兄貴の式紙を相手に、俺はいつも通り、森の中で体術の稽古に励んでいた。生い茂る木々の間を、必死の形相で駆け抜ける。少しでも気を抜けば、追ってくる式神に確実にやられる。何とかあれを送り返す手段はないものかと考えを巡らせていたせいだろう。俺は普段なら絶対に飛び乗らないような、細い枝に着地してしまっていた。―――――パキッ『っっ!?』しまったと、そう思ったときにはもう遅く、俺は重力に引かれて、遥か眼下の地面へと引き寄せられていた。このとき、虚空瞬動も浮遊術も使えなかった俺には、それに抗う術は残されていなかった。もう今更仕方ない。兄貴には絞られてしまうだろうが、最悪でも、骨折で済むだろう。そう思って、受身を取る態勢を作る。いよいよ地面と衝突する、そんなときだった。『小太郎っ!!』『っ!?』悲鳴染みた呼びかけと共に、兄貴が俺と地面の間に割って入った。横から滑り込んだせいだろう、兄貴は俺を受け止めてから、数m滑ってから、ようやく動きを止めた。『大丈夫か!?』『お、おう……』驚いて目を白黒させる俺に、心配そうに問いかける兄貴。俺はおずおずと、それに頷くばかりだった。『ドジなやっちゃなぁ……飛び乗る枝くらいきちんと見分けんかい』『う……す、スマン』呆れたように苦笑いを浮かべて、兄貴は俺の頭をぽんぽんと軽く叩いた。『まぁ、気にすんなや。弟を守るんは、兄貴の役目や』清々しい笑みとともにそう言った兄貴は、本当に、それこそ何よりも頼もしい存在に思えた。「……ヤな夢やったなぁ……」久々に寝覚めの悪さを感じながら、俺はゆっくりと体を起こした。時の流れは早いもので、気がつけば俺が麻帆良に来てから季節が一巡りしていた。つまるところ、今は2年への進級を控えた春休みという訳だ。「ばうっ」俺が目覚めたことに気が付いたのだろう、いつもより少し控えめにチビが鳴いた。拾ったときは、片手で抱え上げられるほどに小さかったチビは、いつの間にやら、俺よりも遥かに大きくなっている。おそらく4mは下らないであろう巨体で、俺の自室のフローリングを完全に一匹で占拠していた。さすがにそろそろ人前に出すのはヤバい感じなので、外を歩くときは幻術で1.2m程の大型犬の姿を取って貰う。うん、チビ自分で幻術使えるようになったんですよ。最近では戦闘訓練でも5回に1回は俺を圧倒するようになってきたし……本当、魔獣パネェっス。俺はそんなチビの頭に軽く手を置いて朝の挨拶をした。「おはようさん」「ばうっ」しっかり返事をするチビに笑みを浮かべて、俺はベッドから降りた。時刻は午前7時。せっかくの休みなので、こんなに早い時間に起きる必要はなかったのだが、目覚めてしまったなら仕方がない。チビの散歩がてら、少し外の空気を吸いに行こうか、そう思ったときだった。『わおーんっ!! わおーんっ!!』お馴染みとなった犬の鳴き声で、携帯が鳴った。充電器に掛けていたそれを持ち上げると、背面のディスプレイには『麻帆良学園』の文字が表示されていた。ということは学園長だろう。つい一昨日も厄介事を引き受けたばかりなのに、また何かあったのだろうか?俺は溜息交じりに通話ボタンを押した。「もしもし?」『もしもし、小太郎君。良かった、もう起きておったようじゃの』電話口から聞こえたのは、予想通り、学園長のしわがれた声だった。しかし、その口調はいつもの飄々としたものではなく、1年前の妖怪、半年前の兄貴による襲撃を想わせる重々しい口調だった。「……何や、あんまし楽しそうな話とちゃうみたいやな?」『……うむ、少々、並みの魔法生徒には手に余る厄介事が起きての。電話では盗聴されとる恐れもある。急ぎ、学園長室まで来てくれ』俺の勘は当たっていたらしく、妙に切羽詰まった様子で俺そう命じた。二つ返事で了承の意を示して、俺は静かに終話ボタンを押した。どうやら、一昨日の比じゃない、厄介事が舞い込んできたらしい。