諸々の詳細を省いて、結果だけを言おう。
怒りとか何らかの補正の力で一時的にヨグ=ソトースの力に覚醒した大導師の一撃を受け、俺は時空の狭間を彷徨っていた。
「ううむ」
大導師の破れかぶれな一撃でシルエットを崩したアイオーンを体内に格納し、人間形態で両腕を組み、思考を走らせる。
一説によれば、時間というものは人間の持つ知性と呼ばれる世界に対する知覚法の一種によって定義されているだけのものであり、実際には存在していないのだという。
存在していない、というと語弊があるか。
要するに、人間が正しいと判断している時間の在り方というのは、あくまでも人間にとっての正しさでしかないという事だ。
以前に機械巨神を取り込むために完全融合した時に視た世界線と時間の流れも、あくまで俺の人間としての知性を元に映像化されたものに過ぎない。
今現在、俺は時空の狭間にある。
これは文字通り様々な時間と空間、世界と世界の間の事を指す。
此処は完全に無限螺旋の外側だとも言えるし、ある意味ではここも無限螺旋の一部にしか過ぎないとも言えるだろう。
そして、ナイアルラトホテップとしての力を取り込んだ事で、俺はいわゆる管理者権限を用いて、この流れから外出することも可能。
……に、なる筈なのだ。本来ならば。
目の前に広がる時空の狭間、解りやすくこの光景を言語化するとすれば、ドラえもんのタイムマシン移動中といったところか。
長さも本数も出鱈目、回る方向も不規則で不安定な歪んだ時計の形をした時間、極彩色の蕩けるような泡に似た世界の群れ。
それらが織りなすトンネルを、俺は『真っ逆さまに前進』させられている。
トンネルの何処かに手を伸ばして干渉すれば、無限螺旋とは関係ない世界にも届く筈なのだが。
如何せん、ナイアルラトホテップと同格の神、ヨグ=ソトースの力が変に作用しているらしい。
俺の進行方向はどうしようもなく一直線で変化が不可能。
高速で駆け抜けている為か、世界を構築する泡の輝きだけが流れ、眼に焼き付く。
やることのない現状だが、この光景は嫌いではない。
見ていて飽きないとまで言うつもりはないが、気分が高揚する光景であることは確かだろう。
思わず唄でも歌いたくなる様な美しさだ。
「みあーげるーほしー」
しかし、それぞれの歴史が輝いてるのはいいんだけども、それに一向に手が出せないのはなんという生殺しであるか。
強いて言うなら、システム的にはインパクト形式でシナリオをある程度自由に選べるのに、何故かどれを選んでも道順のシナリオが選択されている感じ。
運命干渉、世界書換のどちらを使ってもこの現象を解除できない。
この現象がヨグ=ソトースの力によるものであれば、同格のニャル権限で多少なりとも修正が効くかとも思ったのだが、ビクともしない。
ここが運命の存在しない世界の外であるからか、ニャル権限でも操作出来ないような強制力が働いているのか。
最悪、何処かの世界の何処かの時間にたどり着くのは間違いないから、そこから復旧すればいいんだけど。
落ち着かない。
せっかくほぼ全能な力まで手に入れたというのに自らの行き先すら把握できないとは。
これが電波少年の企画に巻き込まれた芸人の気持ちだとでもいうのか。
次の駅が過去か未来かさえ分かれば、多少なりともケツが落ち着くんだが。
このぶっ飛び方からして、余程遠くの未来か過去にたどり着く、というのは何となくわかるが。
未来でグレート・ウォーとかあって面白そうだし、行くならやっぱり未来かな?
今更外伝小説の時間軸に落とされてもやること無いし、クトゥルフ神話の過去地球とか、混沌としてるにも程があるからなぁ……。
「お」
強制力が緩まりそうな気配。
そろそろこの時空の狭間から抜け出せる気がする。
虹色の泡の煌きが遠く色を失い、粒に、模様に、点としてすら認識出来なくなるほど遠くへと離れていく。
歪んだ時間も俺の知る限りの正常な形に整い始めている。
全体像を顕すなら、トンネルの彩度が際限なく上がり、光の中に落ちていくような光景。
ヨグ=ソトースの力からの干渉が弱まり、一定の時空に定着しようとしているのだ。
何処の何時に出るのだろうか。
とりあえず、現状の俺が取りうる最強形態として、アイオーンをベースにチクタクマンとしての力を全面に押し出した形態へ移行。
機械・科学を下地として存在するチクタクマンは俺との相性も抜群だ。
この形態を取っていれば、並のナイアルラトホテップであれば十数、数十相手にしても、分身合戦や無限増殖を込みで考えても余裕を持って勝利できる。
これで、余程の事が無い限り、安全に対処できるだろう。
トンネルが解け、泡が弾け、時計のゼンマイがキリリと音を立てて巻かれる。
狭間から抜け出し、空間が固着し、時間は正常な形で運行を始める。
通常空間へジャンプアウト、カウント開始。
2、1──
──0。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
肌に触れる大気を実感し、俺は初めて正常な時空に辿り着いたのだと理解した。
邪神の、機械の甲鉄(はだ)にすら生暖かい、濃度の高い二酸化炭素。
気圧も尋常ではなく高い。人間なら大気成分云々で呼吸が出来る出来ない以前に、ここに出た瞬間に下手をすれば死んでしまうのではないだろうか。
……死ぬ、かな? 人間の改造は手慣れたものだが、お陰で素の人間がどれほどの気圧で死ぬか生きるかは意識の外にある気がする。
まぁ、機械の神たるこの身からすれば誤差程度のものなのだが。
だが、鬼械神と一体化しているのではなく、普通にロボットに乗り込んでいたのなら話は違っただろう。
こうして機械の身体で居るから気にならないが、気温だって蝋燭の青い炎程度には高い。
スーパーロボット系の連中ならいざ知らず、下手なリアル系の連中など連れてきた日にはコックピットの中で蒸し焼きに成っているところだ。
目(メインカメラ)を開く。
目の前に広がるのは荒涼とした砂漠でも荒野でもない。
それは朱く煮え滾る原始の海。
視界を分厚く遮るのは高濃度の蒸気で、この惑星の重力圏一杯に広がっているようだ。
透視能力を使わなければ、数メートル先の視界すら確保できない有様だ。
未来か、過去か。
それは解らないが、ここはどうやら産まれたての惑星であるらしい。
少なくとも、死にかけの惑星ではこの生命力ですらないエネルギーの海練を味わうことは出来ないだろう。
空を見上げれば、そこには薄っすらと消えかけている、塵とガスで造られた巨大なリング。
そして、その中心に形成された巨大な衛星……いや、恐ろしく近い距離に浮かぶ衛星。
天の光はどこか心もとなく、あの空の恒星もまた、この惑星と同じく産まれたてであるのだろうと理解できる。
目を凝らし、星の並びを確認する。
覚えがある並びとは大きく違うが……面影があるようにも思えた。
サイトロンを使い、未来の情報を手元に手繰り寄せる。
この惑星がもう少し冷えた後の出来事。
大気が冷却され、大気に充満する水蒸気は雨となり、雨はマグマの海に降り注ぎ蒸気となり、蒸気はすぐにまた雨として降り注ぎ、煮え滾るマグマの海を冷やし、固めていく。
それは終わりのないループのようでいて、終わりの約束された循環だ。
かつて慣れ親しんでいた隣人にして憎むべき敵とも言える熱力学第二法則に従い、次第に雨が蒸気に返る速度は減速し、マグマの凝固した大地にはシアン化合物やホルムアルデヒド、アンモニア、硫化化合物、窒素化合物、炭素化合物が溶け込んだ水が溜まり始めた。
あまりのも毒々しい成分。命の生まれるような環境ではない。
毒の噴出したマグマが冷え固まった小さな火山島と、それを遥かに上回る面積を占める毒の海。
そこに、再び多量の隕石が降り注ぐ。
降り注いだ隕石はその大半が海に落ち、無数の鉱物の元、炭素やアミノ酸を溶かしこんでいく。
解け出した隕石の成分、絶妙な位置に浮かぶ歪な衛星から受け取る重力が、荒れ狂う雷が作用し、この毒水の海に生命が生まれる。
神の御業ではない、全くの偶然、誰に望まれる訳でもなく、何の意味すら含まずに。
全くの無力、無価値な命。
異能一つ持つことなく、イタズラに増え続けることしか出来ない命の最低単位。
サイトロンの届ける奇跡のような光景に、ガラス質のレンズに涙が溢れる。
確かに、確かにこの原初の海から、命が生まれたのだ。
サイトロンはなおも俺に未来を見せる。
漠然とした、この惑星の全情報を届けていた予知は、補足した最初の命を起点に情報に制限を掛け、加速。
駆け巡るのはこの星の歴史ではない。
この惑星の表面を這いずり回ることしか出来ない生命の歴史。
原始的な、最低限の機能すら危うい単細胞生物だったそれらは、突然変異を、環境適応を繰り返し、はたまた、何ものかの手を加えられ、
俺の良く知る、地球人類へと辿り着くのだという。
「おお……ここが、地球」
新しい命の星の誕生だ! ハッピーバースディ!
