新学期が始まり、一月が過ぎた10月某日金曜日。生徒指導室の椅子に腰かけて、私は頭を抱えていた。というのは、生活指導のために呼んだとある問題児の指導内容……ではなく。一月前の飲み会で、学生時代の友人と交わしたとある約束、というより賭けの内容だったりする。酔った勢いとは言え、余りにも最近出来た彼氏のことを自慢してくる友人が鬱陶しかったため、売り言葉に買い言葉で、ついこんなことを口走ってしまっていた。『わ、私だって、その気になれば、若い燕の一羽や二羽や三羽くらい、余裕で捕まえられるわよ!!』……どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。しかし、一度口にしてしまった以上、それを撤回するのは難しく……。あれよあれよという間に、今週の土曜……つまりは明日、私は一月の間に捕まえた若い燕を連れて、友人とダブルデートをする約束を交わしてしまっていた。麻帆良学園男子部教員、葛葉 刀子、2●(ピー)歳……過ぎ去った春が、二度と戻らないことを、今ほど後悔したことはなかった。一月程度でどうこうなる問題なら、私は婚期を逃すことをこんなに焦ったりはしない。しかし期日が迫って来ている以上、どうにかしなくてはならない。もちろん、意中の相手は愚か、簡単に靡いてくれそうな相手もいない。彼女に謝ってしまうのは簡単だが……あそこまで大見えを張ってしまって、今更後に引くと言うのは私のプライドが許さなかった。仕方がない……瀬流彦くん当たりに、彼氏の振りをお願いすることにしよう。……いや、ダメだ。同じ職場で、その手のお願い事はリスキー過ぎる。そもそも余り好みじゃないし。……ああああ、どうすれば!?―――――コンコンッ「!? ……空いています、どうぞ」あ、危ない、考えごとに集中し過ぎて、周囲への気配が散漫になっていた。私がそう促すと、学ランの前ボタンは全開、オマケに長髪という、いかにも素行が悪そうな学生が一人、悪びれた風もなく入室してきた。「ちぃーす」私の姿を確認すると、彼は右手を軽く挙げて、にこやかにそう挨拶した。彼こそが、私のもう一つの頭痛の種。私が担当する、麻帆良学園男子中等部1-Aで、最凶と謳われる問題児。犬上 小太郎だった。この春休みに、私もかつて研鑽を積んだ京の地から編入してきた、魔法生徒の一人。同じ時期に編入して来て、現在私が神鳴流の手ほどきをしている刹那の話によると、剣の才に溢れ、見様見真似で神鳴流の技を模倣するほどの手慣。春休みの時点で、あの闇の福音を名のある妖怪の魔の手から救い、学園の魔法生徒と一線を隔す実力を知らしめた、期待の星。正直、学園長から彼の担任を仰せつかったとき、私はとても楽しみだった。学園長から聞かされていた話だと、闇の福音を命懸けで護ったなど、実直で非常に心優しい性格の持ち主とのこと。また高畑先生よれば、そのことに驕らず、直向きに研鑽を積む、向上心の塊のような少年だとのことだった。方々のそんな話を聞いて、実物はどんな好青年だろうと期待を膨らませていた私だったが、その想像は彼の入学から僅か1ヶ月で音を立てて崩れ去った。式神や分身を使って授業や、門限以降の寮からのエスケイプは日常茶飯事。ことあるごとに暴力沙汰で生徒指導室、果ては学園長室に呼び出されることもしばしば。挙句の果てには、女性関係にだらしなく、毎回毎回連れている女生徒が違うなどと、あまり良くない噂まで飛び交っている。しかもその女生徒の中には、私が剣を指南する刹那や、学園長の孫である木乃香お嬢様まで含まれるという。正直、私は彼の担任となったことをかなり後悔した。入学から半年、彼が私に提出した反省文の枚数は、原稿用紙100枚に上ろうかという勢いで、目下その記録を更新し続けていた。しかし、その後悔は、今やそれを超越し、呆れへと変わっていっていた。というのも、彼が生徒指導を受ける際の罪状は、どれも決まって裏の理由があったのだ。暴力沙汰で呼ばれた時は、相手の集団による理不尽な暴力から女子供を助けたり。また授業や寮を抜け出した際は、毎度毎度、決まってどこかで武芸の稽古に励んでいたり。