、姉たちを見返すことが出来る。そう思った彼女は、居ても立ってもいられず、霧の濃いある晩、家を抜け出し、村はずれの森で一人、召喚術を実行した。しかし少女の考えは甘かった。たとえ、召喚に成功したとしても、彼女の魔力では、契約出来る妖怪などたかが知れている。もし自身の力量を、はるかに上回る妖怪を召喚したら?そしてその妖怪が、決して人間に友好的でなかったなら?そんな可能性を、少女は全く考えていなかったのだ。しかし、少女の期待通り、召喚術は成功してしまった。彼女が呼び出したのは、大人10人分はあろうかという、巨大な蛇の妖怪だった。すぐに契約を結ぼうとする少女だったが、案の定と言うべきか、大蛇は静かに首を横に振った。そして、大きく裂けた口を三日月に歪めて、少女にこう言った。『身の程を知れ小娘。貴様なんぞ、我が糧となれるだけでも光栄だと知るが良い』少女の顔から、さっと血の気が引いた。確実に殺される、少女は本能的に、そう感じたという。しかし彼女には、その死に抗う術はなかった。後悔とともに、自分の愚かな行為に絶望したその瞬間だった。どういう訳か、彼女が描いた召喚陣が、再び輝いたのだ。そこから現れたのは、黒い髪に、肉食獣のような闘気を放つ、獣染みた一人の男だった。その男は、腰に下げた太刀を引き抜くと、それを大蛇に付きつけてこう言った。『テメェ……何、良い女泣かせてんだ?』そして男は、自らに向かって大口を開け、禍々しい牙を剥いたその大蛇を一刀の下に斬り伏せた。それは紛れもなく、少女が望んだ、強大な、揺るがぬ力の顕現に相違なかった。男は刀についた血を払い、それを鞘に納めると、少女に駆け寄りその頭を優しく撫でて、笑みを浮かべた。『安心しろ。もう大丈夫だからよ』その笑顔に、少女は一目で恋に落ちた。何としてでも、その男を自身のモノにしたい。そう思った少女は、男に想いの丈を、自らが召喚陣を描いた理由を包み隠さず話した。しかし、男は首を縦に振ることはなかった。男にとって、自分以外の誰かの命で闘うことは、その矜持に対する、最大の反逆だったのだ。少女は俯き、もう一度絶望を感じていた。しかし次の瞬間、男は何を思ったのか、少女を抱き寄せると、彼女の耳元でこんなことを囁いたのだ。『……お前のモノにはなってやれねぇが、お前を俺のモノにしてやることはできるぜ?』今一度、少女は、それに抗う術を持たなかった。それから数日が経ち、少女はあの一夜を、自分の夢だったのではないかと感じるようになっていた。しかしながら、鮮烈残る、あの男の斬撃が、自分を抱き寄せた力強い腕の感触が、全てがその夜の出来事が、現実だったと思い知らせた。そして、その一夜の出来事が、現実だったと決定付ける出来事が起こる。少女はあの男の子を身籠っていたのだ。周囲はその事実を訝しみ、少女に厳しく問い詰めた。少女は止むに止まれず、全ての事情を両親に打ち明けた。その事実に、少女の父は怒り狂い、母もまた、厳しく少女をなじった。それでも少女は、愛しいあの男の子を産みたいと、この手で育てたいと、自らの意志を、最後まで貫いた。そして1年の歳月が過ぎ、少女は子を産んだ。狐の耳と尾を持った、元気な女の子だった。イタコの家系であった少女にとって、その娘が持つ特徴は、一層娘を愛おしく感じさせた。少女は母となり、その娘に『霧孤』と名付けた。濃霧の中で出会った得体の知れぬ強い男、その男との間に授かった狐の娘という名を。あれだけ出産に反対していた両親も、霧狐が狐の半妖であったこと、父譲りの強い魔力を有していたこと。そして何より、霧狐の無垢さ、純粋さにほだされて、いつしか自らの孫として可愛がるようになっていたという。特に祖母は、霧孤の母が子どものときよりも、幾ばくも優秀だと彼女を褒め、手ずから術を指南してくれた。狐の半妖であった霧狐は、物心ついたころから火を操る術を得意とした。それに目を付けた祖母は、より強力な火術を霧狐に授けようと、霧狐が6つになったある日、彼女を外に連れ出した。しかしその祖母の好意が、悲劇を招いた。今まで以上の魔力を引き出そうとした霧狐は、自らに流れる妖怪の血に負け、理性を失った。霧狐は魔力を使い果たすまで暴れ、村の家屋という家屋を焼いた。一尾だった霧狐の尾は、いつの間にか二尾に裂けていた。魔力を使い果たした霧狐は、母と祖父の手によって、家に貼られた結界の中に寝かされた。