パチパチと、大気さえも哭かせ、震わせ、紅蓮の炎は正午過ぎの空を夕刻のように赤く染め上げていた。記憶の再生…………視覚と聴覚情報のみであるはずのそれを目の当たりにし、しかし俺の嗅覚、触角は焼け焦げる木と土、そして火の熱を錯覚していた。『ちょ!? どういうことよこれ!?』『小太郎君の村が…………燃えてる…………!?』舞い上がる火の子を見上げ、驚きに身を竦ませる2人の少女。これは恐らく、彼女たちが知らずとも良かった…………しかしいずれ自ら望む、世界の闇。だから俺は、躊躇うことなく彼女たちに状況を告げた。『この日は兄貴の元服祝いでな。俺は山で猪でも狩ろう思ててん。せやけど、村の方から物が焼ける匂いがしてな。慌てて戻って来たら…………』そこで言葉を区切り、すうっと、燃え盛る炎の先、村の入り口に立ちすくむ、小さな影を指差す。それは…………。『…………この惨状やったっちゅうわけや』生まれて初めて知った『魔法』の本当の恐ろしさに、ただ茫然と立ち尽くすことしか出来ない、幼い俺の姿だった。…………何や? コレ?―――――6年前。焼け落ちていく故郷の惨状を前にした俺は、そんな月並みな疑問を浮かべ、一切の思考を奪われていた。時折響いてくる悲鳴から、恐らく誰かが闘っているであろうことだけは分かる。村が襲撃を受けた?どうして?ここの村の連中は、ほぼ全員が戦闘技術に特化した、傭兵団のような人間たちばかりだ。神鳴流ほどじゃないにしても、旧世界においては間違いなく手慣揃いの筈。それがどうすれば、俺が村を離れて数十分の間に、ここまで追い込まれるのか。村人の戦闘力に対して、俺が過信していたにしても、十分に有り得ない事態だ。故に俺は思考を停止せざるを得なかった。…………思えば、この時の俺はまだ、現実の恐ろしさを、そして魔法の恐ろしさをまだ理解していなかったのだろう。無論、当時の俺がそれを理解していたところで、この事態は変わらなかっただろうが。それでも、俺はかつての自分の無知を、覚悟の無さを呪うことで、これまでの糧としてきた。復讐という名の刃。自らをその刀身とするため、自戒を熱に、恨みを槌に代え、刀たる身を鍛えて来た。この時の憤りを、かつての己の無力を、無駄なものとせぬように。「小太郎っ!? 自分、無事やったんかっ!?」「っっ!?」ふと村の大人数人が、立ち尽くす俺に駆け寄りそんな風に声を掛けて来た。全員が全員、程度の差はあるが、ところどころに軽い火傷や、衣類が焦げた跡が見受けられる。戦闘によるものではなく、恐らくはこの火災で負った傷だろう。そしてもう一つ気になったのは、皆が憐れむような、そんな気まずそうな視線で俺を見つめていたこと。しかしながら、この時の俺は、そんな大人たちの視線の意味に気が付ける余裕はなかった。「何があってんっ!? 何で村が燃えとんのやっ!? 自分ら、神鳴流と並ぶ傭兵集団と違うたんかっ!?」自らの無力を棚に上げ、大人たちにそんな戯言を吐き捨てる。しかし、大人たちがそんな子どもに返したのは、怒号でもましてや叱責の言葉でもなかった。「…………スマン」「こりゃ全部、俺らのせいやねん…………」「!? な、なんやソレ…………? い、一体どういうことやねんっ!?」言葉を理解できず、再び咆哮するように叫ぶ俺。大人たちの返答、それは…………謝罪と諦観の言葉に違いなかったのだから。何で? 何でや!?何で俺に謝る!? 何で傭兵集団が、こないな焔程度で諦観しとるんやっ!?尚も噛みつこうとした俺。しかし、そんな俺の両肩に、大きな手がそれとは不釣り合いな優しさで、そっと添えられた。そえられた手は、俺に駆け寄った大人たちの中でも、もっとも実力があるとされていた狗神使いのもの。壮年になり、皺が刻まれ始めた目元をすっと細め、彼は俺を諭すようにこんな言葉を紡いだ。「良えか小太郎? 村の方はもうどうにもなれへん。俺たち狗神使いじゃ、『アレ』を使える人間には勝てへんからや」「ど、どいうことや? 『アレ』っていったい…………?」「黙って聞いとき。今言うた通り、村の方はどうにもなれへん。けどな、女子どもを護れんほど、俺らは落ちぶれてへん」「っ!?」先程とは違い、その言葉の意味を即座に理解出来た俺は息を呑んだ。この大人たちはこう言ったのだ。『お前だけでも、ここから逃げて生き延びろ』と。…………冗談じゃない!!何のために、俺は今日まで鍛えて来たと思ってる!?