トリステイン王家というのは、あまりにも、中途半端だった、と歴史書は物語る。彼らは、無能とするには有能過ぎた。今日物語られる限りにおいて、トリステインの歴代王家の人物と言うのは君主として平均的な水準を誇る。かの英雄王、フィリップ三世とその大公であるエスターシュの改革は一時とはいえトリステインにかつての栄華を取り戻したほどだ。そして、その係累であるヴァリエール公爵家もまた同様に政治・軍事の双方において才幹を発揮している。ゲルマニアが忌み嫌ったペチコートの一つ、かのアンリエッタについては言うまでもないだろう。政治・軍事の素人と侮ったゲルマニアが、かの実利的な帝政ゲルマニア官吏をして『あの糞ペチコート』と罵ったほどである。はっきりと言えば、弱体な王権と強すぎる貴族たちの上にあってなお、トリステイン王家は存続し続けられる程度には有能だったのだ。が、同時に。トリステイン王家というのは、つくづく間が悪い血統でもあった。おそらく、これほどまでに運に恵まれない血統と言うのも歴史上珍しいだろう。まずもって、トリステインの再興を成し遂げたであろうフィリップ三世、エスターシュ大公の組み合わせは破たんした。議論の余地はあるにせよ、トリステイン王家にとってはおそらく国勢を挽回する最後の大きなチャンスを逸したと言えるだろう。王朝の中身は変わろうとも、それは本質的にトリステインと名乗れた最後の機会だったとする識者もいる。が、多くの識者によれば最悪だったのはその後のトリステイン王家の混迷だ。個々の判断を見れば、一概には悪いとも言い切れないのは事実である。アルビオンとの政略結婚は、政治的にみて決して誤りではない。が、アルビオンは頼むべき後ろ盾とするにはあまりにも内部に爆弾を抱えてしまっていた。加えて、アルビオン王族を王配ではなく、国王とすることによる国内問題は実に微妙とならざるを得ない。結果、トリステインがアンリエッタ王女即以前に大混乱に陥っていたことはある種の政治力学からすれば必然だろう。本来ならば、そこで、ゲルマニアがトリステインと言う国家を渋々解体し、気乗りせずに統治してそのうちに取り込んだはずなのだ。しかし、歴史の気まぐれか、アンリエッタ王女は、アンリエッタ女王としてゲルマニアの前に立ちふさがった。これを歴史への悪あがきとみるか、祖国愛と見るかは微妙な議論である。それでもはっきりしているのは彼女個人の覚醒は最悪のタイミングであったという点で衆目は一致する。もう少しでも、トリステインが傾く前であればそれはゲルマニアとの戦争を招かなかっただろう。もう少しでも遅ければ、クルデンホルフ大公国のような特殊な地位をゲルマニアから確保することである種の地位を築けたことだろう。つまるところ、彼女は屈服するには早すぎて、しかし祖国を守るにはあまりにも遅すぎるタイミングで覚醒したのだ。これに一番翻弄されたのは、おそらくある意味近しい血族であり、藩屏でもあったヴァリエール公爵家だろう。つまり、かくまでも、歴史とは偶然の織り成すものであり、同時に残酷なことを為す。…トリステイン史 第17巻 "トリステイン戦役"前線視察というのはほとんど弥縫策の一環だった。しかし世の中、何が幸いするのか分からないものだ。「家系図を始めとする資料を漁れ。ありとあらゆる手段で探れ。リッシュモン卿にも、『極秘裏に』協力を要請しろ。」旗艦の執務室で、指示を出すロバートは久々に一つ問題を解決できる見通しを得られたことで僅かながらも肩が軽くなっていた。当分は引き出しの中に仕舞い込んであるボトルに手を伸ばすこともないだろう。「コクラン卿、あのリッシュモン卿を通じて探されるおつもりですか!?」思わず、聞き返してくる部下の言葉。それに対しても、今ばかりはわずかな余裕をもって鷹揚に応じられるほどだ。「そうだ。あのリッシュモン卿だからこそ、意味がある。」「は?」