二月八日 セント・アルマーダギー初等部一年特別学級
おおよそ一ヶ月間、この学級で過ごして。生まれとか育ち方とかって言うものは、ここまで人間形成に影響を及ぼすのかと若干驚いている。
僕のもう薄れ始めた記憶の中。転生前後を合わせるともう二十年以上も前になる、小学校一年生の時。進学したてで、友達も少ない始めの頃は例外として、年度も後半になるに従って友人も増え始め、授業間の休憩時間は友達と馬鹿騒ぎしてたのを覚えている。よくもまぁ、無駄に元気だったのと呆れることの多い自分の子供時代の行動、その一端って奴だ。
転生して、人生二度目と言うおそらく前例に無い小学校生活を送る羽目になって、僕が想像していたのはそんな学級であり、子供たちだった。小学校一年生なんだから、はっちゃけているんだろうと。
ところが、現実と言うのは時として想像の斜め上を地で行くことになる。
よくよく考えてみれば、特別学級は余程の天才か、高貴な出でないと入れないような所だった。簡単に言えば、狭き門って奴になるんだろう。
今の今まで気に止めたことも無かってけど、そういえば中産階級以上なら公立学校に通えるとはいえ、この時代に読み書きと掛け算辺りまでの計算問題、あと簡易な歴史・教養問題を六歳に共用するって言うのは余りにも酷だ。
入学してから暫く感じていた、妙に静かすぎると言う疑問が霧が晴れるように解決したのは、ついこの間のこと。
日本の常識で言えば、へたをすると小学校高学年くらい精神年齢+昔から躾られてきた者たちしか集まってきていないのだから、騒ぎあいも何も起こるはずが無かった。授業時間の合間に騒ぐことすら無いのだから、学級崩壊?なにそれ美味しいの?ってレベルだ。日本の教師に見せたら、泣いて喜びそうな情景かも知れない。
さて、そんなこんなで躾の人格形成における重要性を再認識して、こうあるべきだとすっかり思い込んでいた初等部像を木っ端微塵に吹き飛ばされちゃった僕だったけど、今日の特別学級はどこかが違った。
まず、何時もなら滅多に見られない、授業時間が近づいてきているのに続く私語。
次に、これも、滅多に見られない、授業直前の立ち歩き。
「なぁ、クレイリア」
「新しい歴史の先生についてのことなら、もう五度目だぞ」
……ちなみに、その滅多に見られない行動を僕はどちらも現在進行形でしていたりする。相手は妙に興奮しているレンスキー。やはり、なるべくマフィータの近くに行くのは避けたいらしく、僕はレンスキーの席まで出張って話していた。
「良いじゃねぇか。お前だって興味あるだろ?」
「まぁ、否定はしないけど……」
そんな事言うなよ、とばかりにレンスキーがこちらにずいと顔を向けてくる。
反論しつつ若干後ろに下がった僕は、はぁとため息をついた。最近、なんだか無性にため息ばかりつきたくなってくるのはどうしてなんだろう。
それはともかく、レンスキーやクラスメイト――あと不本意ながら僕もだけど――が変な興奮状態にあるのも、まぁ仕方が無いといえば仕方が無い事だとは思う。
僕は、その元凶が入ってくるであろう、教室の教壇側の扉を睨みつけた。まぁ、だからと言って何かが起こるわけではなかった。時間的には、ここに向かってきているはずなんだけど。
この教室中を包んでいる妙な雰囲気。その元凶は、言うまでもなく次の時間の授業を行うことになっている、獣族の新任教師だ。もし、彼がリージョナ族その他の獣人族か、或いはただの人族だったならばこんな事にはなっていなかったのに。
獣族辺境域。一般的には、差別感情を込めて獣族蛮域と呼ばれる地域一帯。
