戦争というやつは、ある意味で究極の実力主義だ。運を含めて、全てが問われる。平時ならば無能が威張ることも許されるが、戦場でそれは禁忌。戦場において攻撃が前からだけとは限らない。だが、逆に言えば運に恵まれた優秀な指揮官は信頼される。その指揮官を信頼した兵士というやつらは、行けと言われれば地獄にすら進軍するのだ。信じられないかもしれないが、全くの事実である。少なくとも、私はこの目で見たのだ。あの地獄の様な戦場で。「・・・品が無い上にしつこいわね。」タルブ前方に構築された防衛線。キュルケがいる戦場は、そんなごくありふれた最前線の一角である。特徴的なことと言えば、全軍で最も突出した前衛であることくらいか。城壁、といってよいほど頑丈に組み上げられた防壁。さすがに、土系統のメイジが総出で構築した要塞だ。頑丈なのは間違いない。だが攻城用のゴーレムの突撃にすら耐えうる防壁があるにもかかわらず、そこに立つ兵士たちの表情は引き締められている。その最突出部で前衛の任務は単純だ。簡易構築とはいえ、土メイジが作り上げた要塞で遅延防御に努めるだけ。つまり、要塞にこもって奔流の様な亜人の突撃にただ耐えること。それだけである。物陰から攻撃するだけとみるか、突出部で奮戦すると見るかは、個人の裁量だろう。防壁の上で杖を掲げ、敵を近づけなければそれでよい。まるで、簡単な仕事のように聞こえることだろう。なにより、亜人らと接近戦を回避できるために兵士の損耗を抑えられるというのだ。理想的な防御方法に思えるだろう。だが、一度配属されてみれば現実が理解できる。視界を埋め尽くさんばかりに展開している雲霞の如き亜人の大軍。それらに対峙するという事に慣れ切ったキュルケですら、やはり改めて厄介さを痛感する。杖を握りしめた掌は、汗ばみ持ち主の緊張を如実に物語っていた。「弓兵!とにかく撃ちまくれ!」壁の上から、一方的に射撃するのは有利だ。魔法も良く狙えるのだから、効率も悪くはない。弓と魔法の攻撃で戦果は上々である。だが、数の差は大きい。絶対的ですらある。だから、弓が持てる兵士は悉く弓兵となっている。それでも、ようやくましな程度。弓は速射できるが、威力が軽い。加えて人間ならば致命打になるとしても、亜人には微妙。そして、相手はオーク鬼主体。「銃兵、構え!防壁を乗り越えようとする連中を狙え!」だから、何重にも構築された防壁を乗り越えようとしてくるところを銃で狙う。俊敏なオーク鬼とて壁を乗り越える動作の俊敏さには限界がある。マスケット銃など狙って命中するものではないが、相手の数が多ければ、どこかには当たるものだ。「南だ!土系統が使えるメイジは南に防壁を造れ!ゴーレムの展開を忘れるな!」そして、土系統の練金でゴーレムや防壁を大量に構築。これは、槍兵の損耗に耐えかねたために発案された防御方式であった。なんとか、壁とゴーレムで時間を稼ぐ間に魔法と遠距離武器によって仕留めるいう戦い方。「っ、壁が抜かれたぞ!誰でもいい、あれを止めろ!」だが、それでもオーク鬼らは数の暴力によって直接防壁を突破しようとしてくる。幾重にも張り巡らされた防壁に頼った防戦とはいえ、防壁そのものが破壊されては持ちこたえられない。突破してくるオーク鬼を含めて対処する必要がある。ちょうど最も突破された一角に近いメイジであったキュルケは、即座に杖を構える。彼女が使える魔法で有効な阻止能力がある呪文を検討。一番の理想は防壁の穴を封鎖する事だが、土系統のメイジに任せるべきだろう。ならば、一時的にオーク鬼の突破を阻止できればよい。そう判断したキュルケの行動は素早い。ファイヤー・ウォールを突破された部分に展開。いくら死を恐れない亜人でも、燃えながら前進するのが不可能なのは、幾度かの戦闘で確認済み。なにより、不燃物しかない防壁付近で燃えるのはオーク鬼くらいだ。遠慮なくやれる。「練金だ!今のうちに防壁を造り直せ!」飛び交う怒号と、幾人かの足音。短くも的確な詠唱によって、即座に防壁が産み出され、固定化がかけられる。この戦場で最も酷使されている土系統のメイジらが何とか間に合ったらしい。「あら、助かりましたわ。」キュルケは素直に謝礼を述べる。如何に彼女といえども、延々炎の壁を出し続けるわけにもいかない。そんなことをすれば、すぐに魔法が使えなくなっていたことだろう。