四月三日 セント・アルマーダギー学園 初等部一年特別学級
「……暑い……」
帝国暦618年の四月は、そんな一言で要約できるほどのインパクトを持っていた。何と言うか、本当に、暑い。
四月といえば、日本では桜が満開を迎え、花見に精を出している時期だけれど、もちろんこの異世界ではそんな事はない。と言うか、こっちに来てから桜に類する植物を見たことすら無い。
この妙にずれた暦で四月は、日本でいう七月のような気候を持った月だった。但し、日本の七月と似ているのはあくまで本格的な夏の訪れが来る月だと言うことだけで、ここの夏はスコールでびしょ濡れになったと思えば、照りつけるような暑さで活動する気を消失させられるような気候だ。
それにしても、今年の暑さは酷すぎた。まぁ、百歩譲ってスコールだのなんだのは六年間の生活で慣れたから別にいいだろう。もういつものことってレベルだ。
だけど、にしたってなんだよこの尋常じゃない暑さは! もう、暑いってか熱いって段階だぞ!?
机にベッタリと張り付いたまま、僕は何とか首を動かして辺りを伺ってみる。授業間の五分間だけの休憩、所謂五分休憩の時間は、最近漸く完全に打ち解けてきたクラスメイト達にとっては、何時もなら節度ある私語に満ちたものであるはずだった。
ところが、教室の様子は想像からは遥かに離れたところを行っていた。恐らく、どんなに微量でもいいから冷たさを求めて壁やら机に張り付いている連中で埋まっている。まさに、死屍累々と言う言葉が相応しい惨状だった。とてもあの中に上級の貴族が複数人紛れ込んでいるとは思えない。親や教師に見つかれば、まず叱責ものの状況だ。まぁ、こんな惨状でも何時ものようにマフィータを中心とした某アルファベット一番と二十番で構成さ
れる防御フィールドが機能しているのはある意味感心するけど。
ちなみに、その件のお姫様はと言えば、そこはプライドとか色々な問題があるらしく、流石に屍の仲間入りはしていなかった。ついでに述べておくと、この教室で数少ない生者の内の一人は、無駄に元気なレンスキーだったりする。
「……暑い……」
なんだか先ほどと全く変わらない台詞のような気がするが、気にしたら負けだ。と言うか、本当に暑いと言う単語が辛うじて口から出てくるか、そうじゃなければしゃべろうなんて気力はまず湧いてこない。それほど酷い暑さだった、挙句、さっきスコールが降ったせいで蒸し暑いったらありゃしない。
ところでこの蒸し暑さ、実は帝都の気候だけが問題じゃない。今までの暑さなら、今まで五回ここでの夏を迎えてるんだから慣れてるはずだ。
じゃあ、何がいけないのかといえば、初等部が立ってる立地だ。この決して豪華でもない代わりに住みづらくも無い石造りの学び舎は、事も有ろうに学園が存在している<アルマーダギー>島の中央部に位置しているのだ。
ついでに付け加えておくと、周辺にある寮や、初等部などより遥かに面積をとる大学部とそれにくっつく各種研究機関が周りを囲んでいたりもする。つまり、早い話が風通しがかなり悪いのだ。
今思い返せば、<デニム>島のあの家のあの部屋は、この世界の中産階級としては勿体無いくらいの快適な物件だったみたいだ。あの注ぎ込む爽やかな陽の光、潮気をたっぷりと含んだ夏の浜風。
………。すんません。現実逃避でした。
「……暑い……」
とにかく途方もなく暑かった。「世界海図」の情報をそっくりそのまま信じていいのならば、辛うじて熱帯と呼ばれる気候帯からは外れているはずの帝都だったが、それでも少なくとも亜熱帯くらいの気候であるはずのここの夏、しかも前述したとおりのお陰さまで実感気温が倍増している今年の夏は、つい六年前までクーラーだのなんだのと言う文明の利器に慣れて生活して来た身にとってはきつすぎる。
暑い、と呟くこととこんな感じで現実逃避することでこの現状を乗り切ろうと思っていたけど、早速リタイアしたくなってきた。本格的に暑くなってからまだ一週間も経って無いんだぞ?