人族帝国やその他列強各国を仮に地球で言うヨーロッパだと仮定すると、獣族辺境域はアフリカやアジア・南アメリカのような物だ。
この世界を構成する知的生命体は、大きく四つ(学者によっては三つと主張する者もいるみたいだけど)。人間・獣人族・龍族、そして獣族だ(件の学者によれば、人間も獣人族に含まれるらしい)。
うち、列強と呼ばれている国の大半は人間か獣人族が立てた国で、唯一龍族評議会連邦だけが龍族単一種族で構成される列強国家と言うことになっている。
つまり何が言いたいのかと言えば、獣族が打ち立てた強国は現在一つも生き残っていないってことだ。どこかの本では、古代四文明のうち一つは獣族辺境域最大の陸地・ンバリア大陸のゴロニア川流域に誕生したとか書いてあったけど、運命のいたずらは四大文明の内、獣族にだけ苦難を強いたかったらしい。
ともかく、獣人族・人間が獣族辺境域を「発見」した時からこの方、獣族は完全に被支配種族としての地位を確立してしまった。
現在、獣族辺境域はリージョナによる人族帝国と人族連合王国によって二分されている。そのうち、新しい先生の出身地だというノメリア自治区は、獣族の中でも猫科肉食獣系の種族が多数居る区域で、であるからこそ人族帝国内で比較的早期に自治区となることの出来た区だった。まぁ、植民地にはかわりないけれども、少なくとも皇帝直轄領とか貴族領になっている他の地域や、人族王国の「文明国化政策」の所為で血生臭い独立闘争の舞台とかしている同胞の土地よりは遥かにましな区域だ。このことは、地域の教育者育成のため、本土への留学が認められていると言う点からも解る。帝国を始めとする諸国は、獣族には愚民化政策を持って当たるべしと言うある種の強迫観念にも似た政策で統治に臨んでいたのだから。
言うまでもなく、一昨日の好意の欠片も無いざわめきや、今の変な空気は、全てそれに起因している。もっと要約してしまえば、偏見ってやつだ。本当に、地球のつい最近以前の白人・有色人種関係に近い。
その植民地人――いや、植民地獣か?――が、支配者側の人間を教育すると言う。
僕なんかは、質の悪い皮肉位にしか感じなくても、他の連中、特に気位だけ高い奴にとっては、我慢しかねるような事態だ。尤も、そんな奴は少なくとも特別学級には居ないはずだけど。
なんて事を考えていると、廊下から足音が聞こえてきた。コツン、コツンと、足音はどんどん大きくなっていく。まず間違いなく、件の教師だった。
僕は、何も言わず自分の席へと戻った。一拍おいて、他のクラスメイト達も立っていたものは自分の席へと戻っていく。
僕が机の中から歴史の教科書――これもまたセント・アルマーダギー謹製の「帝国の歴史」だった――を取り出したのと、扉が無機質な音を立てて開いたのとは、ほぼ同時だった。
扉から入ってきたのは、身長二メートル、こっちの単位で言えば125ヌーメは優に超えているであろう巨体だった。
日本人と比べれば平均身長が高いこの国の人々のために作られた、僕からしてみれば無駄なほど高いその入口をくぐるようにして入ってきた……とりあえず彼は、教卓の上に授業道具を置き、僕たちと向き合う。
ただ、その容姿は・・・・何と言うか、異様の一言に尽きた。
まず、ここの教職員が好んで着る制式の洋服をがっちり着込み、ネクタイもきちんと締められて居る。立っている時の姿勢も凛々しい。前述の通りの身長のせいで、半ば威圧感と化してもいるけど。
と、こういえば身長以外はどこにでも居そうな新人教員なのだが。如何せん、この人?は獣族だった。
なんて言えば良いんだろう。ええと、なんだ? 二足歩行しているチーター?
