誰もが寝静まった深夜。
耳を澄まさなくとも風の音すら聞こえてきそうなほど、静かな夜。
だが私の耳に入ってくるのはそのような風の音ではなく、胸元で深い眠りに就いているユウキの息遣いだ。
余程、まあ求め過ぎたという点も否定できなくはないが、それ以前に無理して疲れを溜めていたせいか、少々のことでは起きそうにないほど眠っている。
それほど私の事を信頼してくれているのか。
そう思うと心がさらに満たされるような感じがする。
――ユウキ……済まない。
安らかに眠る彼の頭を撫でながら、謝る。
これからするのはきっとユウキにとって余りされたくはないことだ。
それでも私はやろう。
より彼の事を知りたいと言う欲望で。
彼女、スオウが知っていて私が知らないということに嫉妬して。
もちろん私はそのようなことをする自分を浅ましいと思う。
だがそれ以上に、嫉妬や人間らしい欲望を私に与えたユウキが悪いのだ。
愛しい人の額に口づけを落とす。
――だがユウキ。私は君の事が、知りたいんだ。
もうこれ以上謝りはしない。
そう思いながら、私は――
人と言う種はどうにも分からないことをすることが多い。
例えば生まれた日を祝う。
これは脆弱な種であるため、一年も生きられたことが奇跡だと考えているからだろうが、だとすれば今生きていることすら奇跡だ。
今を祝わない理由が分からない。
例えば救いもしない神を信じる。
確かに神と呼ばれる者は存在する。
しかしそれらは我々に対し、行うことは唯の管理だ。
世界と言う機構において不具合が起きた場合それを直す、そのためだけの存在だ。
別に彼らの言うような全知全能でも慈悲深いわけでもない。
なのに彼らは、それを分かっていてなお心の拠り所にする。
ユウキはそれを。
――その程度で心の安寧が保てるのなら、他人に迷惑をかけないうちは別に良いんじゃないかな。
肯定とも、否定とも取れない意見でバッサリと切った。
例えば年月日時という区分を作った。
所詮どれだけ経とうとも世界は延々と巡り続ける。
だと言うのに何故そんな、下らない物差しを必要としたのか。
そこまでして自らを世界に拘束したいのか。
もっと自由に大らかに生きれば良いものを。せっかちな種族だ。
だが、それも良い。
時として人には生き急ぐのではなくこの時を精一杯に生きる者も存在する。
そう言った者には非常に好感を持てる。
それは別の話として。
年月。特に一年という区切りに人は強いこだわりを持っているのは間違いない。
何せ一年の節目、年末は一家で静かに祝い、年始には盛大な祭典を開くのだから。
そう、祭り。祭典である。
豊穣祭からおよそ二か月たった大晦日、やっと次の祭典の日が近くなった。
――…………
――………………
今店にはユウキを除いて私以外に客はいない。
当然だ。
アリーシャは先々日に黙らせ、ローズブラッドは昨日から公務で城で拘束されている。
浮かれていたヴァランディールは先日闇討ちしておいた。
ゼノンは知らないが、来ることはないだろう。
アウルは、睨んでおいたから問題ない。
と言うわけで、現在私はユウキと二人きりだ。
――ユウキ、こちらに来ないか?
――いや、ティアさんはお客さんだし、営業中だからそんなこと出来ない。
――私以外客はいない。そして私が良いと言っているんだ。少しぐらい構わないだろう?
――そういう問題じゃ、ないんだよ。
――そうか……そういう拘りを持つのも、悪くはないが……
是非ともユウキには私の隣にいてほしい。
こんなテーブルと言う壁は要らない。
ならば、仕方あるまい。
意気地になっているユウキが悪いんだ。
私をこんな気持ちにさせているユウキが全て悪いんだ。
――ん? どうしたの?
