戦争をするために必要なものが三つある。それは、金と金と金だ。それに付け加えるとしたら、それも金だ。敢えて長期的活用源を加えるとしても、財源という言葉に終始する。戦争ほど金がかかる国家の営みも少ない。かの太陽王ですら、戦争を愛しすぎたことを後悔したほどなのだ。大体において、傭兵以外に戦争というやつは儲かる事業ではない。なればこそ、効果的に軍資金を確保できたヴァレンシュタインが皇帝軍の総指揮官に上り詰められる。議会が予算を承認しなくては、世界に冠たる大英帝国のロイヤルネイビーすら行動に事欠く。例外は国家が軍を保持するのではなく、軍が国家を保持するプロイセン程度だろう。どちらにしても、財源がなければ戦争ができないというのは明瞭だが。そんな世知辛い現実とは裏腹に、戦場では財務担当者がのたうちまわる勢いでかき集められた資金が浪費される。平時であれば、一年間かけて消費する弾薬を一会戦で消耗するなどざら。当然、戦争とはよっぽど戦力差があるか得るべき利益でもないかぎり大赤字となる。加えて大半の場合見込みは外れるのだ。忌々しいことだが、名誉なきボーア戦争のように。この事実は、古今東西を問わず不変の原則だ。いや、世界を問わずというべきかもしれない。ハルケギニアにおいても、軍事行動とは要するに金食い虫を動かすことに他ならない。魔法の存在によって、単独で歩兵をなぎ倒せる驚くべきメイジがいても本質は同じ。当然、戦争の赤字分を取り戻すために従軍する諸候は金づるとして捕虜になる。十把一絡げとしてまとめて売りさばかれる平民もだ。数が多いだけに、多少の金額にはなるだろう。その装備や持ち合わせている小銭もかき集めれば、まあ戦いの損失を幾分かは埋められる。一番、考えうる限り最悪なのは、泥沼の消耗戦を双方が行ったあげくに何ら得るところがない停戦だろう。恩賞の捻出一つとっても、指導者にとってみれば頭の痛い戦後処理になる。なにしろ、支出ばかり多いにもかかわらず部下に払う物を払わねばならないのだ。だが、ゲルマニア軍が現在直面している状況はそれすらまだマシと思える状況であった。旧トリステイン領。ゲルマニアの利益とは程遠い地を防衛。しかも、交戦相手は亜人。オーク鬼相手に、どうやって身代金を請求せよというのか。装備を売ろうにも、大半はこん棒や薄汚れた布程度しか得る物がない。通常の討伐ならば、討伐を依頼した貴族からの懸賞金もあるだろう。だが、ほとんど無尽蔵に沸いてくるオーク鬼に掛った懸賞金はびた一文ない。叩けど叩けど、赤字。しかも、収まる見込みは一切ない。「・・・人員と物資の浪費だ。一刻を争う。」ロバートは実に不愉快極まる現実に直面していることを率直に認める。金が無くなっていくのだ。それも、耐えがたいほど急激に。金勘定に汲々としたいわけではないが、まともな財務感覚は状況が望ましくないと叫んで久しい。はたから見れば、ゲルマニア軍は健闘している。防衛線を確保して押し寄せてくるオーク鬼を撃退し続けているのだ。その軍功は讃えられてしかるべき正当なもの。問題は、それをどうやって賞するか。過小なそれでは、当然不満がたまるだろう。大凡、戦後処理に失敗して傾いたという事例は歴史に事欠かない。かといって、相応に自腹をきればそれだけ中央が弱ることになる。・・・あのアルブレヒト三世が素直に出すとも思えない。想像するだけ無駄だろうと思うだけで、手にした羽ペンが鉛のように重く感じられてしまう。「恩賞の捻出。最低限、トリステイン系から絞れるだけ絞るとしても・・・。」トリステイン系貴族の蓄積した資本。嗤うべきか泣くべきか困るところだが、トリスタニアで押収した資料によると不明らしい。過去に財務次卿が捻出した資金から察するに、あることはあるのだろう。少なくとも、戦費調達ができたという事はある程度ソレが市場には流れているはずなのだ。