「我々から、話がしたいと呼びかけるわけにもいかんだろう。」ゲルマニアから、交渉を持ちかければヴァリエール家は返事をすることだろう。イエスでも、ノーでも、交渉自体によって得られる情報は大きい。が、それでは相手の立ち位置を見極めるには微妙な問題が残ってしまう。それはすなわち、ゲルマニアに聞かれたので答えた、という態度の問題だ。「つまり、踏み絵だ。相手の能力、意図、誠意に対するな。」だから、交渉したいと行動で示す。後は、ヴァリエール家がそれを察知してどう行動するかにかかっている。秘密裏に、トリステイン総督がヴァリエール家の家系図や系統を調べ始めたという事実。そして、隠しておくようで隠しておかないという態度。メッセンジャーとしてみれば、リッシュモン卿は最適なのだ。誰もが、あの御仁であれば秘密を漏らしても不思議ではないと感じられる立ち位置。それでいて、表向きは篤実な政治家をしているのだから『トリステイン情勢に疎い』新任総督が協力を頼んで不思議でない人物。正しく、自然に不自然なメッセージを送れる人物だ。あの狸であれば、そもそも自分の意図を始めから察して言われずとも漏らすと信頼できる。それ故に、このメッセージを受け取ったヴァリエール家から接触してくるかどうかだ。表向き、ゲルマニアがしているのは単なる調査。そこに込められた意味合いがどのようなものであれ、ヴァリエール家が動くかどうかは完全にその家次第。無視されるようならば、それこそ交渉の価値もない。最低限、情勢を把握した合理的な交渉相手でなければ話にならないのだ。「期待しているが、最悪を想定しなければならん。暴徒の鎮圧計画を立案しておけ。こちらは、本当に極秘で、だ。」が、同時に。問題の解決が見込めるとしながらも、ロバートとしては職務上最悪の事態に備えることも怠れなかった。「コクラン卿。申し上げておきますが、前線にオーク鬼の群れを抱えた状況ではタルブ駐屯の部隊では鎮圧には十分な兵力がありません。」「承知している。だが、難民の多くは殆ど武装もしていない平民だ。艦隊と竜騎士で支援するものとするがどうか。」前線で臨時築城した防衛陣地で防衛しているのはたった今、視察している通りである。それらを前提に計画を立案するならば、タルブ駐留中の兵力でも比較的余裕のある部隊を鎮圧には回すことになるだろう。フネの海兵と竜騎士は、数は小規模でも実戦経験豊富な精鋭だ。少なくとも、暴徒を鎮圧するには有用ではないか、と単純にロバートとしては考えていた。もっとも、彼の場合は植民地勤務よりも本国艦隊勤務が長く、暴徒鎮圧もせいぜいが群衆のデモ対策を念頭に置いての発言なのだが。「…竜騎士の支援は兎も角、艦隊の砲弾がとても足りません。」「タルブ備蓄分は?」「主として対艦戦闘を想定しての砲弾備蓄は行われておりました。ブドウ弾の備蓄は、艦艇攻撃分相応しかありません。」故に、砲弾でもって暴徒を鎮圧する規模の制圧戦闘となると些か不得手だと自覚せざるを得なかった。むしろ、貴族らが蜂起したような事例を想定し、ゲリラ鎮圧を想定する方が適切だろう。そう気が付いたとき、それでは、ボーアではないかと彼は心中で呟いていた。あの、ボーア。「鎖弾と陸兵が使うキャニスター弾は?」「キャニスター弾は、前線で目下加速度的に備蓄が溶けております。鎖弾はブドウ弾と同様です。」「結構。…代用品として使えそうなものは?マスケット銃弾、釘、鉄片、何でもいいが。」火力が絶対に不可欠な環境で、しかし火力が欠乏していては話にならない。「砲身寿命は?」「選べるものか。この際無視してかまわない。」「ですが、対地砲撃をフネから行うと相当拡散し効力は左程も…。」「オーク鬼を相手に試射しよう。結果は今週中には報告が上がることを期待する。」…出来ることならば、鎮圧戦などというふざけた結末に終わらないことを切実に祈りたいものだ。