「やれやれ……春休みは俺にとって鬼門にでもなっとるんかいな……」そう吐き捨てるように呟いて、俺はすぐに身支度を始めるのだった。着替えと簡単な身支度だけを終えると、俺はゲートを何度か使用し、すぐに女子中等部校舎を訪れていた。休みのため、殆ど人はいなかったが、学園長室の前で、俺は見知った顔を見つけて、目を丸くした。「刹那やないかい?」「小太郎さん?」俺がそう声を掛けると、向こうも俺がいることが意外だったらしく、驚いたような顔をした。刹那はいつも通りの制服姿だったが、髪形はいつもの片結びではなく、下ろした状態で、後ろに一房を俺の贈ったバレッタで留めていた。最近では、木乃香の傍を離れるときは、いつもそのスタイルらしい。俺の贈った品が存外役に立っているようで、素直に喜ばしかった。「自分も学園長に呼び出しか?」「ええ。ということは、小太郎さんも、ということですね?」ああ、と短く答えると、刹那は少し嬉しそうな表情になった。実は、かくいう俺も少し刹那と呼び出されたことを喜んでいたりする。昨年の春休み以降、彼女の相方はもっぱら真名が努めていた。逆に俺は、単独で任務に就くことが多かったため、こうして信頼できる相方がいるのは非常に嬉しい。しかし、それとは逆に、一抹の不安も頭をよぎる。俺と刹那は、現状の魔法生徒の中……いや、一部の例外を除けば魔法先生を含めても、特に戦闘に特化した人員だ。それが鴈首を揃えて召喚されたとなると、今回の厄介事とやらは危険なものだということだろう。同じことを考えたのだろう、刹那の眉間に皺が寄った。「まぁ、蓋を開けてみらんことには、話は始まらんやろ?」「……そうですね。では……」俺の言葉に頷いて、刹那はいつかのように、学園長室の扉をノックした。「兄貴が見つかった!?」学園長に話を聞かされた俺は、思わずそう叫んでいた。そう、昨年の7月に木乃香を狙って来た兄貴は、その後の消息を完全に経っていた。しかしそのクソ兄貴が1週間前、関東魔法協会の魔法使いと戦闘になったというのだ。俺の言葉に学園長は重々しく頷いた。「左様……1週間前、岡山の真庭市勝山において、殺生石の欠片の管理に当たっておった魔法使いより連絡があった」「殺生石て……あの玉藻の前が化けたっちゅう、あの殺生石かいな!?」再び、学園長はゆっくりと頷いた。まさか、あのクソ兄貴、酒呑童子の次は、玉藻の前……九尾の狐を復活させようって魂胆か!?……冗談じゃない!!「その殺生石の欠片は無事なのですか?」俺の気持ちを代弁するように、刹那が学園長に尋ねた。しかし、期待を裏切って、学園長はゆっくりと首を横に振った。「岡山の欠片だけではない、栃木県那須町の大元を始めとし、福島県白河市他、現存する全ての欠片が偽物にすり替わっておったそうじゃ」「っちゅうことは、殺生石……九尾の身体は、全部兄貴に渡ってもうたっちゅうことかいな?」「そう考えて間違いないじゃろう」……最悪じゃないか。前回の酒呑童子は、伝承に基づき、その首が埋葬されたとされる土地の土でその肉体を再現しようとしていた。対して、今回の九尾は、その死体であるとされる、殺生石そのものが奴の手にある。最悪の場合、記憶から魔力から、全てをそのまま引き継いだ白面金毛九尾の狐、玉藻の前が、完全な形で復活する恐れすらあるということだ。そしてあのクソ兄貴のことだ、どこぞのへっぽこ呪術師のように、それを制御できないなんてことはないに違いない。しかし、わざわざそれを伝えるためだけに、俺と刹那を呼び出したとは考えにくい。学園長の真意は、もっと別のところにあるはずだ。そんな俺の心情に気が付いてか、学園長がこんなことを尋ねてきた。「話は変わるが、昨日の侵入者騒ぎは聞いておるかのう?」「いえ、私は何も……」「俺は聞いてるで? 刀子センセが発見したけど、逃げられてもうたっちゅう話やろ?」魔力的に見れば、大したことはない小物だったらしいが、逃げ足が速く、発見しても戦闘になる前に、ことごとく逃げられてしまうらしい。