帝国暦617年 <ポリス> デニム街三番通り クレイリア宅
元来、キング・クレイリアなる男は騒々しい場所が好きだった。
子供の頃は、家で本を読むより悪童と悪戯をして回ったり、雑踏の中を少し背伸びして歩き回ったりするのが彼の憩いであったし、年を経てからは人と話すと言う愉しさにも惹かれるようになっていた。
或いは、彼が自ら商会を立ち上げたのもその所為かもしれない。
絶えず人との接触を保ち続けたい。そんなささやかな願望が、彼が零細企業の経営をするというある意味相当な苦行に耐える事の出来る理由なのかもしれない。
そのキングの自宅、しかも客間に客人が上がりこんでいるにもかかわらず、その場は沈黙と重苦しさに支配されていた。ほんの五年前に雇い、今では仕事にもなれた女中の入れた品の良い香りを醸し出していた飲み物――ミニアム島産茶葉を使った茶は熱を失っていた。
と、その茶器をキングは手で掴み、お世辞にもおいしいとは到底言えなくなっている香りの飛んだそれを口の中に流し込んだ。手は震えていた。彼としても香りの飛んだ茶など飲みたくも無かったが、緊張で乾ききった喉を潤すためにはたとえ泥水でも厭わず飲んでいただろう。
軽く咳払いをして内心の狼狽を隠しつつ、キングはどもりながら眼前の恰幅の良い紳士に聞いた。
「……チャ、チャールズをあのアルマーダギーの、しかも特別学級に入れるですって?」
「左様です」
紳士は、既に飲み干してしまった茶器を手でもてあそびつつ答えた。「クレイリアさん。率直に言わせていただきますと、あの子は天才です」
「天才」
キングはうわ言の様に言った。
「た、確かにチャールズは年の割には頭も切れますが……その、取り立てて言うほどでも」
「若干五歳にしてクリエイム著の<帝国史>を読む子供を取り立てて言う必要がないと貴方は仰るのですか?」
クリエイムが帝国暦580年ころに出版した<帝国史>は、それまでの帝国賛美の風潮から一転して客観的な史料批判に基づいた記述をしており、賛否両論あるが少なくとも歴史家たちの間では人族帝国歴代の歴史書の中でも随一との評価を受けている本だった。
きちんとした教育を受けた大人でさえも理解に長い時間が掛かると言うその本を、自分の息子が読破したことを誰よりも良く知っているキングはたじろいだ。
「……クレイリアさん。お願いします。彼の学費その他をあなた方が負担する必要は一切ありません。帝国奨学制に従い御国が学費を支払います。どうか、あの子を特別学級へ入れてはくれませんか?」
紳士――帝国立セント・アルマーダギー学園園長・マリウス・バースラーは諭すように言った。
マリウス・バースラーはリージョナ・ポリスより南東に1000浬(シーベルツ)離れたメイジン諸島の出身だった。
当時、帝国暦562年はまだメイジン共和国と言う民主制国家だったそこの首都・ミーニールで、共和国一の豪商の次男として生まれた彼は、次男坊という独特の責任感の希薄さの元勉学にだけ打ち込むような子供だった。と言うか父は彼に息子としての何者も望まなかった。彼の真なる家族は兄と母だけと言っても良かった。どうせ兄が仕事をつぐんだ。なら俺はやりたいようにやるさ。これが彼の持論だった。
転機が訪れたのは、珍しく蒸し暑い日が続いた年の夏だった。領土紛争で共和国海軍が人族帝国海軍に惨敗し、メイジン共和国はミーニールを封鎖され全面降伏、帝国メイジン伯領と改称することになったのだ。
マリウスは当時まだ十五歳で、若者らしい愚直な愛国心に燃えていたが現実は彼に辛かった。豪商であるが故に機会主義者であった彼の父は、ここぞとばかりに彼を帝都の大学校へ通わせることを決定した。表向きは息子の経歴に箔をつけるため、本音は上手く帝国との間にパイプを作り上げさせるために。
長年次男坊としての期待しか受けてこなかった彼は、父の思うところを即座に理解したが、新たに赴任してきた伯爵に懇願した結果認められた留学である。断れば、伯爵の顔に泥を塗ったと言う結果が残り、おそらく父の会社は潰れるだろう。そしてそれは、父はともかくとして彼に対していつもやさしく接してくれた母と、決して尊大にならず、できる限り弟のことを考えて行動してくれた兄に対しては許容できかねる行動だった。彼の進むことの出来た数多の道は、いつの間にか目の前のものを残してすべて消え去っていた。
マリウスにとり不承不承の帝都留学だったが、結果からすれば彼にとってそれは大いなる機会と化した。
彼が留学した帝国最大の学校、帝国立セント・アルマーダギー学園は初代皇帝が建設を命じた学園であり、であるからこそ帝国最古にして最高の学園と称されていた。
