七月十五日 セント・アルマーダギー学園
少女は、孤独だった。
少女は、孤独だった。
いつしか、周りから『安心』が消え去っていた。
宮殿の中で遊ぶとき、いつも傍に控えてきた女中の向ける表情は、いつしか子供に対するそれと言うよりは、目上の者に対するそれに変容していた。
リージョナリア島の、楽園としか言えないような自然の中に居るとき、殆んどいつも自分に付きっきりだった老執事は、自分が成長するにつれて、少女と言う個人ではなく、帝国第四皇女としての自分しか見なくなっていた。
父親は変わらず忙しいらしかったが、空いた時間は彼女よりも更に幼い妹や弟へと向けられ、少女と一緒にいる時間は激減した。
少女の異母兄弟達も、あるものはより専門的な学校へ向かい、あるものは国政に携わり始め、少女と一緒にいるどころか、そもそもいつリージョナリア島にいれるかさえわからなくなってしまった。
そして、何よりも。
悲しいとき、嬉しいとき、怒ったとき……。
少女が何らかの感情を爆発させたとき、傍に母は居なかった。侍従曰く、あなた様は帝族のご一員であらせられるのですから、何卒、お早く独り立ちなされませ、との事だった。
もちろん、少女には母と満足に会えないことと独り立ちとか言う訳の分からぬ単語がどうして結びつくかなどは判らなかった。ただ単に、母とはもうろくに会えなくなってしまったと言うことだけを理解し、無理やり受け入れた。
少女の心は、隙間が目立ち始めた。
少女の周りからは、いつしか誰もが消え去っていった。
少女は不安だった。
少女は、孤独だった。
「――! 解った! おまえもどうせ私と居るのがめんどうくさかったんだろう! そうだろうな、私は皇女だものな! もういい、もういい! 二度と私の前にすがたを見せるなっ!!」
私語やら何やらが混ざった雑音がピタリと止んだ。そして、驚異的なまでのシンクロニシティである一点に視線が向かう。僕が呆然と見つめているその先に、だ。
視線の先には、顔を真赤にして、目に若干涙をたたえている少女が居た。名前を、マフィータ・ダン・リージョナリアと言う。
マフィータは、キッと僕を睨みつけると、立ち振る舞いも何も無しに、ただ何かの激情に駆られるようにここ――食堂唯一の出入り口から出て行った。バタン、とただでさえも大きな音が、静まり返った食堂に反響した。
「お、皇女殿下! お待ちを!」
たっぷり十数秒は硬直していたリッペポット君以下、その友人たちが全食堂で一番早く立ち直った部類にはいるのだろう。慌ててマフィータのあとを追う。
そんな状況を、僕は自嘲と後悔と、そして自己正当で見つめていた。
「お、おい、クレイリア……」
文字通り顔を真っ青にして、レンスキーが真剣に言った。
「いいのかよ、あれで……。さすがに、やりすぎなんじゃねぇか?」
「良いんだ」
「だ、だがよ……」
「良いんだ、レンスキー。良いんだよ、あれで」
レンスキーにと言うより、自分に言い聞かせるために僕はこの現状を肯定した。
そう、良いんだ。これで良いんだ。良いはずなんだ。泥は全部僕が被る。そうすれば、別に一向にかまわないはずなんだ。
けれども、僕のその言葉は、念じるほど心には響かなかった。何事かの幕が、今、静かに上がった。
「やっぱり、こうとうぶだって」
「いや、だいがくぶだよ!」
「こうとうぶだ!」
「だいがくぶだ!」
食堂。食事をとるはずのこの場所で、場所に似合わぬ激論が展開されていた。もちろん注目を浴びないわけがなく、食堂中の好奇の視線と、職員の叱責の目線が乱れ飛ぶ。
非常によろしく無かった。主に、精神衛生上において。
「おい、二人とも、少しは静かにしろよ」
「クレイリア、だがこいつが……」
「おれが何だよ? 悪いのはおまえじゃねぇか」
「何だとぅ!?」
「何を!?」
「……少しは周りを見てよ、二人とも」
怒鳴りつけたくなる激情を押さえ込み、二人にそう促した。二人――レンスキーとリウは、しかめっ面のまま辺りを見回し、慌てて縮こまった。注意しようとしていたらしく、近づいてきていた厨房勤務のおばちゃんと目があったらしかった。
「あ、あはは、すみません」
「……もう少し、静かにお願いしますよ」
おばちゃんが、この場にいるもう一人の人物――フルマーニ公爵家の嫡男・ルイ・ナオーリス・ダン・フルマーニの愛想笑いで退散するのを見届けて、レンスキーとリウは大きくため息を吐いた。
「……はぁー、あせったぜ」
「ったく、お前があんな風に騒ぐから」
「何「二人とも、いい加減に学習しような?」……はい」
学習?ナニソレ美味しいの?と言わんばかりに無限ループを試みる馬鹿ニ名を黙らせ、僕は茶を一口含んだ。ようやく落ち着けたよ、全く。
「ごめんな、ルイ。バカ二人が迷惑かけちゃって」
「いや、気にしてませんから」
苦笑しつつ、普段と変わらぬ丁寧さでルイは言った。と言うか、この会話の部分だけ抜き取ると、正直どっちが公爵家の嫡男だか全く分からないほどだ。
その様子に、僕がバカ二人と称した親友二人組は、慌てて弁明した。
「い、いえフルマーニ様。おれたちはフルマーニ様に楽しんでいただこうとがくえんさいで行くばしょを話しあっていただけでして、別にフルマーニ様にごめいわくおかけしようとしたとかそんな事は……」
「だから、気にしてませんって。あと、様付けはやめて下さいって言ったでしょう?」
必死の弁解だったようだけど、リウの言ったそれはむしろ墓穴を掘ったようだった。
「い、いや、さすがにそれは……」
「出来ますって。ほら、クレイリアみたいに」
一瞬、三組の視線が僕に向けられるのを感じたけど、それはすぐに消え去る。こいつら、ほんとはかなり仲がいいんじゃと疑うくらいの同調率で、
「……いや、こいつは別格ですって」
「……そこまでじょうしき捨てたくはありません」
「……ごめん、ちょっと無茶言った」
フルボッコである。
「ちょっと待て。その言い方は酷いだろう?」
「だって、なぁ」
「だよなぁ」
「ですよねぇ」
睨みつけると、全員明後日の方向を向いた。
「そもそも、公爵とか帝族の方々によびすてで話しかけるってだんかいでじょうしきの外だって、おまえもわかってるだろう?」
「……それはそうだけどさ、もう少しオブラートに包んでと言うか……」
「オブラアト?」
横文字厳禁、である。疑問符が頭の上に浮かぶ三人を咳払いで誤魔化してから、僕は続けた。
「と、ともかく。言い方ってものがあるだろう? 言い方ってものが」
僕の必死の主張は、けれども、
「……無いだろう」
「無いね」
「無いですね」
頭から否定された。……後で覚えとけよ?