……何を言っているのかさっぱりかも知れないけど、実際こう文字にして表現しようとするとこうなる。うん。本当に、ただあの地球のチーターを二足歩行にして服を着せただけの姿なんだ。これ以上、形容のしようもないし、そもそもそれ以外の形容の必要性も感じられなかった。
そんな僕の内心の驚愕を他所に、一瞬だけ僕たちを見回した彼は、口を開いた
「あ~、担任の先生から話があったと思うが、私が歴史のホーメル先生の代わりとしてこの学級の歴史教科担任になった、キダバ・グナンゼウだ。よろしく」
服装から受ける印象とは打って変わって、随分と軽い口調でそう自己紹介したスーツを着込んで二足で立っているチーターは、自分が言うべきことはこれで終わりとばかりに、出席を取り始めた。
「アメリア・フローレンス・ダン・ウィーバル」
「……はい」
「ん? なんだ元気が無いぞ。ほれ、もっと大きな声で」
本学級出席番号一番にして、身長もクラスで一番小さい所為で出席順・身長順の整列双方ともで先頭に立たなきゃいけないウィーバルさんは、付け加えれば席も最前列だった。要は、貧乏くじを引きやすいのだ。
「はい」
「ほれほれ。もっと大きな声で、だ」
「はい!」
最後はやけっぱちである。
ちなみに、ウィーバルさん、普段はそこまで声が小さいとかは無い。むしろ、特別学級では珍しくお転婆なところがある人だった。
「ようやく元気が出てきたな。よろしい。次、ウィリアム・ホーキンス!」
「は、はい」
「……若干声が小さいが、まぁいいか。よし次――」
何と言うか。
普通なら絶対に気づくような険悪な雰囲気を、それがどうしたと言わんばかりに無視している。いや、もしかしたら気づいていないのかも知れない。どっちにしろ、簡単には判断しかねる人物――もう、人物でいいや――みたいだ。
そんなこんなで何とか出席も採り終わる。最後は皆やけくそな大声を出していた。
「うし、じゃー授業始めるぞー」
先生は、そう言うと、教師用の教科書を開いた。
結局、反感その他はいろいろとあったけど、特に何も問題らしいことは起こらないまま授業は終わり、チャイム(もちろん、電子音なんかじゃなくて学園の時計塔の上にある鐘がなる)が鳴ってから三十秒と経たない内にグナンゼウ先生は教室から出て行った。途端に、教室内には授業前と同質のざわめきが舞い戻ってきた。にしても、何と言うか……。
「いやぁ、何と言うか、かなり軽い先生だったな」
とは、レンスキーの評であり、ついでに僕も同意見だった。
「も少し、厳しい奴かと思ってたぜ」
「まぁ、確かに外見はかなり厳つかったけど」
身長2メートルの二足歩行猛獣が、授業中の見回りで隣に立った時の威圧感は、何と言うか、アフリカあたりのシマウマの気持ちが解ったような気がした。人間としての本能からくる警告というか、生物として絶対に忘却できないらしい野性から来る危機感と言うか。
「服装がしっかりしていた点を除けば、だいたい想像通りだったし」
「想像通り? お前、獣族の知り合い居たっけ?」
「いやほら、図鑑とかで」
そこまで口に出して気がついた。そういえば、この世界はまだ子供向け動物図鑑なんてものはないし、そもそも専門の物でも挿絵がついているものなんて存在しないことを。
「……へぇ、そんな図鑑があんのか」
案の定、レンスキーは目を爛々と輝かせてこっちを見つめてきた。未だ、こいつが何かに対して突出した才能を持っているとは到底信じられずに居るのだが、少なくとも好奇心一般については人並み以上だった。
「え、ああ、うん。た、ただ、もうだいぶ前に捨てちゃったと思うけど」
とりあえず適当なことを言って誤魔化す。すると、レンスキーは怪訝そうに僕を見つめてきたけど、なんだつまんないなと不満げな顔でボヤいて話題を変えた。危ない危ない
うまく誤魔化せたことに内心で安堵を抱きつつ、とりあえず歴史の授業道具を机の中にしまい始めた僕は、ある重大な、と言うのは言い過ぎかも知れないけど、とにかく関係ないと言い切ることは絶対に出来ないことを一つ忘れていた。
前歴史科担当・ホーメル先生は持ち前の生真面目さと勤勉さで、宿題の配布やらなんやらを全部自分でやってしまう嫌いがあった。……だからこそ、倒れちゃったのかも知れないけど、ともかく、その性格のおかげで僕はたいして面倒事を押し付けられた事とかは無かった。
つまり、何を忘れていたのかといえば……そういえば、僕って歴史係だったような……。
「……そういえば、押し付けられてたっけ……」