わざわざ駆けてきてくれた事を思えば、本当に助かったという思いである。「いや、すまない。まさか、固定化をかけた防壁が壊されるとは思いもしなかった。」だが、メイジたち全体にしてみればむしろ固定化のかかった防壁が抜かれた事の方が重要な意味を持つ。攻城用ゴーレムの突撃を受けたならばともかく、オーク鬼の集団にも突破されるのだ。これでは幾重にも構築している防壁であっても、まったく安心できない。「本当に無粋な連中ね。ドアから訪問する程度の知恵もないのかしら。」まだメイジの疲労が限定的であるため迎撃も容易だが、これ以上はいけないとキュルケですら思う。情熱的なアプローチならば歓迎だが、陰湿なしつこい疲労を狙った波状攻撃は望むところではない。現実的な視点からすれば、メイジとしての力量が抜きんでているキュルケ自身が疲れを覚え始めたのだ。今は、辛うじて軽口を叩ける。持ちこたえることは可能だが、それにしても限界も見え始めている。「ああ、なるほどドアを造り損ねた我々の失態か。」「ええ、本当よね。全員トリステインの水を飲んだからからかしら?」苦笑が広がるのを感じながら、部隊に動揺が無いことに一先ず安堵する。年齢こそ下の方であってもキュルケは血に伴う義務がある。それは、辺境伯として境界を守護してきた先祖代々の誇りだ。対トリステインの小競り合いも少なからず経験している辺境貴族らも同じ境遇にある。そんな面々がだ。旧トリステイン王国の土地を守るために、戦争をしているのだ。「間違いないな。ドアを造り忘れたのはそれが原因に違いない。」戦場の一角であっても、笑いたくなるというものだ。自分達が散々笑い話にしていたトリステイン貴族らと同じように追い詰められているかと思えば、嫌な笑いだが。それでも、戦場で呑まれるよりは笑い飛ばした方が強いと皆知っている。「はっはっ。これでは、トリステイン貴族が間抜けなのは彼らのせいではないのかもしれませんな。」「おお、大発見だ。アカデミーに報告する事にしよう。お手柄ですな、ミス・ツェルプストー。」おどけながらも、彼らの杖は魔法を吐き出し、防壁を突破しようとするオーク鬼に降り注ぐ。辛うじて、弓兵と銃兵の射撃を潜り抜けてきた亜人の強靭な耐久力といえどもさすがに魔法攻撃まで受けてはたまらないだろう。退却時に大砲の多くを喪失したのは痛かったが、現状はなんとか持ちこたえられている。「あら、光栄ですわ。」杖を構えながらキュルケは微笑を浮かべてしまう。ふと、想像してしまったのだ。高慢ちきなトリステイン貴族と違って融通のきくゲルマニア貴族だ。きっと冗談8割、トリステインへの侮蔑2割で本当に報告書の隅っこに備考として書き入れることくらいはするかもしれない。「ふむ、では『ドアの造り忘れに見るトリステイン健忘症』と命名しますか。」「私達はゲルマニア人でしてよ。そんな恥ずかしい名前を残すくらいならば、ドアをつけませんこと?」だが、さすがにそれは無いだろう。それくらいならば、瀟洒なドアを洒落で作った方が笑い話になる。そうすれば、オーク鬼らも紳士的に訪問するかもしれない。まあ、無理だろうが。人間ならば、ドアを開けて入ってくるようになるだろう。しかし連中には無駄な期待でしかないだろう。そこまで考えたときに何かが彼女の頭に引っ掛かった。本当にそうなのか?もちろん、そうだ。亜人にドアを開けて紳士的に入ってくるという発想は無い。「うん?・・・どうされた。」考え込んでいたのが表情に出ていたらしい。キュルケが浮かべた難しい表情を誤解した周囲のメイジと兵士が警戒をやや強めて戦場を睨んでいた。「いえ、なにかが気になっているの。」すこしばかり、少しばかり思考を変えてみればいい。男たちがアプローチを仕掛けてくるとき、それを彼女は誘導して逸らすことがあった。例えば、ドアに軽い仕掛けを施すこともある。その、ドアだ、ドアがなにかを意味するのだ、とキュルケは思う。「違う、そうじゃないわ。いえ、ひょっとして逆に考えれば?」ドアから少し離れて、そう、誘導するところだ。オーク鬼らがドアをくぐらないにしても、彼らが通りたいと思うところを造ればそこがドアに相当する。そして、ドアが分かっていればそこに攻撃を集中すればよい話。意図的に、誘導するために、調整?「そう、それよ。それだわ!」「そう、それだ。