まぁ、でも確かに言い返す言葉も無かった。連合王国だの秋津皇国だのと言った立憲君主国家と違い、絶対王政国家としては多分に進歩的な面があるものの、悪く言ってしまえばそれまでな人族帝国では、そこまで酷くは無いにせよやっぱり身分は絶対だ。それをぶち壊そうとしているのだから、保守派に見られたら命はないかも知れない。
「……その話は今はもう良いとして」
ルイが物を脇によける動作をしながら言った。
「……どうしますか? ぐたいてきにどこを回るか」
「もちろん、だいがくぶです! フルマーニ様!」
「おい、リウ! 抜け駆けは……痛てっ!」
どうにも、こいつは懲りるとか学習するとか言う文字が辞書に載ってないらしい。止む終えないから、拳でその言葉と意味を書き込んだ。ついでに、さっきの恨みも込めておく。
さっきからレンスキーとリウが口を開く度に怒鳴り合っている理由は、学園祭はどこを巡るかって言う意見が真っ二つに――主にレンスキーとリウの間で――分かれてしまったからだ。
セント・アルマーダギー学園は、一つの島を丸々使うくらいには広大だった。初等部や中等部の大きさからは考えづらいけど、高等部と大学部を合わせればかなりのデカさになる。
そんな中を、全部回るなんてできるわけがない。これが、僕たち四人が一番初めに同意したことだった。このまますんなり決まっていたら、今はもう学園祭の事なんか考える必要はなかったかも知れない。
問題は、大学部を中心に回るか、高等部を中心に回るかだった。
レンスキーは、高等部の何やら食事系の出店が立ち並ぶ箇所を主張し、リウは大学部の最新の研究発表だとかを展示するスペースを主張した。
両方行けばいいじゃないか、と思うかも知れないけど、その場合の問題はこいつらの性格だった。まず間違いなく、始めに行った場所が自分の行きたい場所の場合、難癖つけて動こうとしないのは目に見えてる。だったら、むしろ行く場所を一箇所に決める方が遥かに良かった。
「……ルイ、君はどこに行きたいの?」
このままじゃ埒があきそうにないから、仕方なく第三者の意見を求めてみる。いっそ、何処だろうとルイの言った場所に無理やり決めよう、とも決意した。この議論、実は昨日丸一日がこれで潰れたから二日目なのだ。いい加減飽きてきた。
ルイは、しばらくうーんと考え込んだ。思わず、レンスキーやリウとともに唾を飲む。さぁ、結局何処に決めるんだ?
ただ、この時の問題点といえば、ルイが貴族に似合わないほどのバカ丁寧さを持っていて、ついでに、
「二人の好きなほうでいいすよ?」
とても空気が読める、と言うことだ。
「だいがくぶ!」
「こうとうぶ!」
「だから静かにしろと言うに!」
得たとばかりに再び意見のぶつけ合いを開始した二人を、強引に引き離した。
「だ、だってよぉ、フルマーニ様がそれで良いって仰ったんだから、ぜひともこうとうぶにだな……」
「いやいや、ぜひともだいがくぶのまちがいだろ?レンスキー」
「いいかげん、少しはあきらめろよ」
「それはこっちのセリフだ」
本当に埒があかなかった。下手すると、いやまずまちがいなく、このままだと決まらないまま文化祭初日に突入する。
しょうがないから、僕はこういう時の伝家の宝刀を取り出すことにした。
「解った、解った。二人とも、それじゃあジャンケンで決めよう」
「ジャンケン?」
二人が顔を見合わせた。……そういえばジャンケンも無かったな、この世界。
「あー、例えば一つのものがあって、それを取り合うときにどっちのモノか決めるゲー……遊びだよ」
「へぇー、そんなんがあるのか」
よし、食付きは上々。
「まず、『最初はグー』の掛け声で、こう握りこぶしを作ってだ。それで、『ジャンケンポン!』の合図で、こう(口で説明するのは面倒だったから、グーチョキパーとそれぞれ作って見せた)言うふうに手を出すんだ」
「……それで、どうやって決めるんだよ」
「この三つの形に強い弱いがあるんだ。例えば、グーはパーに負けるけど、チョキには勝つ。ってことはチョキはグーに負けつけど、パーには勝てる。それで、パーはチョキには負けるけど、グーには勝つ」
「ほー」
リウが感心したような声を出した。
「なかなか良くできてんだな……良し、それじゃあレンスキー! 『ジャンケン』でしょうぶだ!」
「おう、望むところだ!」
再び五月蝿くなるけど、これでならすんなり決まりそうな気がするから黙っておく。代わりに、ルイに確認を取った。
「ってことでいいよね、ルイ?」
「………え、ああうん。いいよ」
ルイはなにか考え事をしていたらしく、真剣な表情をしていた。いきなり話しかけられてどもっている。
「……? どうかした?」
「何でも無いよ。何でも。それより、『ジャンケン』をやるんだったら審判は引き受けるよ」
今度は、僕が混乱する番だった。
「し、審判?」
「うん、こういうのを審判するのも、貴族の務めだから」
いったいどんな務めなのだろうか? それとも、単に『ジャンケン』に興味があっただけなのか?