つまり、現在地は超古代……それも、まだ微生物どころかまともな海すら形成されていない様な段階の地球なのだ。
なんとも、なんとも可能性に満ち溢れた時代に辿り着いたものではないか。
降臨者(ウラヌス)みたいなのが居ないのが不満といえば不満だが、まだ未来の総てを見通した訳ではない。
何しろ、俺は無限螺旋という軛から半ば解き放たれ、こうして過去の地球に降り立つ事ができたのだ。
元の時代に戻って無限螺旋を回すにしても、来ようと思えば観光気分で時空を越えて探索に訪れる事も不可能ではない。
無限螺旋の中でやることが無い訳ではないが、正直、あの時代は出涸らしと言っても過言ではない。
姉さんとの生活や美鳥とのじゃれあい、序にシュブさんところでの料理談義や趣味悠々な時間を除けば、総てのことが色あせ始めていたと言っても良い。
「……」
なんだかそわそわしてきた。
地球を過剰に加熱して溶解させたことは幾度と無くあるが、地球それそのものがこういった状態で『生きて』居るのは、俺にとっても全くの未知の状態だ。
この大気の状態も、渦巻く気流も、似たような物を視たことがあったとしても、体験したことのない『未知』である。
これは、そう、元の時代に戻る前に、ちょろっと探索をやらかしてしまってもいいのではないだろうか。
ついでに、ちょっと調子こかせて貰って、原始地球のマグマとか、回収してもいいよね?
「やだなぁ……少し、ほんの少し……出来ればバイオスフィアとか作れちゃう規模、採取するだけじゃないですか……」
これだけ大量にあるなら、大陸1つ分くらい採取しても構わない気がしてくる。
取り込んで複製作って補填するから、多分害は無いし。
だが、採取よりも先に、この原始地球をぐるりと一回りしてみるのも悪くない。
無限螺旋だけでなく、これまでのトリップで得た経験をひっくり返しても思い当たらない様な状況なのだ。
帰巣本能よりも好奇心を優先させる事があってもいいではないか。
俺はそう自分に言い聞かせると同時に、透視能力を封印、センサー類も最低限のモノに切り替え、サイトロンとの接続も切断する。
せっかくの初めての光景、全て手探りで味わってみたい。
透視能力もセンサーも悪くはないのだが、蒸気を退けるという一手間を省略するのは、この原始地球を味わう上では、とても勿体無い事に思えてならない。
風を操り、蒸気を退けて視界を開く。
退けられた蒸気が結合し一時的に雨として降り注ぐも、それはマグマを冷やすよりも早く大気の熱に炙られて蒸気に還元されていく。
再び空間を蒸気が占めるよりも早く前に進み、再び蒸気を退けていく。
身近に自然を感じられない都会人などは、山道の雑草を掻き分けるにもこういった感情を得るのだろう。
野山を掛けて過ごすのが基本とも言える田舎暮らしの俺からは想像もできない境地だと思ったが……成る程、これは癖になる。
未知へ繋がる路を自らの手で開いてく感覚は、確かに胸を踊らせるに足る熱量がある。
蒸気の切れる短い時間に目に映るマグマ・オーシャンに包まれた地球の姿は、まるで細胞分裂を行う受精卵。
はたまた、生命という不純物を含まないが故の純粋な星のあるべき姿か。
目に映る何もかもが、俺の心を擽る未知で満ち溢れている。
一見してどこも同じようなマグマでさえ、流動する中に存在する無数の支流があり、混沌としたその成分は刻一刻と移り変わり一処に留まることを知らない。
霧の濃度もそうだ。
飽和状態の様でありながらやはり所々で濃度は変化を繰り返し、荒れ狂う大気は木が燃える程の熱量を含んだ横殴り、逆巻く雨を吹き散らす。
「おや?」
ふと、視界を暗闇で覆う蒸気の壁を貫き、強大なエネルギー反応を確認する。
単純な熱量でもあり、巨大な質量をも持ち、絶大な振動のようでもある超々超高エネルギー体。
追従するように、そのエネルギー体に似た小型のエネルギー塊が存在している。
これは……間違いなく、ボスとなる巨大な個体とそれに従う軍団。
知性どころか生命すら存在しない筈の地球には有り得ない存在だ。
俺は、好奇心の赴くままエネルギー体の方角に向けて飛び、霧を払う。
ゆっくりと飛んでいるつもりだが、乱気流に流されないように強く飛んでいるために加速は充分。
散発的にラムダ・ドライバで全方位に力場を形成、蒸気を吹き飛ばす。
次元連結システムは、というか、手っ取り早そうなメイオウ攻撃は使わない。
採取する分には問題ないが、貴重な原始地球の元素を無為に消滅させるのは本意ではない。
まぁ、これだけ無限螺旋の中で大量に物を取り込んだ俺が居る以上、破壊魔ママンと同じ理論で絶対に生命は誕生すると思うのだが、一応、万が一の可能性を考えれば配慮はしておくべきだろう。
《────》
《──?》
思念、とも呼べないような原始的な意思のテレパス。
誰何の声というか、ざわめく茂みに向けて吠える獣のようでもある。
なるほど、俺があちらを不審に思うと同時に、あちらも俺のことを不審に思ったのだろう。
こちらの位置情報を欺瞞している訳でもないので、多少の超能なりセンサーがあれば、容易くこちらの位置を把握出来るはずだ。
巨大な意思は不思議と沈黙を保っている、こちらに意思を投げてくるのは周囲の小さな反応のみ。
《────!》
「ほうほう、それはそれは遠路はるばる」
《──、──!》
「いえね、私も今さっきこの星に辿り着いたばかりでして」
霧越しの会話。
原始的な思念だと思っていたが、ある程度翻訳が済むと、それが誤解であることがわかってくる。
常人である俺とは思考形態が異なりすぎるため、同じ形式に当て嵌めようとすると単調な内容になってしまうのだ。
思念を簡単に文章化すると、こうなる。
さる強大な存在である彼(彼女? 普遍的な性別がない可能性もある)の主の遠征に付き合い、生まれて間もないこの星に辿り着いたが、主は余りこの惑星に惹かれる物を感じないらしい。
この銀河系の恒星にも少し立ち寄ったのだが、あの恒星は小さく幼すぎるために、やはり主の嗜好には合わないのだとか。
思念の主はとても理知的であるが、同時に激情家でもあるらしく、語り口は激しい。
何か主を楽しませるようなものは知らないか、と聞かれたのだが、残念、俺もそれを探しに行くところなのだ。
《── ──》
「ええ、構いませんよ。袖すり合うも他生の縁と言いますしね」
成る程、この従者さんの言う事も一理ある。
生命体すら存在していない未開の銀河、産まれたての惑星でこうして異種族である俺たちが出会えたのはとても素敵な偶然。
彼の主も、気さくとまでは言わないまでも、自らを崇拝する相手には加護を与える程度の慈悲は備えているらしい。
旅先で出会った旅人と、記念に顔を合わせる程度なら何も問題ないだろうとの事だ。
思念に誘導されながら霧を吹き飛ばしてく。
蒸気を吹き飛ばし、思念の指定する場所に近づくにつれて気配が濃くなっていくのがよく分かる。
この世界観で惑星そのものにどれほどの力があるかは不明だが、後に魔術師や異能者を生み出すだけの下地はあるだろうし、やはり霧自体にも何かしらの力が働いているのかもしれない。
そうでなければ、これだけの思念を放てる存在の主ともあろうものの威圧感を感じない訳がないではないか。
《────!》
もうそろそろ、互いを正確に認識できる距離に到達する。
それを感じているのだろう、思念の主も興奮気味だ。
強大な存在感、圧倒的な情報量のエネルギー塊、その溢れる余波を感じる気がする。
……しかし、熱い。暑いではなく熱い。
元からそれなりに温度が高い大気だったが、ここに来て妙に熱く感じてきた。
ふと、体感温度を正確に数値化し──目を背ける。
ここは仮にも惑星上、何故、恒星の付近に匹敵する様な温度になっているのか。
蒸気がプラズマ化しないのは何故?