侵入地点が男子校エリアだったため、刀子先生を始めとした魔法先生達が、未だ血眼になって捜してるはずだろう。「けど、それとさっきの兄貴の話に何の関係があんねん?」全く持って関係のない話にしか聞こえなかったが。「うむ……実は葛葉君の証言じゃと、侵入者は狗族……それも、どうやら狐の妖怪らしい」「「っっ!?」」学園長の言葉に、俺と刹那が思わず息を飲んだ。それは、まさか……。「……その侵入者が、九尾だと?」震える声で、刹那が学園長に問い掛ける。学園長は力なく、首を軽く振った。「それは分からん。しかし、その可能性もゼロとは言い切れん」「まぁ、ホシが捕まってへんしな……せやけど、学園結界の反応やと、小物っちゅう判断やったんとちゃうんか?」「確かにの。しかし、彼奴が伝承通りの妖術使いであり狡猾で残忍な性格なら、結界を欺く程度朝飯前じゃろう」背後に君の兄上がおるのならなおさら、と、学園長はトーンの低い声で付け加えた。確かに、前回も兄貴は悠々と学園結界を破って見せていた。おかげで、学園結界はあの後、大幅な見直しを余儀なくされたらしいが、それも万全ではない。九尾と手を組んだとなると、なおさら平気で侵入している可能性が高い。「調査に当たっておった魔法先生・生徒は一端引き上げてもらい、魔法先生を1人含む3人1組の編成で班行動を義務付けた」「……妥当な判断ですね。もっとも、それすら安全だとは言い切れませんが……」学園長の言葉を受けて、刹那が苦々しく、そう答えていた。……なるほど、ようやく話が見えて来た。「つまり、俺らにもその調査に加われっちゅうことやな?」「左様じゃ。本来なら生徒を危険な目には遭わせとうないが、探し物は君の得意分野じゃろう?」学園長の言葉に、俺は力強く頷いて見せた。「任務の概要は把握しました。しかし、私達もどなたか教員の方との行動を義務付けられるのでしょうか?」「うむ。君らなら、下手な教員を付けるよりも良く働いてくれそうじゃがの。既に現地で葛葉君に待機して貰っておる」まぁ、妥当っちゃ妥当か。前衛に偏り過ぎた気がしなくはないが、式神殺しのある兄貴に、下手に呪術師や魔法使いを当てるよりリスクは低くなるからな。学園長に、別れを告げて、俺はゲートを開き、刹那とともに、刀子先生の待つ男子校エリアへと向かった。男子校エリア、学園結界境界線付近の森に、刀子先生はいつものスカートスーツではなく、ベージュのパンツスーツ姿で待っていた。髪も動き易さを重視してだろう、珍しくポニーテールでまとめられていた。「おはようございます、刀子さん」「お待ちどうさん。その様子やと、やっこさんはまだ出てへんみたいやな?」俺たちの到着に気付くと、刀子先生は昨日から捜索を行っているはずなのに、その疲れを微塵も感じさせない凛とした表情でこちらを振り返った。「おはようございます、刹那、小太郎。……ええ、先に出立した3班のいずれからも、発見の報告は上がって来ていません」苦虫を噛み潰すように、刀子先生は俺たちに現状を伝えてくれた。まぁ、そんな簡単に見つかるのなら、俺が呼び出されることはない訳だ。予想通りの返答に、俺は軽い笑みを浮かべた。「侵入者が使うた経路は、分かってるん?」「それも全ては……ただ、侵入口となったのは間違いなくこの地点です」刀子先生が指差したのは、学園結界の境界線、その一部だった。見ると、そこだけ足元の落ち葉が踏み荒らされていた。……ここまであからさまだと、逆に罠だとは思えないな。「刀子さんは、実際に敵と対峙したのですよね?」どのような様相でしたか、と刹那は刀子先生に問い掛けた。刀子先生は、短い溜息とともに答えた。「正直、九尾だとはとても思えません。体躯は140~150程度ですし、妖艶な女性とは見えませんでした。魔力自体も、それほど強くありませんでしたし……」「学園長の思い過ごし、だと……?」