こんなときのため、あんた達と一緒に闘うためじゃなかったのか!?そんな幼稚な考えが、脳裏をよぎった。しかし、大人たちもそんなことはお見通しだったのだろう。壮年の狗神使いは、にっと笑みを浮かべると、そのごつごつした堅い掌で、俺の頭をわしわしと撫で、その言葉を遮った。「子は国の宝、なんて言うけどな、あれは結構ホンマやで? 俺らが死んでも、その意志を継げる人間がおるっちゅうんは心強いことや」俺の頭から手を離すと、彼はすっと立ち上がり、燃え上がる炎の先、先程から悲鳴が響いてくる方角を射抜くような眼光で見つめた。「…………それにこれは、俺ら始めたことへの総決算や。望んでた結果とはちゃうけど、な? 自分はこんなことに付き合うたらあかん」「ど、どういうことやねん? さっきから言うてる意味が全然分からんてっ!?」疑問を叫ぶ俺に、壮年の狗神使いは再びこちらを振り返り、優しく微笑みを浮かべる。「それで良えねん。自分は何も知らんと、ただ前だけ見ときゃ良え」後ろばっか気にしてた、俺たちとは違うてな…………。その言葉を最後に、大人たちは俺から視線を戦場へと戻し、ゆっくりと歩き始めた。恐らくは自ら決めた死に場所へと向かうために。…………勝手な話だ。さっきは意志を継ぐ者がどうとか言ってた癖に、いざとなったら自分たちと違う道を行けだと?しかし俺は、有無を言わせぬ大人たちの物言いに、そしてそこに込められた彼らの覚悟を目の当たりにして、再びその場所から動くことが出来なくなっていた。そんなときだった。「あかん!! 最初の防衛線が崩れた!!」切羽詰まった男の声が周囲に響く。どうやら戦況はかなり逼迫しているらしい。どうする?彼らの意志を無駄にして、自らも戦場へと赴くか?彼らの意志を尊重して、自らは生き残る道を取るか?俺に提示されたのは、単純明快な二者択一。しかし、後者を選べば俺は必ず後悔する。俺の命は、大勢の死と引き換えにここにあるものだ、と。しかし、前者を選んでも後悔は残るだろう。死に逝く者たちの覚悟を、いとも容易く引き裂いた、と。…………どうすれば良い?迷っている時間はない。それは分かっている。しかし俺は、それを決断することができないでいた。そんなときだ。「半蔵のやつ!! 一体いつの間にこないな力を…………!?」「!?」その言葉の意味を理解するのは容易だった。村人たちは今、敵対者と対峙している。そして、今誰かが放った言葉は、敵対者の実力へ対する、自らへの皮肉であり賛辞だろう。つまり、彼らが敵対している者とは…………。「あに……き……?」…………半蔵。その名で呼ばれる人間を、俺は一人しか知らなかった。そして先程の疑問が氷解する。大人たちが、何故俺を憐れみの視線で見ていたのかを。「っっ!!!?」その瞬間、俺は弾かれたように走り出していた。先を歩いていた大人たちを追い抜かし、風よりも疾くと燃える故郷を置き去りにする。追い抜いた大人たちが後ろで何かを叫んでいるが、今はそんなことどうでも良い。どうして…………何で!?「何でや!? 兄貴っ!!!!」その疑問を、一刻も早く本人に問い質したかったから。数分もせずに俺は辿り着き、言葉を失った。幾人かの大人が、1人の敵対者を囲うように立つ村の一角。大人たちの向こう、紅蓮の炎を纏い彼らに対峙するその姿は…………。―――――犬上 半蔵。紛れも無く、俺の実の兄だったのだから。「止めえ半蔵!! 今更こないなことして、何がどうなるっちゅうんや!?」兄貴を包囲していた大人の一人が、そんなことを叫んだ。その問いを受けた兄貴は、立ち上る陽炎の向こうで姿を揺らめかせる。小首を傾げた兄貴の姿が、不意に歪んだ。そして次の瞬間。「…………少なくとも、わいの気ぃは晴れるんとちゃうんか?」「っっ!!!?」俺が気が付いたとき、兄は既に、叫んだ大人の眼前へと迫っていた。無造作に、兄貴がその右腕を振う。刹那、その場に居た男は、髪の一筋すら残さず焼き尽くされた。「なっ!? 半蔵、自分っ…………!!!!」「もう何を言うても無駄か…………!!!!」舌打ちとともに、残りの術師の内2人が狗神を兄貴へと放つ。1秒も掛からず、狗神は兄貴の喉笛を食い千切るだろう。安易に予想できるその結末に、俺は慌てて飛び出そうとした。待ってくれ。俺は兄貴に、まだ何も聞けていない。そう叫ぼうとした直後だった。「バカの一つ覚えやな…………」再び無造作に振われた兄の右腕。