帳簿が複数存在するのは一般的ではない。理屈だけ考えれば、帳簿は一つで良いのだ。だが、たまに耳にする程度には少なくもない話である。・・・ようするにその程度の需要はあるということだ。例えば、自分達の収入を過少申告する商人なぞ可愛い部類。酷い例になれば、存在のかけらもない兵隊たちに給金を払い続ける馬鹿げた事態すらある。まあ、査察が機能していれば見抜ける範疇だ。見抜けないとあれば、深刻な汚職を懸念するべきだろう。まあ、裏帳簿が存在することくらいは悲しいかな。どこの時代であろうとも良くあることなのだ。査察制度や会計技術の発展を持ってしても完璧には見抜ききれない。それに、技術が進歩すればするほど誤魔化す手段も洗練化されていくものである。だが、もっと酷い例がある。誰にも実態が分からない時だ。隠蔽されている真実があるのではなく、誰も理解していない。真実、誰ひとりとして事態を把握できない状況。知っている人間などおらず、事後策の検討を行うべき相手すら不明瞭。いや、交渉する相手すら不明というのはどうだろう。「・・・つまり、ゲルマニア軍の実情は誰も知らないと?」重戦列艦ヴァイセンブルク提督執務室。部下を追い出し、一人きりになったロバートは頭を抱えていた。そうでもしなければ、部下の前で盛大に肩を落として溜息をつく姿を見られていたことだろう。いや、そうでなくとも気分を切り替えなければ全てを投げ出したくなるところ。絶望的な報告を受け取ることには耐えられる。だが、絶望的な報告かどうかすら不明な情勢となれば!山積みにされていた報告書は部下が精読中であるが、どれほど進んだことか。タルブ特産品のワインすら苦々しく思えてくるほど、事態は望ましくない。いっそ、我を失うほど浴びるように飲めればどれほど楽だろう。「損害が各部隊事にばらばら?その程度の混乱はまだいい。」今、どこに、どの部隊がいるのか?最低限必要な戦力分布や戦力の配置すら混乱しきっているとは。報告された地点に味方がいないどころか、要塞があるはずの地点すら誤記だらけ。補給を要請されて送りだす頃には、すでに部隊が移動しているというのはざらにあるらしい。らしい、というのがより頭が沸き立つほどの問題だ。この種のトラブルは怒り狂った現地指揮官や補給部隊から散々上に挙げられている。だが、正確に把握できていない。事態を理解した時の衝撃は、思わず手にしていた羽ペンが滑り落ちた程。それすら混乱しきっている司令部では把握できていないのだ。指揮官にとってみれば、まさに悪夢というほかにない。加えて指揮系統の再編。辺境伯のより上位に指揮権を持った司令部が移ってきた。もちろん、自分達の事なので色々と思わざるを得ないが。ともかく、指揮系統の混乱も加わって戦場の霧は絶賛拡大中である。戦争論についてとやかく言う気はないが、戦場の霧に対して言いたいことは山ほどある。だが、これすらも頭痛の一要因でしかない。より深刻で、かつ急を要する問題が山積しているのだ。冷静沈着さを売りにしているブリテン人とてお茶を飲まねばやっていられない程に。「ともかく、貴族問題だ。ヴィンドボナめ、私を殺す気か?」トリステインは貴族関係が複雑だった。いや、旧トリステイン王国はというべきだろう。今形式上存在するのは、トリステイン王家であり王国ではない。そして、現状最大の問題は旧トリステイン王国貴族籍に入っていた連中の権利関係だ。アンリエッタ王女が自由貴族を認めた。この結果、ゲルマニアはゲルマニア帰属しない貴族をその領内に大量に抱え込むことになりかねない。封建的な契約上、それが許される余地がある。というか、権利として認められかねない。それが許されたらどうなるかなぞ、想像もしたくないだろう。当然、ヴィンドボナの面々は”解決”を希望している。叛乱に加わらせて討伐するか、せめて忠誠を誓わせて欲しいというのが彼らの希望だ。そのどちらかを選ばせることで問題を未然に防止したい、と彼らが考えるのは自然だろう。それは、まあ理解できるし当然だ。統治理論としてみた場合、管理できない貴族勢力など頭痛の種なのは子供にもわかる。中央集権を促進したいアルブレヒト3世はことさらだろう。「・・・だが、考えてみよう。トリステイン貴族らは自立を望むか?」そして、そこで難しいのがトリステイン系貴族らの心情である。