帝国暦612年 三月三日 リージョナによる人族帝国帝都<リージョナ・ポリス> デニム街(島)三番通り
リージョナによる人族帝国、通称人族帝国の帝都は、その国家戦略――海の覇者たろうと言う所以から、この様な場所へ都を置いていた。
このような、とはどの様なと言えば、巨大な環礁である。
俗に<我らの海>と呼称される地域一帯では最大の環礁にして良港である<リージョナ環礁>は、ファルキウスが人族からは想像もできぬほど長いときをかけて形成した巨大環礁だった。
周辺には大小あわせて二十にも上る島々が存在しており、それらを総称して帝都<リージョナ・ポリス>と呼称する。
人族帝国人以外からは面倒くさがられて単に<ポリス>と呼ばれるその都市を構成する島々は、一島一島違った特徴がある。
例えば、環礁の北側にある<リージョナリア島>は獣人族の一種であり、この国の支配階層であるリージョナ族誕生の地であり、であるからこそ全帝国人の精神の故郷であった。帝宮と官庁街以外は自然保護区として緑豊かな島だ。
一方、環礁中央部にポツリと存在する<マニエストロ島>は、専ら愛称である<港島>の名で呼ばれていた。
入り組んだ島の外周はすべて船着場と化し、帝国標準帆船がひっきりなしにやってくる。それらの船が持ち込んだ物産は環礁内移動用の小船(と言っても結構な大きさにはなるが)に乗せ換えられ、周辺に散らばるように存在する大手商会の倉庫へ納まっていく。反対に、それまで倉庫に入っていた物品、全帝国から集められた豊富なそれが逆の手順で積み込まれ、出港していく。
港島は、更に港湾管理局や帝国海軍を初めとする海洋系施設が豊富であった。だからこそ港島などという愛称が付いたのだが、商業を生業とするものたちの社会的地位は、こと<ポリス>においてはこの港島からの距離で計られた。
例えば<リージョナリア島>はもちろんとして、距離的に<リージョナリア島>と同じ<ミネア島>は帝国財界でももっとも成功した富豪たちの住まう土地だった。
その視点から言えば、<デニム島>は中途半端な島といえた。
距離こそそこそこだが、交通の便が悪い。この島は、環礁内では例外的に港の立地が悪いのだ。こと三番通りなど、港から正反対の方向にある。
その三番通りを、一人の男がひぃひぃ喘ぎながら走っていた。少し地面から出ていた石畳の石に足を引っ掛け、盛大に転びそうになるが何とか踏ん張る。持ち直した彼は、息を吐くまもなく再び駆け出した。
痩身で、お世辞にも健康的とはいえない体つきの男は、全身にべっとりと汗をかきつつも尚も走った。道行く人々が何だあれはと首を傾げるが、気にしない。
男は駆けながらも悪態を吐いた。くそっ。せめて帝都にも連合王国ばりの馬車システムがあれば。
ただ、男の気持ちも分からないでもないが連合王国の馬車システムはこの世界においては異常な代物だった。本土が世界最大の大陸だからこそ誕生したのだとも言える。第一、男のような中小企業の社長でも、こんな小島――走り続ければ男のようにはなるくらいの大きさの島では採算が取れないことくらいは理解している。
だが、彼は悪態を吐き続けた。無理も無い。彼は道理ではなく感情で体を突き動かしていたのだ。
よろけるようにしてとある家の扉に掛かっている輪を掴み、どんどんと鳴らした。一向に出てこない。再び鳴らす。
「誰ですか? こんな時間に」
ようやく扉を開けて出てきたのは、厳しい家計を遣り繰りして最近新しく雇った女中であった。齢十五にも満たないはずの彼女は、赤い頬が印象的な顔を驚愕に染めた。
「旦那様!? どうなされたんです、お仕事で暫くは帰れないと」
「なんとか……はぁ、はぁ、…済ましてきたんだ! 家内は何処だ!?」
「お、奥様ならあちらに……」
息も絶え絶えに問うた男の剣幕に、若い女中は辛うじてそう答えた。刹那、男が邪魔するものはすべて吹き飛ばさんとばかりに突進を始めた。
「い、いけません!」
若い女中は主人のよれよれになっていたスーツを懸命に掴む。男はなんだと振り向いた。
「奥様はその、御産を終えられまして、今お休み中なんです」
まさに鬼の形相。秋津文化に詳しい友から聞いた鬼とやらは本当にこれよりも怖いのかと思いつつ、女中は涙目になりながら何とか説明した。
すると、急に男の体から力が抜けていく。つい先ほどまで忘れていた疲れというものが急激に男の脳に感知され、男はどっと床に腰を着いた。
「……無事、なのか」
「はい。産婆さまの見立てでは、母子共に健康とのことです。元気な男の子でしたよ」
男はようやく完全なる安堵の中へと落ち着いた。その奥底では出産に立ち会えなかったという自分に対しての怒りも合ったが、気にはしない。それに、ぎりぎりの経営を続ける男の商会は、一つの商談の不成立が即破滅へと繋がりかねない。
男は手で顔を覆った。女中は気付いていないが、そこには満面の笑みを浮かべる男が存在している。結婚十年目にして始めての子供、しかも跡取り息子なのだ。無理も無いだろう。
「旦那様」
若い女中とも彼の細君でもない女性の声が耳朶を打った。彼が商会を軌道に乗せた当初からこの家に仕えている家政婦だった。
「落ち着かれたのでしたら、お子様とお会いになられますか?」
男――キング・クレイリアが否という訳は、この世界中を探しても見当たらないだろう。
サイド:???
夢を、見たんだ。
見ず知らずの男が歓喜に満ちた目で僕を見つめ、挙句高い高いしようとして後ろの女性二人から必死に止められている夢を。
どうして夢だと分かるんだって?
そりゃあ、僕、倉井卓也は三級海技士って言う、色々端折って説明すれば船を操船する資格を持っているほかには、ただ歴史が好きな二十歳を超えた成年男性だからだ。
流石に二十歳を超えてまでそんな風に甘やかされる趣味はないし、第一甘やかしてくれる人間もいないだろう。
だから、夢に違いなかった夢のはずだったんだ。
「ほら、あなたが五月蝿いから起きちゃったわよ」
「なんだ。お前だってはしゃいでたじゃないか」
………。
「ほ~ら、起こしちゃってごめんね~。またねんねしようね~」
「………はぁ」
「ため息なんか吐いてどうかしたのか?」
「なんでもないわよ」
………。
「ところで、この子の名前だけど」
「ああ、もちろん考えてある。チャールズ、としようと思っているんだが」
「チャールズ。ラグナラ公家の嫡子殿下の名前ね?」
「ああ。商魂逞しいお人だからな。あやかれない物かと思ったんだが。……ダメか?」
「チャールズ……ええ、いい名前ね。いいわ、貴方の考えた名前で」
日本人と言えば、対外的には無宗教で通っている。
とはいえ、正月に神社行って死者の供養は寺でしてクリスマスにはお祝いして云々と言う独特の宗教観は持っているし、それは僕だって同じことだ。
だから。
仏様でも神様でもキリスト様でもアラー様でも誰でもいいから。
誰かこの状況を説明してくれぇ!?