目を覚ました霧狐の耳に入って来たのは、喧々諤々と言い争う、母と祖父母、家を焼かれた村人たちの声だった。『……妖怪なんぞと契るから、こんなことに……』『……幸い怪我人は出なかったが、いつまた、このようなこと起こるか分からんぞ!?』『……やはり産むべきではなかったのだ!!』『……家を焼く霧狐の目は、とても人がするようなものじゃなかった!!』あれだけ自分に優しくしてくれた祖母までもが、霧狐を強く罵っていた。指一本すら動かせぬ程に封じられた状態で、霧狐は己が行ったらしい惨劇を耳にし、ただただ身を震わせた。やがて、霧狐の祖父がこう言った。『……已むを得ん。こうなっては、次にこのようなことが起こる前に、あの子を殺す外あるまい』そうか、自分は悪いことをしたから、お祖父ちゃんに殺されるのか。けど、殺されるって、死ぬって何?死ぬって、痛いのかな?痛いのは嫌だな……。動くことの叶わない身体で、霧狐はぼんやりと、そんなことを考えていた。『……ならばそのお役目、私に任せては頂けませんか?』我が子の命を背負うのも、母の役目だと存じますと、震える声で霧狐の母は言った。断腸の想いであっただろう彼女の言葉に、場にいた全ての人間が息を飲んだ。霧狐は、それで母が救われるなら、それで良いと、安心して意識を失った。それから一夜が明け、霧狐が目を覚ますと、そこは今まで見たことのない山の中だった。自分が母の背に背負われていることに気が付いて、霧狐は母に尋ねた。自分はあの村で、殺されるはずではなかったのか、と。母は少し驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑みを浮かべて言った。『大丈夫、キリはママが護るから』それからは母と二人、転々と住まいを変えながら、自給自足の生活を続けた。最初の3年目程は、村からの追手と、交戦することも何度かあった。その最中、霧狐は何度か暴走することもあったが、母のおかげで、今まで人を殺めることはせずに済んだ。泣きながら謝る霧狐に、母は同じように泣いて謝った。自分に才能がなかったばかりに、霧狐に悲しい想いをさせてしまっている、と。しかし、霧狐はそうは思わなかった。自分は母のおかげで、今も生きていられる。母のおかげで、辛くても、人の温かさを感じながら生きていられる。母は自分にとって無二の、何物にも代えがたい、かけがえのない、大切な存在だった。だからこれは、自分のせい。妖怪の血を抑えられない、自分が招いている災害。自分に、この血を抑える力があれば。妖怪の血に負けない、精神力があれば。もう母を悲しませずに済むのに……。そんな想いを抱きながら、霧狐は村を出てからの6年間を過ごして来た。霧狐の話を聞いた俺は、思わず息を殺していた。それも当然だろう。自分も大概酷い半生を送って来たと思っていたが、霧狐は自分より幼い頃から、過酷な道筋を歩んで来ていたのだから。全てを話し終えて、霧狐は俯きながら、こう続けた。「3年前にママが口寄せでパパを呼んで、キリにお兄ちゃんがいるって初めて知ったの」恐らくその口寄せも、たまたま成功しただけのものだったのだろう。その中で得られた、二人に残された数少ない希望が、俺の存在だったという訳だ。それは血眼になって探しもする。「けど、お兄ちゃんのいた村にキリたちが着いた時には、もうそこに何も残ってなくて、近くに住んでた呪術師さんにママが聞いたら、少し前に全滅したって言われて……」その絶望に打ちひしがれながら、彼女たちは今まで、逃亡生活を続けて来たのだろう。頼るものは、互いに母子しかいない状況で。そこまで話して、俯いていた霧狐が、突然顔を上げた。目には大粒の涙が滲んでいたが、その表情は、まるで死地で希望を見つけたかのような笑顔だった。「……だから、お兄ちゃんが生きてるかもって知ったとき、キリはすごく嬉しかったよ」自分と同じような宿命を背負った者が、この世界にまだいるという事実に。しかし、彼女の喜びは、それだけが理由じゃなかったらしい。「もしかしたら、お兄ちゃんなら、妖怪の血に負けない方法を知ってるかもしれない。それを教えてもらえたら、キリはもうママを悲しませなくて済むかもしれない」そう思ってここまで来た、と霧狐は涙ながらに言った。……そうか、そのために、危険を押して、麻帆良に侵入したのか。これで、彼女が必要以上に他人を恐れる理由にも納得がいく。