しかし、たったそれだけの所作で…………。「っっ!!!?」兄貴に殺到していた狗神たちが、一斉に自らの術者へと襲いかかった。先程とは違う驚愕に言葉を失い、身動きが取れなくなる。どういうことだ?何で狗神が、自らの術師に還った?いくら兄が天才と言われていても、ただ手を振うだけでそんなことが可能だとは思えない。何らかの術式であることは明確だが、そんな嘘みたいな術に心当たりはない。そうこうしている内に、兄貴の背後に回った1人が、その死角から狗神を放つ。放たれた狗神は、今度こそ過たず、兄の喉部へに喰らい付いた。しかし…………。「ハァ…………ちっとは学習したらどうや?」兄に喰らい付いた狗神は、次の瞬間弾け飛んだ。死角に居た術師に、兄貴はゆっくりとした動作で振り返り…………。「こん結末は、10年前に用意されとったもんやろう?」最初の術師と同じように、その全てを焼き尽くした。一瞬で包囲の半数を失ったためだろう。警戒の色を濃くし、大人たちが兄貴から距離を取る。その渦中に立つ兄の顔には、はっきりと愉悦の笑みが浮かんでいた。…………一方的過ぎる。当時、戦闘を経験したことが無かった俺でも、理解できた。これは戦闘なんかじゃない。一方的に蹂躙されるだけの状況。それは即ち、戦闘ではなく虐殺と呼べる。この悪夢のような光景を終わらせたくて、俺は今度こそ、兄の前へと躍り出ようとした。したのだが…………。「っっ!!!?」不意に背後から伸びて来た腕によって、物影へと引き込まれてしまった。しかも御丁寧に、俺が声を上げて兄貴に気付かれないよう、口まで抑えてだ。拘束から逃れようと、じたばたともがく俺。だが、不意に掛けられた声に、再び俺は動きを止めた。否、止めざるを得なかったというのが正解だろう。「あーもう、そないに暴れへんの。自分はそないに駄々っ子とちゃうやろ?」「っっ!? か、母ちゃん…………?」上から降り注いだ声は、紛れも無く母のものだった。俺が動きを止めたことで、もう拘束する必要はないと思ったのだろう。母はすうっと俺から手を離した。自由になった俺は、噛みつかんばかりの勢いで母に詰め寄った。「母ちゃん!! 兄貴が!! 何で兄貴はっ…………!!」「はいはい。言われんでも分かっとる」慌てて言葉を紡ごうとする俺の頭を、ぽんぽんっ、と軽く叩きながらお袋は苦笑いさえ浮かべる。いつもと何ら変わらない母のその様子に、俺は唖然として絶句した。どうして?どうしてこんな状況で、そんな風に笑っていられるんだ?そんな疑問が表情に出ていたのか、俺が何かを聞く前に、母はこんなことを語り始めた。「いつか…………そう、いつか。自分と半蔵が、仲良う村のために働きに出とる。そんないつかを、ウチは楽しみにしててんけどなぁ…………」残念そうに、懐かしむように、そう口にするお袋。それは先程の狗神使いと同様、諦観に満ちた後悔の言葉だった。どうして…………どうして誰も彼も手放そうとするんだ!?何で手遅れだと決めつける!?どうして何もせずに諦めようとする!?どうしてっ!!!?「何でみんな、そない簡単に諦めんねんっ!? どうしてまだ間に合う、まだ大丈夫やって誰も言えへんっ!!!?」実に子どもらしい、理想を立て並べた不快な疑問。しかし不快な筈な俺の疑問に、母はただ優しく微笑んでこう答えた。「優しゅう育ってくれたみたいで、お母んは嬉しいで? けどな、さすがにこうなってもうたら、はい元通り、とはいけへんやろ?」「っっ!!!?」分かっていた。もう手遅れであろうことも、大人たちの言うことが正しいであろうことも。それでも俺は、希望を捨てたくなかった。まだ間に合うと、まだ兄は戻って来てくれると、そう信じていたかったのだ。俺のそんな思いを知ってか、母はそっと俺の手を握った。「さて、ほんなら行くで?」「は? い、行くってどこに?」「着いてからのお楽しみや」悪戯っぽく笑った母は、答えることなく俺を引っ張っていく。辿り着いたのは、焼け落ちずに残っていた家の納屋。お袋はその納屋の周囲に強固な結界を作り上げていく。「か、母ちゃん? 一体何してん?」「ん? 見て分かれへん? 結界張ってんねん。しばらくは持ちそうな城壁作ろ思て」やがて結界が完成すると、母は納屋の戸を開き、俺へと向き直った。「ほな小太郎。自分はしばらくこん中に隠れとき。多分あの子も、ここで自分を殺す気はあれへんやろうし」「!?」母が告げた言葉に、俺は目を見開いた。