彼らが、自立の道を望めば話は早い。叛乱を煽って鎮圧。或いは、英領インドの様に藩王国制度もどきを形成すればよい。だが、自立を望まず、さりとて屈服も拒絶する輩は頭が痛いことこの上ないのだ。アフガンやエジプトで散々手を焼かされている連中の二の舞になりかねん。しかし、慎重にやれば穏便な統治も可能だろう。確かに、ヴァリエール家を筆頭に、貴族としては大きな領土を持つ連中は少なくない。しかし母体であるトリステイン王国そのものの規模は小さい。いや、小さかった。小国の中において相対的に多数を占める程度の領地ならば、傀儡国家にするには手ごろな面積とも言えよう。まして、連中は大公国の様に突出した経済基盤を有するわけでもないモンモランシー家なども、悪くはないだろう。ともかく、連中は傀儡として保護国化するならば適切な規模だ。しかし、帰属が明確でない封建的契約の隙間をついたような立場におくのは断じてまずい。義務を伴わない特権の容認は、ゲルマニアの政策上許容できないのだ。踏み込んで言えば、選帝侯らと皇帝の主導権闘争が繰り広げられているゲルマニアで新たな特権の承認は政治的に許容できる限界を超えている。それを許容するくらいならば、アルブレヒト三世は選帝侯の撫で切りを決意するに違いない程だ。「・・・いっそ撫で切りにしてしまうか?」ゲルマニア勢力圏下のトリステイン貴族らは、烏合の衆だ。政治的に影響力を有するリッシュモン卿の一派を例外とすれば、ほとんどばらばらに等しい。そして、血の気の多い若い貴族ら(多くは各家の後継者)がレコンキスタに飛びこんでいるという情報もある。文字通り血の粛清を行うわけにはいかないだろうが、政治的に取り潰すには十分な理由だ。一族の連座という形式を取れば、法的に処理できることも大きい。なにより、赤字の戦費補填に充てることも可能だ。だが、考えるにそもそも損害を限定的に留めるのがゲルマニア政府の意向である。赤字を出してまで、トリステインの荒れ果てた土地に拘泥する必要性は何処にもない。少なくとも、ゲルマニアには。加えて、荒廃した土地の復興費用など財布をひっくり返してもでてこない状況。民間資本も期待できる状況にはない。費用対効果が果てしなく望めない地域に投じるよりも、ゲルマニア資本は未開拓地域へ流れていくことだろう。結局、この地域の回復による税収増も期待するだけ無駄だ。そうである以上、赤字回収のためにさらに軍事費用を出すのは無意味に近い。後世の歴史家に笑われないためには、軍事的必然性ではなく本質的な目的を希求するべきだろう。貴族政策は、急ぐべき課題である。だが、少なくとも総督としての職務はこの地域に投じる費用の最小化が最優先。で、ある以上は行動原則として大鉈を振るうよりも安定の指向が望ましい。「どちらにせよ、まずオーク鬼を吹き飛ばしてからか。まったく、何故オーク鬼が出てくる?」だが、諸問題を解決するためには安定が不可欠だ。少なくとも、戦時中にいろいろと問題を積み上げていく意思はさすがにない。山積している問題をさらに増やしたいとおもうほど勤労意欲があるわけでもないし、義務もない。「整理しよう。目的はなんだ?」ペンを取ってそもそもの戦略目的を再確認するべく思いつくことを走り書きでメモする。一、ゲルマニアの目的は土地にあらず。一、ゲルマニアの目的は早期終戦。一、可能な限りの出費抑制・・・これでは、東インド会社の経営と同じではないか。考えてみれば、東インド会社の赤字破綻に至る過程をゲルマニアは歩んでいるに近い。系列で言うならば、フランスの其れか?どちらにせよ、領域支配に引き摺られて泥沼化している。領地は維持費がかかるということを理解せずに拡大すれば、どんなに優良な通商企業とて破綻するのだ。国家とてそれは同じ。商業権益程度に留めるべきところで行うべきなのだ。「いっそ、従属国。それこそ藩王国でも造って面倒事は押し付けたほうが安くつくか?」資源があるわけでもない。市場規模はそこそこ。金融市場としては未熟。直接統治のメリットは率直に言って乏しい。人口や土地もゲルマニアにしてみればさほどの魅力もないだろう。面積の割に人口が多いことは多いのだが、正直統治困難性に比較して割に合うとも思えない。得られる利益と言えば、旧トリステイン王国征服という政治的な威光くらいだ。