調達先のトリステイン系の商会がいくらかは持っているに違いない。だが、調査して押収する費用と割に合うだろうか?ただでさえまともな資料の乏しい旧トリステイン王国領の調査費用を出すべきか?そもそも、民間資本にどうやって手を付けろというのか。考えれば、考えるほど問題が湧き出てくる状況だ。意思堅固なブリテン人とて頭を抱えたくなるような難題。そんなロバートだ。従卒のノックにこれ幸いと意識を切り替えた。「失礼いたします。伝令が復命いたしました。」扉を開けた従卒が差し出してくるのは、概要をまとめた走り書き。伝令を取りまとめる士官の表情から察するに、まずまずの結果だろう。こちらに顔をしっかりと向けている上に、浮かんでいる感情は職業的義務感だ。悪くない。「御苦労。情勢は?」下士官や下級士官の表情から察するに依頼したことは達成されたのだろう。彼らには、情勢を報告する事が任務だと命じてある。都合の悪い知らせを報告して咎められることはないが、報告しなければ咎めることも徹底した。部下の表所を読む海軍士官にとって必須の能力も、今回はそれほど必要ない。「御用命通り、各地の砦と防衛線を確認いたしました。」粗雑ながらも、地図に書き込まれているのは防衛拠点の所在。土メイジらが即席で組みあげた城塞だというが、まったく工兵隊が馬鹿馬鹿しくなるような築城速度だ。壁で高度を取れれば、火器を持たないオーク鬼程度には十分抗戦が可能。しかし現地指揮官の判断で、各個に防衛陣地を構築している現状は望ましくない。各個撃破されかねない以上、いくつかを連携させるように指揮系統を整備するべきだろう。問題があるとすれば、ゲルマニア軍の指揮系統事態それほど洗練されていないということぐらい。泣きたくなることだが、そもそも各部隊がてんでバラバラに編成されている。諸民族寄せ集めと酷評された一次大戦時のオーストリア軍よりも酷い状況だろう。まあ、周辺国も似たような水準。付け加えるならば、ロバート自身はやはりメイジで無いという事で軍制に口を出しにくい。おまけに本人はメイジの研究という科学からの好奇心を優先しがちだ。軍地上部隊が抱える組織上の課題を知るにつれてロバートは、ほとほと自分が海軍士官であることに感謝したいほどだった。「現在、各部隊からの要望をまとめております。やはり全体的に、補給が必要とのこと。」きっと英国陸軍士官が陸軍として立て直せと言われれば、絶望しかないだろうと思うからである。まあ、自分の仕事は取りあえず有能な軍人らを働きやすいようにしてやる事。そう割り切っているだけに、前線からの意見をロバートは欲してもいる。言い換えれば、丸投げできる相手が欲しかった。(さすがに、その相手が見つからないのがロバートの悩みでもあるのだが。)現状では自分で情勢を把握して対応しなくてはならない。そのために自分で聞きとって、口頭による追加報告を受けている。それを羽ペンで地図に書き込みながら、可能な限りながらも状況を理解せねばならない。ロバートにとっては、すでに十分難題だ。食糧は十二分にある。なにしろ、軍の兵站拠点だ。この方面にいるゲルマニア軍を養う程度ならば一年は事足りるだろう。問題は、消耗する各種弾薬だ。やはり、砲弾と火薬が足りない。まだ、マスケット用の鉛玉は余裕があるが火薬の欠乏は深刻だ。現地で簡単に補充できるものでもないだけに頭が痛い問題である。大砲のものを流用できるが、あまりしたくはない。そして、大砲用の砲弾。後退時に備蓄弾薬を遺棄したのが高くついている。おかげで何をするにも制約が付きまとうのだ。もちろんタルブの備蓄と鋳造用のインゴットを潰せばいくらかは補充できる。しかし、そうなれば艦隊用の補給物資が欠乏してしまいかねない。特に、砲弾鋳造用のインゴットを転用すると艦隊補給拠点としての機能が損なわれる。そうなれば、何のためのタルブ集積地かという根本に突き当たってしまう。