何にせよ、腕をまくってさあやれとばかりに二人を見つめてるから意見も言えず。異様な――と言うより奇妙な緊張感の中。
「さーいしょーはグー!」
ルイの掛け声で。
「ジャーンケーンポン!」
勝負の幕は切って落とされた。さぁ、二人の出した手は……。
レンスキー:グー。リウ:グー。
「……クレイリア。こういう場合は?」
凄まじく真剣な口調でレンスキーが呟くように、だが鋭い口調で尋ねてきた。
「……あいこでしょ、って言う号令でやり直し」
「あーいこーでしょっ!」
よく分からない気勢に気圧されながらそう説明すると、間髪入れずにルイが言った。ノリノリだな、君ら。
さて、その結果は…、今度はパーであいこだった。
「あーいこーで……」
また、グーであいこ。
「あーいこー……」
今度はチョキで……。
「あーい……」
またしても……。
………。
………………。
………………………。
「……ねぇ」
「な、何だ? クレイリア」
「僕はさ。さっさと決めようと思ってジャンケンを持ち出したわけだ」
「……しかたねぇだろ、あいこじゃ決まらねぇんだから」
「にしても! 二十回連続であいこ出すって君たち何か打合せしてやってるのか!?」
僕の心からの叫びに、レンスキーとリウは心外だと言いたげな表情を作る。
確かに、こいつらがわざわざ謀ってこんな事をする理由も必要も無い。けど、あのあと二十回連続であいこしか無いって言うのはさすがに予想してなかった。ほんとに仲いいな、おい。
「……しょうがないよ、こればっかりは。………しきり直し、行くよ?」
あのテンションは結局十回しか持たなかったルイは、疲れきった顔で告げた。
そのルイとは対照的に、自分たちの問題だからか、レンスキーとリウは依然として元気が有り余っているらしかった。
再び、真剣な表情になって。
「さーいしょーは……」
ルイの掛け声とともに……。
「パー!」
「あ」
「え?」
何の前触れもなく、リウがルイの『グー』と言う声に被せて『パー』と言いながらパーを出した。もちろん、そんな行動をレンスキーが見抜けるはずもなく、ぽかんとした顔のまま固まってる。
「はい、リウの勝ち」
ルイが、ようやく役が来たとばかりに宣言した。
「ちょ、え? ええ!?」
「よっし、それじゃあがくえんさいはだいがくぶということで」
「異議なーし」
「うん、それでいいよ」
ようやく決まったよ。僕は長く息を吐きながら思った。正直どうでもいい話には違いなかったけど、いざ終わってみれば心地よい達成感が僕の中を満たして行く。これは、レンスキー以外の他の二人も同意見らしい。
「お、おい! 今のは、今のは反則だろう!」
「何を言う。ジャンケンって言うのはグーはパーに負けるって言ったじゃないか。それが考えつかなかった段階で君の負けだよ、レンスキー」
「フ、フルマーニ様ぁ」
「うん、僕もクレイリアと同意見」
外野の二人がそう判断したらしょうがない。レンスキーは、がっくりと項垂れた。……いじりがいのある性格である。
何にせよ、長かった不毛な議論もやっと実りある結論に落ち着いた。僕は、心底安堵しながら茶を口に含み……。
「クレイリア! 何処だ!」
危うく、それを吹き出しそうになった。間一髪、むせるだけで済む。隣では、レンスキーとリウが固まり、ルイが困ったような顔を見せた。
声の主は、誰あろうマフィータその人だった。
「マ、マフィータ?」
僕の声に気付いたらしく、マフィータは僕に視線を向けると、一瞬だけ顔を顰めた後、すぐもとに戻って一目散にこっちへ来た。
「ど、どうしたの?」
「お前、今は時間があいてるだろう? 少しつきあえ」
口を挟む間もなく、マフィータは早口で言い切ると僕の腕を掴んだ。慌ててもう一度尋ねる。
「ちょ、マフィータ? いったいどうしたんだってば」
「いいから、来い」
有無を言わせないって言うのはこういう事か、と僕は心の何処かで納得した。それほどまでにマフィータの表情は切羽詰った感があった。
「だから! いきなりなんだって言うんだよ」
少し強引に手を振り払った。僕の腕から離れたそれを、マフィータはじっと見つめる。
「付き合うのはいいけど、理由も訊かず無理やりって言うのは駄目だろう? ……何があったの?」
言い聞かせるように、重ね重ね説明を促す。すると、出入口からまた声が聞こえた。
「皇女殿下! どこに居られるのですか!?」
リッペポット君の声だ。マフィータを見ると、彼女は出入口から顔を外らせた。僕は、一呼吸して、リッペポット君を呼んだ。
「リッペポット君、こっちだ!」
僕の姿と、隣のマフィータを認めたらしいリッペポット君は、飛ぶようにこちらへ駆けてきた。
「殿下、とつぜんいなくなられてはびっくりするではありませんか」
リッペポット君は、散々走り回った所為か乱れた呼吸を努めて落ち着かせながら、心底安堵したように言った。
「しかしまぁ、どの道食事をとらねばならぬのですから、つごうがいいです。ささ、向こうの席へ……」
だけれど。
マフィータは、首を振った。
「で、殿下?」
素っ頓狂な顔をするリッペポット君なんか歯牙にもかけないように、マフィータは宣言した。
「よい。今日は、クレイリアと食べる。お前らは、自分たちで食べてくれ」
唖然として、僕はたっぷり数秒固まってしまった。マフィータが、ここまで――おふざけでは決して無い――我侭を言うのなんて、初めてだった。
どうしたものかとリッペポット君を見ると、しきりに首を横に振っていた。確かに、これじゃあこうまでして変な噂を払底しようとしてきた努力が水の泡だ。下唇を噛みながら、僕は決断した。
「……マフィータ、その……」
マフィータと口に出した瞬間、リッペポット君のジェスチャーが更に激しくなる。公の前では名前を呼ぶな、ってことか。
僕は、瞬時に理解して――墓穴を掘った、らしかった。
「『皇女殿下』、リッペポット君があんまりじゃないですか。ほら、一緒に食事をとってあげてくだ――」
次の瞬間から、話は冒頭へと戻る。
「……レンスキー、クレイリアは?」
「先に戻ってるってよ」
リウの問い掛けに、レンスキーはやけでも起こしたように身を椅子へと投げ出した。
「あいつ、頭良さそうで――実際に良いけどよ、やっぱバカだ」
レンスキーのつぶやきに、嵐がさっても私語と憶測と根も葉もない噂が飛び交う食堂に未だ残っていたリウとフルマーニは、肯定の頷きを返した。
「ぼくのせいで友だちが出来ないからぼくはあまり関わらないようにする、か。バカだぜ。友だちが出来ないんだったら、あいつが友だちでいてやればいいのに」
「……おれたちが言えることでも無いけどね」
「そりゃ、そうだけどよ」
思いっきり悪態を付くレンスキーを諌めるようにリウは言った。いや、或いは自分自身に対する、自責の言葉かもしれなかった。実は、レンスキー、クレイリアから理由を聞いた後、急にマフィータとの付き合いが悪くなったことに興味を抱いたらしい二人から詰め寄られて、あっさり落城していた。
「けっきょく、殿下おこらせちまって。あんなん、はじめて見たぜ」
「……そもそも、そんなようすを見せるまで追い込んじゃったのはおれた……」