俺が子どもだから、だからここで息を潜め、そして生き残れと?冗談じゃない!!「嫌や!! 俺も母ちゃんたちと一緒に兄貴を止める!! せやないと、何で今まで鍛えてきたか分かれへんやないか!!!?」子ども染みた叫びを上げる俺に、母はふぅ、と嘆息して肩をすくめて見せた。「…………見てくれもそうやけど、頭ん中まであん人そっくりやなんて…………やっぱウチ、男運あれへんのやろか?」そんな風に呟くと、お袋は先程と同じように、俺の頭をぽんぽん、と叩いた。「他の大人にも言われへんかった? これはウチらの始めたことやから、自分には関係あれへん、て」「か、関係あれへん訳あるかっ!! あいつは…………犬上 半蔵は、俺の兄貴やぞっ!!!?」俺の言葉に、お袋はすうっと、目を細め…………。「そうやね。兄貴や…………あの子は世界でたった一人の、自分の兄貴やねん…………」本当に嬉しそうに、今にも泣いてしまいそうな、そんな笑みを浮かべた。「せやから小太郎。ウチは自分らに争って欲しいない。骨肉合い食むなんて、時代錯誤も良いところや」お袋はそう言うと、俺の頭から手を離し、ゆっくりと兄貴がいるであろう方向へと振り返る。「そろそろ行かんとな。さっき長の魔力が消えたさかい、多分生きてんのはウチら親子だけやろうし」「!!!?」お袋の言葉に俺は声にならない叫びを上げる。全滅…………?これだけの短い間に、村が全滅したって言うのか!?当時、嗅覚や聴覚に頼りきりで、魔力知覚が未熟だった俺は、その事実に気が付けずにいたのだ。故に驚愕した。お袋の放った、村が全滅したという言葉に。何で…………どうしてこうなった!?昨日まで…………いや、今日の朝まで、普段通り楽しく過ごしていた筈なのに!!兄貴の元服を、3人でささやかに、だけど存分に祝おうと、そんな話をして俺は家を出た筈だ。それが…………どこで間違えばこうなるんだよ!?「…………ごめんな小太郎。ウチは自分に大勢の命背負わせて、挙句の果てにはあの子も救ってやれへんかった」俺に背を向けたまま、懺悔の言葉を告げるお袋。その背に湛えられた悲壮感は、先程の狗神使いと同じもの。死ぬ覚悟を決めたものの気配。だから俺は思わず…………。「あ、あかんっ!!!!」お袋の腰に抱き付いていた。今手放せば、俺は兄貴だけでなく、この人まで失ってしまう。そんな直感があった。強く強く、母の身体を抱き締める。どこにも行かぬように、この人を喪わぬように。不意に、お袋が笑うのが、空気越しに伝わって来た。「なぁに? 小太郎はまだ乳離れ出来ひんの? しょうのない子やねぇ」呆れたような、そんな口調。しかし俺は言い返さなかった。ここでお袋を喪わずに済むなら、それでも良い。マザコンと言われようが、何と言われようが、お袋を喪うくらいなら…………。「安心しぃ、小太郎」背を向けていたお袋が、俺の名を呼ぶと同時こちらに振り返る。そして…………。「ウチはずっと、自分と…………自分ら兄弟と一緒におるで?」俺の身体を包み込むように、優しく、しかし力強く抱き締めた。お香の匂いが混ざった、母の優しい香りが俺の鼻をくすぐる。それは、久しく忘れていた母の温もりだった。「こうして抱き締めたることも、言葉を交わすことも出来ひんようなってまう。けど、ウチはちゃあんと自分らの傍におる」優しい声音。泣いた赤子をあやすような、そんな響きを持って告げられるお袋の言葉。それに紛れこむ、確かな末期の気配に、俺は無意識にお袋の身体を掻き抱いた。「嫌や…………嫌や!! 俺はまだ、母ちゃんにも兄貴にも、何にも返せてへんやないかっ!?」「どあほ。もう十分、ウチは返してもろとるよ。せやから、帰すんならあの子にだけ返したり?」耳元でそう呟くお袋の声。その声が僅かに湿っていることに気が付く。お袋が…………泣いてる?それを確かめようとして、しかし俺はお袋に強く抱きすくめられて動くことが出来なかった。「あ、あかんて。泣き顔なんて、あん人にも見せたことあれへんのやからっ」やはり、お袋は泣いているらしい。恥ずかしげにそう零して、お袋は更に強く、俺の事を抱き締めてくれた。「ぐすっ…………あーあ、締まらんなぁ…………やっぱウチは、あん人みたいにはなれへんやったわ」自嘲気に呟くお袋の声は、既に湿り気の無いいつもの口調。あの人が誰を指しているのかは分からないが、そこに込められた感慨からそれが、俺の親父であることを何となく察する。