だが、弓矢で頑強なオーク鬼を仕留めろというのは酷な話だ。歩兵や軽装のメイジと異なり、亜人の強健さを考えれば一二本の矢で仕留められるとも思えない。兵卒に期待できる義務の限界を超えているだろう。辺境部での経験から察するに、単独のオークならばともかく群れとなれば槍や弓では相手にならない。「いずれにせよ、作業を急がせるほかにないな。わかった、ご苦労。」部下を労い退室を許す。情報を彼らに整理させる必要がある以上、無駄に彼らの時間を拘束する事もない。ティーを無駄に冷ますのは愚かなことだ。「ああ、その。」「・・・まだ何か?」だが、どうも、見落としていたらしい。疲労からのミスだろうか?部下が申告すべきか迷っている案件があったとは。決済を再開しようとしていた書類をわきにやり、話を聞く姿勢をつくる。相手の顔を見て、少なくとも関心があることを体で表現。古典的だが、少なくとも相手に対する誠意として欠くことはできない。「現場からですが、一件御報告すべきか迷う言葉が。」「構わない。耳をふさぐよりは、聞くべきだろう。」知らずに破滅するよりは、知ってのたうちまわるほうが結果的には楽である。予防は治療に勝るとは言い得たものだ。同時に、少なくとも異なる意見を聞くことのメリットは海軍士官の知悉するところ。だからこそ、異なる出身の人間を積極的に組織に組み込むのだ。鷹揚に続きを促し、それを受けて部下も躊躇を振り切る。それにしても、よくよく悩んだのだろう。まあ、判断力を評価するには良い事例かもしれない。「・・・一言一句そのまま読み上げさせていただきます。」そして、読み上げられるのは実に痛快とも小癪とも言える内容だ。若手の士官が言ったのだとすれば、喝采を叫ぶべき痛快さ。御婦人からの警句となれば、神妙に賜るべきもの。『失礼ながら、コクラン卿が現場を知りたいのであればご覧になるべきでは?』だが、現場に立つ女性の戦士からお誘いとなると我ながら戸惑わざるを得ないものだ。ダンスのお誘いならばいざしらず、戦地へのお招きを御婦人から賜るとは!戦時とはいえ、はたはや困惑せざるを得ない。『ご案内いたします。ぜひ、一度足をお運びいただきたいものですわ。』締りだけ聞けば、丁重なお誘いだ。だが、曲がりなりにも軍人が軍人に送る言葉としてはどうなのだろう。「・・・面白い。ゲルマニアのご婦人がたは随分とまた。」なんだろうか、と言葉に詰まる。自分で口にしておいてなんだが、少々評価に困る存在だ。カラム嬢といい、このミス・ツェルプストーといい、ゲルマニアの女性は随分と好戦的らしい。まあ、メイジという社会について研究する好奇心が刺激されるとも言えるのだが。まったく嘆かわしいことにこれほど興味深いテーマについて誰も研究していないのだ。王立アカデミーとやらは何をしているのだろうか。まったく、王立協会ならばゴールドメダルが授与される見研究の処女地が山の様にあるのに!「いかがなされますか?」知的好奇心に思わず傾いた心を呼び戻したのは、伺うような部下の声だった。考え込んでいたことを誤解されねばよいのだが。そう思いながら、ロバートは少し考え込む素振りを崩して頷くことにした。「ご招待を受けよう。どの道前線は見ておかねば。」必要とあれば、前線視察も行うべきだろう。もちろん現場を見て理解できるのが全てというつもりはない。指揮官というのは、対局を見据える司令塔なのだから。軽挙妄動すべきでないというのは、当然の思考だろう。それでも、海軍で指揮官先頭の精神が謳われているのは其れ相応の理由があるからに他ならない。行って、見て、掌握することにも意味がある。そこまで理屈で考えるまでもないことだ。それに、上手くすれば軍制面の助言者を発見することも期待できなくもない。願望が入り混じった判断かもしれないが、悪くはない提案に聞こえた。