女性関係にだらしがないという噂に関しても、いたるところで女子供を助けているため、周囲の方が彼に惹きつけられているだけとのこと。もっとも、本人はそれで呼び出されても、そういった言い訳は一切しない。ぶちぶちと文句を言いながらも、淡々と与えられたペナルティーを消化していた。今私が言った内容に関しても、大部分は他の先生方や、刹那から聞き知ったことだったりする。恐らく、彼は底抜けのお人好しなのだろう。加えて言うなら、年齢不相応に理屈っぽい。一度、言い訳をしない理由を尋ねた時に至っては、真面目な顔でこう返されて面喰らったものだ。『どんな理由があったかて、俺が先生たちにするな、て言われたことをやったんは間違いあれへんからな』中学に入学したばかりの1年生が言うこととは、とても思えなかった。彼は自分の中で1つのルールをきちんと持っていて、身に降りかかる全てのことをきちんとその物差しで測っている。その評価は、奇しくも学園長に初め聞かされていた『実直』という評価に、見事に一致していた。そんなことも有り、最近では、私も彼をただの問題児と見なすことはしなくなったが、それでも、こうして彼が生徒指導室を訪れるに足る罪状は後を絶たないのであった。「きちんと反省文は書いてきましたか?」「うす……さすがに最近はネタもあれへんようになって来てもうたけどな」苦笑いしながら、彼は少しよれた原稿用紙を5枚、すっと私に差し出した。「一応確認するので、そこに座って待っていてください」「はいな」彼は私に促されると、正面の席を静かに引いて、その上にどかっと腰かけた。それを横目で確認して、私は彼の提出した反省文に目を走らせる。……うん、今回もきちんとした内容で書けているみたいね。素行不良なため、学生間、時には職員にさえ知らない人もいるが、実は彼、こう見えて学業でもかなりの成績を収めていたりする。具体的に言うと、入学から4度に渡って行われた定期考査では、常にトップ10以内をキープしているほどだ。そのため、こうして都度与えられる反省文も、きちんとした内容で、期日までに仕上げて来る。だから尚のこと、生活指導でここに呼び出されることが悔やまれるのだが。「今回も反省文には問題ありませんね。少し35回目のときと内容が被っている気もしますが」「い、いちいち覚えてんのかいな? さ、さすが刀子センセ」「教師を下の名前で呼ばない。何度注意すれば分かるんですか?」きちんとしようと思えば、彼なら目上の人に、敬語やそれなりの態度を取ることは可能なはずなのに、どういう訳か、彼はそれを嫌い、誰にでもフランクに接しようとする癖があった。そしてそれを何度注意しても、彼は悪びれた様子もなく、きまってこう答えるのだ。「「そういうん苦手やねん」」「……分かってんなら、聞かんといてぇな」「そういう問題じゃありません。……あなたがそんな態度だから、いつまで経っても生活指導の回数が減らないんですよ?」「いやぁ、自覚はあんねんで?」彼は私の言葉に、苦笑いとともにそう答えた。そうなのだ、確かに彼は喧嘩をする度に、いかに騒ぎを抑えて相手を斃すかを工夫したり、脱走がばれる度に、より高度な影武者を用意するなど、生活指導を回避しようと画策はしていた。……ただし、力の入れ具合というか、努力のベクトルそのものが、明後日の方向へと向かっている気はするが。私は溜息とともに、彼に本日のペナルティを言い渡すことにした。「良いですか? 今回の罰は……ん?」「……(じぃーーーー……)」しかし、途中まで言いかけて、私はそれを止めてしまった。どういう訳か、彼は私の顔を呆けたように見つめて、固まってしまっている。いつも生徒指導室で話をするときは、さすがに大人しく人の話を聞いてるのに、どうかしたのだろうか?「私の顔に何か?」「へ? ああスマン、女の人の顔そんなん見つめたら失礼やんな?」「ええ、まぁ一般的には……それより、どうかしたんですか? あなたが人の話を聞いていないというのは珍しいですね?」「ん、いや……俺のことというか、むしろ刀子センセの話なんやけど……」「私の?」やっぱり顔に何か付いていただろうか?そう思って自分の手で顔を触れてみたが、別段何が付いているということもなかった。