マグマが気化していないのは?
感じるエネルギーの種類は熱だけではない。
高振動、引力重力辰気磁気、力という力の集合体であり、それぞれの力の窮極とも言える高エネルギー体。
俺はそれを知っている。
セラエノ大図書館で見たではないか。
チャーハンの極意の一片を授かったではないか。
加護まで貰い、混沌を退ける力添えまでしてもらったというのに。
俺はまた何かを見落として、いや、見落としをさせられている。
気付いているのに、気付いていることに気付かせて貰えない。
だから、この行動を改める事はできない。
俺は相変わらず何も知らないていで喋り思考し行動し、知らないなりの結果を受け入れるしかないのだ。
衝撃波を放ち、蒸気を払う。
決定的なまでに、それと直面する。
生ける炎、というのは、人の知識で知り得るその神性の一面に過ぎない。
単純な炎ではなく、あらゆる力の極点に立つからこそ、混沌は恐れる。
《───────────────────────────────!!!!!》
全てが限界まで振り切っているというのは、ある意味で最も統制の取れた秩序と言える。
何もかもが存在するカオスなど、薙ぎ払われてしまうのが道理というものだろう。
当然、そんな存在の前に、『ナイアルラトホテップの権能を全面に押し出した状態』で現れたのだとしたら。
「うん、こんな事になるだろうと思ってた」
炎の神性《クトゥグア》は、目の前に現れた悍ましき土の神性を、一撃の元に薙ぎ払っ
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
ざく、ざく、ざく。
土を切る音が聞こえる。
その音を聞く俺は何処に居るのだろうか。
やや朦朧とする頭を無理矢理に働かせ、直前の記憶を呼び覚ます。
そうだ、俺は古代の地球で運悪く鉢合わせしたクトゥグアに、出会い頭に焼滅されかけて……。
何が悪かったかと言えば、やはり調子に乗ってとりあえず最強装備的なノリでナイアルラトホテップ形態で居た事だろう。
これでナイアルラトホテップというか、土属性を完全に廃した形態であれば、少なくとも熱エネルギーによる破壊力は吸収してしまうことが可能だった。
やはり属性の相性は恐ろしい。
俺は虚数存在がどうとかいう部分まで、理屈抜きの高エネルギーで焼きつくされてしまったのだ。
ざくざく、ざくざく、ざくざく。
土を切る音が聞こえる。
懐かしい音だ。故郷に放置してある畑を思い出す。
だが、何故土を切る音が聞こえるのだろう。
時空を飛び越えるような感覚は無かったし、少なくともここが地球であることは間違いない。
ということは、既に土を掘る事が可能な程度の進化を果たした生物が生まれる程に時間が経過したと見ていい。
土を切る音は景気よくリズミカル、とまではいかないが、確実に一振り一振りが深く土を抉っているのが解る。
ざくざくざく、ざくざくざく、ざくざくざく。
先程よりもリズミカルで高速だ。掘削者もノッてきたのだろう。
節足動物ではこれ程までの掘削力は持てない、とは言わないが……どちらにせよ、古生代中期頃だろう。
四十億年近い居眠りとはたまげたものだが、マグマの海ですら無い、植物すら存在しない時代というのは目覚めるタイミングとしては──
ざくざくざくざくざく、ごしゅ。
思考を物理的に絶ち切らんばかりの鋭い一撃が、頭蓋を刺し貫く。
鋭い一撃、まるでスコップのよう。
俺の頭蓋骨を一撃で貫通するとは……大したスコップだ。
ざっざっざっざっざっざっざっざっざ──ぼさっ。
固い何かではなく、柔らかい何かで土を退けていく音が聞こえ、視界が開けた。
なるほど、先の土を切る音、頭に突き刺さったままのスコップ。
俺は土の中に居たらしい。
「………………」
俺は無言のまま、俺を発掘した下手人の顔を見つめる。
「────────」
目の前に居るのは、まるでひとしくん人形の様な懐かしい雰囲気の探検服に身を包んだシュブさん。
絡み合う視線。
シュブさんは気不味い表情のまま、俺に問いかけてきた。
「──怒っ──?」
「怒ってないですよ」
うん、何処に怒りを覚える要素があっただろうか。
埋まっていた俺を発掘してくれたのは間違いなくシュブさんであり、そうでなければ俺は暫くはあのまま思考を遊ばせ続けていただろう。
無為な行為だとは言わないが、それは土から脱出してからでも充分に間に合う。
「ご、──ん──い」
謝る必要なんて無いというのに、何故か身を小さく縮こませて謝るシュブさん。
なんと言うべきか、とりあえず、俺は居心地悪そうに縮こまるシュブさんを宥めるため、土の中から身体を出す事にした。
ブラスレイターのタイプ1『バアル』にデモナイズして、シュブさんに土がかぶらない程度に勢い良く俺を囲う土塊を砕く。
それは土というよりも岩に近い材質だったが、まぁ、強度的には誤差の範囲内だ。
シュブさんの目の前に立ち、頭に刺さったままだったスコップを引き抜きながら、人差し指を立てて応える。
「切れてませんよ。俺キレさせたら大したもんですよ」
ええ、切れてるのは頭部の頭蓋骨だけですよ、ええまったく。
デモナイズしたけど、これも特に意味がある訳じゃないし。
最近デモナイズしてないから、感覚を忘れてないか確かめるために試してみただけだし。
いきなり頭をちよパパみたいに切断されかけたとか、一生懸命土を掘り返しただろうことが伺える泥だらけのシュブさんの少し本数が増えた触手とか見たら、講義する気も起こせないし。
「因みにこのスコップの材質が地球上に存在しない不可思議な超物質で出来てて、これなら土どころか玄武岩でもプリンみたいに簡単に掘れるんだろうなーとか思うけど、普通のスコップなら頭には刺さらなかったんじゃないかなーとか愚考するけど、別に怒ってないですよ。ほんとほんと。あとこれ何処で買えるんですかね。ジャパネット? すっごく切れ味いいですよね」
「うぅ───めんって──」
別に詰め寄っている訳ではないけど可能な限りの至近距離から、特に目的もなく背部の装甲付き触手四本を躍動感たっぷりにうねらせながら謝らなくていいと伝えると、何故だかますます小さくなるシュブさんの姿を見て、俺は装甲の下で、特に理由もなく嗜虐の笑みを浮かべるのであった。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
ひとしきりシュブさんとのコミュニケーションを楽しんだ後、改めて現状を確認。
大きく深呼吸をして吸い込んだ大気には、最初に訪れた時とは比べ物にならないほど多量の酸素が含まれており、呼吸器官が頑張って進化すれば生きていける生物も出てきそうだ。
温度は……元の時代に比べてかなり高い。
おおよそ三十度程度だろうか、細菌などがとても繁殖しやすそうな温度だ。
空を見上げる。
太陽を眺め、その速度から地球の現時点での自転速度を計算。
一日が十八時間程度か。
体内時計を再設定……完了。
これで規則正しい古代地球ライフが送れるというものだ。
「しかし、本当に何も無いな」
大気成分は問題ない、気温だって上々。
しかし、肝心の大地は本気で殺風景極まりない。
スパロボ世界の火星、しかもコロニーから離れた、テラフォーミングだけされて植林もされずに放置されている地域によく似ている。
見渡す限りの荒涼な光景。
山もある、丘もある、平野もある。
だが、それだけ。
草木なんて望むべくもない。
「他の場所ってどんな感じでした?」
念のため、既に発掘を開始していたっぽいシュブさんに尋ねる。
しかし、シュブさんはふるふると首を横に振った。
「こ──代に来──ぐに君を掘り──から、他の場──解────」
「なるほど」
如何にも『発掘しますよ!』みたいな衣装だから、既にあちこち回った後だと勝手に思っていたが、そうでもないようだ。
まぁ、あのまま放置されたら、大きな音を出せる生き物が地上に現れるまで目覚めなかった、もしくは目覚めたのに自分でも気付かなかった可能性もあるし、そこはありがたく思っておこう。
さて、活動を開始するにあたってやはり重要なのは、今は元の時代から見て何億年前であるか、という事だろう。
この世界は基本的にデモンベイン世界、ひいてはクトゥルフ神話世界観を元にして造られている訳だが、それもどこまで当てになるかわかったものではない。