静かに席を立つ。
外にかかっている営業中の看板を閉店中のものに替え、鍵を閉め、強固な結界を張る。
その様子をユウキは静かに見ていた。
――さ、ユウキ。
ぽんぽんと私の隣の席を叩き、ユウキを催促する。
――……ああもう。全く、仕方がないな。
何とも言えない表情をしたユウキは少し待っててと言うと何やら奥の方に行った。
そして戻ってきては手に持っていた酒をカウンターに置き、また行ってはつまみを取ってきた。
それを何往復か繰り返してから。
――お待たせ。それじゃ、始めようか。
――ユウキ。
またぽんぽんと席を叩いて催促する。
別にこういった酒宴を開くのは悪くない。
だが、彼が向こう側にいては先ほどまでとさして変わらない。
それでは意味がない。
ユウキには是非とも私の隣に座ってほしい。
――……やれやれ。
諦めという空気を纏って彼は私の隣に座る。
それでも嫌そうな空気を纏っていない。
――それじゃ、乾杯。
――乾杯。
カチンとグラスを合わせる。
本来ならグラスを開け、毒物が入っていないことを示す礼儀作法である乾杯だが、中に入っている酒の度数はワインやビールよりも高い。
それに量も量だ。
一気に飲むにはいささか、人間の身体には悪すぎる。
そう言うわけでグラスを空けることはしない。
何よりそんな飲み方は身体に悪い以前に長い時間かけて作られた酒に悪い。
やはりここは味わいながら飲むべきだ。
――これは……中々の酒だな。
――うん。あまり手に入らなかったから、表には出さないんだけどね。大晦日だし、別に良いかなって。
――ああ、悪くない。
――なら、良かった。
私の隣、手を伸ばせばすぐに届く距離にユウキがいる。
その事実が殊更に酒を美味しく感じさせる。
――そう言えば、ユウキ。
――ん?
――何故人は、一年の始まりと終わりを祝うんだ?
――…………別に、意味なんてないと思うけど。それでも強いて言うなら、そこが明確に存在している大きな区切りの一つだから、かな。
――どういうことだ?
――例えば四季や昼と夜。これら巡っているものには明確な区切りが分かっていない。人はね、目に見えないもの、理解できないあやふやなものをどうにかして理解しようとするんだ。
――ああ……その結果が月日や、一年。それから四季の名前か。
そう言えば今は亡き祖父母から聞いた話だが、人も魔族もいなかった頃は春夏秋冬と言う固有名詞はなく、ただ花咲く頃、暑い頃、実る頃、雪降る頃と言っていた。
昼も夜も日が出ているから、月が出ているからとどこから昼で、どこからが夜かとも決めなかった。
それが魔族が出現し、人が出て文明が出来てしばらくしてから昼や夜、一日と言う境が生まれ、私たちもまたそれが便利な故に取り込んだ。
――うん、そう。とはいってもその区切りすら人が作ったものだけどね。
――それらの節目に祝う習慣は、人の生が短いからか?
――それもある。けど、まあなんというか、基本的に人は誰かと一緒にいたいんだよ。脆弱で、どうしようもなく寂しがり屋で、孤独を嫌うから。一人じゃ生きていけないから。誰かとの繋がりを知らなければ、生きていけないんだ。
確かに人は弱い。
どうしようもなく非力で、服や家がなければ生きていくことは叶わず、武器がなければ戦うことすらできない。
彼らの使う魔法ですら精霊がいなければどうしようもない。
本当に弱い種族だ。
ユウキのように心の強い人すら、その数は片手で足りるほどしかいないだろう。
――出来るなら多くの人と何かしらで繋がっていたい。そのために盛大な集会を行う。方法は宗教、祭典、社会。様々ある。祭りはその内の一つ。
――そういうものか……
――そう僕は考えているけどね。
誰かと共に在りたい。
この思いに私は共感できる。
だが、だからといって誰とでも共に在りたいと望むことはない。
私が共に在りたいと願うのはユウキと腐れ縁。
そこにアリーシャがいて、ゼノンがいて、ローズブラッドがいるのも悪くない。
一人で居るのが寂しいか。
昔はそんな事、分かりすらしなかったというのに、今ではそれを恐れてしまっているだろう。
そのことを私は弱くなったと思うとともに、強くなったとも感じている。
――そう言えば、ティアさん。
――何だ?