一体何のことを、彼は言っているのだろう?「いや、顔の話しとちゃうねん……ただ、何か悩みごとでもあるんかなぁ、て。口調とか表情はいつも通りやねんけど、雰囲気がぴりぴりしとる気がしてな」「ああ、なるほど……」そう言えば、彼は狗族のハーフだったか。人並み外れた聴力と嗅覚を持った彼には、人のちょっとした感情の機微が、心音や呼吸数の上昇などを通して雰囲気で伝わってしまうのだろう。いけない、いけない……生徒に自分の動揺を感付かれるようでは、教員としてまだまだだ。「確かに、少し頭を悩ませていることはありますが、それはあなたの指導に必要の無いことです。忘れなさい」「そうけ? 指導つっても、どうせペナルティくらってしまいやろ? 最近は俺どうせ暇やし、良かったら相談乗るで?」「…………」そう言えば、ゴールデンウィーク明けから始めていた操影術の稽古を先月修めたのだったか。なかなかに異例の早さだが、その対象が彼だと言うことで別段驚きはしなかったが。操影術以外にも、簡単な陰陽術や狗神の使役、果ては忍術までこなすという万能振り。確か普段は、犬と同じ形状の耳と尻尾を、幻術を使って隠しているのだったか。年齢からは考えられない実力だと、改めて感じる。しかし、それとこれとは話が別だ。同じ職場の教員にさえ、話すのをはばかられるような内容だ。それをわざわざ、担当する生徒に話すような謂れなどない。そもそも、今回私が頭を抱えている内容は、あまりにもプライベートなものだ。やはり解決は、自分の手でどうにかするしかないだろう。「せっかくの厚意ですが、遠慮しておきます」「えー……俺、口堅いんに……」「そういう問題では……」……待てよ?確か彼は、幻術を使えるのではなかったか?もしそれが、耳を隠したり以外の内容でも可能だとしたら……。鎌首を擡げてしまった興味を、私は抑えることが出来なかった。逆に言えば、私はこの時、それだけ追い詰められていたのかもしれない。しかし、なりふり構っていられないのも事実。私は思い切って、その疑問を口にしていた。「犬上君、あなたは幻術が使えるんでしたよね?」「ん? ああ、耳と尻尾を普段隠してるんはそれを使ってる訳やさかい」彼がぱちん、と指を鳴らすと、ぽんっ、と音を立てて、頭に可愛らしい犬耳が現れた。……へぇ、符も詠唱も使わずにこれほどなんて……。「1つ質問ですが、その幻術で人間の幻影を作ることは可能ですか?」「人間の? うーん……出来ひんこともないけど、さすがに依代があれへんとなぁ……動かんでも良えなら話は別やで?」「なるほど……」逆を言えば、中身の人間さえ用意すれば着ぐるみのような気軽さで、ハリウッドの特殊メイク以上の完成度を誇る変装が可能という訳だ。……これは、使えるんじゃないだろうか?代行者を用意すれば、後は彼に幻術で適当な男性の姿を作って貰い、芝居をしてもらえば、週末のダブルデートはどうにか回避できる。問題は、彼に協力を仰ぐためには、事情を全て説明しなくてはならないということ。さすがに生徒をこんなことに巻きこむ訳には……。「何? 何か俺が力になれることがあんねんなら、何でもするで? 刀子センセにはいつも迷惑かけてるさかい」にっ、と年齢相応の無邪気な笑みで、彼は言った。……そうね。確かに、この半年間、彼には迷惑を掛けられっぱなしだった。ときには夏期休校中にまで呼び出されて、生活指導をしたこともあったほどに。ここらへんで、その貸しを返してもらっても良いのかもしれない。しかし、それは彼に私の恥とも言うべき今回のいきさつを全て暴露するということ。ま、迷う……。「あー……もしかして、相当にプライベートな話? ホンマ大丈夫やで? 俺、口マジで堅いねんから。墓場まで持ってくさかい」とん、と自分の胸を叩きながら、誇らしげにそう言った。彼はやや大口を叩く癖はあるものの、概ね他人に嘘を付くような人間ではない。これはもう、彼の言葉を鵜呑みにして、頼るしかないのではなかろうか?……さっきも言ったけど、本当に手段を選んでる場合じゃない気もするし……。私は、散々迷った挙句、結局彼にことのいきさつを全て説明することにした。「じ、実は……」「……ギャハハハハッ!! ぶはっ、ぶははははははっ!!!!」