そこで学んだ日々は、彼にとり至福としか言いようが無かった。
そもそも、メイジン諸島は世界海図的には辺境に存在しているためいくら周辺では発展していた土地とはいえ情報の入りは遅かった。
だが、ここは列強中最大の国家の首都であり、全世界で最良の港でもあった。帝国が意図せず、或いは意図して集めに掛かった最先端の知識などが簡単に手に入る。
初めは圧倒的な情報量に飲み込まれるだけだった彼は、天性と言っていい才能により短期間でそれを吸収し、18歳の頃に飛び級で大学部を卒業するに至る。
ただ、莫大な勉強の最中彼は自分が研究に適していないことを痛感した。彼は無から有を生み出す研究者よりは、有を持ってそれを広めることに全知全霊をかけることの出来る人間であった。更に言えば、管理されて金銭を受け取るより、管理して金銭を支払うほうが性にも合っていた。皮肉なことに、父の遺伝子を多く受け継いだのはどう考えてもマリウスらしかった。
彼が卓越した管理能力と知識、そして何よりも熱意で学園に職員として乗り込んだのは帝国暦587年のことであった。無論、目指したのは学園組織の長であり、帝国暦605年にはその野望も成就することになる。
その彼がチャールズ・クレイリアなる人間と出会ったのは――いや出会えたのはなぜか。突き詰めていけばその理由は半ば偶然であり、半ば必然であった。
チャールズ・クレイリアはその知的欲求を満たさんが為に港島にある帝都で一番大きな(と言っても、地球の大手チェーンの書店ほどの大きさにも満たないのだが)書店にキングに連れられるたびに寄っており、齢55になって尚も知的好奇心盛んなマリウスもその書店によく通っていた。もっとも、チャールズが港島に来るのは父の送迎のときだけであり、それもその迎えのときにしか書店には寄らなかったから、それまでマリウスはチャールズと会う機会が全く無かったのであった。
裏を返せば、時間さえ合致すればいつでも接触の機会はあった。そして、その初めての出会いはマリウスにとって衝撃極まりないものだった。
その日、たまたま仕事が早く終わった彼はその書店をぶらぶらと散策しつつ、ふと気になった本を手に取るという行為を楽しんでいた。
技術系の本が無造作に並べてあるスペースを抜けた彼の目に入ったのは複雑極まりない世界史について簡潔に纏められているらしい本だった。
無意識のうちに手を伸ばす。が、若干届かない。マリウスは眉を顰めた。ふん、こんなところに邪魔なものを置きおって。お陰で本が取れんわい……。
障害物? マリウスの脳裏に疑問がよぎった。こんなところに何が?
純粋なる知的好奇心の下突き動かされた彼の目線は、網膜上に分厚い歴史書を読む少年の像を結んだ瞬間硬直した。
自分の半分も背が無い少年が、自分自身よりも厚い本を読んでいると言う俄かには許容しかねる現実を一瞬受け入れられなかった彼だが、すぐに落ち着きを取り戻す。そうだな、子供心に格好をつけているのだろう。大方、ご両親がこんな本を読んでいるのをしょっちゅう見てでもいたのだろう。少し背伸びをしたくなる。まさに、子供心だ。
そうは思いながらも、マリウスはふとこの子供に興味が湧いた。彼はことプライベートに関する限り自身の好奇心に反逆すると言うことを知らない人間であったから、その興味は即座に行動に置き換わった。
「面白いかい? それは」
子供は一瞬びくっと体を震わせたが、マリウスの方を振り向くと平静に戻った。学園の仕事をしている間に子供の頃からは比べ物にならなくなった体の丸みだが、お陰でマリウスは威厳があるというより親しみやすい人間のように他人からは見られていた。
子供――チャールズ・クレイリアは、マリウスが思っていたよりも遥かにはっきりとした口調で、そしてこちらもマリウスが思いもよらない内容を喋った。
「う~ん、面白いと言えば面白いですけど、僕はそんなに好きじゃないです」
ほぅ、こいつは。まるで本の内容を理解しているかのような口ぶりじゃないか。
俄然興味の湧いたマリウスは、更に訊いた。
「好きじゃない、か。どんなところが気に入らなかったんだい?」
クレイリアは少し悩んでから、言った。
「少し史料が偏っているところです。特に、五十年戦争の辺りは帝国側の記録しか参考にしていませんし」
マリウスは目を丸くした。この少年が手に取っている本をマリウスも読んだ事があり、全く同じ感想を抱いたからだった。と言うことは何か? この少年は、この本を完全に読めているだけに関わらず内容も吟味し、その上で批評までやってのけたと言うのか?