故に、彼は決断する。即決したロバートはすぐに手はずを整える用に命じた。「出港準備だ。手ぶらで行くよりはフネでも持参しよう。」「はっ、直ちに。」順調な手配。まずまずの状況。経験則上、物事が上手く行き始めている調子だ。それをロバートは実に満足げに頷くことで実感する。現場の意見を聞けば、状況の改善に役立つだろうと。・・・おかげで、油断してしまった。船旅というものは、あまり良い思い出がない。フネのメインデッキから下界を眺めおろしていた少女は、忌々しい過去の記憶を頭から追いやる。品位のかけらもないゲルマニアの士官を吹き飛ばしたことは後悔していない。自分の失敗魔法で、マザリーニ枢機卿まで巻き添えにしてしまったことは少々気がかりだったが間違ったことはしていないのだ。意図が正しかったにも関わらず、不手際で失敗してしまっただけである。貴族の名誉を保つために行った名誉ある行為。それが、失敗によってマザリーニ枢機卿を巻き添えにした批判ならばまだ甘んじただろう。にもかかわらずだ、と少女は憤慨する。無礼で野蛮なゲルマニア人はまったく意味のわからない批判を喚き立てる始末。そしてゲルマニアに拘束され、あまつさえ捕虜とされた。杖も持っていない平民上がりに侮辱され挙句に囚われるのは屈辱でしかない。今でも、そのことを思い出すだけで屈辱と恥辱で体が震えてくる。「・・・考えてもしょうがないわ。お父様もきっと理解してくださるはず。」そして現在進行形にて、気に病んでいるのは家出のことだ。貴族としてのあり方を重んじるべきトリステイン名家らの醜態は耐えがたいほど。いや、名誉の問題ですらあるだろう。こんなときこそ、ヴァリエール公爵家が率先して模範を示すべきというのに。「そうよ、私は間違っていないわ。」姫様の結婚式。アルビオン王家のウェールズ様と姫様の中を素直に祝福できない人たちがいると聞いて本当に悲しかった。貴族にとって、王家とは何か。忠誠の杖をささげたと常々口にしていたのは一体何だったのかとルイズは問い詰めたいほどだった。「王家の祝事も慶賀しないなんて、信じられない。」姫様が、あのアンリエッタ姫様が結婚なさるのだ。お相手はトリステインともご縁の深いアルビオンのウェールズ王太子殿下。臣下にしてみれば、こぞってお祝いに駆けつけこそすれども躊躇する理由はない。まして、最愛のお友達と呼んでくださる姫殿下から名誉ある巫女を依頼されて断るなど!お父様はどうかされてしまったのではないだろうか?本当の貴族というものの名誉を一門が、貴族が忘れてしまっていると笑われかねない事態。だから、だから、とルイズは心で繰り返す。『私は、間違っていない』と。自分の心で繰り返すのだ。『私は、正しいのだ』と。ゲルマニア軍所属軽コルベット、エムデンごく標準的な軽コルベットながらも優秀な見張り要員と練度の高い船員らから司令部からは重宝されているフネだった。彼らに期待されている任務の性質は、要するに哨戒と偵察。砲もメイジも龍騎士も搭載数が貧弱な軽コルベットでありながらも、眼としての役割からコクラン卿は増派を強く求めている類のフネでもあった。最も、当のコクラン卿自身エムデンを重宝しながらも持ち込まれる凶報には基本的に歎くのが常なのだが。「なんだあれは!?」ともかく、エムデンの優秀な見張り要員はその評判にたがわぬ視力と注意力によって地上に起きている異変をきっちりと補足した。多少距離があるものの、鍛えられた彼の眼は地上の状況をきっちりと走査しきっちりと異常に気づけたのだ。「どうした?」「見ろ!囲まれているのは、出発したばかりの輜重隊に見えるのだが。」眼下の光景は、訓練されていない人間の視力では林の様な何かと小さな点と見えるに過ぎないだろう。だが、彼らはソレが人の群衆であり同時に小さな点の群れが補給用の馬車だということに気がつけた。