朝の澄んだ空気が、晴れ渡って流れる空と合わせて爽やかな気配を感じさせる。いい日だ――大きく深呼吸をしてから、傍らの少年――ラルフを見やり、自分の仕事を思い出してフェリクスは上がった気分をやや落ち着かせた。アルビオンへと渡る船、その甲板に二人はいた。
「このまま甲板に?」
「いや、船室に行こう。これからの予定を確認したい」
すでに何度か話し合っていて確認するまでもないことなのだが、いつまでも甲板で突っ立っていても疲れるばかりだという点でフェリクスも同意だった。
「アルビオンがはっきり見えるまでは、意外と時間がかかりますからね。とはいえ、見逃す手はないですよ」
「そうだね。僕は初めてだよ、アルビオンは」
「なかなか大した景色ですよ。私も十年ぶりくらいですけどね」
浮遊大陸アルビオンは、空の状態さえ良ければトリステインやゲルマニアからも遠見の魔法などで小さな影くらいは捉えられる。――が、一度も目にすることもないまま人生を終える者とて多くいるのだった。宙を漂う大地、空へ落ちる川が雲間に虹をかける幻想的な『白の国』の光景は、ハルケギニアの民ならば誰もが一度は見てみたいと認める絶景の一つである。
船は出たばかりだが、すでに天空にはアルビオンの影が黒点として見え隠れしている。年若いものならば船首にへばりついて空を眺めていてもおかしくはないのだが――フェリクスもそんなことをした覚えがある――ラルフはやはりというべきか、踵を返す態度も冷めたものだった。
フェリクスは船室へ向かいながら、沈黙を破るためにお約束といった感じでラルフに口を開いた。
「まずは宿、でしたね。明日以降も考えて、港町で泊まるところに目をつけておく、と」
「いや、」
「え?」
今日は初日、上陸後は天空の断崖や流れ落ちる川、そういった港町から近くの名勝を順にめぐることになっている。宿を先に決めておこうというのも、ここまでの道程ですでに決めていたことだった。振り返り、固い表情でラルフは言った。
「シティオブサウスゴータへ行く。その話をこれからするんだ」
風の剣士たち(上)
この少年はどこかおかしい。
フェリクスは常々思っていたが、あまり他の者の同意を得たことはなかった。
そもそも同年代の子供といるところを、フェリクスは一度も見たことがない。それで親衛隊の隊舎や町の酒場に出入りしている。どう見ても普通でないのは間違いないのだ。
剣を習いに来るときは礼儀正しく、真面目ではきはきとしている。自分の幼い頃の兄弟弟子たちのようにひたむきだ。そうでないときは無口で、どこか内省的に見える。ところが、他の者達に言わせれば、『よく冗談を言い、飄々とした性格』らしい。『年の割に大人びている』とも聞く。一部は同意できるが、結局どれが本当なのかさっぱりわからない。
ここまでの道中でもそうだった。この少年貴族が口を開くときは、自分と他の人間では態度が全く違う。人前に出ると、まるで仮面でもかけ替えるかのようにぱっと明るくなるのだ。そうしているときは、ごく普通の少年に見える。ところが現在のように、周囲に人がおらず自分だけのときは、やけに世間ずれしたような雰囲気もある。
実はここまでわけがわからない性格に見えるのは、ラルフが剣術に熱心でフェリクスに一目置いていることが一因である。フェリクスの前ではしばしば見せる素の表情、基本的に無口で内省的、というのが正解なのだが、フェリクスにそれがわかるはずもない。
人は人との付き合いの中で大人にも子供にもなってゆく。通算すれば既に四十年近くを生きたラルフは既に大人だったが、同時にある意味子どもでもあった。少年として扱われ、そう扱われるように振る舞ってきたラルフは、『明るく利発な』子どもらしい振る舞いをごく自然に演じられる代わりに、自分でも気づかぬうちに精神的に退行してもいるのである。さらには前の生から持ち越した人間的な欠点も抱えており、ここに極めてアンバランスな人間が出来上がる。かくしてフェリクスの困惑は深まるばかりなのだが、ここへ来て突然の予定変更の申し出ときて、マイペースな彼ですらさすがに戸惑いを隠せなかった。
シティオブサウスゴータといえば他国にも名の知れた都市だが、つい先日太守がモード公とともに反逆罪かなにかで投獄されたばかりではなかったか。どんな様子かはわからないが、治安面で不安があるかもしれない。滞在するに適した街であるとはあまり思えない。予定ではロンディニウムへ向かう際に竜籠で通過することになっていた。
しかしフェリクスは船室で改めて向い合って座ったとき、ラルフを思い直させるのが難しいことをすぐに予感した。