ニャル記憶を探ろうにも、未だにクトゥグアにやられたダメージから回復しておらず、全能機能含めて修復には億年単位で時間が必要になるからだ。
しかし少なくとも、バクテリアや藍藻以外の複雑な生物の起源が全てウボ=サスラにある、という事は無いだろう。
サイトロンが俺に見せた未来、その中で見た単細胞生物の業子力は、進化の力を持たない生物だと考えるには余りにも膨大だった。
差し当たっては、地球全土に観測機を飛ばしたい所なのだが……。
出ない。
事前に登録しておいた偵察用の端末が出ない。複製を作れない。
まるで七日目の便○(ピー)の如く、コーラッコもドヤ顔でお手上げ状態になるレベルで出ない。
どれくらい出ないかって、虫ベースのみとか哺乳類ベースのみとかそういうレベルでなく、端末が全部出せなくなっているではないか。
いや、端末を複製できないだけではない。
他にもかなり複製できない物が出ているし、機能の一部も使用不能に成っている。
勿論、美鳥だって作れない。というか、内部に美鳥の思考用スペースを形成することもできない。
ブラスレイターの機能は充分に使えるし、知識の方にも問題はないから、突発的に殺される事は無いと思うが……。
「と──ら──一周り──認し──の──い──」
「ふぅむ……、まぁ、それが一番妥当な手ですか」
シュブさんが提案するのは、観測機に頼らない、いわゆる脚を使った調査。
しかも、単純にダッシュで世界中を駆け巡る訳ではないし、空をマッハで飛んで空を支配する訳でもない。
常人のそれと同じ速度で移動しながら、地質や大気成分、地磁気、生体反応などを探る調査を地道に行なっていくというものだ。
確かにこれならどれだけ機能が制限されていても必要分の情報は手に入る。
時代によってはかなりの頻度で地殻変動が起こって地形が変化するだろうが、おおまかなマッピングをする程度であれば何も問題はない筈だ。
とりあえず西へ向かおう。
何処に向けて移動しても変わらないけど、この時間からなら沈む夕日が見られる筈だ。
それほど急ぐ訳でもないし、夜に日が沈んでからまで調査を行おうとは思えない。
初日の探索を、夕日の望みながら終えるというのも乙なものだろう。
「それじゃシュブさん、早速行きましょうか」
「──」
短く頷いたシュブさん。
俺は身一つ、シュブさんは背に負うカバンとスコップ一本。
バイクなり車なりは複製出来るはずだが、最初からそこまで急ぐ必要もないだろう。
荷物をまとめる手間すらなく並んで歩き出す。
風の音、地下でうねるマグマの音を除けば、俺達の耳に届く音は互いの出す身体の音だけだ。
俺も発掘直後は全裸であったため、シュブさんを見習い、一昔前のレトロな探検服に着替えてある。
音楽でも掛けようかと思ったが、止めた。
音楽は何時でも聞ける。
それこそ、元の時代に戻った後でも、これから気が変わった時にでも。
今しばらくはこのまま、俺とシュブさん以外には生き物一つ居ない地球の音を楽しむ事にしよう。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
何処まで行っても土、岩、土、岩の山と荒野を歩くこと数時間。
夕暮れとまでは行かないまでも、少し日が傾きはじめた頃。
「ここをキャンプ地とする!」
伏字も検閲も訛りも誤訳もない、ハッキリと耳に届く言語によるシュブさんの宣言により、野営を行うことになった。さすがシュブさん、気風がいい。
そして、野営に必要な物、即ち雨風を凌ぐ何かしらが必要になった。
複製が作り出せなければ、最悪コックピットが六畳間のアイオーンの招喚形式を改良して、コックピットが2LDKなアイオーンを作るはめになるかもしれないのだが……。
「──押し────の?」
「そうですそうです。それをロープに対して垂直に……そうそう」
不慣れな手付きでテント固定用のペグ(杭)を岩盤に素手で突き刺すシュブさん。
なんでもそつなくこなすイメージのあるシュブさんだが、こういうキャンプの用意はあまりしたことが無いらしい。
野外で野営、というか、祭事に関わることはあったが、その場合はその他の参加者が事前に行なっているため、シュブさんの手出しが必要になったことは無いのだとか。
大衆食堂の細腕(軽い一振りで並の鬼械神が大破する)繁盛記なイメージのあるシュブさんだが、店を始める前は意外といいとこのお嬢さんだったりするのかもしれない。
幸い、無事に複製できるリストの中にはテントも入っていた。
スナフキン型──ワンポールタイプのテントではなく、少し広めのドームタイプ。
これは、素直に幸運だったと言っていいだろう。
ワンポールタイプのテントは複数人数で眠るには少し狭い。
二つ複製を作ってもいいのだが、シュブさんが主張するには『未知の存在が襲撃してきた時、別々に寝ていたら危険』らしい。
逆に『襲撃された時に一網打尽にされる可能性があるのではないか』とも思ったのだが、この議論は堂々巡りになるので、大人しくシュブさんの案に従っておくことになった。
男女七歳にして席を同じうせず、とはいうが、ドームタイプは三人用。川の字で計算して、人一人分のスペースを開ける事が出来るのだから、風紀的な問題は無い筈だ。
テントを設営し終えた後は、少し早いが夕食の準備。
本来なら、その時代時代の生物を材料にして食事を楽しむべきなのだろうとは思うのだが、残念な事に、初日ではそもそも植物にも動物にも出会えなかったので、材料はこちらの持ち込みである。
幸い、過去のループにおいてクトゥルフの脅威が去った後に銀河系の運行速度ごと時間を加速して数度行われた『全世界農地化作戦』及び『全人類農奴化計画』によって収穫された多量の作物が亜空間に投げっぱなしである。
お陰で暫くは自ら作り出した複製を再び口から摂取するという、なんとも味気ない気分を味わう事はないだろう。
俺が野菜なら、肉は勿論シュブさんの持参したラム肉。
ラム肉だけでは寂しかろうと、それ以外の肉もある程度用意してあるらしい。
可食生物が誕生するまでの繋ぎとしては充分なラインナップと言えるだろう。
「ご飯はどうします? 少し時間かかりますけど、米粉パンとかもいけると思いますが」
「早──食──通に炊くの──い」
「そうですねー、鍋の方も大分煮えちゃってますし」
亜空間から精米済みの米を飯盒に流し込みながら、シュブさんの手元の鍋を覗き込む。
お湯に浸された人参、ジャガイモ、謎の肉、ルーにコクを与える飴色に炒めた玉ねぎ。
即席の竈で火にかけられたこの鍋の中身、玉ねぎを無視すれば肉じゃがにもシチューにもできそうなラインナップだが、今日のメニューはカレーだ。
キャンプといえばカレー、これは日本においては国法の一つである為、決して無視できるものではない。
これを無視してシチューを作ると、地域によっては二年以上の禁固刑を食らう事もある重い法律である。
「───♪──♪─────♪」
コトコト煮える鍋を鼻歌交じりに見張るシュブさんを横目に、自分の作業を開始。
飯盒の中の米に手を突っ込み、手から水を複製し、米を研ぐ。
ある程度糠が取れたら、糠の混ざった水だけを選り分けて表皮から体内に取り込む。
これを数度繰り返し、米研ぎは完了。
水を目分量で入れ、同じく即席で作った竈に設置。
待つことしばし、ご飯が炊きあがり、カレーも完成。
互いの皿にご飯とカレールーをよそい合い、膝の上に乗せ、手を合わせる。
「いただきます」
「──だき──」
ルーは市販のありふれたものだが、家で食べるのと外で食べるのでは味わいが違う。
周囲に設置した、防塵に軽い風除けの呪を乗せた陣は上手く起動しているようで、適度に軽減されたさわやかな風だけを運んでくる。
会話は無いが、無理に話をしなくても間が持つ程度には互いに慣れているつもりだ。
「──」
「どうしました?」
シュブさんがスプーンを止めて空を見上げている。
星の輝く宇宙に何かを見つけたらしい。
機械化帝国の来襲は大分先の筈だが、ポリプでも降りてきたのだろうか。
「あ──大き──知り合いの──」
「スケールでかいですねー……」
グーグルアースで『あ、これ○○ん家だ』みたいなものなのだろうが、よくそこまで視えるものだ。
むしろあそこまで遠いと、ここに届いているあちらの光景は数百万年とか数億年とかそれくらい昔の光景だろうに、見分けがつくのだろうか。
―――――――――――――――――――
食事を終え、食器を分解して取り込めば片付けは終了。