「そこまでは……ただ、そうであって欲しいという希望はありますが」刀子先生の言葉に、二人して、俺たちは頷いていた。そりゃあそうだろう。誰だって古の大量殺人者になんて蘇って欲しくはない。しかしながら、その確たる証拠を得るためには、やはりその侵入者に直接会って見るしかないだろう。「そんじゃ、早速スト―キングするとしますかね?」「? 小太郎、スト―キングって、どうやって敵を探すつもりですか?」肩を回しながら意気込む俺の言葉に、刀子先生が不思議そうに尋ねて来た。そう言えば、刀子先生には俺が匂いで探し物や、人探しが出来ることを言ったことがなかったか。というわけで、俺はかいつまんで、そのことを説明した。「え゛!?」途端、刀子先生は顔を青ざめさせて、カエルが引かれたような声を上げた。何だ一体?「刀子センセ? 一体どないして……」「す、ストップです小太郎!! そ、そそ、それ以上近付かないでくださいっ!!!!」俺が心配して顔を覗きこもうとすると、刀子先生はずざざっと、後ずさってしまった。……何でさ?「いや、ホンマどないしてん? 何か問題があったんか?」「大有りですっ!? あ、あなが犬と同等の聴覚を持ってるということは聞いていましたが、まさか嗅覚までだなんてっ……」「? せやから今回の捜索に駆り出されたんやんけ?」不思議そうに首を傾げる俺の肩を、刹那がぽん、と叩いた。「……小太郎さん、刀子さんが気にしてらっしゃるのは、そういうことじゃありません……」「? ほな、何のことやねん?」「き、昨日から不眠不休で捜索を行ってたからっ……け、決していつも入っていない訳じゃありませんからねっ!!!?」「…………」「……そういうことです。御理解いただけましたか?」疲れ切った表情で言う刹那に、俺は無言で頷いた。なるほどな……刀子先生は、自分が汗臭いのではないかと心配しているらしい。前に刹那をスト―キングしたときにも言ったけど、女の人の場合、汗の匂いより、髪からする甘い香りとかのが強くて、そんなの気にならないことが多いんだけどな。それに、ちょっと離れたくらいじゃ、俺の嗅覚からは逃げられない。というか、少しでも近くにいた時点で、そこに残った匂いを嗅ぎわけることが出来てしまうんだもの。「……刀子さん、小太郎さんの嗅覚は最早気にしない方が吉です。少し離れたくらいではどうしようもありませんから」「せ、刹那……うぅ……分かりました、諦めて任務に集中しましょう……」がっくりと肩を項垂れさせる刀子先生を、刹那が悟りきった表情で慰めていた。な、何か猛烈に悪いことをしてる気がしてきたんですけど?紆余曲折はあったものの、俺はすぐにホシの匂いに見当を付け、それを追跡することに成功していた。ただ俺のやる気は、現時点でもの凄いストップ安だったりする。……侵入者、本当に九尾なのか?というのも、嗅ぎ分けた侵入者の匂いには、明らかに化学物質の匂いが混じっていたのだ。恐らくシャンプーか石鹸だろうが、九尾の狐がそんなもの使っているとは考え難い。兄貴がそういった入れ知恵をするとも考えにくいしな。恐らく、侵入者は九尾とは関係のない狐の妖怪だろうと当たりを付けつつ、俺は捜索を続けた。そしてもう一つ、侵入者の匂いで気が付いた、というか、感じたことがある。「……何やこれ? どっかで嗅いだことあるような気もするんやけど……」既視感に似た、不思議な感覚を、俺は侵入者の匂いから感じ取っていた。しかしながら、どこでその匂いを感じたのか、俺には全く思い出せなかったのだが。そんなこんなで、俺は達は俺の鼻だけを頼りに、森を抜け、とある建物の前にまでやって来ていた。「……こ、小太郎? 本当にこんなところに敵がいるのですか?」「……俺も自信のうなってきたわ」俺たち三人は、何を間違えたのか、俺も居を構える、男子寮の前に来てしまっていた。……これはないだろ!?誰が好き好んで、自分を追っかけてる連中の監視下にある建物に侵入するっていうんだ!?