今すぐに、資料一式を寄こせ。」重戦列艦ヴァイセンブルク提督執務室。そこは、本来であれば壮麗な空間であるべきであった。一財産どころか、それ自体で家が建つほど高価な家具。軍用のフネでありながら、快適性をも追求した室内。だが、今となってはそれらは惜しげもなく放り出され、その空間に資料が積み上げられている。執務室を占める主の性格を露骨に表わす質実剛健な執務机で、報告書の山にペンが入れられていた。「しかし、考えましたなコクラン提督。まさか、移動手段として旗艦を重戦列艦にされるとは。」つくづく感心したと言わんばかりの幕僚らは、上司の抜け目ない対応に心底敬意を示していた。確かに、ゲルマニアの艦隊内規で提督は移動に際して旗艦を使用できる。当然ながら、指揮下の艦隊であればどのフネを旗艦にしようとそれは提督の裁量権だ。「本来であれば、フリゲートの方が移動手段としては優れるハズですが。」急ぎの外交使節として行くならば、手持ちのフリゲートを使用すべきなのだろう。だが、別に戦列艦を使用してはならないという法もまたない。上は、できる限り艦隊を対ガリア警戒用に配備するらしいが、それを思えば無理をしてもフリゲートを派遣した意味があった。重戦列艦に多少の護衛をつけたところで、それは慣行の範疇。規則違反ではない。さすがに、フリゲートを複数付けることこそ敵わないにしても、相手は戦隊規模だという。そうであるならば、フリゲート2、戦列艦1は決して小さくない数字だ。「しかし、ヴィンドボナからうるさく言われませんか?」「なに、総督としての格式を思い出したまでだ。それより、情勢の報告は?」危惧を笑い飛ばすと、一同の雰囲気が一変する。碌でもない仕事、碌でもない任地。行きたくもない戦場に行くのは軍人の仕事だが、総督の仕事ではない。逆に言えば、関わりたくな政治に関わらされるのが、総督の仕事である。どちらからも解放される楽な仕事はなかなか見つからない。「こちらに。ですが、整理されたものではありませんでした。」「戦線の崩壊で混乱した中だ。無理は言わないが、事実誤認の可能性はどの程度ある?」戦地での交戦記録と報告書。信賞必罰ということもあるが、なにより従軍貴族らが私的に寄こしてくるモノの精査も幕僚の仕事である。まあ、査読に際しては、私的な報告書は文頭から疑ってかかってしまった方が効率がよいとの評判だが。「あからさまに矛盾する物は除くつもりでしたが、駄目です。混乱というよりも混沌でした。」だが、疑うにしても基準があればこそである。まったく未知の事態に対しては下手に予断を降すことにもなりかねず、優秀ぞろいであっても判断に苦吟してしまう。結局、意見の集約と整理もままならないでいるところに、上司が提出を求めれば報告書の束を出すしかない。「初期作戦から変更、命令の伝達までは組織的に機能しています。」一応、作戦初期のそれは有効に機能していた。それ以前の政治的・外交的な配慮を記載した資料も質で見た場合有用だろう。だが、混乱時点での状況が今一つ分からない。「ですが、戦線全域で亜人による攻勢を受けたところから、司令部の資料も怪しくなっています。」短期間で唐突に崩壊する戦線をなんとか、引き繋ぎながら全軍の後退戦闘。追撃してくる敵兵の遅延戦闘指揮と、殿軍抽出及び連絡線維持。並行して司令部事態の速やかな後退と機密処理。言葉にすれば、たったそれだけだが、たったそれだけをしながら記録を詳細に残せる軍など存在しない。「前線の指揮拠点は?」「現在、タルブ軍廠とのこと。」ロバートにとっても聞き覚えのある地名だ。以前、トリスタニアを艦隊で襲撃する作戦を立案した際に、中継拠点として使った記憶がある。思えば、辺境伯らとのそれ以来の関係だ。それはタルブ地域も同じような関係だろう。関係事態はさほども悪くないと思われる。「資料を。確か、兵站拠点としても整備されていたはずだが。」中継地点としての性質から、物資の集積拠点とされていたはずだ。実際、軍が交代しても物資は勝手に後退できない以上、かなりの備蓄が残されたと見れる。「はい、西方の軍事物資の集積拠点として整備されています。ほとんどあの方面唯一の軍廠になりますね。」実際、ゲルマニアは西方方面の軍事拠点整備に重点を置いていなかった。要衝ということで一応タルブに拠点を整備しておいたのは本当に幸運である。