「ちょっ!? そこまで笑うことですか!?」一しきり事情を聞いた犬上君は、腹を抱えて大爆笑していた。た、確かに、普段は必要以上に感情を表に出さないよう心がけてるせいもあって、私はそういう話とは無縁だと思われがちだけど……。……今考えたら、そのキャラ作りに問題があった気もする。一見、とっつきにくそうな印象を与えているのかもしれない。男子部を任されているのも、そういった厳しい印象が功を奏してのことだろうし……。……早まったなぁ。「ひーっ、く、苦しっ……くくっ、そ、それにしても、全校男子の憧れの的、クールビューティーな刀子センセが……ぶはっ!!」「もうっ!! いい加減にしなさい!!」ばんっ、と机を叩きながら一喝すると、さすがに犬上君は笑うのを堪えてくれた。……ただ、手で押さえた口元から、僅かに覗く頬は、未だにピクピクと痙攣していたが。「ふぅ……で、つまるところ、俺は何をすれば良えん?」「はぁ……やっぱり物凄く早まった気もするけど……誰か彼氏の代理人を立てるので、その方に幻術を掛けて欲しいんです」私が先程立てた計画を話すと、犬上君は先程まで爆笑していたのが嘘のように真剣な表情で、手を顎に当てて考え込んでいるようだった。こういう切り替えの速さも、年齢不相応というか……本当、中学生とは思えない。「なぁ、それ俺が彼氏代行役やれば良え話なんとちゃうん?」「は? 何を言い出すかと思えば……さすがに大人の情事に生徒を関わらせる訳には行かないでしょう?」それを言い出すと、幻術をお願いしてる時点で、大分アウトな気がするが、この際それはスルーな方向で。「せやねんけど、もし他の人にお願いするにしても、魔法関係者やないと無理やろ?」「それは当然です」「やんな……とするとやな、刀子センセは今の恥ずかしー話をもう一人別な、それも男の魔法先生にせなあかん訳やけど……」それは刀子センセ的にセーフなん? と彼はあくまでも純粋な疑問としてそれを尋ねて来た。……し、しまった……確かに、そのことは考えていなかった。彼の話によると、あまりにも元の依代から外見が外れると、幻術を掛けるのは難しいということだし、彼氏役は自然と男性に限られてしまう。となると、学園の魔法先生にそれを頼むことになる訳だが……そんなの絶対無理!!いつでも冷静沈着、クールな女剣士を装ってきたというのに、今更そんなことを頼んだら、これまで積み上げて来た私のイメージが!?うぅ……で、でも、犬上君に彼氏役を依頼するとなると、彼と腕を組んだり抱きあったりという可能性も出て来る訳で……。そ、それはいくらなんでも……「毒を食らわば皿まで言うし、実際デートんときは、俺の外見は24、5歳になってんねやから、見る人が見らんと分からんと思うで?」「そ、それは確かに……うぅ、倫理的にどうかとも思いますが……仕方ありません、それで手を打ちましょう……」結局、私は職員としての倫理よりも周囲からの自分へのイメージを優先することにした。……う、後ろめたい。「任せとき! ……しかしそうなると、服とか買いにいかなあかんなぁ……」「え? 幻術でどうにかならないんですか?」「さっきも言うたけど、元の見た目からあんましかけ離れるんは無理やねん。俺、学ランとTシャツしか持ってへんし」「は?」目が点になった。Tシャツと学ランだけって……そ、そういえば、今年の記録的な猛暑の中、彼と豪徳寺君だけは何故か最後まで学ランを貫いていたのだった。よもや、私生活でも学ランにTシャツだけで押し通していたなんて……。「そ、それでは、寒暖の差に適応出来なかったでしょう?」「いやいや、学ランを甘く見たらあかんで? 夏用は生地が薄くなるだけやのうて、内側はメッシュ素材で通気性抜群。冬用は厚手の生地に裏地は起毛で防寒対策もバッチリや。ちなみに春秋用は市販のやつとまったく同しやで」俺はそれぞれ5着ずつ持ってんねん、と犬上君は誇らしげに胸を張っていた。……発想が病気としか思えない。何がそこまで彼を学ランに駆り立てているのだろう。そら恐ろしさを感じながらも、私は彼にその理由を尋ねてみた。「そんなん、学ランが男の戦闘服やからに決まっとるやん?」……キマってるのはお前の頭だ、とは口が裂けても言えなかった。