いや、違う。さっきも考えたが、おそらくは父親辺りの受け売りだろう。マリウスはそう精神に平静を取り戻そうとした。
「その分、クリエイムさんの帝国史は面白かったです。文章が難解なのは玉に瑕でしたけど、史料の厳選と考察はすばらしかったです」
が、矢継ぎ早に繰り出されるチャールズの批評は、的を得ていた。と言うか、もうたとえ父親の受け売りだとしても凄まじすぎた。
その後二十分ほど。マリウスはチャールズと会話を続けた。もう、マリウスに驚くようなことは無かった。若干批判的に過ぎる面があるものの、チャールズの考察は理にかなっていたのだ。と言うか、彼自身が帝国出身でないからこそ行える帝国批判を、周辺がそうでない、つまり帝国賛美史しか教われないし、例え批判的な人物がいたとしてもそれまでの知識とつき合わせて混乱するしかないはずの子供が平然とそれを行っていることは充分に異常だったが、それについて考察することをマリウスは放棄していた。ただ、脳裏に一つの言葉が浮かんだだけである。
天才。天から授けられし才覚。
人は、努力すれば何でも良くこなす事が出来る。これは真理だ。
だが、努力をいくらしようと及ばないものがある。それが天才だ。
彼らは、たとえ過程に努力をしようとも、その一技能について余人が及ばぬ才覚を発揮する。そう。まさに天に愛されているとしか言えないほどに。
「で、メイジン海軍との戦いも……あ、すいません。つい長話してしまいました」
「ん……ああ、いや、構わないよ」
恥ずかしそうな、と言うよりも顔を若干蒼ざめさせつつそう謝ったチャールズに、マリウスはいいよと手で示しながら言った。
「実に有意義な会話をさせてもらったよ」
「はは、ははは……」
乾いた笑い声が響く。少し疑問に思ったマリウスだが、無視した。彼の脳内では既にある結論が導き出されていたのだ。
「ところで、君のご両……」
「おい、チャールズ! そこで何をしているんだ?」
マルクスがその結論に従って口を開いた丁度そのとき、中年男性の声がした。目の前の少年――チャールズと言うらしい彼の呼び方から、父親か或いはそれに類する立場の人間だと判断できた。
「全く。本を読むのもいいが少し時間も考えてだな……ん? どちら様で?」
若干息を切らしながらもそう叱った彼は、ふとマリウスに気が付く。チャールズの父親は顔を蒼くした。
「まさか、倅が何か粗相を」
「いや、そういったことは全くございません。むしろ、とても良く出来たお子さんだと思いますよ。ところで」
父親が出てきたのは予想外だったが、マリウスは構わなかった。むしろ、呼ぶ手間が省けた。そう思っていた。
「私はこういうものなのですが」
懐から、証明書を取り出し、チャールズの父親に渡す。一目見た彼は、顔を引き攣らせた。
「セ、セント・アルマーダギーの学園長……」
「貴方のお子さんのことで、少し話しがあります。お宅に上がらせていただいてもよろしいですかな?」
サイド:チャールズ
神童、天才、エトセトラ、エトセトラ……。
正直、僕の知的好奇心は、我慢して制御していたものの五歳児の基準を大きく超えてしまっていたらしい。
いつしか、僕の周りの大人たちは僕の名前をそんな代名詞で呼び始めた。
くだらない。正直に、そう思った。
何せ、こっちと言えば私立中学に「お受験」した挙句落ちた身だ。それに、やれ神童だのやれ天才だの。何度馬鹿じゃないのかと思ったことやら。
だが。これは、今目の前の状況は紛れも無いチャンスだと思っていた。
セント・アルマーダギー学園。リージョナによる人族帝国初代皇帝・ペテロギウス1世が建設を命じ、後に伝説上の守護聖人・聖アルマーダギーの名にちなんでセント・アルマーダギーと呼ばれるようになった大学園。
地球と比較し、科学技術の発展を考慮に入れれば東大如きは足元にも及ばず、ハーバードとオックスフォードとケンブリッジを合わせたくらいの格式高い学園。