そうでなければ、ゲルマニア領内を拠点とし、策原地から離れた地域で戦闘をする羽目になっていただろう。現状ではタルブが陥落しない限り補給の懸念は短期的にはあまり心配しなくて済む。「では、物資に困窮する心配は無用か?」「いえ、敗走時に重装備を投棄しているため砲が不足していると。」だが把握している限りにおいて、物資の不足は表面化していないが重装備の補充は厄介とされていた。まず、大砲。砲弾自体は備蓄があったとしても大砲そのものはあまり余裕がない。同時に、馬や亀も不足している。特に、亀の不足は深刻らしい。皮肉なことに、砲を後退時に破棄しているために亀の不足が深刻な問題にはならないですんだ。これは、もはや嗤うほかにないだろう。加えてまずいのが、負傷兵の存在である。白兵戦が多すぎたために、治療が追いついてけないでいる。もちろん軍の治療だ。それも、メイジを中心とした軍である。冷酷ではあるが別段、兵士を大切してのそれではない。兵士など戦えれば問題ないという程度の認識だが、さすがに盾が全滅しそうになれば考え直すという程度。それでも、これほど全面的に押し込まれると無視できないのも事実なのだ。後退時には、部隊の生存を優先し、攻城兵器の類から鎧などまで大半は捨てたらしい。当然、重たい鎧など最優先で放棄されており逆にオーク鬼が装備する始末だとも言う。相手が攻城兵器を運用しないだけまだましというべきだろうか。「弾丸はあるのだな?ならば、取りあえずは問題ない。」だが、取りあえずは問題はない。重装備の鎧と言ったところで、砲弾ならば用意に粉砕できる。メイジによる魔法攻撃も大いに期待できるところだ。本来であれば、砲亀兵を使いたいが、拠点防衛であればなくともまあよい。「それと、先行派遣した戦隊から大公国軍について問い合わせが。」まあ、なんとかならないこともない軍事情勢であるか、とロバートが気を緩めかけた時のことだ。寝耳に水と言わざるを得ないような報告に思わず天を仰ぎたくなる。主よ、これはなにかの試練でありましょうか、と。「大公国軍?聞いていないぞ。」ラムド伯から、そのような部隊の存在は示唆されていない。もちろん、引き受けるまでは機密だの、守秘義務なぞがあるのだろう。その意味においては、ラムド伯の悪意ではな。だが、職責に忠実であったに過ぎないのだろうと、思えるかと言えば全くの別だが。「政治的配慮から、派遣された部隊であり高度な統治上の配慮を貴官には要請する、とヴィンドボナより但し書きが。」「・・・思った以上に面倒が多そうだ。指揮権は?」「はっ、その総督の職権によれば大公国に“要請”できると規定されております。」“要請”の一言を耳にした瞬間、いならぶ面々は表情をひきつらせる。どのように、処理せよと?踏み絵をしつつ、対外的には協力的に見せかけながら、命令ではなく要請?無理難題も限界に近い。よくここまで無理が言えると言っても良い。まだ、ヴィンドボナの政争に参加する方が楽かもしれない程だ。「いっそ、指揮権を寄こせと要請しますか?」「できれば苦労しない。仕方ない、それは一先ず置いておこう。他の政治情勢は?」ないものねだりは、時間の無駄だ。馬鹿なことをと首を振り、場の主題を変更する。ともかく、情勢が把握したい。「旧トリステイン貴族でゲルマニア管轄領域下にある連中の動向報告が。」「叛乱軍が、レコンキスタ、と自称したそうです。すでに、相当の文章が出回っているものかと。」「後者は現物の入手を。で、連中の動向は?」そして、一番肝心ともいえる旧トリステイン貴族らの動向。極論してしまえば、土地に根付いた貴族を引きはがすきっかけにも、さらに根付かせるきっかけにもなるのだ。油断も隙もあるものではないが、確認は怠れないだろう。「中立です。」「ふむ、連中が中立か。間違いないのか。」そして、一番最悪な事態が中立。どちらに転ぶかも不明な中立ほど面倒な事態もない。まして、好意的な中立ならばともかく、叛徒に共感を隠さない連中だ。どこまで中立が信用できるかすら微妙な状況であれば、頭を抱えたくなる。在りし日のパーマストン閣下は、よくぞこんな連中を相手に渡り合えたものだと心底感心したくなる。「はい、名目だけとはいえ、中立です。」誰ひとりとして信用はしないが、中立は中立だ。