――大晦日ぐらい家族と過ごさないの?
――ああ。家族はもう死んだからな。
――……ごめん。不謹慎な事聞いた。
――別に構わない。生きている存在はいつか死ぬ。私の両親は私より前にその時が来ただけだ。死に目に会えただけ、良かった。
――そう、か。
私の場合は別に会いたいとも思わない。
今となっては既にその顔すら思い出すことが出来ない。
だが、ユウキの場合はどうだろうか?
スオウ曰く、彼は元居た世界では既に死んでいる。
もう親に会うことも叶わず、もしかしたら彼はそのことに気付いていないのかもしれない。
――ユウキ。君は、家族に会いたいか?
――いや、別に。僕の両親は、たかが会えない程度で悲しむような人じゃないから。それにまあ、幸せでやっていると信じているし。それほど会いたいとは思わない。でも会いたくない事はないな。
――そうか……やはりすごいな、ユウキは。そこまで誰かを信じられるなんて、そんなに出来ないことではないぞ。
――違うよ、ティアさん。それは違う。僕は弱いから、本当に弱いから、身勝手に信じることしか出来ないんだよ。
信じることしか出来ない、か。
だが、彼のように信頼できる人とは言え完全に信頼することは難しい。
人は誰しも、例えそれこそ血を分けた相手であろうと完全に信じることは出来ない。
そんなことが出来る時点で彼は強い人間だと思うのだが。
何よりここまで私やヴァランディールを変える人間が弱いとは思えない。
ただ、問題としてそれらは比べることの出来ない、見えない強さということだ。
故に自身がその強さを信じなければ何の意味もなく、そもそも存在すらしない。
そんな強さに、私は憧れを抱いたのだが、はてさて。
私は一体理解できないあやふやな強さをどこまで信じることが出来るやら。
――それでも全面的に信じてもらえるのは嬉しい。少なくとも私はそう思う。
――そうかな?
――そうだ。
――なら、良いんだけど。
そう言いながら彼はグラスを傾ける。
しばらく静かな時間が流れ……
――……大丈夫?
――ああ、済まない。
気付けば少し眠っていた。
思い返せばここ一週間は不眠不休だ。
特にアリーシャを黙らせるために多大な魔力を消費した。
それによって出た精神面の疲労のせいで少し眠ってしまったようだ。
――……ユウキは良い匂いがするな。
――いやいやいやいや。そんなことはないでしょ。
――いや、不思議と落ち着く匂いがするぞ……
――それは絶対気のせいだ。あと酒のせいだ。僕の匂いじゃない。
頭を彼の肩に乗せたついでに少し匂いを嗅ぐ。
多くの種類の酒の匂いに加えて様々な調味料の匂い、それから何とも言えない、懐かしい匂いがする。
その匂いはどこかで嗅いだ事があるようで、だがどうにも思い出すことが出来ない。
――……やれやれ。
ユウキの細い指が私の髪を梳いていく。
ゆっくりとした動作がくすぐったくて、心安らげる匂いのするユウキに甘えたくなる。
ユウキは甘える私をどう思うだろうか?
妙なものを見る目で私を見るだろうか。
それともいつものように仕方がないという、困ったように笑っている表情で受け入れるだろうか。
それとも。
――不自然な格好で寝たら身体に悪いよ。そんなにも眠いのならそろそろ帰ったら?また明日会えるから、ね?
――…………
また明日。
その言葉の響きはどこまでも甘美だ。
だが残念。今の私はそれでは満足できない。
――……ユウキ、泊まっては、駄目か?