正面に座った少年の表情は相変わらず読めないが、意志の固さだけははっきりとうかがえる。思えば、船が港を離れるまで言い出さなかったのも、その後こうして向かい合うことも織り込み済みだったに違いない。従者が自分ひとりとされたのもラルフのたっての希望だという話だった。ここで自分が拒否したとしても、果たしてどれだけの効果があるのか。多少のあきらめを感じながら、フェリクスはそれでも自分の奇妙な職責に沿って口を開いた。
「サウスゴータといえば、つい最近太守が投獄されたとのことでしたよ。あまりおすすめできない場所だと思うのですが」
「わかってる」
わかっているなら避ければいいでしょうが。そう言いたいところだったが、フェリクスは無駄なやりとりをしないことにした。単刀直入に聞く。
「なぜですか?」
「うん、……」
実際のところ、ラルフには特に計画も何もないのだった。父を口説き落としてアルビオンへの観光名目の旅行を承諾させたのはいいが、別段なんの目算があるでもない。モード大公はすでにロンディウムで処刑されたはずだし、サウスゴーダ太守もしかり。彼らの娘たちに会ったところですべきこともないし、そもそもどこへ行けば彼女たちがいるのかも分かりはしない。ただ、変わり始める時代の、そして『物語』の空気を肌で感じておきたい。あわよくば人物たちをこの目で見ておきたい。
一人旅を希望したが、いかに大人びていようと12歳の子供にそれが叶えられるわけもなく――しかし、普段見せないしつこさに渋々ながら、供を一人だけにすることが許された。これが今回のラルフのアルビオン旅行の真相である。きちんと説明できるような理由は存在しない。しかし、見ておかなければならないような気持ちがある。それだけだった。
「……今回に限っては、黙って従ってくれるとありがたいんだけどなあ」
「いやいや、せめて理由くらいは知っておきたいんですよ。やはり納得がいかないと、私としても」
フェリクスは粘ってみたが、
「……フェリクスも、僕を見失って一人で帰るなんてのは嫌だろ?」
そう言ったラルフはみごとに開き直った顔で、フェリクスは我慢し続けていたため息をこんどこそ吐いた。
「ハァ。わかりました」
なんとなればこの場で引っ括って連れ帰ることだってできるが、そうなったら杖を取って抵抗するぞと言っているらしい。たとえ無理やり言うことをきかせても、隙をついて何かする気なのだろう。手がつけられない。
なんだか面倒になって、フェリクスは気持ちを切り替えることにした。フェリクスは、自分の気持ちをコントロールすることには長けている。
「じゃあ、改めて予定を確認しましょうか。
シティオブサウスゴータへ向かうなら、まずは馬車で移動ですね。竜籠を使うほどの距離ではないでしょう。それから?」
フェリクスが話を飲むと、ラルフは意外そうな顔になった。
「ああ、ええと、しばらくサウスゴータに滞在したい。調べたいことがあるから、周辺をうろうろすることになるな。それを済ませたらロンディニウムへ行く」
「ロンディニウム以降は?」
「直帰」
結局やるのはシティオブサウスゴータ周辺の探索だけ?
モード公の残党狩りでもあるまいに、と思いながらも、大幅に単純化されたスケジュールを考えれば、状況次第ではあるが思ったよりも楽そうではあった。
「フム」
「いいかな?」
「わかりました」
フェリクスはあっさりと自分の気分を切り替えることに成功した。彼はそういう事は本当に得意だった。ラルフは思った以上に話が早かったために間を外されて微妙な顔をしていたが。
□
浮遊大陸、白の国、始祖の王国、アルビオン。
離れれば雲間にたゆたうアルビオンが幻想的なものを感じさせ、近づけば空へと落ちていく川が巨大な虹を大陸の底へかけている。しっとりとした雲と冷たい空気が荘厳さを増している。ラルフが感嘆のため息を吐き続けているのを見て、フェリクスは少しだけ安心するような気分だった。
船が入港の準備を始めた頃、船室に戻ったラルフが窓から外を眺めたままふと口を開いた。
「フェリクスは、このままずっとうちに勤め続けるつもり?」
「そのつもりですよ?」
「ふうん」
どういう意図の質問かはかりかねるが、フェリクスは素直に返事をした。
フェリクスは弱小貴族の家に生まれたものとしては恵まれた立場にある。三男である彼は家督はもちろん継げなかったし、メイジとしてもたいした腕はない。『風』のメイジである彼には、市井に下ってやっていけるような秘薬を扱う水の術もなければ、《錬金》でやっていけるような土の術もない。同じなような立場から傭兵などに身をやつし、野垂れ死ぬメイジとて多くいるのだ。特にゲルマニアでは。
「このまま普通にいけば、俺が次の当主になるよな」
「ええ」
「俺に、どんな貴族であって欲しいと思う?」
「私が、ですか?」
「そう」
この少年は、こんな話し方をするのだっただろうか。違和感はあるが、フェリクスはいつも通り思ったままに話すことにした。
「私が、どんな当主を望むかですね?