もちろん無視できるものではないが、それで他の全てを無視できるとも思えない。政治的栄光に拘泥して国家を過つ例に加えられるのは御免蒙る。公には口にされていないものの、アルビオンに土地を押し付けたのはある意味で正解だった。アルビオンがこちらに問題を押し付けてきていること把握している。だが、アルビオン管轄域内の諸問題はアルビオンが負担している以上ゲルマニアにとっては随分と楽ができた。そういう意味ではお互い様だ。いっそ、これを好機に都合の悪い中小貴族をトリステインに栄転させてやるべきかもしれない。帝政ロシアが反抗する貴族らをグルジアやチェチェン送りにしたというが。其れを模倣すべきかもしれない。「やれやれ、ヴィンドボナに意見してみるべきか。」愚痴を一つ呟き、羽ペンにインクを浸す。公用便を使ったところで、ヴィンドボナとの連絡が往復するまでには数日かかることだろう。トリステイン王国に籍を置いていた各貴族ら。取り潰すなり、活用するなりの判断はヴィンドボナに送ってしまおう。連中の処遇を巡ってしばらくは中央集権派と選帝侯らの分権派が争うことで時間も稼げるかもしれん。まあ、最悪政争の具としてアルブレヒト三世が苦労することになるかもしれないが。・・・まあ、苦労とは分かち合うものだ。しかし、どちらにしてもしばらくはオーク鬼を焼き払う術でも考えなければならない。まったく。陸軍など、私にとっては専門外も良いところだというのに。やはり現場上がりの信頼できる将校か、補佐官が欲しい。実態も把握できないのでは戦争もできるわけがないだろう。せめて、実戦経験のあるメイジが欲しい。「誰か!誰かあるか!」「あら、珍しい。」タルブ前方防衛線。そのありふれた要塞の一角で当直に立っていたキュルケは予期せぬ空からの来客を迎えていた。単騎の龍騎士。定期便が来るのは、まだ数日後のはず。おそらくは、急ぎの伝令用だろう。はっきり言ってしまえば、時々訪れる輜重隊以外にはオーク鬼しか訪れない前線の砦にわざわざである。物珍しいことこの上ない来客だ。キュルケ自身、好奇心が強いという事もあるが気がつけば眼で龍騎士を追っている。まあ、どのみち予定にない来客は彼女ならずとも興味を抱かざるを得ない対象だった。(というよりも、オーク鬼か土壁だらけの焼け野原しか視界に移らないのだ。何であれ、新しい何かは興味の対象足りえる。)当直についている他の兵士たちも空に浮かぶ龍騎士の姿を視認し、騒ぎ始めている。見張りがやってくる龍騎士を見つけるのは当然のこと。これが群れのような野生の生物であれば亜人の例もあるので警戒するだろう。しかし、単騎で人が騎乗しているとあれば緊張よりも興味が先立っていた。「本当だ!珍しいですね。タルブからの伝令でしょうか?」眼の良い弓兵らは龍騎士が振っている手旗信号の符牒から其れが味方であることを確認し弓を下す。それにつられる形でキュルケも一応は構えていた杖を下ろした。少なくとも、敵意がない相手に杖を向けるよりは少しでも精神を休めておかねば体が持たない。まったく、亜人がタフなことは知っていたが昼夜を問わず攻城戦を行える程とは!休める時に休まねば、亜人の餌にされかねないとあれば無駄な体力は使いたくもない。その程度の認識で、彼女は取りあえずやってくる龍騎士への判断を保留する。できれば宿直室の椅子で力を抜く程度でもよい。ともかく、時間があるならば休んでおきたい気分だったからだ。「伝令?ああ、いつものとは少し恰好が違いますね?」「・・・いやあれは、艦載龍騎士ですよ。艦隊の所属に違いない。」だが、見張り要員らの会話は心が休息に傾きつつあったキュルケの好奇心を刺激する。・・・艦載龍騎士?艦隊はアルビオン優勢でゲルマニアにはほとんどいないはず。はて?そこまで聞くと好奇心がむくむくと頭を出してくる。基本的にキュルケは退屈が嫌いで、面白そうなことには関心が強い。ここしばらくはしつこいオーク鬼に追い回されてうんざりしているところでもある。気分転換も休憩に入ることだろう。「面白そうね。何事かしら。」故に、彼女は少しばかり予定を変更することにした。有体に言えば、引き継ぎを行うと龍騎士が飛んできたと思しき幕舎へと向かう。もちろん、見物を考えたのはキュルケだけではない。暇を持て余した兵卒らが何事かと覗きこもうとし、衛兵に追い散らされていた。