優秀な水兵というものは、メイジに劣らない極めて貴重な眼だ。だからこそ、組織で戦うという前提を抜きにしても見張りの地位は平民であろうとも相対的に高い。ゲルマニアは元より平民の比率が高い軍組織であるが、中でもフネに乗り込む練達の水兵ともなればやはり相応の立場が用意されるのもそこにある。「・・・本当だ。おい、だれか艦長に伝えろ!」そして、呼び出された艦長が事態の深刻さを理解し地上で取り囲まれていた輜重部隊の救出を決断するのにそれほど時間はかからなかった。少ないながらも、伝令用に搭載している龍騎士隊を展開させると共に威嚇のためにフネを近づける。まあ、軍隊でも何でもないタダの民衆の群れだったので散らすのはさほどの難事でもなかったらしい。強面の龍騎士隊が降下する素振りを見せただけで、馬車を取り囲んでいた連中はあっさりと散っていった。一先ずは、これで安全が確保できたと判断したエムデンの艦長は事情を聴く為に責任者をフネに招く。無事を祝う艦長が、これでも飲み給えとホットワインを差し出し、若い貴族が感謝して飲み干す救助に感謝。そんな儀礼的やり取りの後に、若い輜重隊指揮官は深刻極まりない状況をエムデンの艦長に打ち明けた。ほとんど、それは輜重関係者にとっては周知の事実。しかし、コクラン卿指揮下で来援したばかりの将校や一般の貴族らにとってみればほとんど寝耳に水状態の最悪の知らせに近いものだった。「は?糧食が欠乏寸前だと!?」一瞬、何を言っているのかわからないとばかりにエムデンの艦長は吠える。タルブ集積地という兵站の要衝。わざわざゲルマニア艦隊用の基地が用意されているのだ。彼らの脳裏には、射耗する砲弾備蓄量や火薬備蓄量ならばともかく食糧の心配は浮かんだこともなかった。そんなものは、たっぷりやまずみにされていると誰もが考えていたのだ。なにしろ彼らは、実際に倉庫に積み込まれた大量の穀物を日々眼にしている。あれで欠乏寸前と言われれば、誰だろうと疑問を覚えることだろう。「厳密には、兵らの分はあるのですが・・・その。」「なんだというのかね?」当然、若い輜重部隊の貴族にしてもその事実を否定するつもりは全くなかった。ただ彼は、職責上物資を運ぶ行為に従事する途中でたびたび避難民の眼に晒される立場にあったという事に過ぎない。メイジとしての力量よりも、単純に采配能力を買われた彼は逃げ出してくる平民らが着の身着のままということを察した。そして、囲まれるに至って彼らが深刻な食糧難にあるという事を否応なく実感したということだ。まあ、調達の難しさを知るために薄々は察していたという事もあって原因はあっさり彼には理解できた。要するに、眼がアルビオンやら大公国やらガリアやらに向き過ぎていたお偉いさんが見ない足元の火種に気がついたということである。「避難民の食糧が足りません。」「なに?避難民?」「御意。どうにも、穀物が入手できていないようで暴動寸前かと。」まだ、逃げている途中はそんなことも気にならなかったらしい。おかげで最初のころ、ゲルマニア軍当局はタルブ周辺に逃げてきた避難民に特に注意を払っていなかった。指揮系統の再編によってコクラン卿が赴任するにあたっても、そのことは特に配慮されずじまい。だが、ごくわずかな蓄えを食い潰し始めた避難民の焦燥感。それは確実に高まる一方なのだ。「だからと言って、何故我々に?食糧なら商人なり、農家なりに交渉するべきことだろう。」「・・・トリスタニアから大量に我が軍が買い付けた分の放出が要求されているのですが。」そして、問題はゲルマニアが作戦の一環とはいえトリスタニアで大量の穀物を買い求めたと誰もが知っている点にあった。軍の意図は明確だろう。トリスタニアで大量の金が落ちているという知らせをレコンキスタなる金の亡者どもに流す。そのために、ほとんど意図的に噂を流布する形で金に糸目を付けずに買い込んだ。