――そうですねえ。あれですね、戦はない方がいい。自領の安定を第一とするかたが望ましいですね。私はあまり勲功などには興味はないので、騎士として身辺をお守りすることを仕事としていたいので」
「まんま父さんだな」
「そうですね。理想的なかたです」
お世辞のような感じではあるが、フェリクスは本気だった。
フェリクスには図抜けた剣才があった。だからこそ貴族家の親衛騎士たる立場にある。しかしそれ以外に後ろ盾も保障も持たない彼は、最前線で剣を振るう気もあまりないのだ。それでは傭兵とそう変わらない。マテウス家は彼にとって非常に適した環境だったと言える。
「……なるほどね。ありがとう」
「ええ」
ごごん、と船が震える。窓の外で港の人夫が綱を抱えて走るのが見えた。
「行こうか」
そう言って立ち上がったラルフはいつも通りの曖昧な距離感に戻っていて、フェリクスは何か大事なものを見逃したような気がしたのだった。
□ □
シティオブサウスゴーダ。
石造りの街といえばロンディニウムが有名だが、この街も大して変わらない。漆喰の壁がなく、煉瓦や石壁の建物が立ち並び、その街並みが異国情緒とでも言うべき雰囲気を漂わせている。アルビオンという国が観光で好まれる大きな理由だ。
サウスゴーダで宿を取り、近くの村のことなどを調べればそう時間をかけずに『ウエストウッド村』は見つかった。ラルフが名前を思い出せていなかった村だったのだが、聞けばどうにか思い出す。翌日から早速向かい周辺を探索したのだが、それらしき人物も建物も見つけることができなかった。フェリクスに不審がられながら三日ほどかけたのち、ラルフは探索を諦めた。
となると、あとは普通の観光である。
サウスゴーダの町並みで結構な満足を得た二人は、石造りの街として知られるロンディニウムも「別にいいか」ということになり、明日には大陸の際にある他の名勝へ向かうことになっている。人数が少ないおかげでずいぶんと気ままな旅程だった。
サウスゴーダ滞在の最終日は薄い霧に時々霧雨という生憎の天気だったが、それなりに二人は楽しみながら買い物を続けていた。
だから、ラルフがそれを見つけたのは本当に偶然だった。
フェリクスが少し細々した買い物や準備に離れた間、ラルフはヒマを弄びつつ街を行き交う人々をぼうっと眺めていた。朝から降ったり止んだりの霧雨で、町の人々はみなローブを被っている。そんな中、手をつないだ二人の人間のシルエットが目に止まったのだった。大きな方は若い女性。そして、そのローブの下にちらりと翠の髪が見えた、気がした。
よくよく見れば小さい方も女性と思しきシルエット。見たところ姉妹といった感じで、二人はごく普通にかごを下げ、買い物の途中といったように見える。
(まさかな……。でも天気も天気だし、雨だからみんなローブ姿で紛れやすい、ありえないわけではない、のか?)