幼い頃から、命を狙われ続けて来た彼女にとって、己と母意外に、味方の無い生活を送ってきた彼女にとって、見知らぬ者は全て敵に違いなかった。だから、半妖である自分を否定せず、その存在を受け入れてくれた木乃香の優しさを喜び。自分と同じ、半妖としての宿命を背負った刹那に、僅かばかり心を開いたのだろう。そこまで考えて、俺はゆっくりと目を閉じた。……やはりこの子は、学園長が危惧するような、そんな存在じゃない。霧狐の過去を聞いた今、俺にはその確信があった。ならば俺は、彼女の兄として、出来得る限りの、全てをしてやりたい。『弟を守るんは、兄貴の役目や』いつか、頼もしい笑顔とともにそう言った、兄の姿が脳裏をよぎった。だからきっと、今俺が浮かべようとしている表情も、霧狐にとって、そう在って欲しい。そんなことを願いながら、俺は霧狐に笑みを向けていた。「……なら、これからしっかり自分のこと鍛えたらんとあかんな」「え……?」言葉の意味が分からなかったらしい。霧狐は、目を白黒させて、不思議そうな声を上げた。「妖怪の血に勝つには、強い精神力が必要なんやて。せやから、それを身に付けられるよう、俺が自分のこと鍛えたるわ」「け、けどっ、キリはいつ追手に狙われるか分からないんだよっ?」俺の提案が、一朝一夕で成り立たないことに気付いて、霧狐は慌ててそう尋ねた。それはそうだろう。だったらなおのこと、霧狐には……いや、霧狐の母親にも、麻帆良にいて貰った方が都合が良い。「やったらなおさら、自分には俺の傍におってもらわんと困るな」「ど、どうしてっ?」もう一度、俺は力強く笑って、不安そうな顔をする霧狐に言った。「―――――近くにおらんと、その追手から自分らを護られへんやろ?」「っっ!?」息を飲んだ霧狐が、ぽろぽろと大粒の涙を流した。それは自分の命を危険に曝す行為だっていうのは、十分に理解している。しかしそれは、俺が彼女を遠ざける理由になりはしない。彼女が俺を頼って、俺との血の繋がりだけを信じてここまで来たというのなら、彼女はもう、俺にとって『大切な存在』だ。俺が望んでいるのは、それを護るための力であり、それを護る生き方だ。ならば甘んじて、その危険を俺は飲み込もう。それが、霧狐と俺の絆になると、俺はそう信じていた。霧狐の母親に関しては、学園長に頭を下げることにはなるだろうが。それでも、麻帆良以上に安全な場所は日本にはないだろう。そういう意味でも、霧狐が俺を頼ってくれたのは僥倖だったと言える。可愛い顔をくしゃくしゃにして、霧狐は涙を流した。溢れだした涙は、止まる事を知らず、彼女がそれを拭っても、次から次へと零れていった。「へ、変だよっ……悲しくないのにっ……嬉しいのにっ、涙、止まんないよぅっ……」嗚咽を零し続ける彼女の頭に、俺はそっと手を伸ばした。「何や、霧狐は泣き虫さんやなぁ」そんなんじゃ、いつまで経っても強くなれへんぞ、と冗談めかして言うと。霧狐は溢れる涙をそのままに、嬉しそうにはにかんで、何度も何度も頷いた。「ぐすっ……うんっ、キリ、強くなるよっ……ありがとう、お兄ちゃんっ……ありがとうっ……」自分自身に誓うように、霧狐は何度もそう言った。そんな彼女の様子が嬉しくて、俺はもう一度笑みを浮かべて、彼女の頭を撫でた。彼女が泣き止むまで、ずっと。霧狐が泣き止んでから、俺たちはしばらく他愛のない話をしていた。といっても、霧狐の質問に俺が答えていただけだが。それでも互いに違う時間を過ごして来た俺たちは、それだけのやり取りで、どこか本当の『兄妹』に近付けたような気がしていた。嬉しそうに笑う霧狐の様子を見ていると、本当に心が温かくなる。やはり、家族というものは良いな……。久しく忘れていた感覚に、思わず頬が緩んでいた。「ねぇ、お兄ちゃん。ずっと気になってたんだけど、その袋って何が入ってるの?」不意に、霧狐が俺の持つ竹刀袋を指して言った。「何でかな、ずっと懐かしい匂いがするの……」不思議そうに首を傾げながら言う霧狐。さすがは狗族の端くれ、鼻は相当に効くらしい。まぁ、俺のことも匂いで見つけてた節があったしな。本来はこんな公共の場で披露するような品じゃないんだが、まぁ本物とは思われないだろうし、出しても構わないかな?そう思いながら、俺はおもむろに、影斬丸を竹刀袋から取り出した。「それ……カタナ?」「おう、銘……名前は影斬丸。