近隣の農家からまで、供出されたと思しき大量の穀物。ゲルマニアにしてみれば、これで旧王都に侵入してきた馬鹿どもを兵糧攻めしつつ撃滅する予定だった。ところが、どうも侵入してきた馬鹿どもは、馬鹿は馬鹿でも亜人の群れ。当初計画も糞もなくなって、ゲルマニア軍は不本意な戦線後退を強いられる始末。元々、余剰穀物が重税や荒廃によって乏しい旧トリステイン領内の農家は売る分などほとんどない。加えて、亜人の大侵攻によってそもそも彼ら自身も避難民となってしまう状況だ。深刻な食糧問題が勃発するのは、ほとんど時間の問題に過ぎないように彼らには思えてしまう。そんな時に。誰かが囁いた。あんなに買い占めたゲルマニアなら、余っているはずだ、と。誰かが囁くのだ。あんなに余っているハズならば、少しくらいは分けてもらえるのではないだろうか、と。「馬鹿なことをいう!そもそも、あれは撤退時に処分したはずだろう。」「連中、そんなことは夢にも想像していないかと。」だが、そもそもすぐ食べるわけでもない重たい食糧なんぞ撤退時に亜人誘導の囮にするか焼却処分されている。囮として役立たないとわかった瞬間に、ほとんどの部隊は重たい輜重は処分して離脱を優先。まあ、タルブという兵站拠点があればこその技だった。要するに、ゲルマニアは飢えないとわかっているからこそ重いモノを放り出して撤退できたのだ。しかし、そんなことはそもそもゲルマニア軍しかしらない。なにしろ、買いあさるところは見られていても焼却処分しているところを見ている避難民は多くないのだ。(いや、そもそも逃げることに懸命なので気がつくとも思われない。)「金は渡しているはずだ。そこらの農民と交渉させれば良いではないか。」「艦長、連中はトリスタニアの貧民が過半です。持ち出せた財産は・・・。」大半のゲルマニア軍人は軍紀が厳しいと歎くものの割合タルブ駐屯地そのものは気に入られている。なにしろ、上手いワインがゲルマニア人の感覚では安価で楽しめるのだ。料理も独自のものだが、その辺に寛容なゲルマニアの舌からすれば上々のものである。そして、それを受け入れるタルブ村はゲルマニア人相手の商売に精を出していた。なにしろ、相手は割合とはいえ規律正しい上に統治上の必要性から税を軽減してくれたのだ。それほど悪感情が無い上に、支払いは確実とくれば拒む理由はない。商魂たくましく、兵隊相手の商売が出てくるのは当然の帰結だろう。そうして、タルブ近隣の物価はゲルマニア並みとなっていた。言い換えれば、安いというゲルマニア兵の感覚は給与を払われるゲルマニア人の感覚。そもそも貧しい貧民が何逃げ出して来た時の財産程度では、すぐに足りなくなる。「なるほど、囲んでいるのはそのような連中か。」当たり前のことだが、才覚のある連中は新しい仕事や商売を見つけられるだろう。だが、そんな連中はごくごく限られている。当然のこととして、食い詰める人間が出てくるのは時間の問題だった。「食料は供出できるか?」取りあえず、面倒事を避けるためにも飴玉をばら撒けないのか?「一度二度はともかく、冬越えの分は無理です!ただでさえ、撤退時に放棄しているのですよ。」そんな艦長の疑問に対する輜重責任者の解答は、ごくごく単純だ。数回ならばともかく、くり返していてはすぐに足りなくなる。そもそも、軍人よりも避難民の方が圧倒的に多いのだ。タルブ駐屯地に余裕があるとしても、それは軍人と従来のタルブ在住民に限った話。誰だって、想定した人員の十数倍の食糧需要に応じろと言われて応じられるはずもなかった。いや、それこそ都市でも新たに造れと言われる方がまだ楽だろう。逃げ出して来た避難民の胃袋という問題は、恐るべき問題を提起する。そのことを理解した艦長は丁重に若い貴族へ謝辞を述べて返すと同時に参謀らに諮った。「・・・暴動が起きた場合鎮圧できると思うか?」