「とりあえず、今日の帰りにショップにでも寄って適当にみつくろうわ」「……お、お願いします。あ、領収書は取っておいてください。依頼したのは私ですし、それくらいは私が払います」私がそういうと、彼はひらひらと手を振って無邪気に笑った。「構へんて、どの道そろそろちゃんと服買おと思てたとこやし……そん代わり、今回のペナルティはこれでチャラにしてくれへん?」む、なかなかに人の足元を見る少年だ。まぁ、どうせ頼もうと思っていたのは、中庭の清掃だし、それくらいで私の尊厳が守られるなら安いものだろう。私はすぐに、彼へ了承の意を示した。「ほな、これ俺の番号とアドレス。明日何かあったときのために渡しとくわ」「確かに、後で空メールを送信しておきます」「頼むわ。そんなら、今日はこれで解散で良え?」「ええ……明日はくれぐれもお願いしますよ?」「おう!!」もう一度、彼は笑顔で頷いて、席を立った。私も彼に続いて席を立つ。照明を消して、彼に続いて生徒指導室を後にした。「おお、小太郎!! こんなところにいやがったのか!?」「ん? おお、薫ちゃんやないか? どないした?」生徒指導室を出ると、そこにはちょうど豪徳寺君が通りかかったところだった。犬上君を見つけて嬉しそうに近寄って来る。彼も私の担当する1-Aの生徒で、豪徳寺 薫という。一般人ながらも、直向きな研鑽の結果、気を操れるようになった、ある種武術の天才ともいえる少年。裏の世界で言えば、ありふれた才能だが、一般社会に居ながら気を体得するに至ったそのセンスは、驚嘆に値する。ただ解せないのは、彼の風貌だった。時代錯誤なリーゼントに、これまた時代遅れの長ラン。喧嘩っ早いところが通じ合ったのか、クラスでは犬上君と比較的仲の良い友人らしいが……。彼らがどんな普段どんな会話をしているのか気になって、私は職員室に戻る前に、少し二人の様子を見てみることにした。「実はお前に見せたいもんがあったんだが、放課後になったら急にいなくなるもんだからよ、探したぜ?」「ああ、スマン、いつもの呼び出しやってん。で、見せたいもんて?」「ふふっ……実はな、遂に完成したんだよっ!!」そう言って、豪徳寺君は学ランのボタンを全て外すと、ばっ、と勢い良くその内側を開いて見せた。そしてそこに現れたのは……。「こ、これはっ!?」「おう、昇り金竜の刺繍だ!! なかなか値もはったけど、どうだ? かなりの出来だろ?」……こ、この子もなの!?私は軽く目眩を感じずにいられなかった。確かに我が校は自由な校風を謳い文句にしているだけあって、制服や髪型に関する規制は皆無だ。しかし、彼のようなリーゼントや、年から年中の長ランをしている生徒は、さすがにこれまでもいなかった。ほ、本当にこの子たち大丈夫なのかしら?さ、さすがにこれには小太郎君も冷ややかな目線を送っていることだろう。そう思って彼の方を見ると、私の期待は、ものの見事に裏切られていた。「か、かっけー……」そこには、目を少年のように……いや、未だ持って彼は少年なのだが、瞳を爛々と輝かせ、豪徳寺君の学ランに見入る犬上君の姿があった。……ダメだこの子たち、早く何とかしないと……。そんな私の心配を余所に、彼らはわいわいと学ラン談義を始めてしまった。「ええなぁ、俺も刺繍とか入れたいわぁ……けど長ランはなぁ……」「いいじゃねぇか? 長ランは最高だぜ? お前も着て見ろよ?」「いや、別に長ランが嫌いなんとちゃうねん、むしろ格好良え。ただ俺が着るとビジュアル的にな……」「あー……長い鉢巻でも巻いたら様になるんじゃね?」「なるほど……って、薫ちゃん、それただの応援団や」どっ、と彼らは二人して笑い始めた。……やっぱり、犬上君に彼氏役を頼んだのは失敗だったかもしれない。私はこめかみを押さえながら、そそくさと職員室へ退散していくのだった。そして一夜明け、ついに決戦当日、土曜日となった。友人との待ち合わせは12時に駅前だったが、私は10時に犬上君と同じ場所で待ち合わせをしていた。というのも、昨日の話を聞く限り、彼のファッションセンスは余りにも怪しく、最悪その場でお店に入り、私が手ずからコーディネイトし直す必要もあると考えたからだもちろん、彼と細やかな打ち合わせをするためというのもあるが。