「だぁー! わかってるよ、おれたちがなんか言えるほどえらくねぇって事くらいはよ!」
うだうだうだうだと! レンスキーは髪をクシャクシャと掻いた。
「……クレイリアだけたったんだよね、殿下が親しくお話になられるのって」
フルマーニが呟くように言った。
「……つまり、皇女殿下のことほんとに気にかけてたのは、クレイリアだけってことか」
「あいつも、くろうしてたんだろうな……。おれたちにはわからねぇけど」
思えば、現金な話だった。目に見えて殿下の機嫌が悪くならなければ現状でいいと思っていたのに、クレイリアやら何やら、ともかく自分に近しい人間が関わってくると途端に大問題になってしまう。
もちろん、三人にそんな心理考証ができるはずも無いが、漠然とそのようなバツの悪さが突くように心を責め立てていた。
「……でも、もっと解らないのは、さっきレンスキーから聞いたあの『うわさ』ってやつだよ」
フルマーニの言葉に、レンスキーとリウはうんうんと頷いた。
「ですよね。少なくともおれたちは、そんなうわさ聞いたことがないですもん」
「だったら、言ってやればよかったじゃないか」
リウの冷静な突っ込みに、レンスキーはそっぽを向いた。
「しょ、しょうがねぇじゃねぇか。おれだって、言おう言おうとは思ってたんだ」
「じっさいは?」
「……口に出そうとすると、きまってじゃまがはいって言えなかった。ほんとに、マキのいたずらとしか思えねぇぐあいにどっかで物音がしたり、よびとめられたり。それに、あそこまで自信満々に言われると、ただ俺だけが聞いてねぇだけなのかなって思っちまって、それで……」
リウは天を仰いだ。が、レンスキーだけを責めれるような問題ではないことを思い出して、誤魔化すように茶に手を伸ばした。
「……ありもしねぇうわさを、何でクレイリアが信じたのか、か」
レンスキーが顎を手で撫でる、推理小説の名探偵がよくやる格好をした。が、どう見ても腕白小僧のレンスキーがそれをやるとかなり不恰好だ。
「リッペポット様から聞いたとか言ってたけどな」
「……じゃあ、やっぱりリッペポット君がなにか聞きまちがいでもして、それを伝えちゃったってことかな」
やっぱり、高位の貴族を君付けで呼べるのはこの位の身分になってからだよな、とレンスキーはうんうん頷きながらフルマーニの意見に同意して――何やら考え込んでいるリウを認識した。
「……? どうしたんだ?」
「……リッペポット様と言えばさ、それこそヘンな話があるんだよ」
「ヘンな話、ですか?」
フルマーニにうんと頷いて、リウは続けた。
「……なんでも、いちがっきのあいだ、皇女殿下とお近づきにとか言っていたやつが、リッペポット様によびだされて――あんまり人の居ないところに連れてかれるってことがかなりあったとか言う話です、フルマーニ様」
「……なぁ、あからさまに怪しくねぇか?」
ゆっくりとリウの言ったことを咀嚼し、理解したレンスキーは、呆れたように呟いた。
「だから、ヘンな話って言ったじゃないか。でも、このことをうわさされてるやつに聞いたら、逃げてきやがったんだ」
「……リッペポット君に何か言われた。って考えるのがだとうですね」
「けどよ……あ、いえ、ですけど」
ぶっきら坊に言ってから、慌てて敬語に言い直しながらレンスキー茶を飲み、咳払いをして体勢を立て直してから尋ねた。
「それだったらなんで、リッペポット様はそんなことしたんですか? 公爵さまのごしそくなんですから、わざわざそんな事をするりゆうなんて」
もっともな疑問だった。リウもフルマーニも黙りこくってしまう。
その沈黙の環にレンスキーも加わり――少したってから、その環は唐突に崩れた。以外にも、フルマーニによって。
「……考えていても、こればっかりはなんにもなりませんね……。リウ、レンスキー」
「は、はい。なんでしょうか」
何の前触れもなく呼ばれた所為か、リウが声を上擦らせてしまったが、フルマーニはそんな事を気にすることもなく、きっぱりと言い切った。
「調べましょう、この事について」
思わず、リウとレンスキーはフルマーニの顔をまじまじと見つめてしまう。この大貴族の長男の瞳には、はっきりと決断の炎が灯っていた。
「それは……ありがたいですけど、けど、良いんですか? こんなことにそんな協力していただいて」
「こんなこと、じゃないよ」
フルマーニは頭を振った。
「皇女殿下と……そしてなによりクレイリアが困ってるんだ。恩もあるのに助けなきゃ、むしろ貴族じゃないよ」
「おん……? 皇女殿下はともかく、クレイリア何かしましたっけ?」
リウが解せないと言いたげに尋ねた。フルマーニは、ポツリと、しかし決して弱くはない声で言った。
「……クレイリアは、僕のことを、生まれて初めてただのルイ・ナオーリスとしてあつかってくれたんだ。なんでもするよ」
リウとレンスキーは顔を見合わせたが、すぐに駆け出すことになる。フルマーニが、一分一秒もおしいとばかりに早歩きで歩き始めたからだ。
フルマーニのすぐ後ろにつきながら、レンスキーは思った。ただのルイ・ナオーリス。貴族でもなんでもねぇ、ただのルイ・ナオーリス、か。
やっぱ、あいつはバカだ。レンスキーは前にもまして頭の中でそう決めつけた。自分がしたことで、なんかよくわかんねぇけどありがとうって思ってるやつがいるのに、それに気付きもしねぇで。やっぱ、バカだ。
レンスキーは、むしろ自分自身がその心の声を苦々しく聞いているのに最後まで気付かなかった。食堂の扉が、ギィと音を立てて閉まった。そして、それを確認したように、黒い影が彼らを追って行った……。
翌日
気分が、重い。空気も、重い。ついでに、周囲の目が痛い。
「きりーつ、れい、さようなら」
日直の挨拶を号令に、まず先生が気持ち早足に教室を立ち去り、ついで同級生たちも我先にと荷物を纏めはじめた。
尤も、彼らの緊張は即座に解きほぐされた。
「………」
無言のまま、マフィータが出て行ってしまったからだ。……途端に広がる私語。
その中で、僕は一人押し黙ったままだった。
静かに自問する。あれで本当によかったんだろうか、と。
明らかに、マフィータのあの怒り様は僕のせいだ。じゃあ何が原因かと聞かれれば、確実にマフィータの事を避けてたあの態度に行き着くんだろう。
確かに、怒って当然の仕打ちだった。少なくとも、僕がそんな事をされたらマフィータほど耐え切れる自身はこれっぽっちも無い。でも。
頭を振って後悔の念とか、ともかくそういったものたちを頭の外に追い出す。あれでよかったんだ。僕が彼女を避けていたのは、そうすることで変人皇女なんて言う噂を掻き消すためだ。だったら、あそこで怒って関係が断たれるって言うのはむしろ僥倖ってやつだ。どの道、僕の目的は達成したに等しい。
はぁ、と深く息を吐いた。だというのに、気分が全く晴れない。まぁ、あんなことしておいて逆に気分爽快だったら自分の性格ってのに絶望でもすべきなんだろうけど。
煙草でも吸いたくなる、と呟きかけて苦笑した。いや、転生前は確かに二十歳越えてたから法律的には問題なかったけど、そもそも吸えなかったからなぁ。格好なんてつけるものじゃなかった。