「失礼するわね。」しかし、キュルケはこれでも貴族令嬢である。さらにいえば、高位のメイジでもある。司令部に出頭する権限ならば、ここにいる他の指揮官らに比較しても上から数えた方が早いくらいだ。当然、衛兵らの態度も兵卒らに対するものと打って変わって懇切丁寧なものとなる。「・・・失礼ながらミス・ツェルプストー。現在、タルブよりの特使がいらしておられます。」“どうか、ここにてお待ちいただきたい。”衛兵らは言外に制止を込めてキュルケの前に立つが、力づくでの排除は行うそぶりも見せない。そんな権限が彼らに与えられているわけではないし、なにより彼らとて相手の身分はよく理解している。同じぐらいに、キュルケは理性を持ち合わせた貴族として相手の立場を察する。人を使うという事を嫌というほど戦場で学んでいるのだ。彼らが難しい立場にあるという事を見抜いた上で、妥協するかと思える程度には気配りもできた。「あら、なら御挨拶したいわ。伝えてくださる?」無理に押し通りはしない。だが、自分が来ていることを中へ伝えさせよう。もしも関わることが許されるならば、入ればよい。断られるならば、断られた時に考える。どちらにしても、取りあえずはこの場で道理を捻じ曲げるつもりもなかった。だが、要するにキュルケという貴族を知っている人間からしてみれば断りにくい申し出でもある。辺境伯令嬢の御挨拶を謝絶できるほどの高位貴族が伝令として派遣されでもしない限り、恐ろしく断りにくい。都合が悪いという事で、断ろうにも口実も何もないだろう。そういうわけでキュルケの同席はあっさり承認される。キュルケにとっては幸い、というべきだろう。儀礼的な口上に終始していたらしく、使者はようやく本題を口にし始める。曰く、『コクラン卿』なる中央貴族が出張ってきた。曰く、『総督』とやらがトリステイン方面を管轄する。曰く、『現場を知りたい』。それらを聞いたキュルケは、ごくごく真っ当な思考の末に状況が動いたことを理解する。要するに、ヴィンドボナの宮廷は事態をようやく重視して動き始めたということだ。皇帝の懐刀とも囁かれる中央貴族が派遣されているという事は、なにがしかの動きもあるのだろう。援軍や補給の面でも楽になればよいと思うところではある。どのみち、混乱している軍は何もかもがボロボロなのだ。混乱を収拾して事態に対応できるならば、この際辺境伯家としては歓迎しても良いほど。まあそれでも、と思う。「失礼ながら、コクラン卿が現場を知りたいのであればご覧になるべきでは?」さんざん報告書は紙で上がっているはず。にも関わらず、状況を把握できない程に上が混乱しているならば見るのが一番早い。なにより、現場を知るには一番正確だろう。だから、とキュルケは続ける。「ご案内いたします。ぜひ、一度足をお運びいただきたいものですわ。」見に来ればよいではないか。案内してやる。不敵なばかりに笑みを浮かべつつ、キュルケは思う。見渡す限りの、オーク鬼と体面すればいい。それが、現場の全てなのだ。質実剛健ながらも、品位と格式を感じさせる執務室。部屋の主の性格を表してか、落ち着きのある部屋。「・・・いやはや。我がヴァリエール公爵家も侮られたものだ。」その部屋の主はそう呟くと、届けられた書状を力の限り握りつぶす。トリステイン王家からの書状を意味する御名御璽の入った書状。破り捨てなかったのは、公爵にとって最大の自制だった。いや、トリステイン王室へ懐古の情がなければ破り捨てていたことだろう。つい先刻。軟禁してあったはずのルイズが姿を消したという報告が飛びこんできた時、公爵の頭をよぎったのは彼女の純粋さであった。“しまった”、と叫ぶべきか“やられた”、と叫ぶべきか。ルイズが利用される可能性を心配すればこそ、苦渋の選択をしたのだ。純粋すぎる彼女は、これからの政争においてあまりにも無防備。いや、言い換えれば世間知らずや視野狭窄というべきかもしれない。彼は父親として娘たちを愛していたが、愛していたからこそその欠点にも悩んでいる。カトレアはまだ良かった。彼女の病は手の施しようもなく、父として身が捩れるほど歯がゆい限り。だが、カトレア自身は素晴らしい娘であるのは何よりの慰めだった。エレオノールは、まあ・・・。少なくとも、問題は多いが取りあえず現状では急いでも仕方がない。