現在の時刻は午前7時半。少し起床が早すぎた気もしなくはない。女性教員用の宿舎から駅までは、徒歩で遅くとも10分有れば着く距離だ。しかしながら、犬上君に頼んでしまったことが気がかりで、あれやこれやと考えていた私は、重要なことに気が付いて飛び起きていた。……自分の服、どうしよう?友人と会うということもあり、余りにしゃれっ気の無い服を着ていくのもどうかと思うし。かといって、余りに遊びの過ぎる服だと、普段の堅いイメージを持っているであろう犬上君に、またバカにされかねない。ここは慎重に選ぶべきだ……。「……とりあえず、コンタクトにはしておこう」普段は軽い近視のため、眼鏡を愛用している私だったが、プライベートで出かけるときはコンタクトに変えることもある。眼鏡だとどうしても堅いイメージを与えてしまいがちだし。まぁ、もともと釣り目がちな目をしているので、その効果のほどはたかが知れているのだが。さて、久しぶりに少し髪も弄ってみようかしら?いつもは長くのばした髪を梳く程度で、結んだりアップにしたりすることは殆どない。たまの休暇にくらい、気合を入れて見るのも悪くないだろう。……って、相手は自分の生徒なのだから、そんなに気合を入れる必要ないのだけど。さて、服はどうしようかしら?まだ温かさも残っていることだし、薄めの服でも大丈夫だろうか?あれやこれやと考えながら、私はクローゼットと格闘を続けた。「はっ、はっ、はっ……!!」ぬ、ぬかった!!思いの外服選びに時間が掛かってしまった。少し派手なものを手にとっては、これは学校での私のイメージと違う、と言って戻すの繰り返しで、気が付くと時刻は待ち合わせ時間の10分前になっていた。結局、大人し目な服を選択し、私は犬上君の待つ駅前へと走っていた。ちなみにどんな服装かと言えば、白のカットソーにグレーで七分丈のフレアスカート。一応寒いといけないので、生地の薄いベージュ地にエンジュと黒でチェックの入ったストールを羽織っている。靴はいつも通り黒のストッキングを着用した上で、ブラウンの網上げブーツを履いている。おかげで走りにくいことこの上ない。髪はアップに纏めて、琥珀柄のシンプルなバレッタで留めている。少し若作りし過ぎたかと、後悔もしたが今更遅い。まさか生徒との待ち合わせに遅れる訳にもいかないと、私は必死で駅前へと駆けていった。駅前の広場に入り、すぐに目印にしていた噴水の前を確認する。時間は約束の5分前、どうやら犬上君はまだ来てないらしい……良かった。私はすぐに噴水の前まで歩き、走ったことで上がった息を、彼が付くまでに整えようと深呼吸を繰り返した。しかし……やっぱりちょっと気合を入れ過ぎたかも知れない。目前の問題が去ったことで、考えても仕方の無いことが次々に思い浮かんでしまう。この服装は、やはり学校での厳しいイメージとかけ離れていたのではないだろうか?少し可愛い目にまとめ過ぎたか?どれも今更後悔してもしょうがないことばかりだった。……って、何を私はこんなに緊張しているのだろう?た、たかだか、自分の生徒とカップルの振りをすると言うだけの話じゃない?いつも通り、冷静な態度を装っていれば良いのよ!!「……刀子センセ?」「は、はいっ!?」自分の世界に没頭していたところに、急に声を掛けられて、私は思わず上ずった声でそう返事していた。や、やってしまった……。後悔したところでもう遅い。私は努めて平静を装いながら、ゆっくりと声の掛けられた方へと振り返った。「お、やっぱり刀子センセやったんかいな。知らん人に声掛けたかと思て、一瞬焦ったで?」「やはり犬上君でしたか、おはようございま……」そう挨拶しかけて、私は開いた口が塞がらなくなった。そこにいたのは、紛れもなく犬上君なのだろう。しかしその外見は、余りにいつも違っていて、私は言葉を失ってしまっていた。私の不安を裏切って、彼はいたって普通の服装で現れてくれた。グレーのパーカーの上から黒いジャケットを羽織り、下は黒のジーンズに白いスニーカー。うん、心配していたような変な格好ということはない。むしろ問題なのは、彼自身の容姿だった。