少なくともこちらに対して、正面から攻撃を仕掛けてくる可能性はやや少ない。戦場に横合いから参入されないように警戒する必要はあるが、撃破しなくてよい分いく分楽とも言える。「ならば、上手くそのまま中立を維持させたいものだ。これ以上は、御免だからな。」「しかし、ヴィンドボナはトリステイン貴族問題の解決を希望する、と。」解決とはなにか。それは、何を意味するのか。問題を解きほぐすことである。その意味するところは何か?単純に考えれば、さっさと処理することにある。神よ、どうして貴方は私にかくまでも面倒事をお命じになられるか。「それと、アルビオンよりの知らせなのです。ヴァリエール公爵家と王党派に接触あり、と。」よりにも寄って、中立を謳う諸侯の中で最大の貴族がアルビオンに亡命した王党派と接触している?はっきり言って、アルビオンがこれを許したということ自体が問題だ。本来であれば、アルビオンの介入を意味するに等しい行為。連中が譲るべきだ。それをしないということはそれ相応の意味があると見ざるを得ない。「都合の悪いことに耳をふさぐ愚か者にはなりたくない。続けてくれ。」ともかく、聞いて判断しなくてはならない。口が二つではなく、耳が二つあるのは人の話を聞く為に神が授けたもうたのだから。「その、トリステインの風習なのですが。」「うん?興味深いな。続けてくれ。」文化、風習に対する関心。万学に対する敬意と関心は、ロバートの私的な趣味である。だからこそ、彼にしてみれば政治的道具として風習を使うことには関心が強い。インドにせよ、副王制度は実に有効であるし、アフリカのそれも興味深かった。機会があれば、ハルケギニア社会の総論を書きたいところである。それ故に、幾分気分もまともになるというものであった。「王女の結婚式には、巫女としてトリステイン貴族子女が選ばれるというものが。」「ああ、王室典範のそれか。で、それだけなのか?」「ええ、式典への参加。公爵本人は出向かないかと思われますが。」つまり、伝統の一つに過ぎない。接触と言っても、微妙なレベルのそれだ。明確な敵対行為と評するには、あまりにも限定的であるし、味方とも解釈しにくい。故に、非常にデリケートな対応が求められる問題として見るべきだろう。「微妙だな。まさかとは思うが、ヴィンドボナはそれを理由に介入を求めていないか?」だが、介入する理由としては十分すぎる。少なくとも、公式には帰属不明瞭であるからこそ、中立が許されているのだ。王家の結婚式にトリステイン貴族として参加するならば、口実としては十分。ヴィンドボナの外務関係者はアルビオンと交渉していることだろう。なにより、アルブレヒト3世はトリステイン貴族を根こそぎ無力化したいはずだ。よほど状況が悪化しない限りはなにがしかの対応を望むはず。「・・・求めてくるかと思われますが。」「・・・いうだけの連中は簡単で良いですな。」室内に広がる苦笑。確かに、いつの時代も後ろから命令するだけの連中は気楽である。だからこそ、伝統的に指揮官先頭の精神が尊ばれるのだ。「さてな。それ以上は、品位を欠くので止めておくべきだろうが、聞かなかったことにしよう。」「ゲルマニア軍に援軍?」それは、好意的な驚きを含む疑問であった。彼らは、よく知っているのだ。なにしろ、我がことのように見ている。ヴィンドボナはガリアに警戒心をひと時たりとも緩める意志などないのだ。今のゲルマニア軍部が、思いきった戦力を捻出するには少々決断まで時間が必要だとヴィンドボナの商人ならば誰で知っていた。それだけに、今回の増派という知らせは彼らをしてゲルマニア軍部の努力に驚かされる思いを抱かせうるのだ。「はっ、どうやらダンドナルドが思い切って派遣したようです。」報告書によれば、戦列艦を中心とした増援の部隊がダンドナルドの軍廠を出立。この報告が書かれた時に出立していることを思えば、すでに前線に赴いていても不思議ではない。意味するところは、戦場の天秤に少し変化があるということ。「驚いたな。まだ、そんな余力があったのか。」大規模演習後、壮大な砲撃戦を行った艦隊だ。フリゲートを中心とした快速の部隊を派遣し、さらに一隻とはいえ戦列艦まで出すとなると戦意も旺盛だろう。言い換えれば、武器弾薬を根こそぎ消費したにもかかわらず、まだ武器弾薬に余力があったということになる。