そこまで、もちろん心のなかで喚いた後、僕は脱力した。前髪から額を伝って汗が落ちてくる。慌てて目を閉じるが、一瞬の差で間に合わない。
だが、暑さでだるすぎて目を拭う気力も出な……。
………。
黙って、目を拭った。地味に目に滲みたのだ。別に我慢しようと思えば間違いなく我慢できる痛みなのだが、両手が自由なら一も二もなく拭う程度の痛みというのは、なかなかにいらつく。
そのいらつきに身を委ねて、後頭部の髪を手でワシャワシャとやる――やった瞬間後悔した。そこにも例外なくびっしりとかいていた汗が、手にベッタリと付いたのだ。
ここまで来ると、もはやいらつきだの何だのって感情は何処かに消え去ってしまった。と言うか、そんな感情あった方が人生をどんどん駄目にしていくような気がする。
暑さで頭がおかしくなったのか、だんだん思考が人生論の構築にまで発展してきた僕の頭を醒ましたのは、ふと浮かび上がったなんということも無い好奇心だった。
気怠さを隠そうともせずに横を向けば、きつい蒸し暑さにも関わらず未だマフィータがきちんと背筋を伸ばしたまま存在していた。
本当に、殊勝というか何と言うか。いや、ただの意地っ張りなのか?前世――こう呼ぶのは未だに慣れない――ではもちろん王族だとか貴族だとかの知り合いなんぞ居なかったんだし、そこら辺は全くもってわからないけど。
「……何をジロジロ見ている?」
と、新たな現実逃避の思考は、マフィータの怪訝そうな声と視線で途切れることになった。見つめていたのがばれたらしい。
「ああ、いやね。暑くないのかなとちょっと深刻な疑問が」
流石に帝族相手に伸びたままというのも格好がつかないから、渋々起き上がって答える。一瞬、今まで机と接触していた部位に空気が流れ込んで少しは涼しくなったと錯覚出来たが、直ぐに暑さに取って代わられた。
「確かに暑いが、人のいる前でだらしない事をするなと父上と母上に昔から言われているからな。仮にも帝族なのだからと」
マフィータはそう言うと周囲を見渡した。反射的に、学級の四分の三近い人間が体を起こす。さもありなん、優秀と認められれば誰でも入ることができるとは言え、結局比率的には貴族の系譜に連なる物がかなりの数に上ってしまう。具体的には、このクラスだと半分がダンの称号持ち、つまり貴族だ。それも比較的大きな。
それが、仮にも帝国皇帝の椅子に着く可能性のある少女の前で粗相は出来ないのだろう。と言うか、帝族云々を無しにしても、もしだれているのが教師から親に伝わりでもすれば、なんて恐怖心の方が強いのかも知れない。
そんな訳で起き上がったのが四分の三だ。そう、四分の三。では、残りの四分の一はどうしているのかといえば、そんな事関係ないとばかりに机にへばりつき続けている。
……あの中には確か、貴族も居たはずなんだけどなぁ。あれは、よほどの大物なのか、それともただの馬鹿なのか。ここに居るってことは後者じゃないはずなんだけど。
そういえば、貴族といえば、あそこでむしろマフィータが辺りを絶対零度の視線で持って見回してから冷や汗が増えたように思えるレンスキーは、どうして猫耳が無いんだろうかね。男には猫耳が無いわけじゃなく、他の貴族の中には男で猫耳って言う今はいいけど中年のおっさんになったらどう反応していいか分からないのもいるし。
「だいたい、そこまできつすぎる暑さでも無いだろう。帝都育ちなら、別にだれる必要もないと思うぞ」
何時の間にかかなり脱線していた思考を呼び戻したのは、皇女殿下の「私には理解できない」的口調で発せられたその言葉だった。
「いや、マフィータ?」
「なんだ」
「その、汗ダラダラ掻いてそれは説得力とかが全くないんですが……」
確かに、マフィータは平気そうな表情と態度でずっと座っていた。但し、全身には隠せるものではない汗を掻いているけど。
「………そんな事はない」
「いやいやいやいや」
理解した。さっきは殊勝とか言ったけど、これ絶対強がりだ。
長い間に秘められていたらしい何かを、しかし確実に実感した僕は、人知れず心のなかで頷いた、つもりだった。
「なに?」
「……………………いえ」