残りのカレーは亜空間に鍋ごと放り込んでおけば気が向いた時にいつでも食べられる。
食べずに取っておけば『地球最古のカレー』として何かしらの不思議パワーが宿るかもしれないが、間違いなくそのうち食べてしまうだろう。
片付けを終えてしまえば、後は眠るだけだ。
記憶封印があるとはいえ、無駄にラノベを読んで時間を潰すのも惜しい。
何しろ、一日が十八時間程度。
『一日が四十八時間あればいいのに!』
などと言い出す者の多い現代からすれば絶望的な数値と言える。
俺はともかく、シュブさんは眠らないと身体に悪いだろうし。
「あ──その──っと……」
テントの中、パジャマに着替え、布団の上で枕を抱えて女の子座りをしながら、もじもじと言葉を閊えさせるシュブさん。
さもあらん。シュブさん自身の提案とはいえ、恋仲でもない男と狭い密室で枕を並べるとなれば。
姉に誓ってやましい気持ちなど持ちあわせても居なければ、当然、同衾する訳ではないが、恥ずかしがるのが正常な反応だろう。
顔馴染みのニグラス亭の常連からの情報だと、彼女、それなりに男性経験もある筈なのだが、それでもこの初々しさを失わないというのは貴重な才能なのかもしれない。
「えと、ですね」
……問題があるとすれば、だ。
流石に、このシチュエーションでそんなリアクションを取られれば、俺の方も多少なりとも恥ずかしさを覚えてしまうという事か。
「こう、布団と布団の間に……」
天は自らを助くるものを助く。
一生懸命頑張って願いを叶えたところに自称神様がやってきて、こう言うのだ。
『いやーおめでとーおめでとー、君もホント頑張ったからさー感動して俺つい手を貸しちゃったよー』
『ホントなら努力報われずに挫折するところだったけどさーそこはほら俺の手助けのお陰? つーかね!』
『やマジでマジで。おめー頑張ったけど願い叶ったの結局俺のお陰だから』
神殺しの刃とか、そういう概念が生み出されるのも解るだろう。
何が言いたいかと言えば、自らの努力を誇りたいのであれば、実は手を貸してたんだよ、などという詐欺師のつけ込む隙を与えない完膚なきまでの自助努力が大事なのである。
「こう、置けば」
亜空間より取り出し、俺とシュブさんの布団の間に置いた旅行かばん。
近未来ドイツ以来の付き合いであるこれは、神などという不埒な存在の手によるものではない。
姉さんが俺に託し、俺が壊すことも無くすこともなく使い続け、持ち続けたからこそここに存在する、俺を助ける最善の一手。
実は堀越御所から出掛けにパクった部屋の内装の中に高級そうな屏風もあるのだが、テントの高さ的に引っかかりそうなのでこれは除外としておく。
「不慮の事故的なものも無くなる、んじゃないかな、と」
寝相が悪くて、相手の布団に潜り込んでました、みたいな。
小学生の頃の宿泊学習で同じ班の女子とそういう状態になった奴を見たことがあるが、成人してからでは洒落で済まされない。
「────」
コクコクと高速で頷くシュブさん。
駄目だ、眠る前独特の変な雰囲気で感情が高ぶってるっぽい。
これはもう、不慮の事故以外の諸々の障害には目を瞑るしか無い。
「あー、それじゃ、灯り消しますね」
身体にコンセントを突き刺して動かしていたランプ型電灯への電力供給をカットする。
テントの薄い屋根越しでは月明かりも殆ど届かない。
夜目が効かなければ、灯りを消した後も暫く横にならずに座り続ける互いの姿を視認すらできない暗さ。
無言のまま、暫しの間。
埒があかない。
「寝ます、寝ましょう」
「──ん」
互いに強く宣言し、音を立てて派手に布団に横になる。
ああ、しかし、何故シュブさん相手にこんなに緊張する必要があるのだろうか。
男女でのこういう場面は、これまでミスカトニックの課外授業で幾度と無く経験している。
気が知れた相手なら、更に気兼ねなく居られるものでは無いのだろうか。
地の底でマグマがうねり、外では風が鳴る。
生き物が居なくても、地球は無音ではない。
聴覚レベルを上げるまでもなく、地球自身が出す音がやかましい程だ。
「──……」
大地の脈動、風鳴りにも掻き消されず、シュブさんの寝息が聞こえる。
眠る時、誰かの寝息を聞くのは何時もの事だ。
姉さん、美鳥、ほぼ毎日同衾していればそれも当たり前。
だが、聞こえる寝息が他の人になったというだけで、感じるものは大きく違う。
それが良く知る知人のものとなれば、更に違う。
……そうだ、この疑問の答えを得た記憶がある。
得たという記憶はあるが、残念な事にニャルパワー共々絶賛データ破損中だが。
うむ、意味が無い。
(…………寝よう)
考えた所で答えの出る問題でもない。
俺は無理矢理に意識を切断し、睡眠状態へと移行した。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
新しい朝が来た。
昨夜、寝る寸前に何かあった気もするが、眠っている間に記憶と感情を最適化したお陰で目覚めも爽やかである。
「んー……」
伸びをすると、思っていたよりも骨の鳴る音が大きく響いた。
仕切りを置いているとはいえ、普段とは異なる状況であったため休みきれなかったのかもしれない。
背筋を伸ばし、布団の上に座ったまま数秒呆ける。
複雑な生き物の殆ど存在しない地球では、朝に小鳥の鳴き声を聞くことさえ望めない。
耳を澄ませるまでもなく聞こえてくるのは、昨夜と同じ地鳴りと風の音だけ。
いや、それともう一つ。
「──すぅ……」
気持ちの良さそうな寝息。
聞き慣れた寝息ではない、姉さんや美鳥の寝息であれば一発で聞き分ける事が出来る。
逆に言えばそれ以外の寝息は聞き分ける以前の問題なのだが、この場には俺以外にはこのひとしか居ない。
仕切りとして置いたカバンから身を乗り出し、寝息の主の姿を確認する。
「──」
掛け布団を蹴飛ばし、丸めて抱きついている、強いウェーブの掛かったショートカットの女性。
女性は寝言にもならない音を発する口の端からは僅かに涎が垂れて枕に染みを作っている。
起きる気配も無く、しかし死んでいるのではなく眠っているのだと一発で解る幸せな寝顔。
今の地球の自転速度から考えて、やはり一日はどう考えても十八時間程しかない。
つまり、日が出ている内だけ活動しよう、という縛りを続けるのであれば、あまり惰眠を貪り続けるわけにもいかないのだ。
何しろ一日の時間が六時間短い分、日が出ている時間もそれに比例して短くなっている。
寝こけている女性──シュブさんが目覚めていないのもそのためだろうか。
早寝早起きで知られるシュブさんだが、それも地球が24時間で回っている時のみに限定される。
昼夜共に三時間も削れてるわけだから、そりゃ24時間の体内時計で居たら朝も寝過ごすというものだ。
さて、ここで問題になるのは、起こすか、起こさないか、という一点に尽きる。
何しろ、この太古の地球に訪れて初めての夜明け(クトゥグアに焼かれる前のはノーカン)だ、出来れば日の出を見ながら朝食と行きたいが、俺の個人的な趣味、嗜好に合わせてシュブさんの睡眠時間に干渉するのはマナーに反する。
しかし、後々の事を考えれば十八時間リズムに体内時計を合わせる為に、少し時間を置いてでも起こしておくのが親切に繋がるのではないだろうか。
何しろ、この古代地球にどれほど留まることになるかは不明だが、少なくとも短期滞在で済むとは思えない。
調査と知的好奇心の事を考えて、出来れば何世紀かは留まって居たい。
更に言えば、ニャルパワーを使っての時間旅行が使えない以上、元の時代に戻ることも難しい。
ボソンジャンプの機能は破損していないと思うが、時間の法則、構造が通常の宇宙とは異なる字祷子宇宙での時間移動は賭けになる。
「──…──ぇひゅ──……」
安らかというか、気が抜けきった表情で眠っている。
普段はニグラス亭の仕事でゆっくりできているかどうかわからないし、意外と疲れが溜まっているのかもしれない。
起こすのも悪い、とは思うのだが。
「──ひぇくっ」
幸せそうに、えづくような笑い声を漏らすシュブさん。
顔面の筋肉という筋肉から力を抜いて部分的消力(シャオリー)状態の顔は非常にだらしない事この上ない。
ボサボサに寝癖の付いた髪の中からは捻くれた、頑強でありながらも優美な角が、捲れ上がったパジャマの裾からは、艶めかしくもしなやか、みずみずしい張りのある触手が覗いている。