それに、僕が入れるんだ。この、ただ少し科学技術の進んだ世界の記憶を持ち合わせていただけの僕が。
下手にそこら辺の書店で滅茶苦茶分厚い本を読んでたときは、不味いことをしたかなと後悔していたけれども、蓋を開けてみればこの状況。
誰もいない場所ならば、喝采を挙げていたかもしれない。
「クレイリアさん」
「……あ、いや、その……。そうだ、寮だ。アルマーダギーは全寮制でしたよね。やはり、まだ六歳の子を家から離すというのはどうにも」
父は、なぜか額に汗を掻きながら言った。先ほどから一言も発していない母は、僕の目から見ても異常だった。一体どうしたんだろうか。
「確かにご心配は分かりますが、我々の誇りにかけまして、お子さんを危険な目には絶対にあわせません」
「そういう問題ではなくて、ですね、その」
本当に、何かがおかしい。零細とはいえ、一つの商会の長である父だ。こんなしどろもどろに、こと交渉関係でなることはありえないのに。
埒が明かないとばかりにため息を漏らしたバースラーさんは、ふと僕の方を見た。顔に、若干の期待が表れる。
「……チャールズ君、君はどうだい? 帝国一の学校で勉強したいとは思わないかい?」
なるほど、親ではなく当人の意思を確認と言うわけか。五歳児にそれを尋ねるのもどうかとは思うけど。
僕は両親を見た。二人とも、縋る様な目で僕を見ていた。理由は分からない。だけど。だけど一つだけはっきりしていることはある。僕がその学校に通う機会を逃したくは無いという意思を持っていると言うことだ。
「僕は……通いたいです、セント・アルマーダギーに」
バースラーさんのほうをしっかりと向いて、はっきりと言った。バースラーさんが喜色満面になるのと対称的に、視界の端のほうで見えた両親の顔がほろ苦いものだったことは無視した。と言うより、気づけなかった。
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両親とは、死ぬまで子供に尽くす奴隷であると誰かが言った。或いは、誰も言うまでも無い事実なのかもしれない。少なくとも、クレイリア家の両親はそうであった。
彼らが内心の何事かを押し殺して子供の意見を出来る限り尊重する決断をするに有した時間は極僅かだった。
同時に、チャールズ・クレイリアにとってまだ数多あったはずの道は、一挙に数を減らすことにもなった。このときの彼は、それをむしろ夢への前進として捉え、喜んだ。このときの彼は。
後書き
どうも。本当なら二話で後書き書こうと思っててすっかり忘れていた作者です。
と言うわけで今回は「チャールズ君、天才に間違われる」の巻でした。
ちなみに前もっていっておきますと、作中でバースラー氏が語っていた天才の定義について異論はあると思いますが、少なくとも感想欄に書かれても反論したりするつもりはありませんのであしからず。
と言うわけでレス返し行ってみよー(棒
>>ふいご氏
ご期待ありがとうございます。ただ、だらだら話を続ける作者の性格上、立身出世まで相当な時間がかかります、早速学園ルートのフラグを建設しちゃいましたし。
まぁ、「紳士トリストラム・シャンディ生活と意見」程にはならない予定です。……佐藤大輔フラグは否定しません。あと、ネコミミは二話くらい待ってくだされ。
>>ヒーヌ氏、雲八氏
な、なぜ作者のネックがわかったか貴様らぁぁぁ!
……と冗談はさて置き、こと材木・食料・工業関係や鉱物云々はきちんとでっち上げが出来ているのでご安心ください。さて、作者が意図的に何かを抜かしたのは気づきましたね?
……真水どーしよ。とりあえず設定はできましたが、でっち上げから苦しい言い訳にランクダウンです。
そんなこんなで、投げ出すことなく続けていきたいと思っていますのでこれからもよろしくお願いします。