婚約者と上手くいくようになれば、何とかなることだろう。この前、バーガンディ伯爵にあった時相当愚痴をこぼされたが。だが、ルイズがこの情勢下でなにを行うかは想像するだけで恐ろしかった。王家への忠義、貴族らしさという言葉に彼女は幻惑されている。やむをえず軟禁状態においてメイドを付けておいたが、危惧したとおり彼女はたびたび脱走を試み公爵の胃をキリキリと痛めていた。たびたびの脱走未遂のたびに、水の秘薬を手にする羽目に。なにより頭が痛いのは、ルイズ自身がなぜそうなるのかを理解していないということだ。今やエスターシュ大公の時代とは異なるというのに。大公はまあ、極端なことを言えば政治的に有能すぎた。だが、その有能さゆえにトリステインは繁栄し宮廷闘争を行う余力もありえたのだ。そのような状況下ならば、王家への忠義は王家に近い貴族として支持できたし必要でもあった。だが、この状況下では家の存続を考えるとそれほど旗幟を鮮明にできるものだろうか。そのことを、彼女に対して理を尽くして説いた。わかってほしいと思う。納得せずとも、理解してほしいとも願った。だが、ルイズにしてみればそれは許されざる“不正”でしかないらしい。「・・・もっと、真摯に説くべきだった。」後悔してももはや、手遅れだ。ルイズがどこかへ出奔するにしても、領内からでるにはまだしばしの猶予があるやもしれん。なんとしても、身柄を確保しなくては。歎きつつも思考を切り替えて、ラ・ヴァリエール公爵は事態の収拾方法を模索していた。まさか、脱走を大々的に告示する訳にもいかない。信頼できる手勢に命じて、密かに捜させねばならないだろう。ルイズ一人ならば、目立つという事もあり手引きした者も考えねば。これらの算段を取りあえず考え抜ける頭脳は非凡なものだった。もしも、ルイズが単独で行動していれば間違いなく再度連れ戻されていたことだろう。だが、事態の発覚まであまりにも時間がたちすぎていた。行動を起こそうと、人を呼びにやろうとしたその時。呼び鈴に手を伸ばす前に、執務室の扉が叩かれ招かれざる来客の来訪が告げられる。「こんな時にか?無礼だが、後にしてもらいたい。」当然、無礼とは承知だが断ろうとする公爵。それを遮ったのは差し出された一通の書状だった。差出人と便箋を見た時、ラ・ヴァリエール公爵は思わず硬直。トリステイン王家の印璽で封が刻印された書状。届け主は、アルビオンからだと言い手紙を渡すなりさっさと立ち去ったという。悩んでいた公爵に届けられたアルビオンよりの便り。使用人らを人払いし、ディティクト・マジックを使用。手紙自体は、ただの手紙。とはいえ、ほとんど災厄の予感に慄きながらも封を切る。そして、文面に眼を走らせた瞬間彼は理解した。「・・・いやはや。我がヴァリエール公爵家も侮られたものだ。」そこに記載されていること。アンリエッタ王女の名前で結婚式にルイズを巫女として招待したという通告。いや、正確にはルイズ自身の添え書き付きで事後承諾に等しい形によって通告されたというべきだろう。破りかけた書状をゆっくりと執務机の上において再度血走った眼で一読する。書体は間違いなく、アンリエッタ王女とルイズの直筆。封蝋も見間違えようのない代物。なにより、ディティクト・マジックはそれがアンリエッタ王女の印であることを告げている。これは、紛れもなく本物。そして、内容が内容である。ルイズが事後承諾で巫女を務める旨の通知。アンリエッタ王女に至っては、ほとんど無邪気なまでにこのことに触れていない。そして、わざわざ公爵に結婚式の旨を告げると共にルイズの参加へ謝辞まで述べている。巫女としての一方的な選抜と告知。拒絶どころか、問われることもなくだ。意図しているところは、明白。「・・・ふざけおって!いくら王家といえども、限度がある!」思わず、声を荒げて事の成り行きを頭で試算する。伝統的な家長の承諾も抜きにして、一方的に通告される形での婚姻にルイズが参加する。家長としては、見過ごせるはずもない出来事だ。余人は、当然ルイズの行動を公爵が承認したものと見なすだろう。王家の婚姻という政治的行事に、積極的に参加するというのは其れだけで旗幟を鮮明にするに等しい行為。王家にしてみれば、ヴァリエール公爵家への踏み絵のつもりだろうか。どうするか?咄嗟に公爵は思考を働かせる。