――えっと…………まあ、別に良いか。
――ふふ、済まないな。
――嬉しそうだね。
ユウキと一緒に年を越せるのだ。
これが嬉しくないわけがない。
今までにないほどの上機嫌で最後の一杯を飲み干す。
――あそこが手洗いで、この部屋が客室。
――ふむ、わかった。
――それじゃ、おやすみ。良い夢を。
酒とつまみを片づけ、二人で店仕舞いをし、案内された客室は非常に質素で物がなかった。
そもそもそんなにも使わない部屋なのだ。
物があるだけ不自然なのだが、さて。
微かに鼻腔を突くヴァランディールの臭いは一体どういうことなのか。
そう思いながら暫し、備え付けの椅子に座って時が経つのを待つ。
三十分ほど経過した時。
――そろそろ、良いか?
身体の疼きを抑えながら部屋を出る。
目指す先は当然ユウキの寝室。
別に教えてもらってはいないが、前に一度入ったことがある上、ユウキの匂いがするからすぐに分かる。
――…………
魔法を用いて消音をし、音を鳴らさないよう、ユウキを起こさないようにゆっくりと忍び寄る。
案の定ユウキはベッドで静かに寝ていた。
その寝顔は非常に安らかで、見ているこちらも眠くなる。
が、今回はちょっとユウキに用があるのだ。
だがまあ……その前に少し手を付けても別に構いはしないだろう?
――……ユウキ……
そっとベッドに潜りこみ、耳元で囁く。
眠りがまだ浅かったためか、ユウキは割と早く目を覚ました。
――……ティア、さん?
――…………
――どうしたの? 一人が寂しくて眠れない?
――それも、ある。ユウキ……私の我が儘を一つ、聞いてもらえないか?
――……まあ、可能なことなら、良いよ。
――ありがとう。
支えにしている腕から力を抜き、ユウキに乗りかかる。
布越しに感じるユウキの体温はそんなにも私と変わらないはずだと言うのにとても温かく、居心地良く感じられる。
――ユウキ、しないか?
――えっと……それは、これ?
返答は唇で返す。
スオウから聞いた話では、このまま何も出来ないでいるとユウキは間もなく死んでしまう。
それを食い止めることが出来るだろうが、その前に一つぐらい、私の我が儘を叶えてもらっても良いだろう。
――今だけは、今だけは私だけを見てくれ。
――……やれやれ。
彼の優しげな瞳がこちらを向いた。
何とも言えない光を宿して私を映す。
だがそれらが全て私を映している。
その事実が、何より満たされる感じを私に与えた。
――……ん、ぅ……
――…………
ふと、胸元でユウキが寝相を変える。
頭を撫でると意外と癖がある髪が指をからめる。
肌で感じる彼の体温と息遣いに安心を感じる。
その感触に幸せと、罪悪感を感じながら心の中でユウキに謝る。
これから、ユウキの過去を覗く。
見るだけなら干渉には入らないので、ユウキの負担はないだろう。
だが、これのせいでユウキの知られたくない過去を知ってしまうかもしれない。
それでも私は知りたい。
何故ユウキが悲しい瞳をするのか。
純粋に彼を愛する者の一人として、あんな眼をしてもらいたくはないから。
だから、覗く。
直前にもう一度、ユウキに心の中で謝りながら、私は静かに魔法を発動した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
意外と時の流れは早く、来年の春でこの世界に来て約七年になる。
割かし長くこの世界に住み、ここでの生活に何の疑問を持たなくなってきた。
だと言うのにいまだに金銭感覚が身に着かないのは金払いの良い客のせいとしか思えない。
まあでも、彼らのおかげで一年を楽しく過ごせているのだから感謝しよう。
そう思いながらヴァランディールの来店を待ちながらグラスを拭いていた。
彼もまた独り身であったため、暇だからともに年を越さないかと誘ったのだ。
そしたら彼は迷うことなく了承し、久し振りに一人ではない年越しを味わえるのだが。
さてはて。まだ来ない。
もうすぐ閉店だと言うのにまだ来ない。
そう思いながら、グラスを拭いていた時のことだ。
ティオエンツィアの来店である。
危険な香りがする。どうして?