「ごしゅーしょーさま」
その日の昼休み。何時ものようにマフィータと食事していると、何時ぞやの時と同様にレンスキーに引きずられた僕は、文句を言う前にレンスキーの言葉を聞いてその毒気を抜かれた。曰く、課題出すから、昼休み中に受け取りにこい。
「要件だけは伝えたからな」
何時もの如く、妙にマフィータを気にしつつも、レンスキーはそれだけ言ってじゃあと去って行った。何ともまぁ、忙しい奴である。
呼び止めて一緒に飯でも食おうと誘おうとしたが、ふと思い直して食堂の時計を見る。時刻は、ほぼ午後一時だった。昼休みは十二時半からたっぷりと一時間ほどあり、だからこそ一々寮の食堂まで戻っても来れるのだが、職員室まで課題を受け取りに行き、更に同級生の応援を借りるとしても全員にそれを配るとすると……まずいな、あんまりゆっくりとはしていられないみたいだ。
とりあえず急いで昼飯を腹の中に収めるべく、僕がさっきまで昼食(ちなみに、今日のメニューは、何時ものように出てくるアンプと、この辺でよく取れるらしい魚を使ったスープだった)を食べていた席へと戻ろうとすると、その真向かいで不機嫌そうな顔をしている帝国皇女殿下がいらっしゃった……って、何かデジャブを感じるんだが。
「……この前に続いて、今度はなんの密談をしていたんだ?」
「いや、密談とかじゃなくてさ。ほら、僕って歴史係でしょ?」
「同意を求められても私は知らないが」
不機嫌な表情のまま、マフィータはそうバッサリと切り捨てた。……もう少し愛想って物は無いんだろうか。これも帝族がゆえなのか? それとも、単に性格なんだろうか。いくら考えても分からない事だけど。
「……ともかく、それで課題を配るのを手伝えってことらしくて」
説明しつつ、時間短縮のために僕はアンプを口に放り込み、新鮮な魚介のお陰で、下手をすればかなり食に恵まれていた日本よりも美味しさは上なんじゃないかと朧気な記憶を辿ってみたくなるようなスープで胃の腑へ流し込んだ。うん、前回ほど離れていなかったせいか、多少は冷たくなっているけどそこまでじゃないな。結構な早食いではあったけど、別にむせ返ったりはしない。伊達に高校時代、睡眠と夜更かしと言う互いに他の何事にも代えられない楽しみを追求するために、ギリギリの朝食生活を送っていたわけじゃ無いのだ。……威張れる話では無かったけど。
そんな僕の早食いを見てか、マフィータは呆れたように耳をひくつかせたが、すぐに何事も無かったかのようにごちそうさま――直接的に日本語訳すると、「神々が生きる糧を与えてくれたもうたことを感謝す」と言うふうになるのだけど、意訳してみた――と言って、食べ終わった食器が綺麗に置かれている盆を返しに立ち上がった。どんな身分の物でも特別扱いしない。それが、セント・アルマーダギーの特徴だった。
初等部職員室は、初等部そのものの規模の小ささもあって、巨大学園と言って何ら差し支えないセント・アルマーダギーを支える教職員用施設としては例外的な小ささだった。例にあげようとすると、僕が通っていた小学校――全校児童、百八十名くらい――の職員室の大きさ位だ。うん、我ながら解りづらい例えだこと。
ともかく、何もかも規格外と言って良いほどの学園組織の中でのこの小ささは、学園内での初等部の立ち位置を明瞭に表しているのかも知れなかったけど、そんな事今はどうでも良い。問題は――。
「どこだよ、グナンゼウ先生の席」
その例外的な小ささの職員室なのに、グナンゼウ先生の席がなかなか見つからないって事だった。
とりあえず、座席の早見表を見る。入院・無期限療養が余りにも急だったせいで、未だに「Hoomeru」と言う字が二重線で消されたに過ぎないそれを見ても、どこに居るのかさっぱりだった。
だいたい、生徒を呼んでおいて職員室に居ないってのおかしいだろう。と言うか、グナンゼウ先生だけじゃない。今ここに居るのは、初等部統括の職員――事務仕事しかこなしてないから先生じゃないらしい――他、他学年の主任と呼ばれる立場の先生ばかりで、と言うことはつまりお年を召されたかたが殆んどなわけで、もっと言えばその所為で殆んどが変な威厳を放っていて「グナンゼウ先生の席はどこですか」なんて聞ける雰囲気じゃ断じて無い。
今日数回目になる時刻確認のため、職員室の柱時計を見た。現在時刻、一時十三分。……まぁ、二十分まで待って来なかったら教室に戻ろう。
そう思って、職員室の外にでようとした時だった。