彼とて、王家に忠義を人並み以上に尽くすことは吝かではない。だが、それとて限度というものがある。彼は自分の家と家族を守り抜いた上で、なお余力があれば国を思う。これでは、本末転倒にも程があるのだ。まさか、周囲をゲルマニアに囲まれた状況でトリステイン王家に心中する訳にはいかない。彼には家を預かる義務があり、一族郎党が背後に控えている。そして、ルイズの行動は明らかに公爵家の人間としては許容される限度を超えていた。アンリエッタ王女の書状はいう。『王家に近き藩屏として、公爵家の忠義に感謝する。』と。彼女は、間違いなく血族としてこのヴァリエール公爵家を逃がすつもりがない。故に、大々的にルイズの行動を賛美するだろう。巫女という婚姻の仲人から飛躍して、家の行動というところにまで昇華させて。それを逃れるための術は、簡単だ。家とルイズを切り離すために、ルイズを家から追放すると同時に処分すればよい。そうすれば、一門とは何ら関係のない人間の行動として家の関与は否定できる。もちろん疑われるだろう。どちらにも、よしみを通じておこうとする蝙蝠じみた行いだと。或いは、人から軽蔑されるかもしれない。ゲルマニアとて、言い分を信じるはずもないだろう。信じたふりくらいは儀礼的に行うかもしれないが、両天秤にかけているくらいは疑われるに違いない。それでも、ルイズを家から追いやれば一応理屈の上だけでも家の責任は逃れることができる。だが、それを選び得るだろうか。彼は、ラ・ヴァリエール公爵は父親なのだ。娘達と王家ならば、彼は娘達を選べるほどに。良い父親というべきだろう。少なくとも、子供を政略結婚の道具と見なす貴族すら珍しくない貴族階級では異色の存在である。同時にだからこそ、だからこそ彼は苦悩していた。『私の小さなルイズ』を、娘を切り捨てる選択を考慮することすら彼には苦痛である。感情が思わずざわめき、不快なものが腹からこみあげてくるほどに。もちろん、公爵とて政治を知らないわけではない。家を守るべきだという貴族としての義務感も、古い権門に生まれた身だ。よくよく理解してはいる。一族郎党を率いる身の責任とて、嫌というほど理解しているのだ。水の秘薬を飲みほし、無理やり痛む胃を抑え込みつつ頭を懸命に働かせる。どうすべきか。家を率いる身からすれば、答えは明白。娘を思う父としても、家族を連れてアルビオンに走るという選択肢はない。なるほど、王家の藩屏としてアンリエッタ王女は相応の扱いを考えてくれることはくれるだろう。だが、彼女はこちらの血をことのほか活用される気に違いない。当然ながら、彼女にとってルイズという存在が友であろうとも家は道具にされてしまう。いや、すでに道具として使われているのだ。ルイズを危険な眼に晒している時点で、もはや公爵にとってみれば忍耐の限界である。マザリーニという老獪な枢機卿も厄介ではあった。だが、ルイズをどうなるとほとんど理解しながら連れ去った王女にはほとほと愛想が尽きている。なにより、自分に自分の娘を切り捨てるような選択肢を選ばせようとしている。いや、家の主として選び得ない選択肢だというのは最初からわかっているに違いない。そうであるならば、これはほとんどあてつけにも等しい行為。明白な悪意を持ってのメッセージだ。「・・・っ、あの王女め!!!」ルイズが大切ならば、王家に殉じよ。できないのであれば、大切なお友達を王家にちょうだい?アンリエッタお、いやあのアンリエッタの意図は明白だ。家の温存を考えている多くのトリステイン貴族に対する悪意の発露。どうしようもないほどの破局に至るまで手をこまねいた揚句に、長年仕えてきたヴァリエール家に対するこの仕打ち。限界だった。握りしめた拳が、苛立たし気に執務机に振り下ろされる。低いながらも、良く響く音。よく理解した。よく理解できた。よく理解してしまった。娘が生まれた時、跡継ぎが生まれないことを歎く周りを黙らせた記憶。小さなルイズを、他の娘達と一緒に幸せにしようと誓った記憶。彼女が生まれてからの記憶が、ほとんど奔流となって頭をよぎる。それを、切り捨てよと?あとがき随分とお久しぶりでございます(;・∀・)たぶん、忘れられていることかと思いますが・・・。ちょくちょくとまでは行きませんがまったりと更新していければと思います。すごく不定期な更新で恐縮ですがご愛顧いただければ何よりです。