政治的に見た場合トリステイン系であった大公国だが、名目上は独立国家だ。無論、力学的にはどう言いつくろうとも属国であるのだが。しかし、この属国という身分ながらもクルデンホルフ大公国はその政治的な枠組みを良く活用して久しい。当然のことながら、彼らにとってトリステイン王家とはあくまでも含むところがある一つの交渉相手に過ぎなかった。だからこそ、彼らはゲルマニアと轡を並べ、あまつさえ王家の子女まで送り込むことで名目上の踏み絵に応じている。名目上、彼らはゲルマニアの友邦だ。…それ故に、彼らはゲルマニアが行おうとしていることに気が付く。トリステインとの関係同様に、彼らは中にいるのだから。「諸君、一つ聞きたい。ヴァリエール家の動向について、予想されるべき事態について述べよ。」急遽、龍騎士母艦の会議室に集められた大公国の面々に告げられた政治情勢に対する諮問。彼らは、まだ、コクラン卿が何をどう、決断したかまでは知りえない。だが、政治的動物の常として、政治的動物がどのような決断を下すかという予想は決して不可能ではないのだ。彼らは、コクラン卿がヴァリエール家を知悉していないことについてどの程度迷うかを判じられていないだけだった。だからこそ、常に相対的に弱い力を補うために情報力と分析力に磨きをかけてきた大公国の面々にとって問いかけの意味は自明だ。「…それは、つまり帝政ゲルマニアの動向を予期せよ、というご命令でしょうか。」ゲルマニアが、ヴァリエール家と妥協するか、どうか。言い換えれば、トリステイン王家とも縁戚であった『トリステイン王家由来の大貴族』をトリステイン統治に活用するか、と言う点だ。「その通り。帝政ゲルマニアの置かれた環境を考慮すれば、可能性は常に考慮されねばならない。」「質問です。ヴィンドボナと前線の距離を考慮すれば、大半が独断専行になるでしょう。コクラン卿は一度更迭されている人物ですが。」戦略はどれほど合理的であろうとも、合理性だけで物事は進まない。殊更、政治ともなればそれは誰が、どう、振る舞うかの世界でもある。そして、ゲルマニア政界におけるロバート・コクラン卿の立ち位置は新興の法衣貴族が領主に転じたものだ。一代限りで台頭してきた貴族の立ち位置を考えるのは、些か難しいが過去には更迭された事例もあった。このような背景を持つ貴族が、果たして再び更迭されるような危険性の高い交渉に臨めるだろうか?また、かなり繊細な問題とならざるを得ない交渉をヴィンドボナが容認し、コクラン卿を引き続き信任するだろうか?「良い疑問だが、どうも更迭そのものが疑わしい。」だが、既にゲルマニア内部に伝手をした大公国は気になる知らせを受け取っていた。まだ大半が未確認にとどまる情報なのだが、しかし、分析能力があれば嫌でも分かる。「その根拠をお伺いしても?」「ヴィンドボナ中央の息がかかった商会がコクラン卿との伝手を一度も切っていない。」ロバート・コクラン卿は、一代で成り上がった貴族。にもかかわらず、彼が失脚した時に中央の息がかかった商会から見放されなかった。どころか、支援まで受けている可能性がささやかれるのだ。「干されなかった、と。」商売に強い人間らならば、意味するところは明確に理解できた。彼は、そもそも、失脚していない。失脚を装った水面下での工作。それは、珍しい話でもないだろう。「ロマリアでの秘密工作の疑いが強い。現在、調査中だがアルブレヒト三世の信任を前提に議論する。」だからこそ、断言されたとき。彼らの多くは嫌な現実を知らされた実務担当者の表情で苦々しいものを無理やり飲み込んでいた。国力で劣る大公国にとって、現実は何時も苦々しい。それでいて、大公国という存在のために彼らは常にその苦々しい現実を嚥下してきたのだ。胃が荒れるような日々でさえも、彼らはそれを甘受している。必要とあれば、これからもそうするだろう。