視界の端に、リッペポット君の姿が見えた。どうやら、自分も急いで授業道具をしまってマフィータを追いかけるつもりらしかった。
きちんとやってくれてるだろうか。と切実に思う。結局、あの後もマフィータの周りに目立って人が増えたなんてことは確認できなかった。まだ噂が尾を引いてるらしい。
でもまぁ、そんな状況も昨日までだろう。
取り敢えず、今日はもう寮に戻ろう。鞄に手を掛けた。
「おーい、レンスキー……って、あれ?」
ルームメイトを呼ぶが、何処にも居ない。更にぐるりと教室を見わたせば、レンスキーはおろかルイもリウも居なかった。
おっかしいな、あいつら、ルイは別としてそんなに素早く帰る方じゃないのに。
訝しみながら出口に向かおうとすると、床になにか落ちているのが見えた。ピンク色の、恐らくシルクか何かの布だった。条件反射的に拾う。マフィータのハンカチだった。やけに、じっとりとして重い。
どうしようかな、これ。今更「はい忘れ物だよ」なんて慣れ慣れしいにもほどがあるし。やっぱり、リッペポット君辺りにでも頼もうか……。そんなふうに考えていると、後ろから呼び止められた。
「よー、クレイリア」
妙に馴れ馴れしい声だった。クラスメイトの一人で、一年生から早々に周囲から煙たがれ、そしてそれに気づきもしないある意味長生きしそうな奴だった。そんなに言葉を交わすような仲ではないけど、だからと言って居ても無視するような奴でもない。要するに、顔見知りと知人の中間的存在のやつだ。それが、いったいどうしたのだろうか。ハンカチを丁寧にポケットにしまいつつ、尋ねる。
「ああ、一体どうしたの?」
「とぼけんなって」
はて。いきなり彼から「惚けんな」と言われる理由がわからないのだが。
取り敢えず、彼の頭の中で何事かが自己完結して、それをそっくりそのまま僕に伝えらからこんな状況になっているのだと理解した時だった。
「おまえも、リッペポット様からよびだされたんだろ?」
彼は仲間を見つけたような顔で言った。
いや、確かに呼び出されはしたけど、それだいぶ前の話だし。そもそも、どうして今そういうふうに断定されるのかが判らなかった。
「え、えと、いきなりなんで?」
「だから、とぼけんなって」
先ほどと同じセリフが繰り返される。何だ何だ、一体?
「ああ、リッペポット様のことならきにすんなって。もうどっかいったみたいだし、ここにいるだれかがチクるなんてこともないんだし」
全く意味がわからない。強いていうなら、リッペポット君が関わっているらしくて、更にクラスメイトにとっても同情されるような出来事があったと思われてるってことだけか。……漠然としすぎてるな。
そんな風に考え込みながら聞いていたからだったからだろうか。お陰で、次の言葉がストンと、頭の中におちてきた。曰く、
「ほら、かくさずいっちゃえよ。おまえもリッペポット様から『皇女殿下ともう話すな』って脅されたんだろ?」
………。
………………。
は?
「は?」
内心が口から漏れたけど、どうでもいい。心底どうでもいい。ただ、聞き捨てならない言葉があった。今、こいつは一体なんて言った?
彼は、ありゃ、と言った。
「おっかしーな。てっきり、おれたちみたいにそうおどかされたから口きかなくなったとばっかり……のわ!?」
体が勝手に動いた。何事かと咄嗟に身を竦めていた肩に手を乗せる。手に、勝手に力が入った。
「……誰が、誰に、なんて脅されたって?」
いきなり僕が怖い顔して、挙句極至近距離で睨むものだから彼に明らかな怯えの色が滲んだ。だけど、僕にそれに対してどうこう対処するなんて余裕は無かった。
「だ、だから、おれたちこのがっきゅうのみんなが、リッペポット様とその家臣のからだの大きなひとから、ぜ、ぜったいに皇女殿下にちかよるなって……!」
「……本当かい?」
「ほ、ほんとだよ! ここにいるのはみんなおどかされたんだから! な、な!?」
みんなを見ると、毅然として頷いた者が半数、顔を背けた者が半数だった。だけど、むしろ顔を背けた者の態度から、彼の話の正しさが解った。
手から力を抜いた。いや、抜けた。哀れな僕のクラスメイトは、床へへたり込むと、怯えきって後ろに下がった。
「ど、どーしたんだよ、クレイリア」
「……ああ、ごめん。教えてくれてありがとう。ほんとにありがとう」
気付くと、手のひらが痛い。握りこぶしを作っていたせいで、爪が皮膚に食い込んだらしい。
「ク、クレイリア?」
心配してくれたのだろうか。そんな声がかかる。けど、僕にそれに応対する余裕なんてものは、存在していなかった。
一体、どういう事だ?
リッペポット君が、皇女殿下、マフィータと話さないようにと脅した? みんなを? どうして? 疑問だけがふつふつと留まることを知らないように湧き続ける。
脅すってことは、力づくでもそれを成し得たかった、って言うことだ。リッペポット君が力づくでも成し得たかった事、この場合は、マフィータと他のみんなの接点を強圧的でも何でもいいから途切れさせたかった、ということか。でも、一体どうして……。
そこまで考えて、はたと気付いた。
リッペポット君が、強圧的にでも何でも、ともかくマフィータと他者を会わせないということは、つまり僕との約束を違えることで、それを意図的にやっていたということは……。
「……ゴメン、最後にもう一つ。皇女殿下は変人だから近づくな、なんて噂、聞いたことある?」
まだ、信じたくはなかった。何を信じたくないのかは判らない。裏切られたことになのか、それとも気づけなかったことになのか。ただ、信じたくなかった。だから、藁にすがるような思いで訊ねた。
しかし、その問いにも、現実という奴は、
「う、うわさ? 聞いたことないよ、なぁみんな? そもそも、近づきたく思ってても、どうせおどされてて近づけないんだし……」
やけに無情に答えてきた。
数秒、いや数十秒、もしかすると数分くらい経ったのかも知れない。時間の経過が分からなくなる。教室内は、残暑の暑さに蒸され、いつもよりは気温が高いようだった。
だけど、僕にそれを感じ取る余裕なんてものはない。
いつしか、森林地帯付近の湧き水のごとく溢れて止まなかった疑問はどこかへ飛んでいき、代わって怒りが席巻していた。
何で、リッペポット君はそんな嘘を吐いた!? 思わず、誰かれ構わず当り散らしたくなるのを、必死で抑える。今ここに居るクラスメイトにそんなことを聞いたって、解るはずがないのだ。
なら。
ならば、どうするか。
訊こう、と僕はやけに冷静に思った。会ったら会ったで怒鳴りつけたい気持ちを抑えられるかは分かんないけど、ともかく僕は年長者だった。なら、冷静にならなきゃならない。
僕は、帰り支度が整ったカバンを手に持った。ともかく、リッペポットくんに会わなければ話は始まらない。
「……いろいろありがとね」
未だ目の前で呆然とする彼にひと声かけ、そこら中に存在する机をかき分けるように教室の出口へと向かう。
逸る気持ちは、どうにも抑えられないらしい。途中、何度か椅子と机を倒しそうになりながらも、頭の中は自問自答が繰り返されていた。訊いて、もし答えなかったらどうする?はぐらかされたら?