い、いや、もしかしたら、男子寮生の誰かの命を狙って、とかかもしれないけど、そんな物騒な魔力が発生する気配もない。……お、俺の鼻が間違ったのか?一瞬そんなことも考えたが、何度嗅ぎ直しても、その匂いは男子寮の中へと向かっていた。「ど、どうしましょうか? さ、さすがに私は入る訳にはいきませんよね?」引き攣った笑みを浮かべながら、刹那が俺にそんなことを聞いてくる。そ、それはそうだろうけどさ……。俺は困り果てながらも、どうしたものかと思案を巡らせた。そして、ポケットにあのアイテムがあったことを思い出した。「とりあえず、刀子センセは俺と一緒に正面から入って貰うとして、刹那は敵と遭遇した場合、これで呼び出したら良えんとちゃう?」そう言って取り出したのは、クリスマスに彼女から貰った召喚符だった。なかなか使う機会に恵まれなかったが、きちんと携帯しておいて助かった。俺の提案に、二人はしばし思案してから了承してくれた。「では、早速踏み込みましょう」「ふ、踏み込むて……俺としては家に帰るような気分なんやけどな……」「刹那も、いつ呼び出されても良いよう、準備はしておいてください」「了解しました」引き攣った笑みを浮かべる俺はスルーで、刀子先生と刹那は、顔を見合わせて頷き合っていた。「……うん、これはもう本当に俺の鼻は当てになれへんと思うわ」「……ざ、残念ながら、同感ですね」打ち合わせ通り、刀子先生と俺は男子寮の中に踏み込み、、侵入者の匂いを追跡したのだが……。辿り着いた先は何と……先程後にしたばかりの、俺の部屋だった。……俺、部屋を出てから2時間くらいしか経ってないよ?だ、第一、俺の部屋に悪意を持って踏み込もうものなら、ケルベロスばりに恐ろしい番犬に頭からバリバリ噛み砕かれるのは間違いない。かと言って、血の匂いが立ち込めてる訳でもないし……。しかしながら、俺の鼻によると、侵入者は間違いなく、この部屋の中に入った様子だった。「ど、どないしよ? こんなことで召喚符無駄にするんはどうかと思えてきてんけど……」「い、一応召喚してあげてください。万が一ということも有りますし……」「万が一、ねぇ……」俺は首を傾げながらも刹那に連絡し、彼女を召喚符で呼び出した。そして、刹那に事情を説明する。予想通り、先程と同じような、引き攣った表情になっていた。もう九尾や兄貴のことなんて、完全に頭から消え去っていた、そのときだ。―――――かたかたかたかたっ……「うおっ!?」突然、竹刀袋の中で影斬丸が震え始めた。な、何だ何だ!?これって、1年前のあの夜と同じ現象だよな?けど、あのときはあの妖怪の魔力と兄弟刀である数打に、奴の牙である影斬丸が反応を示していたはずだ。そう考えると、今俺の知る限り、影斬丸が反応するような要素は、全くもって存在しない。俺たちは、三人揃って顔を見合わせた。「こ、小太郎さん、これは一体……?」「俺が聞きたいくらいや……」刹那の質問に、力なく答える俺。そんな俺たちの様子に、刀子先生は何かを決意したような表情を浮かべて言った。「……小太郎の鼻は、やはり間違ってなかったのかもしれません……中を確認してみましょう」そう言って、刀子先生は袋に入れていた野太刀を取り出した。それに習って、刹那は夕凪を、俺は未だ震える影斬丸を、袋から取り出す。もはや、全ての謎を解くには、この部屋に踏み込む以外にない。俺たちの思いは一つだった。「……俺の部屋や、先頭は俺にさせてくれ」俺が声を潜めて言うと、刀子先生と刹那は、静かに頷いてくれた。念のため、周囲には人払いの結界を張っておくことも忘れない。準備を整えて、俺はこれまで何度も開いてきた自室のドアノブに、覚悟を決めて手を掛けた。「……ほな、行くで?」最後に確認して、俺はゆっくりとドアを開いた。そして、言葉を失った。「…………」部屋の中には、いつも通りの様子で、くるんと丸まった状態で寝息を立てるチビの姿があった。