「…では、政治的な交渉を行う土壌は整っているでしょう。」故に。吐き出された言葉は、弱国で強国から一定の権利を勝ち取ってきた小国ならではの冷徹な判断だ。「問題は、どの程度の地位を認めるか、だ。」「トリステインの中の一つの貴族、というのはありえませんか?」「第一に、大きすぎる。次に、そもそも、彼らは名目上ゲルマニアが領有する土地の貴族だ。」呟かれる言葉の大半は、嫌な現実を、渋々認めるという色合い。だが、そこにあるのは少なくとも現実を現実として受け止めるリアリズムだ。「この場合、どなたも、トリステインの貴族として認めるとしてヴァリエールを取り込めるとは考えないでしょう。」既に、大半の貴族は旗幟を鮮明にしてしまっている。問題なのは、自由に主を持たないはずのトリステイン貴族が二派に分かれたことだ。即ち、ゲルマニアと戦うか、ゲルマニアと共に戦うか。現状、政治的な動向としては公爵家息女が巫女として王女の結婚式に参加するヴァリエール家は微妙に王家寄りだった。が、現実問題として大領とはいえゲルマニア国境付近に位置するヴァリエール家の地理的状況が存在する。結局、誰もがヴァリエール家の動向を予期しかねているのだ。だから、マトモな当局者ならば、多少妥協してでも取り込めるならば良しとする可能性があった。「問題は単純です。我々と同格か、それより上か下か、という一点です。」これらの情勢を前提に大公国としてみれば、当たり前ではあるが自国の国益を考えるだけである。ゲルマニアが疲弊しようと、ヴァリエール家がどちらにつこうと、基本的には問題ない。問題なのは、大公国の特殊な地位に対する余波なのだ。…ゲルマニアが、仮に、ヴァリエール家を旧トリステイン領に対する『特権的権利』や『指導的権利』を認めたとすれば。最悪の場合、『旧トリステイン属領』に対する『指導権』を入手しかねない。無論、あくまでも状況としては最悪を考えての仮定。だが、ゲルマニアが比較的政治的動物として振る舞うことを知っていても大公国は不安が拭えない。彼らは、属国に落ちたことがあり、同時に政治的動物としてゲルマニアが強すぎる大公国を望まないということも察しえるのだ。故に、陪臣の陪臣という立場に大公国を落し込み、ヴァリエール家とクルデンホルフを相互に龍虎相打たせる可能性は常に危惧せねばならなかった。そうでなくとも、同格とされるだけでも大公国は重大な問題に直面する。「トリステインにおける格式を考慮すれば、我々は…微妙な立ち位置に立たざるを得ません。」王家の下で、名目上独立していた大公国とその臣下であるヴァリエール家は微妙な関係だった。なにしろ、ヴァリエール家は名門中の名門であり、しかも王家に連なっている。他方、大公国も似たような背景があるが名目上は独立していた。では、名目上の独立国として勢力圏が被るヴァリエール家がゲルマニアの属国を形成すれば?「トリステイン王家に返り忠は?」「論外です。使い潰されるだけだ。」当然のことながら、この状況下、トリステイン王家に忠誠を誓ったところで改善は望めない。なにしろ、そうなれば目下の敵であるゲルマニアと敵に付くであろうヴァリエール家との先鋒だ。空中装甲騎士団が奮戦虚しく数にすり潰されて壊滅して終わりだろう。「…とにかく、情報を集める。それと、本国と連絡を密にせよ。」知らねばならないのだ。大公国の未来を支えるためには、遠くまで見渡せる目と、遠くのことが聞こえてくる耳がなければならないのだから。「それで、コクラン卿は?」「オーク鬼と一戦するそうですが。」「それでは掩護しなければ名。龍騎士の一個中隊を派遣する。情報を集めさせる。」「はっ。」あとがき微妙に短め。遺憾なことである。…(・_・;)なんか、もの凄くお待ちいただいていた模様。ぼちぼち更新していきますが気長に御寛恕頂けると助かります。呟いてる方も、どうぞよろしくお願いします。(@sonzaix)