だとすればゲルマニア北部の艦隊拠点化は、想像以上なのかもしれない。或いは、タルブの集積物資はそれほどまでに、ということになる。「だが、さすがに限界とみるが。」とはいえ、さすがにゲルマニアにとってみれば予想外の事態なのだ。備えてあるといっても、限界はあるだろう。何よりも、ゲルマニアは対ガリア戦を念頭に置いていた。西方での動乱など、ゲルマニアにしてみれば予期されていない代物となる。物資の集積とてたかが知れているはずだ。「はい。ダンドナルドに駐在している者らの報告では、砲弾は何処の倉庫にも欠乏していると。」「ふむ、つまり当面は戦力が小出しになるということですかな?」艦隊を温存したいヴィンドボナの意向もある。こういってしまってはあれだが、アルビオン系の離反した戦隊相手に全艦隊を向けるのは確かに無駄だ。だからと言ってフネを送らないわけにもいかないというバランスが配慮された結果だろう。「はっきりといたしません。」「さて、困りましたな。」「戦費調達にはどう対応するべきか・・・。」そして、彼らが頭を悩ませている問題もそのバランスにある。従軍した貴族らが、戦果によって返却の原資となる資金を得られるならば、貸す方がよいだろう。だが、ゲルマニアが苦戦し恩賞どころでなくなれば貸し倒れすら覚悟する必要がある。また、勝利したとしても誰が褒賞の対処となるのかで意味合いが全く変わってしまう。端的に言えば、勝ち馬に乗りたいのだ。「閣下の周辺が、この戦いをどう見ているか。そこが知りたいですが、どなたか伝手をお持ちでは?」勝ち馬に乗るためには、最低限ヴィンドボナの主が何を考えているかを知る必要がある。それも、表向きのものではなく本音でだ。「抜け駆けは避けていただきたいものですな。」まあ、アルブレヒト三世がその地位に至るまでに数多くの政敵を葬り去ってきたことは有名である。そんな人物が容易に自らの意図を悟られる真似をするとも思えない以上、この会話は抜け駆けの牽制程度。「ああ、抜け駆けと言えば先遣隊に従軍商人を付ける件はどうなりました?」「拒絶された、そう聞いておりますが?」「む?しかし、そうなると自前の商人を乗せたことになりますぞ!」重要な話題は、それとなく斬りだすべきである。少なくとも、重要な話題であると声高々に主張するのは間抜けか、嘘つきが嘘をついている場合と信じられいた。そのような習慣を持つ彼らにとって、本題はここからになる。「どういうことですかな?」「どなたも、ヴィンドボナまでの食糧や、風石を納入しておらぬ。間違いありませんかな?」ダンドナルドからヴィンドボナを経由して、2度も増援として部隊が移動している。艦隊主力こそ依然としてダンドナルドで集中整備にあるというが、それにしても戦隊程度は移動した。だが、従来と異なり従軍商人を連れもせず、補給も商人達に声がかかっていない。「無論。」「言わずもがな。」「よろしいだろうか。前提として、我々は協力し合う意思を持っているつもりだ。」よもや、抜け駆けでもあったのではないのか。その意味を込めての確認になるが、同業者の居並ぶ場での虚偽は高くつくことになる。故に、一先ず全員が足並みをそろえているという前提が成立。もちろん善意よりも利益を信奉する商会の主達であるので、利益があるならば同業者をも売るだろう。だが、いかんせんそれほどの利益があるかどうかは不明瞭だ。そう判断したからこそ、彼らは連絡会を設けて利益事項を議論するのだ。「結構。そうであるならばだ、我々が恐れていた事態が起きつつあるのやもしれん。」「もったいぶらないで頂きたい。どういうことを?」幾人かは既に状況を把握し、またある者は驚きを内心で浮かべている。一部の商会は北部利権と称される開発がらみでいくつもの権益を有しているが、ヴィンドボナの商会全てではないのだ。故に、本来ならば北部が重要な問題とされること自体が異常なのだ。「物を運ぶ、物を売る。それが、従軍商人の仕事だ。言い換えれば、本質的には我々商会の仕事そのものとも言える。」だが、嗅覚が効くからこそ生き残れたと知っている男たちだ。油断よりは慎重を笑われる方が、まだましというもの。そうでなくとも、おのずとやるべきことをやっておくだけの話である。「物を運ぶのは、出資比率に応じてムーダと護送船団が早荷を出しているのは、問題が無い。