スラリとしていて、にもかかわらず変な威圧を与える、教員用制服をきっちり着込んだ獣族教師・キダバ・グナンゼウは大きな欠伸をしながら職員室に向かってきていた。
手――と言うべきか前足と言うべきか。とにかく、チーターやらライオンやらにありそうなあの肉球と爪の付いた脚ではなく、人間に限りなく近いと思われるそれを使って口を隠してはいるが、正直言って隠れきっていない。それどころか、大きな口から牙がチラチラと見えて、寧ろ威圧感を増長している感が強かった。
長い脚で職員室の入り口まで迫ってきた先生は、怪訝そうな顔をしてこっちも見つめてきた。どうやら、見つかったらしい。
「君は……?」
「一年特別学級の歴史係です」
そう応えると、グナンゼウ先生は更に顔を顰めた。……無理矢理にでも形容しようとすると、人が『必死に何かを思い出す表情』と聞いて即座に思い浮かべるような表情だった。
無言かつとても息苦しい時間が十数秒続いた後、グナンゼウ先生が「ああ」と小さく声を漏らし、そう言えば、課題の件で呼んでたなとトボけた……いや本気で忘れている口調で言う。
素で忘れていらっしゃったらしい、この教師は。
「ああ、ちょっと机まで来い。今渡すから」
頭をポリポリ掻きながら、グナンゼウ先生はこれだけは印象通り素早い動きで自分の机があるらしい場所へ歩いていった。
慌てて付いて行く。すると、グナンゼウ先生は職員室中央の教職員用机が置かれた場所ではなく、部屋の端の方へ歩いていき、壁際の職員室で使う雑用品を入れた棚の片隅に置いてあった椅子を引いた。道理で気づかないわけだ。
何と言うか……傍目から見ても除け者にされてるのが丸わかりだな、これは。
明らかにどっか行けと言わんばかりのところへ置かれていた机だったが、グナンゼウ先生は少なくとも表面上はそんな事お構いなしに椅子に座った。ここまで露骨な嫌がらせに表面上何も対応しないのは、余程の大人物だからか、それとも諦めからか。ひょっとすると、生徒の前だからって言う見栄もあるのかも知れない。
机の上は、混沌と表現して過分なかった。本気でごちゃごちゃだ。いったい、普段この人はどうやって雑務をこなしているのか解らなくなるほどだ。無造作に置かれた書類やら何やらで、もはや机の表面は見ることすら出来ない。
「おお、これだこれ」
暫くかなりごちゃごちゃしている机の上を漁り続けた先生は、束になった本をとりだした。うわ、結構分厚い。
「ああ、本来なら来年からやり始める用なんだがな」
僕の様子に、にやりと口を歪めて先生は説明した。……その顔が獲物を目の前にして喜ぶ肉食獣に似ている、と言うかそのものなのはもうくどいから言わないことにする。と言うかなれた。
「まぁ、私には私の授業計画と言うのがあるのだから、忘れずにやって置くように。解ったな、ええと……名前、なんだっけ?」
「クレイリアです。チャールズ・クレイリア」
名前を教えつつ僕はこの獣族教師に付いてひとつだけ解った。かなり大雑把な挙句、忘れっぽいらしい。
「ああそうだった。クレイリアだったな。んじゃ、後はよろしく。午後の授業始まるから、急いだ方が良いぞ」
見れば、時計の針はあと五分で昼休み明け五時間目の授業が始まることを示していた。
「それから、今後もちょくちょく呼ぶ可能性があるから、よろしくな」
僕は先生にお辞儀をして、教室へと足を向け……ようとして、はたと気付く。あれ、もしかして僕は、このうず高く積まれた冊子を全部運ばにゃいけないんだろうか。
確かに、技術力のためか、はたまた単に年齢のせいか、問題冊子は僕から見ればかなり薄かったけど、特別学級の生徒数は三十二人を数える。つまり、用意された冊子は合計三十二冊。
もう一度時計を見た。目を擦る。更にもう一度見る。どこからどのように見ても、時計は授業開始五分前を指していた。
あれ、ひょっとするとこれって授業に間に合わないんじゃ……。
顔がひくつくのが自覚出来た。慌てて、先生の姿を探すが何処にも居ない。特別学級の歴史担当とは言え、初等部の他の学級でも授業をしなければならないのだから、一目散にそこへ向かったんだろう。
と言うか、先生はこの量の冊子を初等部一年の生徒がどうにか出来ると考えたのか? そこまで疑問がふくらんだところで、あるひとつの答えが閃いた。つまり、体良く押し付けられたってことか。何だ、なら納得……。
「できるわけあるか!!」
どうするんだよ、これ。まず間違いなく授業に間に合わない、どころかそもそもこの場から持ち上げられるかさえ定かじゃないぞ?