どうやら俺の親父は、涙を見せるような人間ではなかったらしい。そしてお袋は、そんな親父のようになりたかった…………。しかし今、彼女はその望みを捨てようとしている。今からでも遅くは無い。どうすれば、彼女を引き止められる?どうすれば、彼女を喪わずに済む!?必死で言葉を探すが、何も思い浮かばない。絶望に目が眩む俺を余所に、お袋はなおも最期の言葉を告げようとする。「こうして言葉を交わせるんも最後になるさかい。小太郎、1つだけ約束して欲しいことがあんねん」お袋はそこで言葉を区切り、一呼吸開けると、抑揚のはっきりした声で、こう告げた。「―――――強くなりぃ。どんな苦境も悲劇も、笑い飛ばしてまえるような強い男に。あんたのお父んは、そういう人やで?」告げて、俺から少しだけ身を離したお袋は、まるで手本だとでも言うように晴れがましい笑顔湛えていた。それは…………この状況をも笑い飛ばせということだろうか?そんなの出来る訳がない。貴女を喪って、俺は笑ってなんかいられない。言葉を紡ぎたいが、上手く口が動かなかった。今何かを告げれば、きっと俺は泣いてしまうから。それは今、この人が一番望んでいないこと。だから俺は、何も告げることが出来ないでいた。「それから、これはただの自分勝手なんやけどな? いつか自分が強なって、でもって誰かを救えるような男になれたら…………何も救えへんかったウチも、少しは何かを救えた気に、なれるような気がすんねん」苦笑いとともに、そんな自分の願いを口にするお袋。そんなことはない。俺はいつも、あんたに救われていた。俺だけじゃない、兄貴も、村の人たちも、あんたの笑顔に救われていたんだよ。あんたは、何も救えなかった、そんな人間じゃない。そう教えてやりたいのに、涙を堪える俺は、どうしてもそれが出来ない。それが、どうしようもなく歯痒くて、俺はぎゅっと唇を噛み締めることしか出来なかった。「しかし残念やなぁ。いつか小太郎がバカみたいに強ぉなったら、あん人召喚して闘わせて、でもってボコボコにされたあん人を、指差してゲラゲラ笑うんがウチの夢やったんに…………」「ぷっ…………な、何やのん? その趣味の悪い夢は?」こんなときだというのに、あんまりな言いようのお袋。そんな彼女の台詞に、いつのまにか俺は噴き出して、口元に小さな笑みを浮かべてしまっていた。笑った俺を見て、お袋は満足そうに優しい笑みを浮かべる。「それで良え…………自分はそうやって、笑って進んで行ける男になりぃ」そしてお袋は、俺の胸元にそっと手を宛がい…………。「ほなな。ウチは自分も兄ちゃんも、心の底から愛してとるからな?」笑顔のまま、俺を納屋の中へと突き飛ばした。「!? 母ちゃんっ!!!?」驚き、追いすがろうとするが、その時には既に納屋の引き戸は閉ざされていた。必死に戸を開こうとするも、ビクともしない。恐らくは外側から魔力で封じられている。お袋の張っていた結界は、恐らく内外双方からの干渉を無効化する類のものだったのだろう。「母ちゃんっ!! 母ちゃんっ!!!!」だんっ、だんっ、と何度も引き戸を叩く俺。しかし、戸は決して開かれることは無かった。「あん子の目的は『アレ』に関わっとった人間やろうし、多分そこで大人しゅうしてたら、自分は見逃してもらえるやろ」引き戸越しに伝えられたお袋の声は、やはり俺には理解できないもの。否、理解できたとしても、俺はお袋を喪うことを是とは出来なかっただろう。だから必死で、納屋から抜け出そうと、身体を引き戸へ叩きつける。「くそっ!! くそっくそっ!! くそくそくそくそぉっ!!!! 何でや!? 何で開けへんっ!!!?」しかし、どれだけ身体を叩きつけようとも、引き戸は開く気配を見せなかった。「聞きわけがないんもあん人そっくりやな…………けど、ま、そんなところも愛おしいんやけどな?」呆れたような口調で、再びお袋が俺に告げる。待て。待ってくれ!!行かないでくれ!!あんたを喪って、俺はどうやって生きていけば良いんだっ!!!?「母ちゃんっ!!!!!!」引き戸を壊すことを諦め、納屋の扉から顔を覗かせて、俺は必死の思いで彼女を呼ぶ。しかし…………。「言いたいことは全部言うた。せやから、ウチはもう自分に遺すもんは何もない」お袋はこちらを振り返ることなくそう告げると、ゆっくりと前へと歩き始めた。そしてそんな彼女の視線の先には…………。「…………ようも10年間、わいをたばかり続けてくれたな?」