――どうでもいいことだけど、考えが行動に出るって言うのは損なんだと改めて痛感しました。と言うか、何やらデジャブを感じるんだけど。
マフィータのこの空気中に存在するどの物質よりも重い視線を途切れさせたのは、涼しげな顔で教室に入ってきたグナンゼウ先生だった。入ってきた瞬間予鈴が鳴る。
どうして、あんなに涼し気なんだろうか。マフィータから視線を教卓へと移しながら少し疑問に思った。体毛のため、僕たちよりよほど暑いだろうに。そこまで考えて、気付いた。何だ、獣族辺境域は帝都とは違って完全に熱帯地域じゃないか。暑さに慣れていて当然だ。
「きりつ、れい」
今日の日直の号令で、僕にとっては昔懐かしかった、しかし今となってはすっかり日常に組み込まれた動作を行う。但し、暑さの為全員に何時もの切れがない。唯一、マフィータだけが帝位継承権保持者としての意地かいつも通り、この歳にしては不釣合なくらいの礼をしていたけど。
他の先生だったら叱責物な行動だったけど、幸いにしてグナンゼウ先生はそういった所に厳しくない。一見凶暴そうな肉食獣にしか見えない口元に苦笑いを浮かべただけで、授業に入った。
「んじゃ、今日は教科書の22ページ、『古代リージョナ族の暮らし方』からだ。――んじゃリッペポット、読んでくれ」
「はい」
指名されて立ったのは、クルツ・ベーリング・ダン・リッペポット――帝国でも名高い八公爵家の内の一つ、リッペポット家の次男だった。
何処で覚えたのか、この歳にして恐ろしく気障な仕草で起立した彼は、呆れたような視線で見つめるグナンゼウ先生に気付いた様子もなく、教科書を読み始めた。それと同時に、僕も手元に視線を落として文字を追い始める。
「『ていこくれきよりもずっと前、リージョナ族のせんぞの人たちは、森で狩りをしたり、海で魚をとったりしてせいかつしていました。かつての<リージョナリア>島は、今よりももっと大きく動物がたくさんいた森と、今もかわらないきれいで生き物にあふれる海を持っていましたから、畑でやさいやいもなどを育てたりはしていませんでした』……」
大学部史学科の研究家達が、幾分かの報酬上乗せと引き換えに毎年最新の研究結果を考証した上で完成する歴史教科書を、初等部向けに編集したそれの文字の羅列を見て暑さを紛らわしながら、僕はちらちらと視線をリッペポット君に向けた。
堂々と声を張り上げ、まるで冒険活劇を朗読しているかの口調で教科書を読み進めて行く彼は、日本人一般が「お坊ちゃん」だの「貴族の子供」だのと言う単語で想像する像のまさしく平均の姿だった。
他の同級生や、時として学園の職員にさえも尊大な態度で接することが多い彼だったが、仕方が無いといえば仕方が無い事ではあった。何せ、彼の家はあのリッペポット公爵家。並の貴族とは訳が違うのだ。
帝国の貴族制は、原則として貴族の国政関与を禁止している。まぁ、有用な人材の登用って観点から跡継ぎ以外は官僚として中央官庁で働けるけど、その場合生家との関係は消滅するから、貴族として国政に参加することはやっぱり不可能だ。
その厳格な貴族制の中で、唯一帝位継承と言う、帝政国家にとって最重要な問題に口を挟めるのが、リッペポット公爵家もその名を連ねる八選帝公爵家だった。
詳しい制度の説明は後に譲るけど、ともかく、八公爵家は帝国貴族制の頂点の存在で、必然的に他の諸侯より重要で――富んだ土地を任されることが多い。
幾ら、法で警備戦力以外の兵力の所持が禁じられているとは言え、その地位は絶対的に高い。
そんな環境が完全に人格に影響されてしまったらしいリッペポット君は、長ったらしく歴史の教科書を読み終えると、どうだと言わんばかりの顔つきになった。何と言うか、一仕事終えての達成感に似たものが顔に出ている。
「あ~、音読ご苦労様。座っていいぞ」
努めてリッペポット君の態度やら何やらを無視するように、先生はそう言って着席を促した。
リッペポット君が最後まで存在な態度を崩さずに座るのを見届けた先生は、教卓から教師用の教科書を手にとると、チョークで『帝国成立より前のリージョナ族の暮らし』と少し大きめな文字で書いた。