少数ならば、フネの大砲なり龍騎士なりで散らすこともできるだろう。だが、大規模な暴発となれば。「オーク鬼と遊びながら暴徒と遊ぶのは、厳しいかと。」それこそ、厳しいどころではない。理解できたメイジらは、どうしろというのかとばかりに頭を抱え始めた。オーク鬼を抑え込むには、平民にせよメイジにせよ数がいる。一方で、暴発されれば鎮圧のために手を割かねばならない。「・・・頭が痛くなるな。よろしい、急ぎ対応する。」考えただけでも、怖気の走る悪夢だった。急ぎ対応する必要がある。誰もが、その考えに同意した。「総督にお知らせしなくては。急ぎ、指示を仰げ。」そして、職務に忠実に上司へ急報することになる。その日、いったい何杯ティーで動揺を誤魔化すために飲むことになるか。不幸な少し未来の事を知らないロバートに最初の悪い知らせがもたらされたのは昼食直後だった。視察に赴く直前に、会合を持つべく開かれた食事会。そこで、食後の会話を楽しんでいるところに凶報の第一陣が飛び込む。「コクラン卿、至急報です!アルビオン方面より、至急報であります!」「・・・信じられん。見たまえ。」伝令から届けられた知らせ。曰く、アンリエッタ王女とウェールズ王太子の結婚式告示。そして、そのトリステイン側出席者に“巫女”なるものとしてヴァリエール家の子女が列席する?ラ・ヴァリエール家は、中立と見られていたのだが。旗幟を鮮明にしたとでもいうのだろうか?間違いなく、悪い兆候だった。婚姻といいつつも、旗幟鮮明の機会だと誰もがわかる。これに対して、面倒事が飛び込んできたと考えつつも、ロバートの対応はまず常識的なものだった。「届けられているとは思うが、ヴィンドボナへ中継だ。並行して事実確認。」念のためにヴィンドボナへの中継を指示。並行して、部下らに事実確認を命じる。「視察は取りやめにいたしますか?」「いや、続けよう。」「よろしいのですか?」そして、対応を協議していた部下らからの中止提言を拒否。この状況だ。視察取りやめはやむなしではないのかと、疑念を表す部下が多いことを確認すると少しばかり口を挟む。「艦隊をまとめて動かせる状態に置きたい。むしろ、全艦で行くぞ。」最悪の場合、艦隊による強襲すらありえるのだ。そのためには、部隊を手元に置いておいた方が好都合。そして、総督視察に部隊が付き従うというのはカモフラージュとしても良さ気に思える。「了解いたしました。直ちに、手配いたします。」「よし。ただし、平静を装え。何事もないようにだ。」その意を汲んだ部下らに対して、ロバートは満足しつつも追加で指示を出す。目立つな、事態を隠匿して大きく悟られるな。緊急事態の勃発というよりも、何事もないという印象を与えることを彼は望んだのだ。「お伺いしてもよろしいでしょうか?」「タルブは、諸候に見られていると思え。軽挙すればそれだけでいらぬ波紋を立てる。」要するに、政治だ。そもそもロバートが総督なる地位に任じられたのも、もとをたどればその政治故にである。面倒だとは思うが、ロバートはその要素を考慮することもヴィンドボナに期待されているのだ。そして、期待に応えられる程度に彼は有能だった。「それと大公国には悟られるな。前線への援軍と伝えよ。」「彼らも勘づきませんか?」「こちらの意図を隠し通せ。介入される可能性を減らしたい。」面倒な事態を惹き起こさないための処置。手配される対応策。少なくなくとも、第一報に対するロバートの処理は適格と評することが可能な対応だった。それこそ、彼を総督に任命したヴィンドボナも満足できる程に。だが、次の悪い知らせは。少なくとも、ヴィンドボナどころかアルブレヒト三世にとっても予想外の事態を招く事となる。「コクラン卿!緊急事態であります!」「何?先の伝令ならば既に受け取ったが?」アルビオンからの悪い知らせに追加で何かあったのか?それとも、別ルートから少し遅れて飛び込んできた同様の連絡だろうか?