まったく、不可抗力と戦略的視点からの不可抗力とはいえ、同じテントで異性が寝泊まりしているというのに、余りにも警戒心が足りない。
「風邪の類はひかないだろうけど、一応ね。……失礼」
小声で小さく断りを入れて、パジャマの裾に触手を伸ばす。
触手の向こうに臍まで出ているような隙間に手なんて伸ばしたら、寝込みを襲う変質者扱いされてしまうが故の苦肉の触手。
──勿論、『ティベリウスが大十字のツレになったメイドさん誘拐して陵辱~下っ端どもに御裾分けもあるよ!~』ルート使用と異なり、これは機能性の他に健全さにも気を配った一品である。
まず、印象を良くするために、生えたての竹や栗の花などを始めとする、爽やかな植物性の匂いを添付。
次に、幼子が口に含んだ時、直ぐに吐き出してしまうように、味付けも苦味をメインに、子供の嫌う魚介系の味を僅かに混ぜ込んである。
材質はラバーと人肌の中間、強い刺激に対し、相手の肉体を無闇に傷つけないように、痛みを与えないように僅かに麻酔の混じった粘液をにじませる。
この粘液には僅かに各種ハーブや香辛料に似た効用があり、多量に摂取すると身体がポカポカ温まり、頬が赤らむ程度に血行にも良い。
最終的に『ティベ(ry』仕様の触手と大差ない性能になったが、下心の無さでは確実に別物である。
姉にちょっとだけ誓ってもいいし、ついでに立川在住の目覚めしひととかに誓ってもいい。
そんな訳で、伸ばした触手でパジャマの裾を摘む。
伸ばした触手は細いながらも数があり、二本の手とは比べ物にならないほどの精密動作性を備えている。
後は、摘んだパジャマの裾をズボンの中に押し込めてしまえば、
──ぺしっ──
……押し込んでしまえば、
──ぺちっぺちっ──
……………………。
何故か、シュブさんの触手にブロックされた。
……うん、まぁ、起こされそうになって寝ぼけながらも手で払うとかする人も居るし、変に触って起こしちゃうのも悪いか。
風邪に類するような悪性のウイルスが存在していない事を祈りつつ、パジャマの裾から触手を離、
──きゅう──
……裾から触手を、
──ぎゅ、しゅるるる──
あ、やばいやばい触手が絡め取られる。
流石シュブさん、恐ろしいまでに精緻で大胆な触手使いである。
この触手を使って邪神の女神をコマしたのかと思うと、とたんにエロスな感じの人に視えてくるから不思議だ。
あ、勿論シュブさんは清純だと思う。
子供が居ようが元夫が複数人数居ようが、現時点での振る舞いでは真面目に働く肝っ玉店主なので何一つ矛盾しない。
夫なり妻なりが居た頃の癖で近づいた触手を屈服させようとしてる可能性も無きにしもあらずだが、実害は無いので気にしてはいけない。
実際問題、こうして絡め取られている俺の触手にしても、
──ぷつん──
と、まぁ、触手の百や千や万程度絡め取られても、即座に切り離してしまえるので痛くも痒くも無いし。
切り離した後もシュブさんの好きにさせることで安眠をサポートするために自立駆動させるけど、感覚は切断してあるし、エロ行為も出来ないようにセットしておいた。
あくまで健全な触手さんだよっ!
そう、なにしろ俺はシュブさんの店のバイト、店主にエロい事など、天地がひっくり返ろうが姉さんが許そうがする訳もなく。
更に言えば、ニャル戦前にKAKUGOを決められたのは間違いなくシュブさんのお陰。
言わば、もはやただの店主でなく、恩人と行っても過言ではない。
そのような相手に、いやらしい真似ができるだろうか。
いや、出来ない。反語。
「はむ」
──ちゅ、ぴちゃ……──
手繰り寄せた触手をシュブさんが口に含み始めた。
言語ではなく、単なる咥えた時の呼気だったり舐める水音であるため、人語への翻訳は完璧だ。
完璧だからこそ解る。
これを聴き続けるのは間違いなくセクハラ。
外に出て朝食の準備を始めようそうしよう。
「んぅ、ふ、んん……」
何故か一生懸命触手を舐めしゃぶり始めたシュブさんとか全然見えてないよー。
翻訳不要な鼻から漏れる悩ましげな吐息とか全然聞こえてないよー。
さー朝ごはん造らなきゃなー。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
朝食の準備をしながら、もしかしてテントから出る前に切り離した触手を消してしまえばよかったのではないかと気づいた頃、
「お─よ──也──…」
シュブさんが、少し不機嫌そうに見える座った目を瞬かせながらテントから這い出てきた。
「はい、お早う御座います。今さっき食材を揃えたところなんで、朝ごはんは少し待っててくださいね」
この世界で初めて地球に訪れたからか、産卵直前のシャンタクを召喚するのに少し手間取ってしまった。
ニャルの部分が完全再生していれば呼んだ瞬間に到着するのだが、やはり純粋に魔術師として喚ぼうとすると少し引っかかる。
「そういえば、朝は和風と洋風どっちがいいですか?」
まぁ、既にサラダと目玉焼きが完成してしまっているのでご飯かパンの二択でしかないのだが。
「──ん」
短い、そっけないとも取れそうな声で返事を返しながら、ピクニック用テーブルセットの椅子に腰掛けるシュブさん。
そのまま、何をするでもなく、ぼうっと虚空に視線を向けている。
その視線の延長線上に俺が居るわけだが、あくまでもその視線が向けられているのは虚空である筈だ。
だってほら、俺、ああいう『納得いかない……』みたいな視線を受ける覚えが無いし。
飯盒から茶碗にご飯をよそい、ウインナー、目玉焼き、サラダなどのオカズと共にテーブルの上に並べていく。
目玉焼きに何をかけるかで諍いを起こす連中も居るには居るだろうが、そんなものは最初から全ての調味料を用意しておけば解決できてしまう。
因みに俺は基本的には醤油だが、ここに生姜を混ぜてしまう時もある。
使うのは勿論チューブタイプではない、新鮮な生姜を直で摩り下ろしたもの。爽やかさに明確に違いが出る。
意外なところで麺つゆという選択肢も有り。
そして醤油は俺の作った複製の為、完全に無菌状態である。
古代の地球にオリゼーを颯爽登場させる訳にもいかないからな。
億年単位で進化を重ねて直保視点のオリゼーが生まれるならどうにかして都合を付けたくもあるが。
「いただきます」
「い──き──」
配膳を終えた所で、手を合わせて食事を始める。
焼き魚や納豆、味噌汁などの選択肢もあるが、やはり朝といえば目玉焼き、目玉焼きといえば朝。
焦がさずに焼くのが上等というのは、周囲を心持ちこんがりと焼いて香ばしさと食感の楽しみを増した白身の前では所詮戯言。
きつね色の焦げ目の付いた目玉焼きの白身は醤油や麺つゆと絡みやすく、また、絡んだ時の味わいの変化も嬉しい。
このこんがりと焼けた白身が黄身よりも好きだという人も少なくはない。
白身でご飯を少し減らした所で、残った黄身をご飯の上に乗せ、箸を突き刺し中身を溢れさせる。
油分の多く含まれた黄身は勿論半熟、しかし、底面四分の一程度を凝固させるのがポイントだ。
半熟とろとろな四分の三程度をご飯の上にとろりと溢れさせ、凝固した部分は別個に醤油を掛けて食べるという二重の味わい。
そして、添えられたぱりっと焼きあがったウインナーを齧り、黄身と醤油の絡まったご飯を口に運ぶ。
これぞ至福のひと時。
……最も、今の説明は全て通常の卵で作った場合の話だ。
シャンタク鳥の卵はサイズからして鶏卵とは比べ物にならないため、それこそ焼き方は大雑把でいい。
余程火を通し過ぎない限り半熟部分は残るし、下手をすれば部分部分別の調味料で食べるという変則的な食べ方も可能になる。
因みに、産んでいるのが地球外生命体であるために組成も異なるので、カロリー計算もあてにならない。ダイエット中の場合は注意するべきだろう。
サラダはお茶に手を延ばすのが面倒な時の水分代わりなので、特にこだわりは無い。
シュブさんのところも似たようなものだろう。
あそこの客層的に、サラダに強いこだわりを持つ客とか来ないし。
「もぐ──ちょ──聞き──」
暖かいご飯を食べることで少し表情が和らいだシュブさんが、口にご飯を詰め込んだまま喋り出した。
ああいや、空気の振動が怪しいし、テレパスの応用なのか。
「無防──見──の子────しゃぶ──」
ふむふむ、無防備に寝顔を晒している女の子が、寝ぼけて抱きついてきたり、相手の身体の一部を口に咥えてしゃぶりだしたりしたら、普通の男はどうするか?