結論が出ないまま、いつしか机の密度が低い場所へと躍り出た。いよいよ、駆け足気味に教室を出ようとしたその時である。
「おお、クレイリア! すまない、皇女殿下を見失ってしまってねぇ、君、どこにいるか知らないかい?」
これ以上無いくらいタイミングだった。僕の視界に、リッペポット君が駆け込んできたのは。教室内全員の目が彼に突き刺さった。
「ん? どうしたんだい?」
リッペポットくんは一瞬キョトンとしたが、すぐに僕の方へ向かってきた。
「なぁ、クレイリア。どうしたんだ? いったいぜんたい」
沸き上がってくるこの感情は、果たして怒りなのか、それともまた別の何かなのか、それは僕にも判らなかった。心拍数が上がったような気がする。
リッペポット君の表情からは、あくまでただのクラスメイトという印象しか受けることができない。だけど、その裏で、何を考えているのか。僕は、それを糾弾する言葉を……。
………。
……面と向かって初めて、僕は自分がリッペポット君に言うべき言葉を考えていなかったことに気付いた。駄目だ、駄目だ。焦りすぎている。
訊きたいことは山ほどあった。どうしてあんなことを仕組んだ、自分がマフィータに取り入るため? クラスの他の奴から頭一つ抜きでた位置にいることを示すため? 感情の濁流を、必死に抑えようともがく。
気分を無理やり落ち着かせた。妙にぎこちない呼吸になったけど、気にはしない。
「……クレイリア?」
リッペポット君が訝しげな声をあげた。
意を決した。努めて、冷静に。きちんと問いただそう。感情的になるべきじゃないんだ。僕は、この連中の中では、一番人生経験を積んでいる。
「……ねぇ、リッペポット君」
自分でも、思っても見ないほど冷静な声が出た。
「何だい?」
「君は、さ。言ったよね? 僕がマフィータと親しくするのを止めたら、『皇女は変人』なんて噂もすぐに消え去って、そうしたら君が旗を振って友人を集めてくれるって」
「ん、ああ、そうだが」
ギョッとしてリッペポット君を見つめる目が増えたような気がする。僕は続けた。
「じゃあさ……こんな話があるのは知ってる?」
「こんな話?」
「うん。あるところに大貴族の子どもがいてさ。その子が、その国の皇女殿下の学友達にこう脅すって話。皇女殿下に近寄るなって」
話すうちに、リッペポット君の顔が真っ青になった。
一瞬、これで決まりかな、と険しい表情をしながらも、僕は思った。けど、やっぱり彼も貴族だった。
リッペポットくんは、蒼白だった顔を一気に顔を真赤にさせると、普段の彼からは想像もできないような大声で辺りに怒鳴り散らした。
「どこのバカかね! そんな根も葉もないはなしを言ったのは! 君らは、私をけなした! それすなわち、八公爵家が一つ、リッペポット家の名を、ひいては帝国を、陛下の名をおとしめたのだぞ!? かくごはできてるのだろうな!?」
ひぃ、と、小さく、だからこそ現実感と恐怖感に溢れる悲鳴が上がった。
リッペポット君は僕に向き直って言った。
「クレイリア、君も、そんな話がウソだと言うことくらい気付いてくれたまえ。根も葉もない話ということくらいわかるだろう?」
「……根も葉もない話? みんな、そうだって言ってるのに?」
「確かにそのようだね。……だが、しょうこはあるのかい? 私がそんな事をしようとしていたなんてそれを。それこそ、わたしは八公爵家の人間。あくいあるうわさにさらされたことだって多い。言い返させてもらうが、君こそただのうわさに踊らされるだけだぞ?」
白々しい。思いっきりそう吐きかけてやりたかった。けど、そう言われてしまえば確かに客観的な証拠は、同級生の行動以外何も無い。それどころか、実際に目の前にリッペポット君がいるのなら、さっきの証言を撤回する者も確実に現れるだろう。これじゃあ、本当のことを訊くどころか、今この場でその話を断定するなんてことは無理だ。
だが、かと言って「ああ本当だごめんね」と言う気は起きない。当たり前だ。先程までのクラスメイトの口は、そして目は、それが事実だと言っていたのだ。
苦々しく下唇を噛む。どうすりゃ、それを証明できる? 証明できなきゃ、結局貴族だなんだかんだ言われてこの場は有耶無耶になってしまう。
冷静になれ、なんて自分では思ってたけど、そんなの勇み足だったってことか? 感情的になって、そんな単純なことも忘れてしまっていたのか? 地団駄でも歯軋りでも、それが許される状況なら何だってしただろう、そんな無力感がする。
神なんてものが居るんなら、救世主か何かをお願いしたいところだった。信仰なんて、おみくじの内容が当たった時くらいしか持ち合わせないという意味で完全な日本人だった僕が、そんな事を思うのは筋違いかもしれなかった。けど、思わずそう祈ってしまう。
現実逃避だとはわかっている。でも、今この場ではそれ以外に出来ることもない。かと言って、引き下がれば現状はもっと悪くなる。二進も三進もいかなかった。こんな時、天才なんて馬鹿馬鹿しい評価を受けた脳髄が煩わしい。こんな、こんな状況を打開する考えも思いつかないなんて。
そしてまた、僕の脳みそは、さっきの願いが叶うなんて、微塵にも考えつかなかった。
「根も葉もねぇのはあなたの方ですぜ、リッペポット様」