そこまでならばだ。」ヴィンドボナが国営の物流網整備に乗り出すのは、まだ許容できた。制度設計の段階で、かなりこちらに配慮した形跡もある上に利益も共有できた。遠隔地交易は大きな利益をもたらす上に、物流の安全も高まるとあれば反対もしにくい。そういう背景から、一応ムーダに関しては共存できそうである。「だが我々に断りなく、自前で兵糧を調達しているとなれば、ことは違う。」「いや、どこの諸候軍も自前で調達すること自体は珍しくない筈だ。」だが、自前の調達とは何を意味するのだろうか、ということがある。軍はどの商会にとっても基本的に大きな納入先である。もちろん、ある程度の違いはあるが。確かに、今回話題に上っているのは、あくまでも穀物の調達だ。何処の諸候であろうとも、慣行として自前の領地で取れたものを消費する。まあ、買うよりも自前で持っている物を使う方が安いのだから、これは当然だろう。それを思えば、軍が穀物は不足分だけ調達するのは別段不思議ではない。「・・・貴殿は穀物商故気がつくのが遅れたのでしょうな。」だが、これは別段不思議ではないという話ではない。確かに、穀物程度であれば自前の領地で生産したものの調達もありえただろう。規模で見た場合、穀物商は基本的に都市と農村が取引先であり軍はおまけ程度なのだ。故に、穀物を扱う商会への影響は限定的にとどまる。「どういうことですかな?」「軍は、自らの自己調達にこだわっているようだ。軍工廠、軍設備、軍関係建設。何れも、軍が自前でやり始めた。」だが、もともと軍への依存度が高い分野は深刻な影響を被らざるを得ない。軍が自前で物資を調達するようになってしまえば、買う必要などないのだ。「身も蓋もなく言えば、我々の助けを必要とする場面が、急激に減少している。」「もちろん、従来通りの取引を続ける部分もある。だが、全体としては、軍向けの取引は我らの手からは離れた。」いまだ、動きは全面的に行われているわけではない。艦隊の整備と並行して、常備軍の微妙な改善が図られているとも見えなくもないレベルだ。それでも、事態は着実に変化していると多くは感じている。「なにより、我々と競合しかねん。」しかも、軍がこれまで商会が独占的に買い叩くことができた市場に参入するようになる。そうなれば、職人の賃金は上昇するし仕入れ値は上がって、利益は減らざるを得ない。下手をすれば、軍が余剰物資を放出し価格まで下げる羽目になりかねないだろう。そうなれば、商会の利潤は激減する。立ち行かなくなるところも出てくるだろう。「ならば、ならば、何故それを放置された!?」商人達にとって、環境が悪くなりかねない。それを、未然に防止し利益を保持するための連絡会ではないのか。一部からは、そういった声も上がるが全体としてはすでに諦めている。「代替利権が示された。加えて、蹴れば干される恐れがあるからだ。」「軍の、いや中央のメッセージは明確だったのだ。」「いくばくかの軍利権を放棄せねば、北部、いや中央関連の開発にはからませないとな。」故に、彼らは変化を前提として対応策を検討している。言い換えれば、生き残りを模索することを選択した。それが、一番現実的なのだと。そうしなければ、別の機会を伺う小規模商人らが競争を仕掛けてくると感じているのだ。「代替利権の方が大きい。蹴ることは不可能だと思うが。」北部開発の利権は、関わった全ての商会に驚くべき利益をもたらした。一言で言えば、『儲かる』。難しい辺境開拓と、リスクの高い商売が一変したのだ。大規模な辺境開拓はすさまじい可能性を秘めている。そして、その生みだす富は魅力的過ぎた。「だから、変化を受け入れよと?」「いや、対応が知りたいだけだ。本質は、戦費調達だよ。」北部辺境開拓は将来性が極めて高いという有望な案件である。そして、それは中央の管轄下。言い換えれば、中央は将来性があり、担保となる利権も有しているということだ。中央にならば戦費の調達に応じても貸し倒れる可能性は少ない。まあ、その分諸候に融資できる金額が減ってしまうのだが。「ふむ、まあ閣下の意向に逆らうわけにもいきますまい。」「ならば、どの程度応じられますかな?」さしあたり本格的に融資するとなれば、額を決めねばならない。先のゲルマニアの戦費はほぼ諸候が費やした費用であり、辛うじて恩賞で相殺されたという。