それ以外に変わった様子といえば、何故か窓ガラスが一枚割れていることくらいだ。が、良く見ると、丸まっているチビの中心に、寄り添うように丸まった人影があることに気が付く。そこには、小柄な少女が一人、安らかな寝息を立ていた。俺はゆっくりと、今開いたばかりのドアを閉めた。「こ、小太郎っ!?」「な、中はどうなっていたんですかっ!?」俺の背に隠れて中の様子は何も見えなかったのだろう、俺の突拍子もない行動に二人して慌てた声を上げていた。目頭を抑えつつ、俺は呟いた。「あ、あかん……俺、疲れとるみたいや……」あの光景はおかしいだろっっ!!!?窓ガラスが割れてたってことは、明らかに不法侵入者じゃねぇかっ!?何でそれが、チビと仲良く寝息を立ててんだよっ!!!?有り得なくないっ!?と、叫びたくなる衝動を抑えつつ、俺は息を整えて、もう一度ドアノブに手を掛けた。「……多分、さっきのんは俺の見間違いや。今度こそ、行くで?」もう一度、俺は二人に確認して、もう一度自室のドアを開いた。そして……。「…………」先程と何一つ変わっていない状況に、絶望を禁じ得なかった。もう全てを諦めて、俺は影斬丸を抜こうともせずずかずかと部屋に入った。「こ、小太郎さんっ!? もっと慎重に……」そう言いかけた刹那が、部屋の状態を見て、俺と同じように言葉を失った。後から入ってきた刀子先生も、やはり同じように、目を白黒させて沈黙してしまった。とりあえず、俺は気持ち良さそうに寝息を立てる少女の様子を観察することにした。年齢は、俺と同じか、少し幼いくらいだろう。身長は木乃香や刹那より更に10㎝近く低く、かなり小柄な部類に入る。顔は幼さが残っており、ぷにぷにとしたほっぺたが実に可愛らしく、長い睫毛がその可愛さに拍車を掛けていた。黒い髪の毛はポニーテールで一まとめにしているが、降ろせばセミロングといったところか。癖っ毛なのだろう、ポニーテールの毛先がぴょんぴょんと跳ねていて可愛らしい。服装は春らしく、白いニットのカットソーに黒い短めのプリーツスカート。足は黒のオーバーニーソを履いていて、御丁寧に靴は揃えて彼女の物と思しき鞄の上に鎮座させられていた。そして服にも、彼女自身にも、ところどころ泥が付いていることから、彼女が一晩中森を彷徨っていたことが伺える。つまるところ、彼女がくだんの侵入者に間違いないということだった。しかし、何で俺の部屋に?一瞬、兄貴が俺を油断させるために放った式神か、とも思ったが。だったら最初に隙を見せた時点で、俺の首は身体と繋がっていない気がするし……。この少女は一体……?そんな風に首を捻っていると、突然、背後に強力な闘気……否、殺気を感じた。「……小太郎はん、その人とはどういう関係?」「……寮に異性を連れ込むのは、校則で禁止されてるって、知ってるわよね?」振り返るとそこには、二人の鬼神がいた。お、お二方とも完全に口調が素に戻ってらっしゃるっ!?こ、こいつは勝てんっ!!「お、おおおお、落ち着けや二人とも!! お、俺はこんな女知らへんってっっ!!」しどろもどろになりながら、必死でそう訴える俺。しかしながら、二人の殺気は一向に成りを潜めてはくれなかった。「……ホンマに? 小太郎はん、女の子には誰かれ構わんと優しゅうしよるからなぁ……すぐには信じられへんわ……」「……刹那の言う通り……どこぞで家出した女を匿ってたり……なんて、小太郎なら十分考えられそうね……」そう言いつつ、それぞれに太刀の柄を握る二人。ぎらぎらとした白刃が、ちらりと顔を覗かせた。ひ、ひぇぇぇええええっ!!!?「ま、待てって!? 良ぉ考えろや!? 女連れ込んどんのに、わざわざ自分らをここまで案内すると思うか!!!?」「「あ……」」俺がそう叫んだ途端、部屋中に蔓延していた殺気が、すっと身を潜めていった。……ど、どうにか命の危機は脱したか……。