しかしながら、神様は僕に少しくらいは優しかったらしい。
「……何してんだ? おまえ」
見知った声がする。藁にもすがる思いで振り向けば、そこには親愛なる同居人がこっちを見て突ったっていた。
「レンスキー!」
正に渡りに船だった。一歩でたっと駆け寄り、手を握ってブンブンと振り回す。レンスキーは目を白黒させながら「お、おう」と若干引き気味に応じる。
今こそチャンス!
「いや、前々から思っていたんだけどさ、君ってやっぱり優しいよな」
「な、何だよ、いきなり」
「いやいや、謙遜するなって。それに、力持ちで他人の世話も焼ける。やっぱり君は良いやつだ!」
「……ま、まぁ。やっぱり俺ってやさしいか? そうだよな、そう思ってくれるか」
いや、少しくらいは謙遜しようよ。こっちとしては、ことが上手く運ぶからいいけどさ。
「うんうん。心からそう思うよ。……ところでレンスキー」
「………ん?」
「そんなに優しいんだから、やっぱり困ってる人は見捨てられないよな?」
「もちろん!」
ジリジリとレンスキーと位置を入れ替わりつつあるのだが、レンスキーは全く気付いた風もなく。うん、いい笑顔だ。
「じゃあ、今現在ここで困ってる僕のことも助けてくれるよね」
「もちろん!………へ?」
「じゃあそれは頼んだ!」
「……ちょ、おま!? 待てクレイリア!!」
ようやく状況に気付いたレンスキーだが、時既に遅しだ。僕は、この程度なら辛うじて持てる十冊の冊子を持って、一目散に教室へ駆け出した。
「置いてくなぁー!!」
レンスキーの叫びをBGMに。
「……ひどい目にあった………」
「あはは、ごめんごめん」
「ごめんですむか!」
結局。
あの後、猛ダッシュで教室に駆け込んだ僕とレンスキーは何とか授業に間に合うことに成功した。本当に間一髪だったのだ。特にレンスキーが。
「つーか、係なんだから一人でなんとかしろよな」
と言うわけで、授業終了の予鈴が鳴ると同時に、僕は追加でレンスキーからのお叱りも受ける羽目になってしまったのだ。
「しょうがないじゃんか。あの量を僕一人で運ぶのは無理だよ。僕は君と違ってひ弱なんだ」
「……ひよわなわりに、けっこうなはやさで教室まで走ってったよな?」
レンスキーがジト目で睨んできたが、丁重に無視する。とりあえず、帰りのHRと言って先生が来る前には冊子の配布を終わらせておきたかったのだ。
前列から順に、冊子を確認したクラスメイト達が不満の視線で僕を見据える。流石はお坊ちゃんお嬢ちゃん方と言うべきか、声は上がらない。……一瞬だけ、高校時代のクラスよりも遥かにまともに思えた。
最後の一列の一番前の机に、ぼんと最後の一纏まりを置く。既に冊子はクラス全体に行き渡り、気づけばほぼ全員が僕に視線を向けていた。
「ああ、これ、とりあえずやり方は次の授業の時に指示するから、忘れずに持ってこいってさ」
その視線の持つ意味を、敢えて冊子の説明と曲解した僕は、それだけ言うとさっさと席に戻った。あのままだと、いくらこのクラスと言えども愚痴の一つ二つは浴びせられたかも知れないんだ。別に良いだろう。
僕の想像通りだったのか、はたまた想像以上に勉強熱心だからだろうか。ともかく、親愛なるクラスメイト諸氏は数人がため息を付くくらいで、冊子の存在を認めてくれたようだった。
ドスッと席に座り込む。なんだか、今日一日で並の一週間分くらい疲れたような気がしないでもない。まぁ、これで今日はもう面倒事とはおさらばだから別にいいけど……。
「こういうとき、私は『ごくろうさま』とでも声をかけてやるべきなのか?」
気づけば、僕もため息をついた数人の内に加わっていた。そういえば貴方も居ましたね、マフィータ。
「それとも、『よくやった』か?」
「どちらかと言えばごくろうさま、で。別に、冊子を配っただけだし」