この時心の中で無意識的にヴァルに冥福を祈ってしまった僕を許してくれ、ヴァル。
まあでもティアさんのことだ。
閉店時間になればきっと帰ってくれるだろう。
それを見計らってヴァルが来るに違いない。
あれはそんな信じたいのに信じることが出来ない事に期待していた後のことでした……
――…………
――………………
いつものカリスマ二割増しに加え、何か良からぬことを企んでいそうな雰囲気を纏った沈黙が重い。
本能が今すぐここから逃げ出せばまだ間に合うと言う警告を出している。
しかし鍛え抜かれた第六感がもう手遅れなんてふざけていることを言っている。
だが、どちらにしても逃げることは出来ない。
そんなことをすれば明日も怖い。
――ユウキ、こちらに来ないか?
そんな僕の不安を他所に、ティアさんは自分の隣の席を叩き、来るように誘った。
つまりあれですね。
隣で胃に穴を開けろという善意無い配慮ですね、分かります。
確かにそんなことを抜きにして絶世の美人の隣で飲む酒は格別だろう。
異臭漂うブスよりも彼女のような人が隣にいる方が良いに決まっている。
一人酒も良いが、二人で居る方がはずむ話もある。
だが断る。
ティアさんの隣でという言葉が入った瞬間、その誘いは死神の手招き以外見えないんだよ。
――いや、ティアさんはお客さんだし、営業中だからそんなこと出来ないよ。
――私以外客はいない。そして私が良いと言っているんだ。少しぐらい構わないだろう?
――そういう問題じゃ、ないんだ。
あなたの隣に座ると未来が見えません。
ここいらで颯爽とゼノンがメイン盾の如く来てくれるとありがたい。
僕よりも気の利いたセリフで言い逃れさせてくれるだろう。
――そうか……そういう拘りを持つのも、悪くはないが……
――ん? どうしたの?
急にティアさんが立ち上がり、ドアに近付く。
帰ってくれるのかと期待する一方、冷や汗が一向に止まらない。
縁起でもないのに辞世の句を考え始める。
そして外にかけている営業中の看板を閉店中のものに替え、さらに鍵を閉める。
その様子を僕は茫然と見ていた。
何で彼女が隠している看板の場所を知っているんだ?
……脅されたのかな、ヴァル……
それなら仕方がない。
――さ、ユウキ。
――……ああもう。全く、仕方がないな。
流石にこれ以上断ると何が起こるか分からない。
と言うわけで諦めた。
諦めて、酒宴の準備をした。
今日は飲もう。
飲んで記憶に残さないようにしよう。
――お待たせ。それじゃ、始めようか。
それでも彼女の隣には座らない。
これが僕の最低限守るべきプライド。
――ユウキ。
――……やれやれ。
アレは断ったら殺す目です。
流石に僕はまだ死にたくないので恥も外聞も気にせずさっさとそのプライドを捨てた。
グッバイ現世。よろしく来世。
来年は僕の胃に優しい年になると……良いな……
瞳から漏れる食塩水は心の汗です。気にしないで貰いたい。
――それじゃ、乾杯。
――乾杯。
――これは……中々の酒だな。
すぐ隣で見るティアさんの仕草はやはり度の絵画よりも勝る優雅さや気品がある。
これらは一朝一夕では手に入ることはない。
そしてそれを自然体で醸し出すのに一体どれほどの月日と努力が必要なのか。
僕には予想もつかない。
本当に、綺麗だよね、ティアさん。
――うん。あまり手に入らなかったから、表には出さないんだけどね。大晦日だし、別に良いかなって。
――ああ、悪くない。
――なら、良かった。
最初に開けたワインは今年でちょうど六年、つまり僕がこの世界に来た年に出来たお酒だ。
酒を飲みだしてから大晦日では自分の年と同じ年に出来た酒の中で良い物を飲むことにしている。
熟成の具合から風味は味は変わるから通年同じ酒が美味しいとも限らない。
やはり年が変わるのだから別の酒を飲みたいと言う欲望もある。
と言うわけで、毎年違う酒を飲んでいるのだが。
今年になって六年。来年で七年。
さて、五十年物飲めるかな?