身の安全のための3人班が、危うく命取りになるところだったぜ……。太刀を修めた二人を、俺はジト目で睨みつけて言った。「……自分らが俺をどんな風に見とるか、良ぉ分かったわ」確かに可愛い女の子は好きだけど、ときと場合と場所くらい選んで行動するわっ!!大体、刹那は木乃香から、俺が今恋愛出来ないって知ってるだろうが!?物凄い裏切られた気分だ……。すると二人は、手をパタパタと振りながら、慌てて弁解を始めた。「い、いえっ、決してそういう訳ではっ!? た、ただ現実に、こうして女性が部屋で寝息を立てていると、何というか、状況証拠に情報を左右されると言いますか……」「そ、そうですよっ!! そ、それに私は、担任教師として、教え子が間違った方向に走っているなら、それを諭す義務もありますし……」二人して尻すぼみだと、全く説得力が有りませんよー?……まぁ、ここで言い争っていても仕方ないか。俺は気を取り直すと、未だに眠る少女へと向き直ろうとした。そのときだ。「……ふみゅ? ……ふぁ~~~……」そんな可愛らしい欠伸とともに、少女が身体を起こし、ぐぐっと身体を伸ばした。未だに寝ぼけているのか、半目で辺りをキョロキョロと見回している様は、さながら小動物のようだった。「……あれ? キリ、寝ちゃってた?」おう、もうばっちり気持ち良さそうにな。なんて、返事をする訳にもいかず、とにかく俺は、彼女に話しかけてみよと思い声を掛けようとした。ちょうどその瞬間、少女がこちらへ振り向いた。「ひあっ!? だ、誰っ!!!?」「……それはこっちの台詞や……」俺は余りに緊張感のない少女の物言いに、思わず肩を落とした。「? ……この匂い……」すると突然、少女は何を思ったのか、急に立ち上がると、ぴょん、と俺に近寄って、すんすん、と可愛らしく鼻を鳴らした。な、何だっていうんだ?「お、おい? 一体何やねん?」「……やっぱり、間違いない……キリとおんなじ匂いだ……」「は?」キリ、というのは、先程の台詞からして、彼女自身を指す名のことだろう。しかし、俺とこの少女が同じ匂いというのはどういうことだろう。確かに彼女の匂いを追いかけているとき、嗅いだ事の有る匂いだとは思ったが、まさかそれが、自分の匂いだとは思わなかった。だが仮に、俺たちの匂いが同じものだったとして、それはどういう理屈になるのだろう?そんな風に目を白黒させる俺。しかし少女は対照的に、俺のことをまじまじと見つめると、これまた突然、目をうるうると涙で滲ませ始めたではないか。ほ、本当に何だって言うんですか!?「……良かった……本当に、ここに居てくれた……生きててくれた……」「さ、さっきから自分何やねんっ!? 言うてることの意味が全く分からへ……」そう、疑問を口にしようとした瞬間だった。その少女は、涙を湛えた瞳のまま、急に嬉しそうに笑みを浮かべた。そして次の瞬間……。「――――――――――お兄ちゃんっ!!!!」少女は、俺の首に思いっきり抱きついてきた。急に飛び付かれたせいで、俺は受け身を取ることも出来ず、そのまま後ろに押し倒されてしまう。こっちは事態が全く飲み込めず目を白黒させているというのに、俺を兄と呼んだその少女は、相変わらず感極まった様子で、俺に頬ずりした。「ちょ!? は!? えぇっ!?」「お兄ちゃん!! お兄ちゃんっ!! ずっと会いたかったんだよ? キリはずっと、お兄ちゃんのこと探してたんだよ?」「い、いや、何が何やらさっぱりなんやけど……?」もう本当何がどうなってるのやら……。少女の言動は全く分からないし、兄と九尾に何らかの繋がりがあるかどうかも不明のまま。挙句の果てには、俺のことを兄だと言い始める始末だし……俺は、何から対処すれば良いやら……。しかしまぁ、とりあえず、俺が対処すべき当面の問題は……。「……こ・た・ろ・う・はん?」「……覚悟は、出来てるわね?」この二人の鬼神の怒りを、どうやって静めるかだと思うんだ……。