髪形はいつも通り、少し跳ねた長髪で、長く伸びた襟足は黒いゴムでまとめられている。目つきは普段は釣り目がちだったものが、少し成長した姿をイメージしたためか、落ち着きが見える目元になっている。普段から170と年齢にしては高い身長が、今ではおよそ185ほどの長身となっていた。その姿で彼が浮かべた照れたような、無邪気な笑みは何と言うか、こう……。……反則染みて、格好良かった。し、しまった……さっきまでとは別の意味で、彼に彼氏役を依頼したのは間違いだった気がしてきた。少し考えれば分かったことじゃないか。普段だって、彼はそのきつい目つきや『麻帆良の狂犬』というイメージが先行して恐れられていはいるものの、十分に整った容姿をしていた。それが24、5歳に成長したら、どれだけ男前になるかなど、容易に想像が付いたというのに。私の心拍数は、強大な妖怪と対峙したとき以上に白熱していた。最悪なことに、彼の容姿は余りに私の好みを押さえ過ぎていた。うぅ……ど、どうしよう……これでは彼のちょっとした動作に思わず過剰反応してしまいそうだ……。し、しかし今更後に退く訳にはいかないし、よ、要は今日一日を乗り切れば良いのよ!!私はそう自分に言い聞かせて、何とかいつも通りの冷静さを取り戻そうとした。「刀子センセ? いきなしぼーっとして、どないしたん?」「な、何でもありません。あなたが思った以上にまともな格好をして来てくれたので、少し驚いただけです」「そうけ? まぁ、自分のセンスを信用してへんから、マネキンが着てたん一式買うて来ただけなんやけど……」そ、それでこのハマり様!?な、何て末恐ろしい……。そんな動揺を気付かれないように、私は必死で冷静という仮面をかぶろうと心掛けた。「しかし、犬上君の幻術がここまでとは思いませんでした。元の姿を知っている私でも、一瞬見違えましたよ」「せやろ? けどそれは刀子センセもやで?」「え゛?」予想外の言葉に、冷静という名の仮面はあっさりと砕け散った。思わず自分の姿を見回す。や、やっぱり、ちょっと無理に若作りし過ぎただろうか?そんな風に焦っている私の心などどこ吹く風で、彼は再び信じられない言葉を放った。「いつもは厳しくて綺麗、っちゅう印象やけど……今日は何や、綺麗で可愛らしいな」「@*$#&%=~~~~~!!!?」そう言って無邪気に笑う犬上君。私は顔が一気に熱くなるのを感じた。そ、そそそそ、その顔で可愛いなんて言うのはずるいと思う!!何の気なしに、彼は口にしたのだろうけど、そんな男前に言われたら、思わずその気になってしまいそうだ。……ま、まぁ中身は生徒な訳だし、その気になることなんて絶対ないんだけど。「それに今日はメガネもあれへんし。メガネ取ったら、意外と可愛い顔立ちしてたんやな」「っ!? お、大人をからかうものじゃありませんっ!!」さ、さすがに二回目ともなると、耐性が付いて言い返すことは出来たけど……。あー……ダメだ、まだ顔が熱い。強めに言い返した私に、犬上君は苦笑いを浮かべた。「別にからかってるつもりは……うん、俺はメガネかけてへん方が好きやで? メガネ属性ないし」「メガネぞく……? 何ですか?」「……いや、ただの妄言や、忘れてくれ」「?」どうにか平静を取り戻した私は、彼の提案で近くにあるス○バに移動することになった。時刻は10時17分。友人との待ち合わせには、まだ十分時間がある。私は犬上君と、入念に打ち合わせをすることにした。結構鋭くておまけに執念深いあの女のことだ、ちょっとでもボロを出すと、そこをチクチク突いてくるだろう。そう言った事態にならないよう、打ち合わせは念入りにやっておく必要がある。とりあえずは、彼の人物設定だろう。「今の姿は、とりあえず24歳ということでよかったですね?」「ああ、それで構へんやろ? 実際、相手にしてみれば、年齢なんて大した意味はあれへんやろうし」「それもそうですね……」私の言葉に、犬上君は悪戯の成功を楽しみにしてるかように笑った。へぇ……普段は大人びていて逆に違和感を感じるけど、今の姿で話す彼の落ち着きようはむしろその姿に良くマッチしていた。そうまるで、今の彼の姿こそが真実であるように。