机の中から、勉強道具をひっつかんでは鞄に入れる作業を繰り返しつつ応じる。何時ものように、茶化していっているんだろうと思った、が。
「そうか」
返ってきたのはやけに神妙な一言だった。思わず手を止めてしまう。マフィータは、自らの鞄を閉めてから動きの止まっている僕に気付いたようだった。慌てたように続ける。
「……いや、同年の者とあまり話をしたことがなくてな。どうすればいいのか、すこし解らなかっただけだ」
マフィータは、曲がりなりにも帝国皇女。高貴なるお方。そこの一市民、頭が高い、控えよろう! ……最後は何かちがうような気がするけど、概ねこんな感じだ。それこそ、この説明をするのも、そろそろくどいと言われるかもしれない回数だ。
でも、その所為で確実に寂しい思いはしてきているのだろう。宮中はもちろんとして、学園に来てからも誰かと話しているって言う場面を見たことが無い。
「……ごめん」
なんだかいたたまれない気持ちになって、咄嗟にそんな言葉が音波となって口から出た。もう少し何か良いフォローの仕方とかがあるのかも知れなかったけど、哀しいかなその音波は辺りに満ちている空気を伝って確実にマフィータの鼓膜に届いてしまったようである。
ほんの一瞬だけ疑問符を浮かべたマフィータだったが、すぐに呆れたように言った。
「なんで、お前があやまるひつようがあるのだ?」
「い、いやぁ、なんとなく」
「………本当に、変わっているな」
会話は、ここ二ヶ月だけの付き合いで、生徒たちの間からは「時間にルーズ」との定評を受けるようになった担任の先生が、六分遅れで教室に悪びれもせず入ってきたことで打ち切られた。
先生の話を聞きつつ、最後にマフィータが言った台詞が頭を渦巻く。
変わっている。彼女はそう言った。いったい、どういう意味なんだろうか。
やっぱり、この歳の子供にしてはおかしな思考を持っているってことだろうか。それとも、別の何かか?
だが、考えてもその真意がわかるはずもなく。
結局、すぐに今日の夕食のメニューは美味しそうなのが出ないかな、と言う思考にとって変わられることで今日の学校が締めくくられたのだから、ぼくの頭は羨ましいくらいに平和そのものだったのだろう。
あとがき
どうも、作者です。更新遅くなってすいません。リアルでテスト期間とか言う物が始まってしまいまして。今後はもう少し早く更新できると思います……テストの点数次第ですが。
ところで、殆んどの方が気付いたとは思いますが、前回投稿後に今の状態では文章が読み辛いと言うコメントがありました。それで、色々試した(と言っても、取り敢えず行と行の間を空けるくらいのことしかしてませんが)結果、こんな形が一番しっくり来るのかな、となったので、今回はこんな形で投稿させて頂きました。
もし、以前の方が良かったと言う意見があれば戻しますし、逆にこれで良ければ全部の文章をこんな形に直そうとも思っていますので、コメントに意見のほう、よろしくお願いします。
それでは、コメント返し行ってみよー。
>>マチ氏
と言うわけで、このような形になったのですが……どうでしょうか?
>>はるぱ〜氏
読んでいただけてありがとうございます。
いろいろと拙い文章ですが、今後ともよろしくお願いします。
>>腰痛の人氏、pope氏、炯氏
全くもってご指摘の通りでした。説明文の方は、これから徐々にそこまでくどくないように挟んでいきたいと思っています。
文量の方は……以前と比較すれば一応確実に伸びて来てはいるのですが、まだ不足気味ですかね。今後も精進したいと思います。
>>お餅氏
主人公の日常ですが、次話でそんな話を投稿できると思います。
今後の課題はやはり文量と、あと更新速度ですかね。なるべくどちらとも満足行けるようにしたいと思います。ではでは。