嫌に限定的な状況だが、ボケようのない問いだ。答えは特に捻る必要もないだろう。
「起こさないように静かに身体を女性から離すでしょう、常識的に考えて」
相手が親しい異性、恋人とかなら話は変わるが。
普通なら身を離すし、本能がどうであれ、理性を持ち合わせているならば身を離すべきだ。
恋人でもないのに寝込みを襲う? それはレイパーです。
「意──道徳的──」
神妙な顔でモリモリと咀嚼するシュブさん。
口いっぱいにご飯を頬張りながら、鼻息で溜息を吐かれた。
俺の返答の何処に何を見出したかは解らないが、先程までの不機嫌そうな表情も完全に消えた。
ただ、納得いかないところが一つ。
「意外ってなんですか意外って、まったく……」
少なくとも、ここ最近は道徳的に危険な事をした覚えは全くないし、基本的にどのトリップ先でも紳士的に振舞ってきた筈だ。
そんな俺を指して『意外と』道徳的などと。
「──そ──所──嫌─じゃ──」
僅かに視線を逸らしながらの呟き。
この距離で聞こえない訳もないが、実際聞き取れないんだから仕方がない。
そして、小声で言うからには聞き返して良い類の話でも無いだろう。
言いたいことがあるのなら、そのうちハッキリ口にしてくれる。シュブさんはそういう人だ。
そんなことより、今日から本格的に探索と調査を開始する訳だし、朝食を腹に入れて気合を入れる事にしよう。
―――――――――――――――――――
?月?日(オーガニック探索!)
『そんなこんなで、古代の地球で発掘されてから少し経過した』
『少し……うん、少し。何百年とかは経過してないと思いたい』
『何処まで行っても不毛な大地が広がるばかり』
『山に登れど、眼下に広がるのは一面の荒野のみ』
『太陽の登った回数をカウントした所で、ここまで単調な光景を見せられていれば、時間間隔も狂うというもの』
『地磁気やバイタル・グロウブの変動に合わせて度々方向転換と詳しい調査をしていたのが悪かったのだろうか』
『同じ場所をぐるぐる回っている訳ではないが、この大陸はもう数世紀もすれば完全に余すところなく踏破できてしまいそうだ』
『古代の地球環境は大陸移動なども含めて大きく変動し続けていた、なんて話しをよく聞くが、それは一面的な見方でしか無いのだと思い知らされた』
『結局のところ、地殻変動なども含めて大きな変化が起こるのには多大な時間が必要になる』
『その変化にしても、ヒトの視点で生き続ける限りは認識することも難しいようなものに過ぎない』
『つまり、歩けど歩けど、真新しい発見が殆ど無い』
『いっそ元の時代に戻ってやりたくもある。それが出来ないのが一番の問題なのだが』
『ニャルの力も復旧の目処が立たない上、相変わらず幾つかの機能に制限が掛かりっぱなし、時間旅行は難題だ』
『機能制限に関しては、ヨグ=ソトースの力を受けたせいで体内の時系列がバラバラになっているせいだというところまでは分かっている』
『わかったところで、修復方法が時間経過による自己修復任せしか無いのだから意味がまるでない』
『最悪の場合、鬼械神を呼んでコックピットの中で何億年か冬眠するというのも選択肢に入れておくべきかもしれない』
『だが、それはそれで味気ない気もする』
『これまでの調査結果から判断するに、今は元の時代から見て十~七億年程前』
『時期的には古のものと遭遇する確率も低くはないし、飛行するポリプを発見することも不可能ではない筈だ』
『それに、飛行するポリプは築き上げた都市の周辺で円錐状の生物を捕獲して主食にしていたという』
『外来種だけでなく、地球原産の初めてのまともなサイズの生物を目撃できるチャンスかもしれないのだ、冬眠で寝過ごしてしまうのは惜しい』
『ここらで一つ、気分転換になるようなものでも見つけられればいいのだが』
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
いったい、どれ程の長い時間、歩いていただろう。
命無く、道行は果ての見えない荒野、火を噴くばかりで恵み一つ齎さない岩山、底の見えない亀裂のような渓谷。
そこに生まれる僅かな変化だけを延々と記録しながらの道程。
空は一日として同じ顔を見せる事はなく、気のいい同行者が直ぐ隣に居たとしても、その旅路は楽しいばかりのものではなかった。
だが、その退屈は試練とも呼べるだろう。
ひとは、枷を付け険しき路を歩く事で、それを乗り越えた時に大きな達成感を得る事ができるのだ。
目の前の光景を見ることが出来たからこそ、それをはっきりと理解できる。
「綺麗──」
風に靡く髪を抑えながら、シュブさんが感嘆の声を漏らす。
荒野と岩山を踏破し、数千年、数万年後には山になるだろう緩やかな丘を越え、煌めく水面を目に、さざめく波の音を耳にする。
「海、だ……」
どこまでも、どこまでも、無限の広がりがあるのではとすら思える、命の故郷。
青よりも藍に、黒に近い暗さを湛えた海は、それでも尚、俺の記憶の古い部分を刺激する。
胸から込み上げる熱い何かに、俺はその場で静かに膝を付いた。
この感情の動きを、どう表現すればいいのか、俺の貧相な語彙ではとても表し切ることはできないだろう。
只々、心を揺さぶるようにされている。
陳腐な言い方だが、これは、感動、という言葉以外、適切な言葉が浮かばない。
それは、海の深さと広大さを目にしたが故──という、訳ではない。
「────新鮮──お魚さん────」
そうだ。
魚だ。
あそこには、新鮮な魚介類が居る。
太古の、それこそ、未だ碌な多細胞生物すら発生していない海に、それは確かに存在しているのだ。
それは何故か。
《────────────────!!!!!!!!!!》
黒く、暗く、どこまでも広がる海。
その海面をのたうつ、鋭い乱杭歯の生えた、一本一本が小山にも匹敵する太さの触手の群れ。
そして、その強大な触手の主の巨大な姿が視える。
烏賊に似た触手を生やした口元、タコに似た頭部、ぬらぬらとした質感の鱗と、それに覆われた山のように巨大な体躯。
ゴムにも似た質感のその巨体の背には、物理的にどれ程の意味があるかも不明で、しかし確実に飛翔能力を与えているだろう、細い蝙蝠にも似た翼。
そう、夢幻心母関係で何度もお世話になった、蛸の親分──クトゥルフさんである。
「……蛸って、新鮮だと、生の刺身も美味しいんですよね」
烏賊に、もとい、如何に蛸の死亡直後の死体を複製したとしても、その場で捕れたてを頂くのとではわけが違う。
クトゥルフに視線を向けながら立ち上がり、肉体に刻まれた魔導書の記述を起動しながらの俺のセリフに、輪郭を崩し始めたシュブさんが『ちっちっち』と人差し指を振りながら不敵な笑みを浮かべる。
「───蛸じゃ────けど───山葵──」
「わかっている……わかっているのう……。貴女はやはり、ものが違う……」
ここでまさかのタコわさとは……大した奴だ、やはり天才か……。
両手を広げた支配者のポーズを取り、淡く虹色に輝く字祷子に包まれるシュブさんを脇目に見ながら、思う。
俺独りだったなら、この狩りは延期にするか、諦めるかしていた。
自立稼働、遠隔操作可能な端末を出せない今、搦手にも制限がかかる。
ニャルの力が制限されている今、俺の力だけでクトゥルフに、邪神に真正面から挑めるとは思えない。
だが、店主となら、このヒトとならば。
「擬装──」
「──解除!」
重なる俺とシュブさんの呪句(コマンド)
人としての外装を破り、現時点で最大の力を誇る鬼械神形態へ。
突如として出現した巨大な質量に、空間が悲鳴を上げる。
大気成分を調整する貴重なストロマトライトを踏みつぶさないように一旦陸地に着地。
《────蛸──刺身に──!!》
同じく、巨大な触手の塊、もしくは誇張された人山羊の様な、一言ではとても形容しきれない姿の巨大なボディに姿を変えたシュブさんが、俺と背を合わせて並び立つ。
凄い威圧感を感じる。今までにない威圧感を。
瘴気……なんだろう吹いてきてる確実に、着実に、俺達の方に。
「ええ、行きましょう、刺身盛り合わせの為に!」
中途半端はやめよう。とにかくクトゥルフは眷属ごと絶滅させてやろうじゃん。
あの宇宙の深遠の向こうには沢山の強敵が居る。決してこいつがラスボスなんかじゃない。
信じよう。そして共に戦おう。
ダゴンやハイドラの邪魔は絶対に入るだろうけど、絶対に波に流されたり──
あ。
「う、うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ!! た、太古の地球なのに、シュブさんが何故か居るぅぅぅぅぅぅぅ!!?」
飛び跳ねるようにシュブさんから身を離し、鬼械神形態で尻もちを付いたせいで丘が大きく削れてしまったが、そんな事に構っていられない。
き、気付かなかった。
あんまり長いこと一つの姿で居るもんだから、普段のシュブさんから感じる『お、今周は少し触手成分と蹄分が多いな……』みたいな発見が無くて分からなかった!