憎しみに表情を歪ませる兄貴の姿が、陽炎に揺らめいていた。…………その後、兄貴がお袋を殺し、そして俺に父の牙を残して立ち去ったところまでを再生し、俺の追想は幕を閉じた。「さて、駆け足やったけど、これが俺の記憶や。どや? 俺が強なろうとしてる理由、復讐する相手を知るには十分やったと思うけども…………」そう言って俺は光を失った夜の公園。呆然と佇む2人の少女へと視線を移す。視線の先で、2人は一様に絶望的な表情を浮かべて凍り付いていた。無理もない。ネギは恐らく、6年前に故郷を襲撃されているのだろうが、それでもあの時人死には出ていなかった筈だ。加えて明日菜も、黄昏の姫巫女としての記憶がない以上、ただの女子中学生。あれだけの人の死を目の当たりにして平気でいられる訳がない。そう思っていたのだが…………。「…………どうして?」「ん?」不意にネギが声を発した。そのことに驚き、俺は彼女へと向き直る。すると彼女は、ゆっくりと顔をこちらに上げ、涙を一杯に溜めた両目でこう問い掛けた。「どうしてあれだけのことがあって、小太郎君は笑っていられるの? どうして誰かのためにって、頑張ることが出来るの?」「…………」成る程。恐らくネギは、こう言いたい訳だ。実際に体験した訳じゃない自分たちが、こうしてここまでの衝撃を受けているのに、どうして当事者であるはずの俺が、こんな風に平気な顔をしていられるのか。無論、時間と言う万能薬が解決してくれた訳ではない。でなければ、今更こうしてネギたちに『復讐』なんて言葉を告げる訳は無い。なのに何故、笑っていられるかと問われたならば…………。「約束、やからやろうな」「やく、そく…………?」意味が分からない、と、目を丸くしたネギに、俺は苦笑いとともに告げる。「今見てた通り、何でも笑い飛ばせる男に、何かを救える男になるんが、俺とお袋との約束や」だから俺は笑っていられる。だから誰かのために、俺は身体を張れる。気が付けば、そうすることが、お袋との約束だから、ではなく、俺自身の望みにさえなっていた。復讐のためじゃない、誰かを護るために、俺は強くなる。かつて明日菜に告げた誓いは、刹那と出逢って、改めて感じたその決意は、今も色褪せていない。「…………ハァ。何言ってても結局、最後はあんたのお人好しさ加減が爆発する訳ね」ネギと同じように口を噤んでいた明日菜が、溜息とともにそんなことを呟く。お人好し、ね。どんな言葉で飾ろうが、言ってみれば、俺がやってることはただの自己満足に過ぎないのだが…………。「それでも、誰かを護れたら、誰かを救えたら…………きっとどっかでお袋も笑てくれる気がすんねん」「小太郎君…………」その言葉に何を感じ取ったのかは分からないが、そんな俺と明日菜のやり取りに、表情を曇らせていたネギはようやく小さな笑みを覗かせてくれた。…………さて、と。まぁ、これで俺の過去に関する話は一段落したかな?どうせなら、ここでネギの過去も聞いてみたいとこだったんだが、如何せん時間も押してる。次はこっちの用件を済ませておくべきだろう。「ほな、今度は俺の質問に答えてもらおか?」「へ?」「え?」俺の言葉に2人して目を点にする明日菜とネギ。まさかここで、自分たちに質問が返ってくるとは思っていなかったらしい。ま、当然っちゃ当然だわな。「し、質問って、一体何の話よ?」明日菜がびくびくとしながら、剣を露わにしつつそう尋ねて来る。「自分、俺がせなあかん言うてた復讐の話をするだけのために、わざわざこうして過去を覗かせた思てるんか?」「えっ? そ、そうじゃないの?」まるで気が付いていなかった様子の明日菜に、俺は軽く嘆息した。さすがはバカレッドですな。まぁ、あれだけの惨状を目の当たりにして、今こうして普段通りの調子を取り戻せてる辺りは感心するけども…………。この質問を告げれば、さすがに平然とはしていられないだろうな。俺は意を決しながら、2人に敢えて記憶を見せた理由を告げた。「良えか? 俺が自分らにこうやって記憶を見せたんは、魔法の持つホンマの恐ろしさを知って欲しかったからや。特に明日菜は、魔法に何やファンシーなイメージ持ってるような節があったからな。一歩間違えば、魔法がこんだけ恐ろしいもんになるって、理解させたかってん」「あ…………」言われてようやく、明日菜は俺の意図に気が付いたのだろう。そして彼女は、十分過ぎるほど魔法の恐ろしさを知った。