「え~、リッペポットが読んでくれたところに書いてあった通り、大昔のリージョナ族は主に狩りをしたり、漁をしたりして食べ物を確保していた。これは、教科書の通り、昔の<リージョナリア>島には動物や魚がたくさんいたからだったが、もう一つ大きな理由としてそこら中に木が生えていた<リージョナリア>島では、農業をするのがかなり面倒くさかったと言う事もある。で、それがよく分かる遺跡って言うのが、今も帝国がきちんと保管している『貝塚』って物だ。これは、昔のリージョナ族のゴミ捨て場だったって言われていて……」
正直、僕にとっては四五歳の頃に読んだ無名学者の文化史の劣化復習で、殆んど聞くべき内容も無い話が長々と続く。それでも自然と聞き耳を立ててしまうのはやっぱり歴史が好きだからだろう。これが惚れた弱みってやつなのか? と一瞬なんだかよく分からない思考が頭を巡った。
馬鹿な事を考えていたと自覚すると、途端に暑さが蘇ってきた。これは、意地でも授業に集中しないと暑さで気が狂うかも知れない。
「――と言うわけで、『貝塚』なんて呼ばれている。で、今リージョナ族は船を操るのがとてつもなく上手いなんて言われているが、大昔のリージョナ族が船に乗り始めたのもこの頃だって言われてるな。これは、『丸木舟』と呼ばれるもので、簡単に言うとでかい木を切り倒して、その中を刳り抜いた船だ。この小さい船でようやく沖に出始めたリージョナ族は……」
「せんせい」
僕が身体中の感覚器官から感覚神経を通して大脳に送られてくる『暑い』と言う感覚を必死に無視している間にも、先生は流れるように授業を続けていたのだが、唐突にそれが遮られる。
クラスのほぼ全員が声のした方を向くと、大人しそうな少年が控えめに手を挙げていた。名前は忘れたけど、確か彼も八公爵家の一つであるフルマーニ公爵家の子供だったはずだ。隣が皇女殿下と言うこともあってついついスルーしてきたけど、特別学級はかなり身分の高い連中が存在している。
クラス中の視線を一身に浴びる形となったフルマーニ君は、おずおずと言う表現がよく似合う仕草で質問した。
「あの、せんせいはその時はじめてリージョナ族がふねで海に出たっておっしゃいましたけど、ぼくはむかし、リージョナ族はとおい海から船によってやって来たって教わったんですけど」
彼は、同じ八公爵家のリッペポット君と違って、尊大さとか威厳とかを全く感じることの出来ない口調で質問した。若干六歳の子供が『昔教わった』等と言うのはものすごく違和感があるけど、貴族なら三四歳の頃から家庭教師が付くなんて言うのは当たり前だから別に気にするまででもない。
「ん、ああ」
興が乗ってきたところを中断させられた所為か、一瞬だけ不機嫌そうな表情が出たグナンゼウ先生だったが、すぐに押し隠す。
「それは、建国神話だな。確か、『四海の彼方より、偉大なるマキたちのお導きに従って、我らの先祖は、見窄らしい小舟を勇気と希望で満たして島に至ったのです』だったか」
「はい」
『建国神話』と呼ばれる人族帝国の建国譚の一節をすらすらと暗唱してのけた歴史教師と、適当にではなくそれが正しいと認識した上で肯定する生徒。初等部一年生と言われて想像する何かをぶち壊すようなやり取りだった。
その指摘に、一部生徒の間では、特別学級どころか全ての初等部であってはならないはずの私語が生じる。殆んど、日頃からグナンゼウ先生を好いていない奴らだった。おそらく、彼らの不満を拡声器か何かで拾えば、「そうだ、訂正しろ蛮族!」とでもなるんだろうか。
しかし、自分にとって面倒くさいことは、それが授業内容以外なら全てスルーするのがこの先生だった。と言うわけで今回も例に漏れず、外界の情報を全てシャットアウトして考えを纏めていたのか、ほんの数秒黙った先生は、いきなり口元に微笑を浮かべると質問に答えた。
「昔はそう言われていたんだが、最近大学のえらーい先生方の間で考え方が変わってな。いろんな遺跡の壁画――壁にかかれた絵に船みたいな物が出てくるのもその頃だからな」
「でも、『建国神話』だと……」
「あれはあくまでも神話だ。歴史じゃない。だいたい、あれが書かれたのは帝国建国からだいぶ経った後だから、正確かどうかは判らんしな」