見知った、どころの話じゃない。多分、友人の中では一番親しい声がした。
侠客のような口調を発しながら廊下から現れたのは、レンスキーだった。心なしか、息が上がっている。
どうして、レンスキーがここに……? それに、根も葉もないのは貴方の方? 一体どういう……。
「レンスキー? 何で……」
僕の疑問は、反射的に声帯を震わせていた。しかし、その答えは、これまた僕の想像の範疇を越えたところから返ってくる。
「調べてたんだよ、おれたち。おまえから聞いた『うわさ』なんて、聞いたことも無かったから」
レンスキーの後ろから現れたのは、リウだった。何やら、縄のような物を手にしている。
「それで、いろいろと人に訊いて回ったり。だが、もっと時間がかかるって思ってたら」
ぐい、とリウが縄を引くと――ぐるぐると縄で巻かれた、上級生らしい人が苦々しげに表情を歪めながら出てきた。僕が、一度だけ見たことのある人間で、この事態に関わりもある人間だった。彼は――。
「お、おまえ!」
リッペポット君が悲鳴じみた声を挙げた。彼は、何時ぞやのリッペポット君の『友人』だったのだ。
「こんなのが突っかかってきてさ」
「返りうちにして、とっちめたら、すぐにリッペポット様におれたちのちょうさをジャマするように言われたってはくじょうしやがって。ついでに、今までコソコソとおれたちにつきまとって、おまえにうわさなんてねぇことを知らせねぇようにしてたのも、リッペポット様の差し金だってもな!」
「で、でたらめだ!」
リッペポット君が叫んだ。
「おま、お前ら! たかだか下級貴族と平民のくせして、この私にたてつくのか!? 不敬罪だ! クレイリア、こんな卑しい身分のヤツらの話なんかしんじるなよ、大貴族の私の方が、はるかに信じられるだろう!?」
殆んど半狂乱だった。もう、自分が犯人ですと暴露しているようなものである。論理をさておいて、身分ですべてを解決しようというところから、それがありありと分かった。
そして、その最後の抵抗も。
「……じゃあ、リッペポット君より身分の高い僕の話なら、もっと信じてくれるよね? クレイリア」
無表情でリッペポットを睨みつけながら言う、ルイの言葉に粉砕された。
「ルイ、なんで」
どうして、ルイがこの場にいる? 急転直下の事態で混乱する頭に、最後の一撃が撃ち込まれたような気がしてくる。少なくとも、ルイが僕を助けるような理由はないし、レンスキーかリウ辺りがルイにお願いできるはずもない。
そんな僕に答えたのは、レンスキーだった。
「……じつは、このこと調べようって呼びかけてくださったのは、フルマーニ様だからだよ」
「……え? でも、なんでルイが」
痛快活劇の終わり際でも見ているような心地で呟くと、レンスキーは鼻で笑った。
「だーかーら! おまえはバカなんだっての」
「な!?」
「自分が周りにどういう風に思われてるのかくらい、気付けよ、少しは」
いきなりのバカ呼ばわりの後に、そんなことを言われる。どういう意味だよ、と重ねて口に出すが、レンスキーは無言のまま前のほうを顎で示した。
「フルマーニ……様。いったいどういう……」
リッペポット君は公爵家の次男。対してルイは嫡男。身分は、殆ど変わらないとはいえルイの方が若干上だ。
ルイは、御老公と呼びたくなるような強い語気で、止めを差した。
「なんなら、皇女殿下にこの事伝えた方がいい? 僕たちなんかよりもっと身分高いし。きっと君もなっとくすると思うけど」
一瞬だけ、教室は静まり返る。やがて、リッペポット君は項垂れて、万策尽来たように身体から力を抜くと、近くの椅子によろけるように座り込んだ。苦々しくしながらも、疲れたように笑みを浮かべている。
僕は、そのすぐ前に立った。顔を上げたリッペポットくんの視線と、僕のそれとが交錯する。
理由を訊く。ただそれだけしか頭になかった。とにかく、何でリッペポット君がこんなことをしたのか、知りたかった。嫌がらせにしては質が悪すぎるし、一体何を考えてこんなことをしようと思い至ったのか。
「なんで」
「……こんなことをしたかって? クレイリア」
理由を聞こうと声を掛けると、リッペポット君は吐き捨てるように応えた。その口調からは、さっきまでの気障ったらしさとかは感じることが出来ない。彼は再び顔を伏せると、今度は憎悪をむき出しにした顔で、小さく呟いた。
「………が…る」
「え?」
声が小さく、聞き取れなかったからもう一度言うように促すと、リッペポットくんは顔を上げ……僕は息を呑んだ。
そこには、憎悪以外のどんな感情も見いだせなかった。
「お前に何が解る!」
思わず、一歩下がってしまった。冷たい汗が背中を伝ったのは、リッペポットくんの威勢がいいとか、そんな小さな原因じゃ決してなかった。
彼の表情からは、どんな時――先程でさえも最後まで失われていなかった貴族らしさって奴が、完全に消滅していた。
おかしい、そう思った。確かに、僕は彼がマフィータに取り入るか、それかクラスの他の者達より優位に立ちたいと思っていると考えていた。そして、僕は――正確には僕の頼るべき友人たちは、それを打ち砕いた。
だけど。
だったら、何で彼は僕に対してだけ憎悪を爆発させるんだ? いや、そもそも何で僕は脅さなかった? 何で嘘を吐いたんだ?