だからこそ、俺の言葉に彼女は今、沈黙を持って答えている。そう確信した俺は、その流れのまま、彼女に問い掛けた。「その恐ろしさを知った上で、明日菜。自分はこれからどないするつもりや?」「ど、どないするって…………どういうこと?」言葉が足りなかったのは承知の上。質問の意味を図り兼ねて首を傾げる明日菜に、俺は咳払いとともに言葉を続けた。「俺が体験した出来事は、確かに偶々や。せやけど魔法に関わっている以上、その『偶々』は誰にでも起こり得んねん。明日菜、魔法が使えへん自分も例外やない。せやから俺は自分に聞いてん。『これからもこのまま、魔法のことを知ったまま、過ごして行くつもりか』ってな」「っっ!!!?」問い掛けの意味を理解した明日菜の顔が、驚愕に染まる。あれだけの惨状が、ともすれば自分に降りかかるかも知れない。驚くには十分過ぎる材料だろう。加えて言うなら、彼女を巻き込んだのは、ほぼ俺とネギの不手際が原因だ。そこに学園長の陰謀があったにせよ、彼女を言い包め、こちら側の人間にしてしまったのは俺たち。だからここらで、彼女に手の引き際を与えるのも俺たちの役目だろう。「自分が魔法との関係を立ちたいいうんやったら、学園長に頼んで、自分から魔法の記憶だけを消すことも可能や。でもって、自分は今まで通りの学園生活に戻ることも選べる…………そのことを知った上で、考えて欲しいねん。もし何かが起こった時『自分は巻き込まれただけやのに』なんて逃げ腰でおられると、最悪の事態も起こり兼ねんからな」「っっ…………」息を飲んだ明日菜に、若干の罪悪感を覚える。しかし、俺はそれも飲み込み、彼女に告げねばならない。中途半端に首を突っ込んだ時、割を食うのは彼女に他ならないのだから。とは言ったものの、自分が難しい決断をしてしまっていることは自覚している。魔法の記憶を失う。それはつまり俺やネギ、大局的に見れば木乃香や刹那との大きな関わりを、彼女は一つ失うことに繋がる。俺のことをさえ『友達』と呼んでくれた彼女にしてみれば、相等に残酷な仕打ちだろう。だからという訳じゃないが、俺は一つ助け船を出すことにした。「すぐに答えを出せとは言わへん。そうやな…………春休み中に答えを出してくれたらそれで良え。自分が考えて出した答えなら、俺はそれ以上何も言えへんしな」「…………分かったわ」しばしの沈黙を経て、しかししっかりと頷く明日菜。そんな彼女に苦笑いを浮かべながら、俺は小さく頭を下げた。「スマンな。巻き込んだんは俺なんに、今更こんなこと言うてもうて」「全くよ。おまけにそれが、本気で私のこと心配してるって分かるから、怒るに怒れないじゃない」謝った俺に、明日菜はそんな軽口を叩く。一見するとその様子はいつも通りにさえ見えるが、彼女の表情には僅かに影があった。…………内心、めちゃくちゃ悩んじまってんだろうなぁ。チクリと胸が痛むのを感じるが、これは必要な痛みだ。割り切り飲み込み、そして笑え。それがお袋との約束で、俺の望みだった筈だ。そう自分に言い聞かせながら、今度はネギへと、俺は振り返った。「じゃ、次はネギの番やな」「え、えぇっ!? ぼ、ボクにも何かあるのっ!?」自分にまで話が振られるとは、夢にも思っていなかったとばかりに、驚きの声を上げるネギ。まぁ明日菜への問い掛けは、魔法に関わるか関わらないかの選択を迫るもんだったしなぁ。魔法使いを目指している自分には関係ない、と言葉は乱暴だがそんな風に思っていたのだろう。しかしそれは、彼女が目指すものが『普通の魔法使い』ならの話だ。「自分、千の呪文の男を目指してる言うてたやろ?」「え、う、うん。そのつもりだよ? それがどうかしたの?」不思議そうに小首を傾げるネギ。そんな仕草もラブリーだが、今はそんなことに熱を上げてる場面じゃない。千の呪文の男。彼女の父親であり英雄とも称される彼は、即ち戦闘型魔法使いの代名詞。所謂、武勲の象徴ともいえる存在だ。そんな彼を目指すということは、つまり彼女も、そんな『戦闘型の魔法使い』を目指すということ。「千の呪文の男を目指す…………それはつまり、自分からあんだけの惨状に首を突っ込まなあかんかも知れん。そういうことやって、自分理解してたか?」「っっ!!!?」俺の問い掛けにネギが再び目を見開いた。「もしかしたら、自分はもっと酷い光景を見たことがあるかもしれん。そうなら俺がやったことは単なる大きなお世話やったかもしれん。