先生の言うとおりだった。『建国神話』は編纂目的がリージョナ族支配の正当化で、彼らは神の化身云々の文章で綴られた物だ。叙事詩と違って、散文調なのも特徴だ。まぁ、あまりにくどい部分を除けば、読み物としては結構面白い。
でも、神話はやはり神話だった。
「ともかく」
先生は、両手をパンパンと叩いて、説明を聞いてなおも食って掛かる気満々に見えるフルマーニ君を制した。
「歴史は神話とは違う。つーワケで、試験の答えで私が教えた以外の答えを書くんじゃないぞ。間違いだと認定するからな」
途端、今度はとうとう不満の声が上がった。当然と言えば当然だ。自分たちが蔑視している連中から、自分たちが子供の頃から慣れ親しんできた物語を否定されれば、誰だってそんな状態になる。
「ほれ、五月蝿いぞ。ことテストに関しては、私が規則だ。だから、私に従え。いいな?」
先生は大真面目な顔で言った。まぁ、正論ではあるけど何と言うか理不尽な言い方だったが、それでも渋々と言った様子で不満の声は消え去る。
先生は、満足げに頷いた。
「うし、それじゃあ、次のところを――」
「あー、生き返る……」
黙々と、僕と同じメニューを食べ続けるマフィータを目前に、思わず僕はそう呟いていた。同時に、窓際の纏められたカーテンが若干ながら、確かに動いた。風が吹き込んだのだ。
さっきの歴史の授業は四時間目だったから、それさえ終われば皆楽しい昼休み。と言うわけで、暑い暑いと死にそうな目にあっていた僕たちは、ようやく清涼な食堂へとたどり着くことが出来たのだった。
まぁ、食堂も食堂で、涼しいなんて口が裂けても言えないような暑さだけど、それでも初等部校舎よりは遥かにましだ。
おまけに、今日は更に素晴らしい救済が僕たちを待ち受けていた。今、僕とマフィータが必死になってかっ込んでいる物、冷やしたスープだった。
そこ、なんだそんな物かなんて思うんじゃない。こっちの世界じゃ、井戸から組み上げたり、雨水蓄えたりした水ばかりだから冷たいと言うより温いんだ。それに比べて、この冷たいスープはここでは最高級品の内の一つに数えられる氷を使って冷やされてるから、この感動はもう筆舌に尽くし難い。
そんな訳で。僕はそれをありがたーく、ちびちびとスプーンで掬っては口に運んでと繰り返す。うーん、冷たい。
冷たさと言う、実は何よりも得ることが難しい物の重要性について改めて確認していると、目の前でカチャンと言う金属と陶器の触れ合う音がした。マフィータが、無造作にスプーンを皿の上へと置いたのだ。おーい、確か帝国のテーブルマナーでは食器で音を出すのはタブーなんじゃなかったっけ?
そのまま無言で立ち上がり、マフィータは食堂の厨房側へと歩いていった。その先には、職員たちが向かい側に立っている棚があり、食事を摂るときはそこから各種ランチをもらってくるのだが、どうしてマフィータはそんなところに行こうとしているんだろう。食器を片付けるにしたって、そもそもまだ食べ終わってないようだし。第一、食器を片付ける棚は真向かいだ。
ほんの一瞬だけ悩み、ああ、と気付いた。恐る恐る声をかけてみる。
「……あの、マフィータ?」
「何だ?」
「それ、お代わりは出来ないと思うよ?」
冷やしスープ(正式名称? ナニソレ美味しいの?)は、今日の目玉メニューだ。特別に全てのランチにくっついてくる代わりに、数は限られている。具体的に言うと、一人一杯。
僕とマフィータの間に、寒風が吹き抜けたような気がした。これが本当の寒風だったら涼しくて良かったのに、と思う。残念なことに、その風は火照った身体を冷やすどころか、むしろ冷や汗を出させやがったけど。
しばしの無言。そして、マフィータは若干頬を赤らめて席につき、一心不乱に食べかけのアンプに齧り付いた。図星だったらしい。
何ともいたたまれなかったが、がっついて一気に全部飲んじゃったから引き起こされた事態。自業自得ってやつだ。気を取り直して僕はスープを再び掬った。うー、ちべたい。
感動的な冷気との対面に、今日何度目かの感謝を捧げたところで、ふと前方からこちらもかなり冷たい視線が照射されていることに気付いた。犯人は……。
「あげないよ」
「………」
言わずもがなマフィータだった。