前の世界では二十四年物で終わったからなぁ。
残念だったよ。
――そう言えば、ユウキ。
――ん?
――何故人は、一年の始まりと終わりを祝うんだ?
――…………別に、意味なんてないと思うけど。それでも強いて言うなら、そこが明確に存在している大きな区切りの一つだから、かな。
確かに、考えてみればそれは妙なことだ。
世界は常に続いているというのに、何故勝手に区切りを設けてそれを祝うのか。
人の常識による疑問を持てない概念だ。
それらは暇な時、本当に何もできることがない時の暇潰しとして重宝した。
――どういうことだ?
――例えば四季や昼と夜。これら巡っているものには明確な区切りが分かっていない。人はね、目に見えないもの、理解できないあやふやなものをどうにかして理解しようとするんだ。
――ああ……その結果が月日や、一年。それから四季の名前か。
――うん、そう。とはいってもその区切りすら人が作ったものだけどね。
――それらの節目に祝う習慣は、人の生が短いからか?
人生百年。それでも今は一瞬。
過ごすには長く、生きるには短い。
掛け替えのない一度きりの今を楽しむと言うため、この世に生まれたことに感謝するためと言う理由もある。
だが何より、僕がこれだと思った理由は別だ。
――それもある。けど、まあなんというか、基本的に人は誰かと一緒にいたいんだよ。脆弱で、どうしようもなく寂しがり屋で、孤独を嫌うから。一人じゃ生きていけないから。誰かとの繋がりを知らなければ、生きていけないんだ。
弱いから社会を形成し、寂しがり屋だから家族を欲し、孤独を嫌うから友を守る。
世界に本当に孤独な人などいるわけがない。
だっていつも隣には、誰かが居てくれるから。
居なくとも心は繋がっている。
そう思えるから人は生きることができる。
――出来るなら多くの人と何かしらで繋がっていたい。そのために盛大な集会を行う。方法は宗教、祭典、社会。様々ある。祭りはその内の一つ。
――そういうものか……
――そう僕は考えているけどね。
これは勝手な自己解釈。
こうあれば良いなと言う願望。
何せそれは答えの無い問題だから、明確な答えを必要としていないから。
だからそんな自己満足がちょうど良い。
――そう言えば、ティアさん。
――何だ?
――大晦日ぐらい家族と過ごさないの?
ふと思った疑問を口にする。
ティアさんは良く僕の店に来る。
式典の日だろうが宗教上宜しくない日だろうが関係なく来る。
彼女はきっと王族か、もしくはそれに近しい類の人間のはずだ。
そうでないとこのようなカリスマを持っているはずがない。
ならある程度家や宗教に拘束されるはずなのに、気にしている様子はない。
――ああ。家族はもう死んだからな。
――……ごめん。不謹慎な事聞いた。
わお、思ったよりヘビィ。
聞くんじゃなかった。
――別に構わない。生きている存在はいつか死ぬ。私の両親は私より前にその時が来ただけだ。死に目に会えただけ、良かった。
――そう、か。
そう言えば僕は親の死に目に遭っていないな。
むしろその前にこれ以上あの人を僕で拘束したくなかったから自殺した。
そして気付いたらこの世界に存在していた。
考えてみれば結構な親不幸を犯している。
死後、三途の河原で両親に逢ったら謝っておこう。
許してもらえるとは思わないけど。
少なくとも出会い頭に七度は殴られるだろう。
――ユウキ。君は、家族に会いたいか?