この初めて感じる『まるで豊穣神か邪神』『洗練されたアスタロト』とでも形容すべき神々しい新しい姿を目にして、初めて気づいた!
まさか、シュブさんが何百年も同じ姿を取り続けるなんて事が有り得るだなんて……。
「何故シュブさんがこの時代に……、あ、捩れ角かっこいいですね」
《そ──どでもな──話は─後──》
そ、そうだ、今はシュブさんのタイムスリップ説に戸惑っている時ではない。
差し出された触手を掴み立ち上がり、沖合のクトゥルフに向き直る。
「す、すみません、取り乱しました」
《──私──ゃん──ォロー───》
ぞろりと毛穴の如く無数に生えた目をウインクして、こちらをリラックスさせようと振る舞うシュブさん。
あんな、邪神崇拝組織のトップでも思わず昇天してしまいそうなアクションを織り交ぜてフォローさせてしまうとは……恥ずかしい。
「うむむ……すんません、手間かけます」
《────!》
「はい!」
シュブさんの掛け声と共に、シャンタクを羽撃かせ高度を稼ぎ、重力加速を味方に付け、加速。
風を切り、クトゥルーの触手の圏内に突入。
射程ギリギリまで近づいたところで、羽虫を払うような気安さで振るわれる触手と緩んだ鉤爪。
それに対し、魔術的に鍛え直されたグランドスラムを鍛造、ほぼ平行に近い形で受け流し、邪神の本体に肉薄する。
蛸の様な頭部に埋もれた濁った瞳が俺を追う。
爪と触手を逃れたところで安心できるものではない。
このクトゥルフの形すら、今ここで偶然形成されていた仮の姿にしか過ぎないのだ。
案の定、脇を通り抜けるだけでよかった筈のクトゥルフの本体から牙が、触手が形成され、俺を噛み砕かんと迫る。
ニトクリスの鏡は、水中から半ば身を乗り出しているフルスペックのクトゥルフには通用しないだろう。
鬼械神の機能として搭載されているデコイを射出し、牙と触手を足止め。
射程圏内から脱し、着水。
ほぼ時を同じくして、巨大化したシュブさんも隣に着水。
背を合わせ連携を組み直す。
ここまでで一息、改めて、対敵の姿を確認する。
より洗練された形になった俺の鬼械神形態は、機械巨神形態よりも二回り程小さい。
しかしそれでもネームレス・ワンを子供扱いできる程の巨体を誇っている。
そして、相手が半ば水中に没した状態であるのに対し、こちらは体術を駆使して水面の上にたった状態。
それを差し引いても、目の前の邪神の大きさは異常の一言。
山ほどもあるこちらの鬼械神形態とが、まるで山脈に挑む小さな登山家でしかないような巨体。
普通に考えて、邪神としての不死性を考慮すれば、こちらには勝ち目のあるなし云々以前に、どう上手く負けるかを考えなければならないような相手に思えて仕方がない。
だが、不思議だ。
隣に同じように立つ巨大触手塊シュブさんと一緒に戦っていると思うと、まるで負ける気がしない。
グランドスラムを一旦腰の鞘に戻し、電磁抜刀の体勢を取る。
油断はできない、だが、伊達を忘れるのも邪神相手には無礼だろう。
シュブさんと並び、一瞬だけ視線を合わせて頷きあい、共にクトゥルフに人差し指を突きつけ、声をハッキリとハモらせながら、宣言する。
「魚肉置いてけ、なぁ。魚介類だ!! 魚介類だろう!? なあ魚介類だろお前!!」
これが、太古の地球に響き渡る、俺とシュブさんの宣戦布告。
長きに渡る海産物系邪神捕食戦争の幕開けであり、地球をめぐる三つ巴、多角戦争の発端。
そう、これは始まりに過ぎない。
────俺達の戦いは、これからだ!
続く
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長いようでいて中途半端な長さの、話が進んだようで全く進んでいない第七十二話をお届けしました。
あ、勿論終わるはずもなく次回に続きます。
次の話の終わり辺りで人類史、というか、デモベ外伝辺りの話まで時間を進めますので。
シュブさんの好感度上げ(シュブさんから見た主人公の好感度的な意味で)と並列して、これからどの作品にトリップしてもやれなさそうな太古の地球ネタをやろうと思ったのですが、
いざ書き始めてみたら意外と書きたいことが少ない事に気がついたので、次回で書きたいネタは終わらせられるかと思われますし。
仮に多重クロス有りな世界観だったとしたら、古代の地球って恐ろしいカオスですよね、って事で書こうと思ったんですが、詳しく描写するための資料が不足しているので……。
機械化帝国の資料とかどこで手に入れれば……。
以下、自問自答コーナーと見せかけて、Q&A──
──のQ抜きコーナー!
A,霧で包まれた溶岩惑星とか蒸気で前が見えないとか、乏しい知識と近所の図書館で借りてきた古い資料と新しい資料とニコ動のNational Geographicの有料動画とかを織り混ぜてでっち上げてるので、科学的突っ込みは……
しないで欲しいとは言わないですが、可能ならば、そう、初物の乙女を扱うかの如く優し目にお願いします。
A,古代の地球環境も同上で。クトゥルフ的な歴史を混ぜていくと、最新の科学的な調査による古代地球の歴史がコノメニウーされてしまうので。
A,主人公の目覚めた時代は、多分古のものが地球に来たか来ないかくらいの時期です。これからクトゥルヒの活け造りとか食べつつ全球凍結時代に突入する感じで。生態から成り立ちを予測すると、この時期ってまだ〈深きものども〉は居ないとした方が自然な気もしますし。
A,如何に鈍感主人公ラブコメに登場するヒロイン的な運命を背負っているシュブさんといえど、これほどの時間を主人公と共にすれば一溜りも……なくはないですが。
因みに今回のお話、主人公がシュブさんの外見を形容する場面でほんのり変化があったりもします。
A,ニャルの力が無くても、スクナパワーに金神パワー、億年単位で鍛えた諸々の蓄積にシスコンパワーがありますので……。
ふと思ったんですよ。
これまでQ&Aやるとき、Qが凄い投げやりだったなって。
じゃあ、無くてもいいんじゃないかって。
しかし改めて見るに、Aの内容からQの内容を推察することも容易ですね。
やっぱりQは必要なかったんや!
次回にはこの文章と結論をすっかり忘れて普通に書くと思いますが。
しかし、うむ。
これまで『パロ少ないから』とか『シリアスシーンばかりだから』とか『戦闘シーンばかりだから』とかで感想が少なくなるだろうと思ったことが数ある訳ですが。
『原作要素が影とか形程度にしか存在していない』に比べれば、まだ感想の書き様があった気がしますね……。
原作キャラとか先祖が発生しているかどうかすら怪しいですよ?
まぁ、こういう話もあるのがこのSSなのですが。
そんな訳で、今回もここまで。
誤字脱字の指摘、文章の簡単な改善方法、超大陸発生からカンブリア紀を経て人類誕生までの実録体験談、矛盾している設定への突っ込み、その他諸々のアドバイス。
そしてなにより、このSSを読んでみての感想など、心よりお待ちしております。