「お前、もう少し帝族にたいして敬意をはらうべきじゃないのか?」
もはや、帝族の意地とかどうでも良くなったらしい。初めて見るかも知れない子供っぽさで、屁理屈をこねてきた。
さて、僕はどう行動すべきだろう。日本でなら、是非もなく全部あげていたはずだ。それだけは間違いない。
ただ、ここは異世界だった。この至高の一品を、誰であろうと明け渡す気にはなれない。
「学園は皆平等、って言わなかったっけ?」
「勉強の時はな。今は食事だ。だから、そのパスサ(訳:スープ)を」
「じゃあ、敬意を払わさせてもらうよ。ああ、帝族ともあろうお方が、こんな下賎の物の残り物に手を付けようだなんて! ならば、この私奴が殿下のお目を惑わす憎きパスサをば平らげ、以て安寧を差し上げましょうぞ!」
「……お前なんか嫌いだ」
こんな時だけ頭が回る。回りくどく少女の希望を絶ち切ってやった僕は、満足げにスープを飲んだ。大人気ない? テラ外道? 五月蝿い。なんなら、その言葉を夏の沖縄辺りで冷えた水もアイスも何もとらずに一ヶ月暮らした後にほざいてみやがれ。
なんだか一瞬キャラが変わったような気がしたが、ともかく、今の僕にこの清涼剤を手放す余裕なんか存在しない。
さて、最後にぼそっとつぶやいた後、絶望したのかマフィータは思いっきり机に突っ伏していた。……大人気なくないったら無いんだ。心が痛むと言う点については全然同意するけど。
と、いきなりマフィータ顔を上げた。何やら思いつめた表情を浮かべている。
「…マ、マフィータ?」
「……すまん、クレイリア」
言うなり、マフィータは僕のスープに掴みかかった。
「ちょっ! おまっ!」
「離せ! 後生だ! 私にそれを食べさせろ!」
「んな無茶苦茶な!」
傍から見れば、一方が帝族などと考えるような奴は、即刻アホの子として認定されそうな勢いで僕とマフィータの死闘(笑)は続く。食堂のおばちゃんから、
「アンタ達! 静かになさい! それでも学園の生徒ですか!?」
と叱責されてスープを取り上げられるまで。
「……恨むよ?」
「自業自得だ」
帝国皇女は、全てが済んだ後澄ました顔でそう仰った。
「……暑い……」
「………自業自得だと思うぞ?」
つい一時間ほど前に聞いた覚えのある台詞だった。それを言うなら僕の発言もだけど、本気で暑いんだから仕方がない。時刻は現在午後二時過ぎ。照りつける陽の光はいよいよもってギラつき、お陰さまで再び暑さが舞い戻ってきた。
「と言うか、ひじょうしきなだけか」
妙に納得した表情でレンスキーが頷く。既に、帰りのHRが終了して大半の生徒が帰り支度を整え、寮に戻りつつあった。
先程とは違い、今回は僕ばかりが暑かった。他の連中は、皆楽しく冷やしスープを楽しんでいたのに、僕とマフィータは最後の最後で喧嘩したために無駄に暑くなってしまい、おまけに僕は半分程度しかスープを飲んでいない。
お陰さまで、清涼感に溢れているレンスキーに比べて、僕は暑さを隠すことさえできていなかった。ひたすらに暑い。
「……非常識とは何だ、非常識とは」
「帝族にけんか売っといて、そういうたいどが取れるって言うのはすごいことなのかな?」
流石に非常識という単語にはムッとしたから、気力を振り絞って抗議すれば、自分の首を締めるだけに終わってしまう。本気で疑問に思っているようにしか見えないレンスキーを見て更にげんなりした。
「まぁ、何とかしようと思わずあきらめた方がいいぜ?」
「……私の暑さもしょちなしか」
ちなみに、マフィータも暑すぎる所為か、冷やしスープが恋しいからか、午前までの誇りある態度を忘れたかのようにだらけた状態で机に突っ伏していた。更に補足すると、その為、レンスキーはマフィータの存在が頭から抜け落ちていたらしく、無警戒なまま今までにないくらいマフィータに接近していた。
自然、レンスキーの行動は次のようなものになった。一瞬、万引きがバレた小心者の中学生のように身体を跳ねさせ、油を差し忘れた機械のような擬音が最も相応しい動きで声のした方――つまりマフィータの居る方へ首を回した。そして、
「で、でででで殿下!!?」