――いや、別に。僕の両親は、たかが会えない程度で悲しむような人じゃないから。それにまあ、幸せでやっていると信じているし。それほど会いたいとは思わない。でも会いたくない事はないな。
これは他愛もない嘘だ。
重い話をこれ以上重くしたくはないから出た嘘だ。
むしろ、実は自分死んでいますなんてどのようにいえば分からない。
――そうか……やはりすごいな、ユウキは。そこまで誰かを信じられるなんて、そんなに出来ないことではないぞ。
――違うよ、ティアさん。それは違う。僕は弱いから、本当に弱いから、身勝手に信じることしか出来ないんだよ。
もしも強ければ、両親に声を届けれるほどの力があれば信じることなんてしていない。
「親不孝者は来世で元気にしています」とでも声を届ける。
そして彼らが幸せにやっていると、もう僕の死を悼むわけがないと傲慢に考えるだけだ。
あ、少し間違えた。
「親不孝者は来世で絶賛胃を痛めております」だね。
――それでも、全面的に信じてもらえるのは嬉しい。少なくとも私はそう思う。
――そうかな?
――そうだ。
――なら、良いんだけど。
彼女が力強く否定してくれたおかげで、少し心が軽くなった。
正直誰かを信じることは不安を感じる。
その信頼がその人の枷になっていないか、不安でたまらない。
だから、そんなことはないと否定してくれたのは結構嬉しい。
――……大丈夫?
――ああ、済まない。
静かな時が流れると急にティアさんが僕の肩に頭を乗せた。
一瞬身を固くするが、眠っているのに気付き、揺すろうとした手を下す。
見た目とは裏腹に疲労が蓄積しているようだ。
酒が良く効いたのかな?
そして、意識が覚醒してきたところで起こす。
――……ユウキは良い匂いがするな。
――いやいやいやいや。そんなことはないでしょ。
――いや、不思議と落ち着く匂いがするぞ……
――それは絶対気のせいだ。あと酒のせいだ。僕の匂いじゃない。
寝足りないのか、いつものカリスマが形を潜めている。
代わりに若干閉じられた瞳で頭をこすりつけてくるこの生き物は、何?
いつもの雰囲気と姿とのギャップがすごいのですが。
萌えませんけど。
――……やれやれ。
鼻を刺激してくしゃみをさせようとする彼女の髪をどける。
余りに滑らかな為、思い通りに纏まってくれない。
ティアさんも何だかこのまま放っておいても本格的に眠りそうな気がする。
それは頂けない。
明朝までここで彼女に肩を貸していたことがアリーシャさんやローズにばれると……あの人たち何するかな。
それをネタに脅迫してきそうだ。
――不自然な格好で寝たら身体に悪いよ。そんなにも眠いのならそろそろ帰ったら?どうせまた明日会えるから、ね?
――…………
一時固まる。
眠たい頭で言葉を理解しているようだ。
そのまま、状況を理解できない思考のままで帰ってくれるとありがたい。
具体的には明日の賽銭が百倍になるほど。
だが、どういうわけか僕の祈りはことごとく神々に逆の意味で取られてしまうもので。
――……ユウキ、泊まっては、駄目か?
――えっと…………
どうせそうだとは思っていましたよ、畜生。
世界はいつもこんなはずじゃないことばかりだ。
旧友から聞いたあるアニメの脇役の言葉を思い返す。
今なら言える。
世界はいつも、そんなちゃちなものじゃねえぞ、ませガキ。
本当に、カリスマですら逆らえないと言うのにこんな捨てられていく子犬の目をされたら断ったら罪悪感で死にそうになるじゃないか。
ああ、どうしてこうなる……?