思考が混沌とし始める僕を他所に、リッペポットくんは捲し立てるように続けた。
「……おまえはわかってない、わかってないんだ。おまえは、皇女殿下と親しかった。親しかったんだぞ? 名前をよんで良いほどに親しかったんだぞ? ぶれいをはたらいても、何も無かったかのように許されるくらい親しかったんだぞ? それがどれほどのめいよか、わからないよなぁ、わかるはずも無いだろうなぁ」
教室内の空気は一層冷たくなった。そして、僕の思考も停まった。
リッペポット君は、いよいよ狂ったような笑みを顔に張り付かせる。
「馬鹿馬鹿しいにもほどがある! わたしが、この八公爵家の一つ、リッペポット家のわたしが! それでもぜったいに受けることのできないめいよを、おまえは! おまえは!」
どん、と床を殴る音が聞こえた。
「しかも、それをおまえはあたりまえみたいに受け取っていた! くやしかった! うらやましかった! にくたらしかった!」
ぜぇ、はぁと荒い呼吸音が響く。リッペポット君は、泣きながら笑っていた。
「だから! だから、わたしはわたしに向けられてとうぜんのめいよをもらおうとしただけだ! 他の卑しい身分の者たちではなく、わたしがめいよを受けるために! そのために、おどしもした、ウソもついた! だが、わたしは悪くない! こんな、こんなやつではなく、あのめいよは、わたしのような者のためにあるのだ! だから、わたしはあるべきようにしたかっただけなのだ!」
……そういう事だったのか。僕の頭の冷静な部分が、冷酷に納得した。つまり、リッペポット君にあったのは、貴族としての栄達でも、力関係がどうこうという計算でも何でもなかったのだ。
リッペポット君は、単に、自分の常識によれば信じがたい現状が耐えきれなかっただけなのだ。
脅しという行為も、嘘も、ただ単にそこにあったから使ってしまっただけだったのだ。
確かに、愚かな選択だったのかも知れない。浅はかな考えなのかも知れない。けど、考えてみて欲しい。いくら大貴族の息子で、いくら地位や身分が高くても、リッペポット君はまだ六歳の、少年ということもはばかられるような子供なのだ。
何かのトリガーが引かれて、なし崩し的に暴走が始まる。この位の歳なら、まだまだ多い現象に、たまたま近くに地位と身分があった。だから使ってしまった。あたかも、子どもが喧嘩の際、その辺りに落ちていた積み木を投げつけてしまうように。何ということはない、子供の喧嘩が、周囲の要因によって歪んでしまっただけだったのだ。
そして、リッペポット君に最後の一押しをしてしまったのは……。
「リッペポット君」
ルイが、思い切り醒めた口調でリッペポット君を見つめた。普段はあれだけ温和な彼だ。それがここまで怒っていると言うことは、相当のことなんだろう。
とてもありがたかった。年上ぶっていたのは、もしかしたら僕の方かも知れない。転生の知識とか、そんなもの微塵も関係ない事柄に対して、僕がどんなに杜撰に扱ってきたのかがありありと分かる現状だった。
だから。だからこそ。
「……いいんだ、ルイ」
「クレイリア、でも」
ルイを抑えた。確かに噂は無かったけど、結局、この世界の価値観からしてみれば、僕が異端なのだ。だから、リッペポット君もここまで追い詰められた。そして僕は、それを解ることのできるだけの精神年齢を持ちながら、解ることが出来なかった。いや、解ろうとしなかった。
方策なら、いくらでもあったはずだ。それこそ、幾らでも。例えば、マフィータと関わるにせよ、そうしたらそうしたでもっと他の連中とも関わっておけば、こんなことにはならなかったのかも知れない。
なるほどリッペポット君の行動は、幼児的な感情に貴族的精神が混ざりこんだ、手に負えない物だったのかも知れない。でも、そこまで追い込んだのは、僕だ。
いや、そんな事を考え出したらキリがなかった。もっとクラスのみんなと満遍なく仲良くなっていれば、そんな噂が無いことくらい素直に聞き出せていたかも知れない。それどころか、リッペポット君がみんなを脅し始めた段階で、そのことすら知ることが出来ていたかも知れない。
噂も、何も関係ない。単に、僕の無能さがこれを招いた。リッペポット君のせいじゃ無い。これは、僕の責任なのだ。
「いい子ぶるつもりか?」
リッペポット君の問に、無言で首を振った。僕が追い込んだ少年は、尚も何か言いたそうにしていたけど、レンスキーとリウに一睨みされて口ごもった。ルイは、若干不承不承と言った表情をしながらも、まとめ役としての役割は忘れてはいないようだった。
「……ともかく、クレイリア。『うわさ』がどうのって話は、これで解決だよ。ごかいだったんだよ。だから、皇女殿下と仲直りを――」
物事。
森羅万象が織り成すそれは、時として人知の及ばない状況を創り上げてしまうこともある。
……格好つけて言ったが、つまり想像できない状況なんて、いつでも起こるってことだ。
ルイの言葉がいきなり途切れた。そして、徐々に冷え切っていた空気がピシッと音をたてて固まった。誰しもが凍りつく。
嫌な予感がした。これまでの人生で一番嫌な予感がした。僕もルイの視線を辿り、そして固まった。視線の先には……。
「お、皇女殿下………」
リッペポット君が、顔面を蒼白どころか土色にして、泣きそうな声で言った。
誰あろう、マフィータ・ダン・リージョナリアが、呆然として、そこに立っていた。
終劇には、まだ早いらしい。
あとがき
『なんとか、前回よりは遥かに素早いペースで書く事に成功しました!』
………。
『ここまで来たら、一気呵成に書き上げちゃいたいと思います』
………。
『八月中には切りの良いとこまで投稿したいと思っていますので、期待しないで待ってて下さい』
………。
来年受験だ!遊ぼうぜ!
↓
積んでたゲームに、動画もたんまりと、あと読書もしよう
↓
つ『宿題』
↓
あー、やっぱ宿題は貯めるとダルいな。……え、小説を、八月中に、キリのいいところまであげる……だと……? ←今ここ
………。
……どうしてこうなった。
どうも、迫り来る圧倒的物量に対処したものの、圧倒的な飽和攻撃によって疲弊した作者です。より一般的な言葉で言えば、夏休み最後のあれを性懲りも無くやらかした作者です。いや、期日までには出せましたが。
そんなわけで、八月中にキリいいところまであげる、と抜かしておきながら、前後編です。全然キリよくないです。本当に申し訳ありません。一応、書き上げるのに苦労したというのもありますが、七割は上記の理由です。HOI3とCiv4と銀英伝4EXに徒党を組んで攻め込まれると、理性によって維持される戦線は容易に崩壊するという戦訓を得ました。
じゃあその経験を次回に活かして? そろそろ本格的な勉強シーズンSA! まだ第一章すら終りが見えないけどね! ……はぁ。
ともかく、コメント返しです。
>>華氏
気分を害すなんてとんでもない! むしろ、この作品の問題点を再確認できて本当に感謝してます。
なまじ、時系列を絶対視しすぎて、世界観というか視野を飛ばしすぎてしまいました。
ただ、第十一話で問題を一通り整理させてから入れる世界情勢関連を外伝にというのは、今のところは考えていません。というのも、作者は『外伝』と題打った話は見ないという傾向がありまして、そうすると後々地味に重要になってくる世界情勢関連を読み飛ばされると、いきなり知っている前提で話を進めてしまうだろうからです。
尤も、本編と同等扱いと言っても、そこで纏めてあげた後は第一章中にその話は出てきませんので、それなら本編のぶつ切り感は抑えられるかなと考えています。
あるふ氏
これは、本当に申し訳ありません。
作者の環境だと、ちょうど中央に配置されるようになっているのですが、うっかり他の人の環境を考えるのを忘れていました。
今回はそんな手直しをしない形で投稿しましたが、そっちの方がいいですかね? そうであれば、前の改行が見辛かった時と同じように処置を施したいと思います。
そんなわけで、キリのいいところまであげれずに本当に申し訳ありませんでした。
次回こそは、と使うとまた裏切りそうなので期間は指定しませんが、なるべく早く更新したいと思っています。
どんなに更新が遅れても、放置だけはないようにしますので、どうぞ見捨てないでやっていただければ嬉しいです。