せやから、こっから先は、自分があれ以上の惨劇を、見たことがあれへんって仮定で話すで?」「う、うん…………」前置きを告げた俺に素直に頷くネギ。彼女の肯定を以って、俺は言葉を続けた。「千の呪文の男は新世界…………魔法世界における戦争終結で名を上げた英雄や。つまり彼と同じような偉大なる魔法使いは、そういう戦場での活動を生業にしとる。つまり、さっき見せた俺の記憶は、自分がこれから活動するやろう現場の一例やったわけやんな」「あ…………」先程の明日菜と同様、俺の言わんとしていることを察した彼女は沈黙した。彼女が目指すもの、そこには当然、命の危険が付きまとうものなのだ。「それとも一つ。自分が千の呪文の男に関わるって点やとおんなしやけど、自分が行方不明の父親を探したいいうんなら、結局これも似たようなとこに首突っ込むことになるやろう。火のないとこに煙は立てへんからな」「…………」先の説明で、既に俺がその可能性を示唆することに気が付いていたのだろう。ネギは真剣な表情で押し黙ったまま、俺の言葉に耳を傾けていた。「そこで俺の質問はこれや。『自分は、そこまで覚悟を持って、千の呪文の男を目指すつもりか?』。もしそうやないんやったら、悪いことは言わへん。そん夢は捨てて、月並みな魔法使いを目指したら良え。それでも十分、偉大なる魔法使いとしての役目は全うできるやろう」口にはしなかったが、ましてや彼女は『女性』だ。戦場よりも、教壇や孤児院での活動、或いは温かな家庭こそが似合う、そんな存在。この世界の『ネギ・スプリングフィールド』は、場合によっては、誰かに護ってもらうと言う選択肢さえ考えられる。だからこそ、俺はその可能性を示唆し、彼女に考えて欲しかった。原作見てる限り、この頃の彼女って父親を目指すこと、探すことで頭ん中一杯一杯で、そこまで考えてる余裕無さ気だったしね。全ての言葉を告げた俺に対して、彼女は幾ばくかの逡巡を経てだろう、何か言葉を発そうと唇を動かす。「ボクは…………」「ストーーーーップ」「え、えぇーーーーっ!?」しかし、俺はそんな彼女の言葉を敢えて遮った。重大な決断を語ろうとしていたのだろう、急に台詞を止められた彼女は、そっ頓狂な声を上げて凍りついてしまっていた。「さっき明日菜にも言うたけど、すぐに答えを出せとは言わん。つーかむしろ、存分に悩めば良いねん。俺がしたんは、そんだけの価値がある質問やって自負しとる」「う゛…………た、確かに、ぽんぽん答えて良いようなことじゃなかったね」すぐに答えようとした自分が、浅慮だったと思いなおしたのだろう。ネギは叱られた子犬みたいにしゅんとしてしまっていた。そんな彼女に苦笑いを浮かべながら、俺は改めて明日菜に告げたのと同じ言葉を告げる。「ネギの方も、答えは春休み中に聞かせてくれたら良い。で、何や判断材料が欲しいんやったら、都度聞いてくれても構へん。ああ、もちろん明日菜もやで?」独りで抱え込むには、余りに大きな命題だろう。だからこそ、俺は2人に、困ったときは相談してくれ、とそんな風に釘を刺した。でないと、ネギ辺りは知恵熱出すまで独りで考え込みそうだからな。「まぁ、俺やのうても、明日菜やったら木乃香、ネギやったらタカミチ辺りに話し聞いてみるんも良えかもしれへんで? 自分と違う見解っちゅうは、聞くと意外に参考になるもんやさかい」軽い口調でそう助言した俺に、明日菜とネギは顔を見合わせて頷きあうと、真剣な表情のままこちらへと振り返った。「りょーかい。私バカだけど、バカなりに精いっぱい考えることにするわ」「ボクも。焦っていい加減な答えを出すくらいなら、しっかり悩むことにするよ」表情はさえなかったが、2人ともどうやら俺の問い掛けを真摯に受け止めてくれたらしい。それで良い。そうでなければ、彼女たちがこれから直面するであろう危機、立ち向かって行くことは出来ないだろうから。俺と言うイレギュラーが居るにせよ、俺に出来ることなんて限られている。もしものとき、彼女たちは自分たちが立ち向かう困難を、自らの手で切り開いて行かなくてはならないのだから。俺は彼女たちに頷くと、不意に夜空を見上げた。漆黒の空には、三日月が楽しそうに笑っていた。―――――願わくば、彼女たちが良き選択を掴めんことを。俺は心の中で、笑う三日月にそんなことを願った。この2人の道程を、少しでも明るく照らして欲しいと、そんな祈りに似た願いを…………。