大した手間ではないので、ラルフは何気なく二人の行く先へ回り、不自然でない程度に観察してみることにした。
やはり、背の高い方は緑の髪。年頃の女性で、それほど良く見なくてもかなり整った顔立ちとわかる。小さいほうは自分とあまり背丈が変わらない上、俯きがちなので顔立ちまではわからない。が、すれ違ったときにわずかに覗いた髪は、確かに金色。
(まさか、本当に当たりか……)
国中探せばいるかも知れないが、年齢、髪色の条件が完全に一致する他の姉妹というのがこの街にいる確率はかなり低いと思われる。呆然と二人の背を見送るが、ここで見失いたくはない。フェリクスは――説明のしようもないし、むしろいないほうがいいのだ。はぐれた場合に落ち合う場所も問題ない。どうしたものかと考えながら、ラルフは慣れない尾行を開始した。
二人の後をついて行くと商店街を抜け、町並みは次第に下町風のそれへと変わる。
(町の外に向かってるのか。ますます当たり臭いな……。しかし、ストーカーみたいじゃないか、これじゃあ)
そもそも「当たり」だった場合にどうするのかということを決めていないので、ただつけ回しているだけになっている。普通に話しかけてみてもいいが、本物なら強く警戒されそうだ。とはいえ、住居までのこのこ付いていくというのもありえない話だろう。
(もっと近くに行って、わざと見つかるようにつけるってのはアリかもしれん。本物だとしても、いきなりゴーレムけしかけるとかはないだろ。
見つかって、どういうつもりか訊かれたら「お姉さん、あの子名前なんていうの?」とか。すれ違ったときちらっと顔が見えた、すごく可愛かった、とか少し恥ずかしそうに言えばいけるかも。うん、とりあえずそれで行ってみよーか)
ストレートな言葉の使いどころを知っているという点で、頭が大人な人間はたちが悪かった。
ラルフが汚い小細工を考えていると、前方の二人に変化があった。妙に顔を伏せ、こそこそとしている。
(うん? あー、騎士か……そんなこそこそしたら逆効果だろうに)
行く先に、白い鎧の騎士がいた。単なる衛兵などではなく、軍杖を備えたいかにも騎士といった姿をしている。兜こそかぶっていないが全身を覆うプレートメイルが物々しい。
ラルフが危惧した『逆効果』は見事に的中し、騎士が二人に目を止め、呼び止めてしまった。
「そこのお嬢さんがた!」
ビクリと反応する二人。見ているラルフも思わず緊張する。
(捕まらん、よな? 捕まったら話が違う。ああでも、そうなるとは限らないに決まってる。何より俺が決めつけてどうする? よりによって俺が!)
不自然でない程度には距離を開けているが、敏感なラルフの耳には彼らのやりとりが大体聞こえる。
「……です」
「そうか。それならばいいが……でいたので気になってな。妹さん共々よく顔を見せてくれ……」
「あの、妹は、顔に……がありまして、ちょっと……」
(おい。おいおいおい。本当にまずい流れなんじゃないのかこれは)
むしろ自分のほうが顔を見られたくないそぶりでもしてろ。ローブで耳だけ隠して顔を見せるくらいできるだろ。下手な嘘をつくな……などとラルフは祈るが届くはずもない。案の定なにやら揉め始めた。
(これは……駄目だ)
すでに騎士は姉のほうのローブのフードに手をかけようとしている。
もし自分が手を出せば彼女たちが捕まらないというのなら、それもまた物語の一部か。馬鹿げた話だ。目の前の二人が捕らえられると自分にどんな不都合があるというのか。ないかもしれない。本物なのかどうかすらはっきり確認出来ていない。だが、それを止めるのは今しかできないのだ。今だけしか。自分にしか。
カツン。
「女性に無理やり手を出すのは良くないです」
とっさに出た言葉がそれか。何を言っているのやら。内心で自分を馬鹿にしながらも、ラルフは結局行動した。杖を抜き、剣の背で騎士の腕を上に払った。
「っなんだ、お前は! 剣など……杖。メイジか。子どもが調子にのって手を出すな」
いきなり剣を抜いた少年相手に怒るのは当然の反応だが、騎士は一目でラルフの剣杖をメイジの杖と見抜いた。男臭いがっしりした顔をしている。年の頃は三十を超えたあたりか。脂の乗った年代だ。
自分で自分が馬鹿らしくなりながらも、ラルフはそのまま行くことにした。つまり、勘違い紳士貴族少年を演じ続けることにした。このまま『レディの名誉を守るための決闘』でも挑んで適当にやっておけば、二人が逃れるには十分なはずだ。
「僕はあなたがこちらのレディに無理やり手をかけようとしているのを止めたのですよ。恥ずかしくないのですか? 自分の行いが」
むしろ恥ずかしいのはこっちだ、と思いながらも、それが顔に出ないようにラルフは必死で表情を繕って騎士を睨んだ。
「何を馬鹿を言っているんだ貴様は。……おい、何を勝手に行こうとしている」
(止まるな!)