だが、今回は防衛戦であり持ち出しになる。当然、財布の紐は固くならざるをえない。安定的に返済が見込めるのは中央だけということだ。踏み倒されない程度に額面を抑えつつ、先方がある程度満足できる額。「最低でも、我々の合計で1000万エキューは出すべきでしょうな。」「1000万!?随分とまた、高額な額ですぞ!」居並ぶ商会の頭割にしたところで、各商会の予算をごっそりもぎ取って行きかねない額だ。正気とは思えない額と言っても良い。一国の戦時予算に融通するのだ。踏み倒される事もあり得る。下手をすれば吹き飛びかねないのだ。「担保を要求するのは当然のこと。北部の全面的な徴税権と免税権を担保として要求します。」「あとは、土地ですね。辺境開拓権も要求しましょう。」だが、ゲルマニアの力関係は微妙であるのだ。確かにアルブレヒト3世は皇帝である。だが、有力な選帝侯という潜在的な対抗勢力もいるのである。ヴィンドボナの商人達の支持を失った皇帝は、厳しい立場に置かれるだろう。いや、支持されないどころか経済的な敵対関係になってしまえば、最悪終わりかねない。「では、分担金で行かれますか?」故に、商会の主達もバランサーとしての役割を選帝侯らに期待できる。返してもらえず、担保も渡されなければ即座に鞍替えすればよい。ヴィンドボナの商会と政府とは経済的愛情によって結ばれている。それは、酷く移ろうものでもあるのだ。「希望する人数で頭割でしょうな。あとは、諸候に貸し付けるのも自由にしましょう。」「まあ、妥当ですな。では、そういたすとしましょう。」権益の期待できるところへの融資。あとは、各商会の個人判断にゆだね、馬鹿を見るのは自己責任。ゲルマニアの商人達は実にたくましい。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~あとがき珍しく頑張って間を空けずに更新できたと思う次第。文章は多少読みやすいように間隔を変えてみた所存。或いは、現実的に戦費調達や経営で頭脳を悩ませ候。そんな感じの描写です。あと、ななしさんから金貨についてご指摘があったので。『64話まで楽しく読ませて頂きました細かい所で申し訳ありませんが、読ませて頂くうちに、ひっかかった部分がありますゲルマニアが、トリスタンの戦後賠償金として要求した金貨2500万枚と言うのは高すぎではないでしょうか中世~近代にかけての金貨でしたら、重さにして約200トンにもなります例えば、戦時中であったイギリスの9年戦争中(1694~)の国家収入を見ていると、年額400万ポンド前後のうち軍事費が80%、また、年平均300万ポンドの債権を発行していますこれらを合わせても、年額620万ポンドとなります620万ポンド≒金貨620万枚≒金貨50トンです』ええと、はい2500万エキューです。講和時にはもっと吹っかけますが、最終的にトリステイン払ってません。(ゲルマニアが領地を分捕ることで、相殺したとお考えください。)※まあ、赤字ですが。金持ち貴族の総資産が2千万エキューであることを考えると、賠償金としてはまあ無難なラインかと思ったのです(・_・;)。でまあ、エキュー払いとはいえ、金貨と言っても別にポンドではありません。(そもそも、英国のポンドは物理的に重いですし。ユナイト金貨で20シリング=1ポンド 軽い時で9.90g)そうなってくると、エキュー金貨の計算ですがこれはもう純粋におフランスの流用でどうでしょうか?と考えていました。ちょうど、フランスにエキュー金貨なるものが歴史上存在しますし。(正直、ポンドとかドゥカートとか有名どころ一つとっても計算が面倒なので)フランスのエキュ金貨(1266~1646年発行)を基準に計算しようと思います。まあ、変動が大きいのですが、一エキューあたり3.496gぐらいと仮定します。すると、2500万エキューで86.7トンくらいです。グラムが大きいフィリップ6世の時でだいたい4.53gの計算で113.25トン。一応、払えないこともないと思います。まあ、元々賠償金には色々と吹っかけたり政治的な意味合いがあったりするので、額だけで議論するのもどうかと思います。ドイツの第1次大戦の賠償金とか計算するだけで恐怖の額になりますし。まあ、ここまでくると雑学ですが(-_-;)