――まあ、別に良いか。
――ふふ、済まないな。
――嬉しそうだね。
結局のところそれを受け入れ、ティアさんと店の片づけをした。
それから家を案内する。
この家は地下一階と地上三階建てで、一階は店として使用、地下は倉庫として活用している。
で、三階にキッチンとダイニングを設置している。
理由は簡単。バルコニーから夜景が見えるから。
んで、二階に寝室と客室、物置、風呂がある。
風呂は、明日の朝でいいか。
それらをティアさんに案内した。
どうせ分かっているだろうけど、念のため。
――あそこが手洗いだから。で、この部屋が客室。
――ふむ、わかった。
――それじゃ、おやすみ。良い夢を。
それから寝間着に着替え、ベッドにダイブ。
軽く自棄酒をしたため、いつもより酔っているので気持ちよく眠れるだろう。
願わくは、夢の中だけは良識あることを。
そう思い、瞼を閉じた。
――……ユウキ……
――……ティア、さん?
起こされたと思ったらティアさんの顔がアップで視界に在りました。
ああ、これは夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ……
そう思いたくても肌で感じる彼女の何故か熱っぽい吐息は本物で、如実にこれが現実であることを僕に自覚させる。
本当に良識や常識は夢の中の空想ですね、ジーザス。
――…………
――どうしたの? 一人が寂しくて眠れない?
――それも、ある。ユウキ……私の我が儘を一つ、聞いてもらえないか?
――……まあ、可能なことなら、良いよ。
――ありがとう。
そう言ってティアさんは僕の上に乗りかかった。
正直に言って僕の身体は軽く、力もそこまで強くない。
現在日本人の平均体力より貧弱であり、当然女性一人の体重は軽いとは思えない。
むしろ言おう。
こんな僕が軽いと思える人が居たなら、その人は既に病気か不健康かだ。
正常じゃない。
まあ、重くもないんだけどね。
そんなティアさんが耳元で囁く。
――ユウキ、しないか?
……わんもあぷりーず。
口走ったら極刑だな。間違いない。
――えっと……それは、これ?
返答は言葉ではなく行動で示される。
アリーシャさんの妖艶で甘い匂いじゃない。
優しい匂い。太陽の匂いとでも言うべきか、そんな感じの匂いがした。
彼女は何だかんだ言っても結構大切な人だ。
肌を重ねるのも悪い気はしない。
それに、さ。
スオウと約束したんだ。
女性を余り泣かせないと。
――今だけは、今だけは私だけを見てくれ。
――……やれやれ。
全く、女性は何故そのような下らない事を頼むのだろうか。
あの人もだけど、僕はちゃんと見ているというのに。
特に二人きりの時は、その人だけを見ないと失礼にあたるから。
ティアさんの顔にかかる髪をどけながら、僕は彼女の唇をそっと塞いだ。
本当に、どうしてこうなるのかなぁ?
僕なんかを好きになるのか。
良く分からないことばかりだ。
次の日の朝、起きると僕はティアさんに優しく抱き抱えられるようにして眠っていたことに気付いた。
彼女と寝たというのに夢見は少々悪いが、目覚めも素晴らしい。
ただ、何か忘れてはならない夢を見た気がするのにその内容を覚えていない。
そんな自分が腹立たしい。
そう思いながらふと、ティアさんを見る。
――……やれやれ。
眠りながら泣いたのか、少し涙の痕があった。
だから僕は彼女がしたようにそっと抱き締める。
その頭を撫でながら、力はさほど込めずに抱き締める。
――大丈夫だよ、ティア。僕はここに居るから、大丈夫。
囁くように、語りかける。
今年は、ティアさんにとっても僕にとっても去年よりもっと良い年になりますように。
そんな祈りを込めて。
――それじゃ、僕は朝ごはんを作るから。良い夢を。
――…………
部屋を出る時に見たティアさんの表情はとても幸せそうだった。