そんな疑問を抱えた彼らに対する答えは非情だった。「いえ、別の問題が発生しました!こちらが、詳細になります。」「・・・・・・つまり、避難民が暴発寸前というのかね?」差し出されたのは、軽コルベットエムデン艦長からの緊急報告。それによれば、彼はつい先ほど暴発寸前の避難民から輜重隊を救出したらしい。同時に、その原因を調査した結果と現状の報告を緊急に寄こしている。そう、暴動の危険性だ。「はい、連中は我々が買い占めた食料を保持していると主張している模様です。」「馬鹿なことをいう。そんな重量物を抱えて撤退できるものか。」「撤退時に放棄と言われて、納得できるものではないのでありましょう。」参謀らが少しばかり、ざわめくものの結局のところ彼らの動揺は単純な事実によるところ。 オーク鬼を叩き潰し、レコンキスタを叩き潰し、動向が信用できない旧トリステイン貴族を叩き潰し。 さらに、飢えた避難民を叩き潰せと言われれば誰でも現有戦力に不安を抱く。 というか、絶対的にゲルマニア軍は不足することになるだろう! それを解決するための方策は、単純だ。飢えているならば、食料を最低限度放出すれば良い。だが。考えがそこに至った時に、誰もが困惑せざるを得ない。「まさかとは思うが、我々が避難民を養えというのではないだろうな諸君。」ロバートが口にしたように、避難民を養うというのは誰にとっても論外に思えてならないことだった。元々、採算性最悪と酷評されるトリステイン戦役以来出費がかさむことは概ね忌避されている。ヴィンドボナの意向を考えるまでもなく、ペイした分がペイバックされるとは思えにくい状況。そんなところに、徴税の見込みがないような連中をひたすら養えといわれたところでゲルマニア貴族らの思考はフリーズするだけだ。いくばくかは、それよりも現実的なロバートであったとしても、費用を考えるだけでその方策が現実的でないと理解できる。(だからこそ、ゲルマニア軍は食糧問題という面倒事は当初レコンキスタに押し付けるつもりだった。)「第一、そんな金穀がどこにあるのか?私は知らんのだぞ。」なにより。なにより、現実的に横たわっている問題は数の問題でもある。買い求めようにも、いくら金銭があっても足りるとは思えない。備蓄食料は豊富であるし、昼食もバリエーション豊富な良いモノを兵は楽しめている。だが、それは人数の限られたゲルマニア軍を食べさせるには豊富という程度。・・・飢えた胃袋全てを満たそうと思えば即刻倉庫は空となるだろう。そんな量の金穀は手品師でもない限り、捻りだすことは不可能にみえる。「ヴィンドボナに要請しては?」「届くころには、暴動だよ君。」そして、不足分を補うためにヴィンドボナに支援を依頼したところで。せいぜい、雀の涙程度が一度に送られる限度だ。ムーダによる輸送は、フネの船倉を満載したところで避難民の絶対数を満たすには至らないだろう。そして、その運航のための風石は艦隊の行動を制約しかねない。いや、逆に艦隊への風石配分がムーダの運航を制約することも考えられた。纏めて運ぼうにも、届くころにはそれこそ手遅れだろう。そして、口にこそ出さないものの。ロバートはあのアルブレヒト三世がそのような巨額な支出を許容するかという疑念もあるのだ。ただでさえ、意味のない出費と嫌がっているヴィンドボナ。そんなところに、この支出要請?受け入れられるというのは、ほとんど希望的観測だろう。「・・・取りあえず、ティーをくれたまえ。」故に、一先ず彼はお茶を欲した。そう、お茶だ。================================あとがきお久しぶりです。こちらも、投げ出すことなく更新し続けたいと思います。完結させたいなぁ・・・。>ななし様難しいですけど、意識して行きたいと思います。取りあえず、微妙速度で微速更新を予定しています。