1つ1つ確認事項を示して合わしていったが、やはり彼の落ち着きようは、逆に違和感を全く感じさせなかった。注文したブレンドコーヒーを啜る姿などは、むしろ私よりも年上なんじゃないだろうか、と疑いたくなるほどだった。大体の項目を決め終わって時計を確認すると、時刻は11時23分と、意外に余っていた。「確認しておくことはこれくらでしょうけど、まだ時間がありますね。少しこのままここで時間を潰しましょう」「せやな。あ、そういやデートってどこ行くん? 俺まだ聞いてへんねやけど?」「そう言えば伝えていませんでしたね。友人とは学園都市内にある遊園地に行こうと話しています」私の言葉に、犬上君は驚いたように目を丸くしていた。「へぇ、意外やな。もっと大人し目というか、クラシックのコンサートとか美術館とかかと思てたで?」「せっかくの休日ですし、それに犬上君もそう言った場所の方が楽しめるでしょう?」「え? 何? もしかして俺に気遣うてくれたんか?」「いえ、そう言う訳では……私自身、絶叫マシンは好きですしね」確かあの遊園地には、最近落差東日本最大という謳い文句のコースターが出来たばかりだったはずだ。実は前から乗ってみたくてうずうずしていたので、正直それは楽しみだった。そんな私を、犬上君が何か微笑ましいものを見るような視線で見つめていた。、し、しまった!? 顔が緩んでた!?「わ、私の顔に何か?」「いんや。ただ、刀子センセも意外に可愛いとこがあんねんな、って」「べっ、別に良いでしょう!? それから、いつも言っていますが、教員を軽々しく下の名前で呼ばな……」言いかけて、私は重要なことに気が付いた。お互いの呼び方について、何も決め事をしていなかったのだ。まぁ百歩譲って、私は今のままで良いにしても、さすがに今の犬上君に先生と呼ばせるのはまずいだろう。いろいろと思案をしてみたが、彼の性格や話し方すると、女性をさん付けで呼ぶようなことはしないだろうし、ここは呼び捨てで呼んでもらうことにしよう。一回りも年下の男の子に呼び捨てにされるのは弱冠抵抗があるけど……。「……今日だけは特別です。私のことは下の名前で呼び捨てにして構いません」「なら、センセも俺の事は下の名前で呼んでぇな?」「は? 私は別にこのままでも……」「いや、話を聞く限り、その友達いうんは鋭いんやろ? せやったら、その辺勘ぐられたら厄介やで?」確かに、彼の言うことは一利ある。まぁ刹那のことも呼び捨てにしているのだし、彼を呼び捨てにすることくらいなんということは……ない、わよね?な、何だろう、それはもの凄く恥ずかしいことをしてるような気がしてきた。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼はあけすけにこんなことを言い始めた。「ちょっと練習してみいひん?」「え゛?」れ、練習って……今、ここで!?ま、まぁデート中は遊園地という人が密集した場所にいる訳だし、周囲の目を気にしないためにも、ここで練習をしておくべきか……。……え、ええい、ままよ!!私は自分を奮い立たせながら、彼の名をおずおずと口にした。「……こ、小太郎?」「何や、刀子?」そう言って、にっ、と優しい笑みを浮かべる犬が……小太郎。……これは反則でしょうっ!!!?私の心拍数は生まれてから一番の快速で刻まれていた。はっ、はずっっっ!!!?な、何これ!? 何よこれっ!!!?ただ名前で呼ばれただけでこの緊張感って何なのよ!?そ、それもこれも、小太郎の容姿が無駄に良いのがいけないんだわ!!!!私は自分を落ち着かせるために、心の中でそんな理不尽な責任転嫁をしてみた。「……なんや照れくさいもんやな? 人を呼び捨てにするんは、いつもことなんやけど」言いだしっぺだった小太郎も、どうやら恥ずかしかったらしく、照れくさそうに頬を掻いていた。うぅ……こんな調子で、本当に今日のデートは大丈夫なのかしら。もう一度時刻を確認すると、既に11時40分を回っていた。そろそろ出てないとまずいか……。私は昨日とは全く質の違う、弱冠の不安を覚えつつも小太郎を促して、待ち合わせ場所へと移動して行った。葛葉刀子、一世一代の大芝居が、無事に成功することを祈りながら……。