素っ頓狂な叫び声をあげた。うーん、デジャブ。入学してから四ヶ月ほど経った筈だが、やはり独特の雰囲気を検知してしまうらしい。平等主義の賜物か、単に鈍感なだけか、僕には全く分からない雰囲気だ。できるなら、前者であって欲しいけど。
そんなレンスキーの様子に、突っ伏した状態から顔だけあげるという帝族にあるまじき格好をしたマフィータは、拗ねたような表情を浮かべた。
「何だ、化物でも出たような声を出して」
「いいいいえ、めめ、めっそうもございません!!」
動揺の色を隠せないどころか、筆を使って自ら嬉々として辺りを塗りたくっているような口調でレンスキーは慌てた。見れば、冷や汗が首筋に浮かんでいる。そんな様子を見て、マフィータは諦めたようにため息をついた。
「……部屋に帰る」
「え、ああ。また明日」
「ど、どうちゅうお気を付けください! 殿下!」
教室を出て行く足取りは重く、その背中には暗いオーラが纏わり付く。少なくとも、楽しくなさげなことは確かだ。
僕は、隣で必死になってお辞儀する元凶に訊いた。
「……お前はどうしてそうかたっ苦しく接するかな」
「ちょっと待て! おれがおかしいんじゃない。おまえがおかしいんだ! だいぶ前にも言っただろ? ふつう、帝族とそんなきがるに話すやつなんかいないって」
「……レンスキー、慣れればべつにどうって事ないぞ?」
「だ・か・ら! その感覚がおかしいっていってんだよ!」
実際、慣れとは恐ろしいもので。始めは酷くギクシャクした会話しか続かなかった僕とマフィータは、既に普通の友人くらいの立ち位置に落ち着いている。まぁ、普通の友人が僕しか居ないから特別扱いされているように見えてしまうんだけれども。
ちなみに、僻み・憎悪その他の面倒事は今のところ何も起こっていない。よくよく考えてみれば、そんな事で僕に難癖つけてくれば、即刻マフィータに泣きつかれるとでも思われているのかも知れない。だけど、正直実害さえ無ければ別に影でどう思われていようがどうでも良かった。
もし、そんな事があれば、嫌でも身分の差云々を悟ることになっていたのかも知れないけど、もちろん現実はそうはなっていない。学園の先生方も、流石に初等部一年生の内くらいは友達づきあいにそこまで身分がどうのこうのと言う指導はしないらしい。この先どうなるかは全くわからないけれど。
「第一、みがまえずに話せって言うのがムリだろ!」
「無理なんかじゃないよ。とりあえず、相手は帝族ってのを忘れて話てみれば?」
「………それができりゃ苦労しないよ」
さっきの一件で余程緊張したのか、疲れきった表情でレンスキーは鞄へ授業道具を詰め込み始めた。
「案外簡単だと思うし、大体そのくらいの考えじゃなきゃマフィータと友達になんてなれっこないよ?」
「……べつに。帝族と友人になりたいとも思ってねぇし」
嘘だ。何と言うか、態度の節々から「実はおれ、殿下とお友達(小一の言うお友達だから、野暮ったいことは考えないように)になりたいんです」的オーラがにじみ出てるし。
しかし、それを追求するのはそれこそ野暮な話だ。
僕が押し黙ったのに満足したのか、無言のままレンスキーは寮へと歩き出した。
それを慌てて追いかけながら考える。それにしても、マフィータのあの挙動って、やっぱり殆んどのクラスメイトから避けられてるのを気にしてるんだろうか?
これが、日本なら何とかしようとも思えるんだけど、相手は帝族、しかも皇女だ。もしかして、そんな事毛ほどにも思ってないのかも知れないし。その辺、やっぱり身分だの何だのって言うのには慣れないし、慣れようとも思わない。
小学生ってこんなに気苦労が溜まるもんだったっけ?
僕の切実な思いは、誰にも届くことなく、暑さに制圧された廊下へと溶けていった。
あとがき
と言うわけで日常回でした。
予定では、あと一話ほど日常回を投稿した後、ようやく本編が進んで良く予定です。……ほんと、長かった。まぁ、長くした元凶が何を言うんだという話ですが。
それとですが、見やすさも考慮に入れて、今回の投稿で今までの投稿分も全てこの形に修正しておきました。これでいくらか見やすくなったと思います。
では、今後もこの拙い小説を、よろしくお願いします。ではノシ。