俺が唯一親父から貰ったもんや」「パパからっ!?」親父という言葉に、霧狐はがばっ、と身を乗り出した。さっきの霧狐の話を聞く限り、霧狐の母親は、親父に大分幻想を抱いてるみたいだったからな。そんな母親から親父の話を聞いていた霧狐も、相当に親父のことが気になっているのだろう。霧狐は目を爛々と輝かせて、黒い鞘に収まった影斬丸と俺の顔を交互に見ていた。「え、えと……触っても平気かなっ?」「ん? まぁ、構へんで。ただ危ないから抜いたらあかん」それ以上に、影斬丸の魔力にあてられて、霧狐が暴走すると敵わないからな。今はそれでも、俺の方が強いだろうが、さすがにこんな大勢人がいる前でそれをやるのは勘弁してほしい。そんなことを考えながら、霧狐に影斬丸を手渡すと、彼女は恐る恐るそれを受け取って、すんすん、と可愛らしく鼻を鳴らした。「……これ、パパの匂いだったんだ……だから懐かしかったんだね……」そう呟いて、霧狐は愛おしむように、影斬丸を見つめた。俺と違って、親父所縁の物を何も残されていない様子だし、彼女にとって、この刀は親父を知るための数少ない断片なのだろう。そう思いながら、俺は刀を見つめる霧狐を、優しく笑みを浮かべて眺めていた。そんなときだ。『わおーんっ!! わおーんっ!!』「うひゃあっ!?」携帯がけたたましく遠吠えを上げた。その音に驚いた霧狐が、慌てて影斬丸と落としそうになっていた。おっかなびっくりという様子で、こちらをじっと見つめてくる。そんな様子に苦笑いを浮かべて、俺は携帯の背面ディスプレイを覗いた。表示は『麻帆良学園』となっていた。恐らくは学園長だろう。最後に連絡して2時間ばかりが経っているしな。霧狐の母親と連絡がついたのかもしれない。とはいえ、霧狐にその話を聞かせるのは気が引けるな。スピーカから離れていても、彼女の耳だと、通話が聞き取れるだろうし。自分が今の今まで疑われていたなんて、とてもじゃないが気分の良いものじゃないだろう。俺は仕方なく、霧狐に謝りながら席を立ち、男子トイレまで駆けて行った。「もしもし?」『もしもし、中々繋がらんから手遅れだったかと思ったぞい』その様子では、大丈夫そうだ、と学園長は、心底安堵したような様子でそう言った。俺はその言葉の意味を図りかねて、学園長に尋ねた。「どういうことや? 霧狐の母親と連絡が取れたんとちゃうんかい?」『うむ、なかなか探すのに骨が折れたがのう。しかし、そのおかげでちょっとばかし厄介なことになってしもうた』電話越し学園長の声は、今朝と同じ、切迫したというか、重々しい雰囲気を纏っていた。俺も頭を完全に切り替えて、その言葉の続きを促す。「厄介なことって、どういう意味や?」『うむ……結論から言うと、霧狐君に黒の可能性が出て来た』「なっ!? そんなバカな話しがあるかいっ!!!?」俺は周囲の目も気にせず、電話越しの学園長に怒鳴っていた。霧狐が黒だと? そんなバカなことがあって堪るか!?母のために強くなりたいと、人の優しさに涙を流すような、そんな彼女が兄貴の片棒を担いてるなんて、そんなはずはない。彼女の見せた表情が、俺に聞かせた話が全て演技だなんて、そんなこと信じたくはなかった。『気持ちは分かるが、落ち着いてくれんか……本来初めに気が付くべきだったのじゃ、彼女がここに来たということは、何者かが君の存在を九条親子に示唆したはずじゃと』「っっ!?」学園長の言葉に、俺ははっとした。そうだ……何で今までそれに思い至らなかった。そもそも、霧狐みたいな子どもが、単身麻帆良に乗り込んで来るなんて、不可能に近いのに。つまり彼女に俺の存在を伝え、麻帆良への侵入を手引きした第3者の存在があったはずだ。学園長は相変わらずの調子で、話を続けた。『母親の話じゃと、3日前に出会った旅の呪術師から、君の話を聞いたそうじゃ』「3日前? ……おいジジィ、まさかその旅の呪術師いうんは……」奴が姿を見せたのは1週間前、5日前ということは、皮肉にもちょうど計算が合う。俺は最悪の想像をしながら、その呪術師が何者なのか学園長に尋ねた。出来ることなら、俺の期待を裏切って欲しいと、そう願いながら。しかし学園長が口にしたのは、無情にも、俺が最も忌避していた男の名だった。『―――――呪術師はただ、半蔵、と名乗ったそうじゃ』―――――ズドォォンッッ……俺が息を飲んだのとほぼ同時、霧狐が待つ場所から、膨大な魔力と衝撃が感じられた。