内心の叫び虚しく、姉妹は立ち止まってしまった。
「行ってください、お姉さん! この僕が成敗おきます!」
「――ああくそ。お前はもういい……」
アホらしさにラルフはもう破れかぶれ。騎士もいい加減頭に来たらしかった。
礼を言うように軽く頭をさげると、姉は妹の手を引いて駈け出した。自分を相手にせず姉妹を追おうと走りだそうとした騎士に後ろから近寄り、ラルフは剣杖の柄を首の後へ叩きつける。照れといら立ちでもはや本気の一撃となったそれを、完全に目を離していたにも関わらず騎士は片腕で防いだ。予想を超えた反応。ラルフは内心で舌打ちしながら僅かに距離をとった。
日々の稽古で、剣一本でも並の相手ならば叩き伏せる自信があった。どうやら相手はそれなり以上の腕だ。自分と同程度か、それとも自分より上か――不意打ちを防いだのだ、自分より上かもしれない。しかし、とにかくもう手を出してしまった以上は引き返せない。自分の剣を過信しすぎたかもしれない――頭をよぎる考えをどうにか圧し殺して、再び目の前の騎士を睨む――とそこで未だに視界の端に先程の姉妹が残っている……立ち止まり、こちらを見ている事に気づき、ラルフは思わず叫んだ。
「とっとと行けぇ! 何のためにやってると思ってんだ!」
姉妹は慌てて走り出し、ようやく視界から消えた。これで、あと少しこの決闘もどきをやって時間を稼げばラルフも逃げられる。騎士は意外そうな顔になった。
「それが地か」
答えず、自分を鼓舞するように短く《風》のルーンだけを唱え、ラルフは疾風となって騎士へ斬り込んだ。
「いいからひっくり返ってろ……よっ!」
風に乗って懐へ高速で飛び込んだラルフはそこから奇をてらって変化し、回転するように背後へ回って剣杖の背で首を狙う。しかし白い騎士はこの一撃を落ち着いた対応で半歩動いて受け止めた。
ニ合斬り結んで、ラルフは相手が自分よりも上の剣士だと確信した。フェリクスほどかけ離れている感じはしないが、明らかに勝てる手応えではない。膂力はもちろん、技量も上。さらにこちらに殺意がなく、相手が全身鎧というのが最悪だ。
飛び下がりながら《風(ウインド)》を自分の体に受け、大きく距離を取る。剣の間合いから、魔法の間合いへ。時間はそれなりに稼いでいるはずだった。あとは《エア・ハンマー》あたりでぶっ飛ばして逃げればいい。
「面白い風の使い方をするな……。
――おいローレンス聞こえるか! こっちに来い! あと呼べるなら応援を呼べ!」
「なっ!」
風の魔法《伝声》を使った声で仲間を呼んだ白い騎士に、ラルフは一気に青ざめた。名前からしておそらくは相棒か部下だろう。ただでさえ厄介な相手なのに、これ以上不利な状況になったら自分まで逃げ切れなくなるかもしれない。
ラルフは踵を返し《フライ》を唱えて低空で全速離脱。町の外へと向かう。騎士は周囲を見渡して一瞬だけためらったものの、すぐに同じく《フライ》で後を追った。
□
《伝声》を使った独特の通る声が響いてきたとき、フェリクスは両替を終えたところだった。何かあったか、とちょうど振り返ったところに、白いプレートメイルの若い騎士がいた。
「な、なんだ? マーカスさん? こっちってどっちだよ?」
騎士はなにやら動揺してきょろきょろしている。お仕事ごくろーさん、と新米臭い雰囲気の騎士の脇を通り抜けたところで、さっきまでいた場所にラルフがいないことに気付いた。
(まさか巻き込まれたりしてないよな……)
フェリクスは急速に不安になる。なんだかんだで大した問題はなかったが、この街に来る前のラルフの態度は何かやらかしてもおかしくないもので、意味不明な周辺の村や森の探索と合わせ彼を不安にさせる要素としては十分すぎた。慌ててあたりを見渡すがやはり姿がない。騎士と同じくきょろきょろとしているうちに上から気配があり、はっとして振り返ると見事な大鷹が騎士に向かって舞い降りてきていた。
「ああ、オリヴァーが案内してくれるのか。あとは応援……って無理だな。行こう!」
鷹が飛び立ち、若い騎士が駆け出す。
(呼んだ方の使い魔か……そうだ、使い魔)
フェリクスの使い魔は小さなハヤブサだ。あまり戦力にはならないのだが、視覚共有においてはかなり便利な使い魔。視界を移して見ると、運良く見慣れた赤紫のしっぽ頭はすぐに見つかった、が。
(おいおい嘘だろ、なんで追われてるんだよ……!)
しかも、よく見れば白い騎士のマントにはアルビオン王国の紋章があるではないか。つまり彼らは領主の兵などではなく、王国騎士ということになる。身元がバレた上で捕まった場合、洒落では済まない事態になりかねない。
(応援は無理とか言っていたな。なら、まずはあの新米くんに合流されるとまずい……のか?)
状況がつかめないながら、フェリクスもラルフを先頭とした追跡に加わった。